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アンティノミー・ブラッド  作者: Kraizen
2章

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第33話 晴れない心


 気づけば俺は、ベッドに横たわっていた。


「……まだ外は薄暗いか。変な時間に起きてしまったな」


 窓の向こうには、夜の名残を残した空が広がっていた。山並みは淡い影に沈み、その上空だけが朝焼けに染まり始めている。


 身体を起こす。

 戦いの直後に比べれば、身体の内側に残っていた疲労は薄れていた。回復は順調と言っていい。


 それでも、頭の中に積み重なったものは、何ひとつ片づいていなかった。


「……眠い」


 もう一度、枕に頭を預ける。

 瞳を閉じ、寝返りを打つ。

 眠気は残っている。それなのに、意識を休ませようとするたび、考え事が浮かんできた。ひとつを追い払えば、別の問題がその場所を埋めていく。


 しばらくして、俺は目を開けた。


「……外の空気を吸いに、湖畔にでも行くか」


 いつまでもベッドの上で考え続けていても仕方がない。

 俺はいつもの黒い外套を羽織り、古城を出た。

 翼を広げると、朝の冷気が頬を撫でた。


 まだ日が昇りきらない空には夜の深い色が残り、遠くの山並みは朝焼けに縁取られている。その向こうから差し込む光が、森の木々の頂を少しずつ照らし始めていた。


 俺は翼を大きく動かし、速度を上げる。

 風が頬を押し返し、黒い外套が背後へ流れていく。視界の端を過ぎる木々や岩肌は、速さを増すにつれて輪郭を失っていった。

 翼の角度を変え、進路をわずかに傾ける。空気の抵抗を受け止めながら、さらに身体を前へ押し出した。


 冷たい空気が顔に触れ、肺の奥まで澄んでいく。

 速度を上げるほど、グスタフの思惑も、帝国との交渉も、白銀の盾について考えなければならないことも、意識の遠くへ退いていった。

 今は、何も考えずに飛んでいたかった。


「久しぶりにスピードを出してみたが、これはこれで気持ちがいいな」


 視界の先に、湖が見えてきた。

 高度を下げながら進路を変え、湖畔へ向かう。朝焼けを映した水面が、近づくにつれて広がっていった。


 やがて、俺は湖畔へ降り立った。

 湖面は穏やかだった。

 対岸の木々は深い影に沈み、水面には朝焼けの光が細く伸びている。


 俺は岸辺に近づき、その景色をしばらく眺めた。


「俺は、本当にこれからやっていけるのだろうか……。もっと力が欲しい」


 岸辺に腰を下ろし、ひとり呟く。


 考えなければならないことは、いくらでもあった。グスタフをどうするのか。帝国とどう向き合うのか。シルヴィアと、これからどのように歩んでいくのか。白銀の盾についても、まだ整理しきれていない。


