第34話 約束
「アル! こんな所で何をやってるんですか」
声に振り返ると、サファイアローブの裾を翻しながら、シルヴィアが駆けてくるところだった。
銀白色の髪が風に靡き、蒼い瞳が俺を捉える。彼女は目の前で足を止めると、肩で息をしながら俺を見上げた。
「……朝の散歩かな」
「まったく。昨日あんなことがあったばかりなのに、どうしてひとりで出歩くんですか」
シルヴィアは眉を顰め、俺との距離を詰めた。頬にかかった銀髪が風に揺れても、蒼い瞳は俺から離れない。
「すまない。変な時間に目が覚めてしまってな」
「目が覚めたなら、私を起こしてくれてもよかったじゃないですか。せめて、出かけることくらい伝えてください」
語尾が強くなる。彼女の指がサファイアローブの裾をつかみ、柔らかな布地に皺が寄った。
「……そうだな。次からは気をつける」
俺は湖へ目を逸らした。
「本当に分かっているんですか?」
シルヴィアの声が追ってくる。
顔を戻すと、彼女は眉間に皺を寄せていた。唇を結んだまま、蒼い瞳で俺を睨んでいる。
「どうせ、またひとりで悩んでいたんでしょう」
「それは……」
「だったら、どうして私に話してくれないんですか」
最後の言葉が、わずかに細くなった。
シルヴィアは唇を噛み、俯きかけた顔を上げた。頬にかかった髪が風に揺れる。俺を見つめる蒼い瞳には、返事を待つ間にも揺らぎが残っていた。
俺はすぐに答えられなかった。
「……シルのことも考えていたんだ」
「わ、私ですか?」
シルヴィアの蒼い瞳が見開かれた。
裾をつかんでいた指が止まる。彼女は一度まばたきをして、俺の顔を確かめるように見つめた。
「……ああ。俺はシルに何を返せるんだろうと思ってな」
「だ、だから……キ、キスをしたってことですか?」
シルヴィアの視線が俺の唇へ落ちた。
俺と目が合うと、彼女は慌てて顔を背けた。銀白色の髪が頬を覆い、耳の先まで赤みが広がっていく。裾を握り直す指が、布地を深くつかんだ。
「ち、違う! それとこれとは話が別だ!」
「じゃあ、何なんですか」
シルヴィアは顔を戻し、眉を吊り上げた。頬は赤いままだったが、蒼い瞳は俺をまっすぐ見据えている。
俺は口を開いた。けれど、続く言葉が見つからなかった。
「……今の俺では、答えが出せない。少し待ってもらえないか」
シルヴィアは目を伏せた。
銀色の睫毛が頬に沿い、肩にかかった髪が胸元へ滑る。二人の間に沈黙が落ちた。
「……分かりました。待つのは構いません」
彼女はゆっくりと顔を上げ、俺の瞳を見た。
「ですが、アル。逃げないでくださいね」
「ああ。約束する」
シルヴィアは俺を見つめたまま、小さく頷いた。結ばれていた唇がほどけ、声の調子がわずかに柔らかくなる。
「じゃあ、帰りましょう。これからのことも話し合わなければいけませんから」
彼女が身を翻す。銀白色の髪が肩を離れて背中へ靡き、サファイアローブの裾が足元を追った。
俺も後を追おうとした。
そのとき、湖面に波紋が広がるのが見えた。
リラが去った場所だった。
俺は足を止め、水面を見つめた。
プレゼント。
あの言葉が、頭の中に残っていた。
「アル?」
振り返ると、シルヴィアが少し先から戻ってきていた。肩からこぼれた髪を耳に掛け、俺の顔を覗き込んでいる。
「どうしたんですか?」
「いや、なんでもない。……なあ、シル」
「はい?」
「今の生活で、何か足りないものはないか? 欲しいものでもいい」
「特にはありませんが……いきなり、どうしたんですか?」
シルヴィアは瞬きをしたあと、眉を寄せた。蒼い瞳が俺の顔をなぞり、やがて首を傾げる。
「いや。ふと思っただけだ」
「変なアル」
彼女は唇を少し尖らせ、銀髪を耳に掛け直した。
「……早く行きますよ。これからのことを話し合うんでしょう?」
「ああ、そうだな」
俺は彼女の隣へ並んだ。
風が銀白色の髪を靡かせ、月下香の匂いがかすかに届いた。ローブの裾が歩みに合わせて揺れる。肩が触れそうな距離にシルヴィアの気配があった。
