第35話 幕開け
朝食を終えた俺たちは、食後の珈琲を味わっていた。
カップから立ち上る香りが、テーブルを挟んだ三人の間に漂っている。窓から入る風が、シルヴィアの銀髪を頬へ運んでいた。
「この際ですから、言っておきます。アル。隠し事もなしですからね!」
カップを置いたシルヴィアが、俺を真っ直ぐに見つめる。蒼い瞳は逸れることなく、俺の返事を待っていた。
「……隠し事はいいんじゃないか? ほら、クロエラのことだって、俺はまだ聞いていないしな」
俺は正面に座るクロエラへ視線を移した。
「え、ええ。そうですよ、シルヴィア様。人には、言えないこともあるのです」
クロエラは俺の言葉に続いた。いつもと変わらない穏やかな声だったが、眼鏡の奥の翠の瞳が、シルヴィアを見ていた。
「…………」
シルヴィアの視線が俺とクロエラの間を行き来する。唇がわずかに開き、何かを言いかけたところで閉じられた。
「ほら、シルヴィア様も今朝、アルノ様がいなくなったと分かったときには、大慌てに――」
「い、言わないでください!」
シルヴィアが身を乗り出し、クロエラの言葉を遮った。頬にかかった銀髪が揺れ、耳元に残った毛先が頬をくすぐる。
「そうなのか? シル?」
「……アルは黙ってくださいっ!」
俺へ向けられた蒼い瞳が細くなる。語尾に残った声が、いつもより高かった。
俺はカップを口元へ運んだ。
「シルヴィア様、強くなるのと一緒ですよ」
クロエラが穏やかな声で呼びかける。
「……はい?」
「いきなり人は、強くはなれません。一歩ずつ進んでいくしかないのです。今回の話も同じです。最初から何もかも知ろうとするのではなく、少しずつ相手のことを知っていけばよいのではありませんか」
クロエラは言葉を切り、俺とシルヴィアを順に見た。
シルヴィアは彼女の顔を見つめたまま、しばらく口を開かなかった。先ほどまで俺を追っていた視線は、今はクロエラの翠の瞳に留まっている。
「そうですよね、アルノ様?」
「……あ、ああ。そうだな」
突然こちらに話を振られ、俺は曖昧に頷いた。
「わ、分かりました。じゃあ、それでいいです!」
シルヴィアは一度俺を見てから、手元のカップへ目を落とした。取っ手に触れた指先が、そこに留まっている。
「困ったときは、ちゃんと頼らせてもらうから。シルの言っていることも分かるからな」
俺がそう告げると、シルヴィアの蒼い瞳がこちらを向いた。伏せられた睫毛の向こうで、視線が一度揺れる。頬にかかった銀髪を耳へ掛けると、彼女は小さく息を吸った。
「……は、はい」
返事は、先ほどよりも柔らかかった。
「じゃあ、改めて今度はアルカディア神聖帝国についての対処を話し合いたいんだが、いいだろうか」
「アルは、どうしてあんな要求をしたんですか?」
隣からシルヴィアの声が届く。先ほどの柔らかさは薄れ、問いかける声には確かめるような響きがあった。正面のクロエラも、俺へ顔を向けている。
(そういえば、クロエラにはまだ詳しく話していなかったな)
俺はカップに手を伸ばしかけ、そのまま指を止めた。
アイリスを俺の古城へ引き渡すこと。
その要求を飲めなければ、宣戦布告とみなし、報復行動を行うこと。
それが、俺がアルカディア神聖帝国へ突きつけた要求だった。
二人に改めて説明する。
シルヴィアの眉間に皺が寄っていく。クロエラは口を挟まず、俺の話を聞いていた。説明を終えても、すぐには言葉が返ってこなかった。
「……そうだな。まずは、情報が欲しかったというのがある」
俺は二人を見てから、言葉を続けた。
「今の俺たちだけでは、どうしても情報力に欠ける。帝国が何を考え、これからどう動くのか。それを把握できなければ、対策を立てることも難しい。後手に回るよりは、先手を打てるに越したことはないからな」
「それでも、あのアイリスさんをここに住まわせるなんて危険ではないですか?」
シルヴィアの声が低くなる。膝の上で重ねた両手は、互いの指を包むように組まれていた。
「俺は逆だと思っている。見えない敵に怯えるより、見える場所にいてもらった方がいい」
「見える場所、ですか?」
シルヴィアの声が、わずかに途切れた。
「ああ。ここにアイリスがいれば、帝国側も簡単には手を出せないだろう。それに、帝国の動きや情報も、まずはアイリスの耳に入るはずだ。彼女を通して得られる情報もある」
「……でも、相手は勇者ですよ。アルと戦った人なんです」
シルヴィアの声は静かだった。
蒼い瞳が、俺の腹部へ向けられる。昨日の戦いで傷を負った場所。彼女の視線はそこに留まり、すぐには戻ってこなかった。
「分かっている。だからこそ、目の届くところに置いておきたいんだ」
「なるほど。アルも色々と考えているんですね」
シルヴィアは一度息を吐いた。膝の上で組まれていた指がほどけ、片手がカップへ伸びる。
「ああ。無策であんな要求をするわけにはいかないからな」
俺はクロエラへ視線を移した。
「それに、アイリスの能力を間近で見ることができれば、俺自身の成長にもつながると思っている。戦った相手だからこそ、得られるものもあるだろう。そう考えれば、俺にとってのメリットは大きい」