 ひとつに答えを出そうとすれば、別の問題が頭をもたげる。考えをまとめようとしても、どこかに引っかかりが残り、同じ場所を巡り続けていた。


 アイリスとの戦いが、脳裏をよぎる。

 あの場で、自分は何を成せたのか。何を守れたのか。そして、次に同じような相手と対峙したとき、今度こそ望む結果を得られるのか。


 身体の傷が癒えても、答えまで見つかるわけではない。


 力が足りない。

 その言葉だけが、頭の中に残り続けていた。

 湖面に視線を落とす。朝焼けを背負った自分の姿が、水の揺らぎに合わせて輪郭を変えていた。


 俺は、ゆっくりと息を吐いた。


「……考えることが多すぎるな。こういう時は、でかい魔法を放つに限るな」


 立ち上がり、右腕を湖面へ向かって差し出す。

 今は、胸の内に溜まったものを外へ吐き出したかった。


「我が身に集え。其は、紅を統べるもの——」


 第一節。

 俺を中心に、真紅の魔力が集まり始めた。


 岸辺の草が傾き、木々の枝が魔力の流れに押されるように揺れる。湖面には幾重もの波紋が生まれ、朝焼けを映していた光が形を変えていった。


「傲慢なる光よ、潰えよ。我が領域において全ては意味を成さず——」


 第二節。

 巨大な魔法陣が、周囲へと広がっていく。


 真紅の紋様が湖畔の地面を覆い、木々の根元から水際に至るまで、その領域を埋めていった。幾重にも重なる円と紋様が湖面にも映り込み、周囲の景色を塗り替えていく。

 空気が張り詰め、湖面の波は大きさを増した。岸辺へ打ち寄せる水も、それまでの穏やかさを失っていく。


「我が器に流るるは、夜の理と昏き抱擁——」


 第三節。

 真紅の光が、湖畔を覆った。

 湖面も、木々も、朝焼けの空さえも、本来の色を失っていく。遠くの岸辺まで赤く染まり、水面に映る景色は魔力の揺らぎによって歪んでいた。


 広がり続ける魔法陣から、俺の右腕へと魔力が収束していく。


 指先に意識を向ける。

 まだ、力は膨れ上がる余地を残していた。

 第四節へ進めば、魔法はさらにその規模を増す。


 俺は前方を見据えた。


「覚めぬ悪夢を、終わらぬ――」


「止まれ」


 岩場の方から声が届いた。

 その瞬間、身体の自由が失われた。


「ねぇ、お兄さん。ここで何やってるのかな?」


「……誰だっ?」


 声のした方へ視線を向けようとする。だが、身体が動かない。

 右腕も、詠唱を続けようとする口も、意思に従わなかった。湖畔を覆う魔法陣だけが、真紅の光を保ったまま広がっている。


 岩場の向こうに、人影があった。


「……ああ、そうだった。動けないんだよね。動けるようにするけど、魔法撃たないでくれるかな?」


「……ああ、分かった」


「自由にしていいよ」


 言葉を聞くと同時に、身体の自由が戻った。

 俺は右腕を下ろし、周囲に広がっていた魔力を消した。

 湖畔を覆っていた真紅の光が失われ、魔法陣も消えていく。張り詰めていた空気が元に戻り、揺れていた木々が次第に静けさを取り戻した。


 湖面には、魔法が残した波だけが広がっていた。

 俺は岩場へ視線を向けた。

 その影にある水中から、ひとりの女性が姿を現した。

 長い深緑の髪が、水の中に広がっている。その合間から、翡翠色の瞳がこちらを見つめていた。白と淡い緑を基調とした衣装には、花や真珠を思わせる装飾が添えられている。


 腰から下は、人間の脚ではなかった。

 深い緑から青緑へと色を移す鱗に覆われた尾が、水中で緩やかな弧を描いている。尾の先に広がるひれは、朝の光を受けて淡い色を帯びていた。


 俺が見つめていると、彼女の眉がわずかに寄った。視線は俺の背後、魔法が広がっていた湖畔へと向けられている。


「改めてだけど、ねぇ、お兄さん。何しようとしてたの?」


 彼女は水中を泳ぎながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。

 尾が動くたびに湖面が揺らぎ、朝焼けを映した水面に波紋が広がった。


「……ちょっとしたストレス発散だな」


 彼女はすぐには返事をしなかった。


「……ストレス発散で、この湖畔を消滅させるつもりだったのかな?」


 湖面から俺を見上げる彼女の口元には、まだわずかな笑みが残っていた。


「いや、そういう訳では――」


「でもぉー、あの魔力で湖畔に向けて撃とうとしていたよね?」


 笑みが薄れた。

 彼女は一度、背後に広がる湖へ視線を向けた。

 先ほどまでの魔法が残した波が、湖面に広がっている。岸辺の木々も、まだ揺れを残していた。


 やがて彼女は、再び俺を見た。


「それは、そうなんだが。……考えることが多くてな。ストレスが溜まっていたかもしれないな」