何を贈ればいいのか、まだ分からない。
シルヴィアは前を向いて歩いていた。髪が肩を滑るたび、月下香の匂いがわずかに届く。俺は隣にある彼女の気配を感じながら、答えを見つけられずにいた。
俺たちはそのまま、古城へと戻った。
◆◆◆
「おかえりなさいませ、アルノ様。シルヴィア様」
出迎えたクロエラは、いつものように丁寧に頭を下げた。栗色の編み髪が肩の前へ垂れ、顔を上げた彼女の翠の瞳が俺たちを順に捉える。
「ああ、ただいま」
「ただいま戻りました、クロエラさん」
「朝食の準備ができておりますが、いかがなさいますか?」
「その前に、少し話をしたい。クロエラも一緒に来てくれるか?」
「かしこまりました」
俺たちは食卓へ向かった。
いつもの席に腰を下ろす。正面にはクロエラ、隣にはシルヴィアがいる。
「まず、今の俺たちが考えなければならないのは二つだ。グスタフ国王への対処と、帝国への対応だな」
「……お父様のことですね」
隣からシルヴィアの声が返ってきた。
「ああ。あの人は他種族を認めない。その考えが変わらない限り、今回のことに決着をつけても、同じような問題が起こる可能性がある」
「ええ。私もそう思います」
シルヴィアは背筋を伸ばして座り、俺の話を聞いていた。蒼い瞳がこちらを捉えたまま、次の言葉を待っている。
「だからといって、今すぐヴァルキア王国へ乗り込めばいいわけでもない。俺には帝国の件もあるし、何をもって決着とするのかを決めなければならない」
俺はテーブルの上で指を組んだ。
正面のクロエラが、わずかに姿勢を正す。
「アルノ様。まずは、グスタフ国王に何を認めていただきたいのか。そして、何を決して許さないのか。その二つを分けてお考えになってはいかがでしょうか」
「何を認めさせて、何を許さないか……」
「はい。アルノ様ご自身が譲れないものを明らかにしたうえで、王国側との話を進める必要があるかと存じます」
俺は組んでいた指をほどいた。
「……俺が許せないのは、他種族であることを理由に、誰かの居場所や選択を奪うことだ」
シルヴィアがこちらを向いた。
「今回のことだけで終わらせるつもりはない。同じ理由で、また誰かが理不尽な目に遭うようなことは認められない」
「それが、アルノ様の譲れない一線なのですね」
クロエラは静かに頷いた。翠の瞳を俺へ向けたまま、次の言葉を待っている。
「ああ。だが、具体的にどう実現するかは、俺ひとりで決められることじゃない。王国には王国の事情があるし、俺が一方的に要求を突きつければ、それで終わる話でもないだろう」
「でしたら、メザリア女王にお任せするのがよろしいのではないでしょうか」
クロエラは一度言葉を切った。
「アルノ様が譲れない条件を明確にしたうえで、王国側との交渉や調整をメザリア女王にお任せするのです。王国として何ができるのかを判断していただけば、アルノ様のお考えも伝えられるかと存じます」
「なるほど……。俺が何を望んでいるかは伝える。そのうえで、どう形にするかはメザリアさんに考えてもらうわけか」
「はい。アルノ様が譲れない一線を越えるような判断であれば、改めて話し合う必要があるでしょう」
俺はテーブルへ目を落とした。
「なるほど。……ただ、メザリアさんに負担をかけることにもなる」
「アル」
シルヴィアが俺の名を呼んだ。
顔を向けると、彼女は少し身を乗り出していた。銀白色の髪が肩から滑り、蒼い瞳が俺を見つめる。
「お母様なら、きっと考えてくださいます。私たちが何もかも決めてしまうより、まずはお母様に相談してみてもいいと思います」
「そうだな。シルがそう言うなら、まずは相談してみよう」
「はい」
シルヴィアは頷いた。
「でも、帝国のこともあります。そちらをアルひとりでどうにかしようとするのは、私は反対です」
「帝国については、まだ分からないことが多い。何を目的に動いているのかも、これから何をしてくるのかも、確かなことは分からないからな」