「……そうですか」
シルヴィアの手がカップの手前で止まった。蒼い瞳が俺の顔へ戻り、しばらくそこに留まる。
「てっきり私は、ああいう子がアルのタイプなのかと思っていました」
「そんなわけがあるはずないだろう? 俺たちは殺し合いをしたんだぞ」
「冗談ですよ。冗談、でもキレイな子でしたよね」
シルヴィアはカップを持ち上げた。珈琲を口に含む前に、こちらへ一度だけ視線を寄せる。
俺は小さく息を吐いた。
「アルノ様、一つよろしいでしょうか」
正面からクロエラの声が届いた。
彼女はカップに手を添えたまま、俺を見ている。後頭部にまとめられた栗色の編み髪は整ったまま、眼鏡の奥の翠の瞳にも、先ほどから変わらない落ち着きがあった。
「帝国に要求を断られた場合は、どうなさるおつもりですか? 本当に報復に出られるのでしょうか」
「……そこが難しいところだな」
俺はすぐには答えなかった。
要求を拒まれた場合、こちらがどう動くのか。最初から考えていなかったわけではない。だが、実際に行動へ移すとなれば、簡単に決められることではなかった。
「その場合は、俺自身が帝国へ行って話をつけようと思っている。報復に踏み切れば、この古城だけでなく周辺まで危険に晒すことになるからな。関係のない者まで巻き込むわけにはいかない」
「そうですね。……正しい判断かと存じます」
クロエラは一度目を伏せた。再び顔を上げたときも、その声に揺らぎはなかった。
「ああ。だが、最初から弱い要求を出せば、相手にこちらの本気が伝わらない。次にどんな攻撃を仕掛けてくるかも分からない以上、こちらの意思は明確に示しておく必要がある」
俺はテーブルに置いた手へ目を落とした。
指先が木目に触れている。帝国が何もせずにいる保証はない。次に狙われるのが誰なのかも分からない。
「こういうものは、早めに要求を突きつけて、相手に考える時間を与えた方がいい。帝国にも、こちらが何を望んでいるのか。そして、要求を拒んだ場合に何が起こるのかを考えてもらう」
「ええ、分かっております」
クロエラの声は変わらなかった。
「私は、アルノ様のお力になるだけです」
その言葉を受け、俺は正面の彼女を見た。翠の瞳は逸れることなく、俺の返事を待っている。
「……ありがとう、クロエラ」
俺は一度頷いた。
「私もアルを守ります。強くなるにも、特訓が必要です。さぁ、今からやりますよ」
シルヴィアが椅子から身を乗り出した。銀白色の髪が肩から滑り、蒼い瞳が俺を捉える。
「……今からか? もう少し休憩してもいいじゃないか」
「今もなお、危険が迫っているかもしれないんですよ。それに、風魔法も教えてくれるって言ったじゃないですか」
シルヴィアの声には、先ほどまでとは違う張りがあった。俺の返事を待つ間も、その視線は逸れない。
「まぁ、確かに。俺もシルとやりたいことが出来た。それについても、ちょっと話したいな」
「本当ですか?」
シルヴィアの声が少し弾んだ。蒼い瞳が俺を見つめ、返事を待っている。
「本当だ。特訓のことも含めて、話しておきたい」
「じゃあ、今からやりましょう」
「……切り替えが早いな」
俺がそう返すと、シルヴィアは頬にかかった髪を耳へ掛けた。
「アルが話したいと言ったんですよ?」
「それはそうだが……」
言葉を探していると、シルヴィアの口元がわずかに緩んだ。
「ああ、分かった。いつもの中庭に行こうか」
「はい!」
シルヴィアは頷き、椅子から立ち上がった。
「お二人とも、無理はしないでくださいね」
クロエラの声に、俺とシルヴィアは振り返った。
彼女は席に残ったまま、眼鏡の奥から俺たちを見ている。後頭部にまとめられた栗色の編み髪は崩れていなかった。
「分かっている」
「はい。クロエラさんも、ありがとうございます」
シルヴィアが答えると、クロエラは小さく頷いた。
俺たちはそれぞれ椅子を引き、席を立った。シルヴィアが隣に並ぶ。肩が触れそうな距離に、彼女の銀髪が揺れていた。
中庭へ向かおうとした、そのときだった。
玄関の扉が開かれる音がした。
俺たちは足を止めた。
この時間に来客とは珍しい。クロエラが顔を上げ、玄関の方へ視線を向ける。隣のシルヴィアも、俺と同じ方向を見ていた。
「アルノ・ヴァルハイトは、いるかしら?」
聞き覚えのある声だった。
俺はシルヴィアへ目を向けた。彼女の蒼い瞳も、玄関へ向けられている。
クロエラが迎えに向かうより先に、声の主がこちらへ姿を見せた。
赤い髪をサイドテールに結び、青紫の瞳をこちらへ向ける少女。
昨日、俺と刃を交えた相手だった。
「……アイリス」
俺の口から、その名がこぼれた。
アイリス・シュタール。
アルカディア神聖帝国、第八の勇者。
彼女は俺たちの姿を認めると、足を止めた。昨日の戦いを思わせるものは、その表情には見当たらなかった。
「また会ったわね、アルノ・ヴァルハイト」
昨日とは違う場所で、昨日とは違う立場で。
アイリスが、俺たちの前に立っていた。