「そうなんだー。でも、私ここに棲んでるからさ。そういうの辞めてほしいっていうか。……ん? お兄さん、昨日もここでドンパチしてたよね?」


「それは、すまない。……見ていたのか?」


「うん、ちょっとだけね。あんな大きい魔力だったからさ、すぐに逃げちゃったよ」


「そうか。ところで君は?」


 彼女は上半身を起こした。水面に広がっていた深緑の髪が、肩の後ろへ流れていく。


「私は、セイレーンのリラ。リラ・グリュンフェルト。お兄さんは?」


「俺は、吸血鬼のアルノ。アルノ・ヴァルハイトだ」


「ふーん、アルノくんか。アルノくんは、色々悩んでるようだねぇ。話、聞いてあげよっか?」


 リラは首を少し傾けた。

 初対面の相手に向けるには、ずいぶん気安い申し出だった。

 先ほどまで俺の行為を咎めていた相手が、今度は悩みを聞こうと言っている。あまりの切り替わりに、返す言葉が見つからなかった。


「……うーん。君に聞いてもらっても――」


「君じゃなくて、リラって呼んで」


 言葉を遮られ、俺は口を閉じた。

 どうやら、彼女は俺との距離を気にしていないらしい。


「……リラ。君に聞いてもらうようなことはないよ」


「じゃあ、当ててあげよっか。どうせ女性関係でしょ」


「……っ!?」


 喉元まで出かかった言葉が止まった。

 リラは俺の顔を見つめたまま、返事を待っている。


「あ、やっぱりぃー。私に話してみなさい、アルノくん?」


 彼女の口元が緩んだ。水面に広がる髪が、肩の動きに合わせてゆっくりと流れていく。


「……リラは、俺が怖くないのか?」


 彼女はセイレーンだ。

 そして俺は、吸血鬼の真祖。

 先ほどの魔法を見ていたのなら、俺が並の相手ではないことくらい理解しているはずだった。


「うーん、別に怖くないよ? ほら、早く話してみなさい」


 リラは顎をわずかに上げ、こちらへ顔を向けたまま待っていた。

 その態度には、こちらの力を探るような慎重さも、警戒して距離を測る様子もない。ただ、俺が話し始めるのを待っていた。


「……分かったよ」


 俺は、シルヴィアのことを話した。

 言葉を選びながら、胸の内に残っていたものを少しずつ口にした。

 話している間、リラは口を挟まなかった。


 水面に浮かぶ深緑の髪が、朝の光を受けて色を深めている。彼女は急かすこともなく、俺が言葉を探す時間をそのまま受け入れていた。


 やがて俺が話し終えると、リラはわずかに首を傾けた。


「アルノくんは、バカだねぇ。それでも、まだモヤモヤが残ってるんでしょ」


「……ああ、その通りだ」


 否定する理由はなかった。

 言葉にしたところで、胸の内に残るものがすべて消えたわけではない。


「じゃあ、私からのアドバイス聞いてみる?」


「それは、当てになるのか?」


「カッチーン。じゃあ、一つだけしか教えてあげない。プレゼントを渡しなさい!」


 リラの眉が上がり、頬がわずかに膨らんだ。こちらへ向けた指先が、水面の上で揺れる。


「……プレゼントか」


「どうせ贈ったこともないんでしょ。相手のことを想いながら選びなさい。私からのアドバイスは以上!」


 相手のことを想いながら選ぶ。

 その言葉を、頭の中で繰り返した。

 これまで、何かを選ぶときには理由があった。必要だから手に入れる。守るために力を求める。失わないために、できることを考える。


 では、誰かに何かを贈るときは、何を考えればいいのだろう。

 シルヴィアが何を喜ぶのか。

 すぐには答えが浮かばなかった。

 それでも、考えること自体は嫌ではなかった。


「ああ、分かったよ。ありがとう」


「どういたしまして、久しぶりに誰かと話したから私も楽しかったよ」


 リラは目元を緩め、頬にかかっていた髪を指先で払った。朝の光が翡翠色の瞳に映り、その表情を柔らかく見せていた。


 そんな時だった。


「アルー?」


 聞き慣れた声が、湖畔に届いた。

 俺は声のした方へ顔を向ける。

 そこにいたのは、シルヴィアだった。


「お、噂の彼女じゃないのー? 私と会ってるのがバレたらまた一悶着あるかもしれないから、私はここでね。アルノくん」


 リラはシルヴィアを見たあと、俺へ視線を戻した。口元には、先ほどと変わらない笑みが浮かんでいる。


「ああ、ありがとう。リラ」


「この借りは、返しにきてよね。アルノくん。また、何かあったら話聞いてあげるから。じゃあ、またね」


 そう言って、彼女は湖の底へと消えていった。

 深緑の髪が水の中へ沈み、その姿が湖面から見えなくなる。


 後には、朝の光を映す湖面と、岸辺に立つ俺だけが残された。

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