「だからこそです。分からないなら、ひとりで判断しないでください」
シルヴィアは眉を顰めた。蒼い瞳は俺から逸れず、声の終わりがわずかに細くなった。
「私は、アルのそばにいたいです。アルが危険な場所へ行くかもしれないからというだけではありません。これから何が起こるのか、一緒に考えたいんです」
俺は彼女の瞳を見返した。
シルヴィアは背筋を伸ばしたまま、俺の返事を待っていた。膝の上に置いた手がほどけ、指先がスカートの布地に触れる。
「……分かった。そのうえで、次にどうするかを二人にも相談する。俺ひとりで決めることはしない」
シルヴィアは頷いた。眉間の皺が消え、口元がわずかに緩む。
「アルノ様」
正面のクロエラが声をかけた。
「王国側との連絡や、メザリア女王との調整でしたら、私がお手伝いできます。私が判断できないことは、アルノ様にお伝えいたします」
「いや、でも……帝国の件もある。クロエラにまで負担をかけるわけには」
「負担かどうかは、私にも判断させてくださいませ」
クロエラは背筋を伸ばし、俺を見据えた。翠の瞳に迷いはなく、声も普段と変わらない。
「私はアルノ様のお役に立ちたいのです。お任せいただけることがあるのでしたら、どうかお申しつけください」
俺は正面の彼女を見た。
「……分かった。じゃあ、王国側との連絡と調整はクロエラに頼みたい。メザリアさんへの連絡もお願いできるか?」
「かしこまりました。まずは、アルノ様のお考えをお伝えするところから始めましょう」
「ああ。具体的な条件については、改めて整理して伝える」
「承知いたしました」
クロエラが頭を下げた。
「それから、アル」
隣のシルヴィアに呼ばれ、顔を向ける。
「これからは、ひとりで問題を抱え込まないと約束してください」
「いや、だから今も二人に頼むことにしただろう?」
「今だけではありません。これから先もです」
シルヴィアは椅子から身を乗り出し、小指を差し出した。
「約束です」
俺はその指を見つめた。
蒼い瞳がこちらを向いている。差し出された手は揺らがず、シルヴィアは俺の返事を待っていた。
そのとき、正面の椅子が引かれた。
「私も、そのお約束に加えていただけますか?」
クロエラが立ち上がり、俺のそばへ歩み寄った。
「クロエラまで……」
「はい。アルノ様に頼っていただけるよう、私も努めますので」
クロエラも小指を差し出した。
二人の手が、俺の前に並んだ。
シルヴィアの銀白色の髪が肩にかかり、クロエラの栗色の編み髪が胸元へ垂れている。二人の瞳が、それぞれの位置から俺を見ていた。
「……分かったよ。約束する」
俺も小指を差し出し、二人の指に合わせた。
「……ありがとう、二人とも」
シルヴィアが目を見開いた。
やがて蒼い瞳が伏せられ、頬に赤みが差す。彼女は指を離すと、顔を横へ向けた。
「どういたしまして。……でも、約束を破ったら許しませんからね」
「ああ。肝に銘じておくよ」
「それならいいです」
シルヴィアは小さく頷いた。
「では一旦、朝食にしましょうか。準備してまいりますね」
クロエラも微笑んでから手を離し、朝食の準備へ向かうために食卓を離れた。
俺は隣のシルヴィアへ目を向けた。
「……シル」
「はい?」
蒼い瞳が俺を見上げた。
俺はその瞳を見つめたまま、言葉を探した。口を開きかけたものの、結局、何も言えなかった。
「……いや、なんでもない」
「変なアル」
シルヴィアは首を傾げた。銀白色の髪が肩を滑り、彼女は不思議そうに俺の顔を見ていた。
窓から差し込む朝の光が、食卓の端を照らしていた。
グスタフ国王との問題も、帝国の動きも、まだ何ひとつ片づいてはいない。
それでも、これからはひとりで答えを出そうとは思わなかった。
誰かに頼ることも、誰かと一緒に考えることも、俺が選んでいいのだと分かったからだ。
それは、俺にとって小さな一歩だった。




