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アンティノミー・ブラッド  作者: Kraizen
2章

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第32話 その隣


 俺は、階段を一歩ずつ降りていく。


(……俺は、何をやっているんだろうな)


 シルヴィアの部屋へ向かうまでは、何を話すべきか考えていた。伝えたいことがあった。彼女に聞いてほしいことも、自分から伝えなければならないことも、確かにあったはずだ。


 それなのに、いざ彼女を前にすると、用意していた言葉はどこかへ消えてしまった。


 手すりを握る指に力がこもる。

 銀白色の髪。すぐ近くにあった蒼い瞳。そして、触れた唇。

 思い返すたび、あのときの光景が鮮明になる。頬にかかった髪の柔らかさも、間近で見た瞳の揺らぎも、触れた唇の感触も、記憶の中から消えてくれない。


 口元へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。

 指先が襟元をかすめる。俺は手を下ろし、残りの階段を降りた。

 漆黒の前髪が目元に落ちてくる。

 視界を遮る髪を払わないまま、俺は食卓へ向かった。


 クロエラが床に転んでいた。


「……大丈夫か。クロエラ」


 足を止め、彼女へ手を差し出す。


 クロエラは眼鏡の位置を直してから、俺の手を取った。立ち上がると、白いエプロンの裾を整え、肩に流れた栗毛の編み上げ髪を戻す。メイド服の胸元から腰へと続く仕立てが、彼女の女性らしい曲線に沿っていた。腰元のエプロンを結び直す指先が、最後に布の皺を伸ばす。


「ありがとうございます。ええ、いつものやつです。アルノ様」


 眼鏡の奥の翠玉の瞳が、俺を見上げた。彼女は少し首を傾け、頬に柔らかな笑みを浮かべる。肩にかかった編み上げ髪が、その動きに沿って胸元へ滑った。


「そうか。……今は、そういうのに心が救われるよ」


 口にしてから、自分でも意外に思った。

 唇の端に残った笑みを、俺は隠さなかった。


 クロエラの翠玉の瞳が眼鏡の奥でわずかに見開かれる。彼女の視線が俺の口元に留まり、それからゆっくりと目元へ戻った。頬にかかった栗毛を指で整え、いつもの微笑みを浮かべる。


「シルヴィア様とは……どうなりましたか」


 俺は首を横に振った。

 クロエラの手が、エプロンの前で重なる。白い布の上で指先が揃い、彼女は俺を見つめていた。


「……おい。やっぱり俺が上手くいくなんて思ってなかったんだな?」


「いえ、アルノ様。きっとシルヴィア様には伝わっていますよ。きっと、大丈夫です。お話はできたのでしょう?」


 眼鏡の奥の翠玉は、俺から逸れなかった。クロエラの声が途切れたあと、短い沈黙が挟まる。彼女は続きを促すこともなく、重ねた手をそのままにしていた。


「……どうだろうな」


 俺は小さく息を吐いた。


「言いたいことの半分も伝えられなかったかもしれない。まぁ、クロエラにそう言われると、なんだか嬉しいよ。ありがとう」


「ふふ」


 クロエラは目元を細めた。頬にかかった髪を耳へ掛け、わずかに俯く。エプロンの前で重ねていた手が離れ、片方の手がスカートの皺を整えた。


 それ以上、彼女は尋ねなかった。


「……改めてお食事をご用意しますね」


「すまない。そういえば、今日は昼からまともに食べていないからお腹が空いたよ」


「ええ。お待ちくださいませ」


 クロエラは一礼し、食事の支度へ向かった。

 彼女が通り過ぎたあと、藤の香りがかすかに残った。

 俺は食卓の椅子を引いて腰を下ろした。正面の席へ目を向けてから、隣の空席へ視線を移す。


(……そういえば、シルも昼から食べていないんじゃないだろうか)


 膝の上で手を組む。

 親指が反対側の指の関節をなぞった。同じところを何度か往復し、やがて止まる。


 銀白色の髪。

 蒼い瞳。

 あのとき、彼女の顔はすぐ目の前にあった。指先を伸ばせば届く距離で、俺は何を言うこともできなかった。


 口元へ伸びかけた手を、膝の上へ戻した。

 椅子が引かれた。

 月下香の匂いが届く。


「…………」


 隣を見ると、シルヴィアが座っていた。


 銀白色の髪が肩から胸元へ流れ、頬にかかった一房が彼女の動きに合わせて揺れる。淡い衣服の襟元から覗く首筋は細く、華奢な肩から続くしなやかな輪郭が、彼女の姿を際立たせていた。


 シルヴィアは俺の視線に気づくと、少しだけ顔をこちらへ向けた。


「なんですか、アル? 私はお腹が空いただけです!」


「あ、ああ」


 シルヴィアはすぐに顔を背けた。

 銀白色の髪が頬を覆い、耳元へ流れる。細い首筋が傾き、淡い衣服の襟元に沿って肩の線が遠ざかっていった。


 俺は口を開いた。


「シル……さっきのことなんだが、その――」


「なんですか? アルは馬鹿って話ですか?」


「い、いや。その――」


 舌の先まで出かかった言葉が止まる。

 シルヴィアは顔を背けたまま、膝の上で指を組み直した。細い指が絡み、ほどけ、また重なる。彼女の唇がわずかに開き、短い息がこぼれた。


「私は、まだ怒ってますからね。それを忘れないでください」


 俺は口を閉じた。

 頬にかかった銀白色の髪の隙間から、彼女の横顔が覗いている。唇は結ばれたまま、蒼い瞳は見えなかった。


「……ああ」


 返事をしてから、隣を見た。

 シルヴィアは顔を背けたままだった。

 俺は椅子を引いた。

 立ち上がろうとした瞬間、右手をつかまれた。


「どこに行くんですか。座りなさい」


 振り返ると、シルヴィアが俺の手を握っていた。


 華奢な指が手の甲にかかる。掌に触れた彼女の手は温かかった。顔は横を向いたまま、指先だけが俺の手をつかんでいる。


「お互い気まずいかなと思って……な?」


「気まずいのはアルだけです!」


 シルヴィアの蒼い瞳が、まっすぐに俺を捉えた。

 頬にかかった髪が肩へ流れる。彼女は俺の手を握ったまま、目を逸らさなかった。


 俺はその瞳を見返した。

 先に目を逸らしたのは、俺だった。


「……分かったよ」


 座り直すと、シルヴィアの指が離れた。

 手を膝へ戻す。

 指の間に残る温度を確かめるように、俺は手を軽く握った。


 口を開きかけ、隣を見る。

 シルもこちらを見ていた。

 視線が重なる。

 彼女の指先が唇に触れかけ、そこで止まった。蒼い瞳がわずかに揺れ、指が唇の前から下りていく。


「わ、私は気にしてません。アルは馬鹿なので!」


 シルヴィアは顔を背けた。


 頬にかかった銀白色の髪を耳の後ろへ流す。露わになった耳は赤く、指先は耳元に留まったままだった。淡い衣服の襟元から続く首筋にも、薄く赤みが差している。


「そ、そうか。分かった。一緒に食べようか」


「最初からそう言えばいいんです」


 シルヴィアは膝の上へ手を戻した。


「……ただ、私は初めてだったので責任取ってくださいね」


 小さな声だった。

 俺は顔を上げた。

 シルヴィアは食卓の向こうを見ている。蒼い瞳は俺を映さず、指先だけが髪の先をつまんでいた。銀白色の毛先が細い指に巻きつき、ほどかれては、またつままれる。


「…………」


 喉まで上がった言葉を、俺は飲み込んだ。

 そのとき、クロエラが戻ってきた。


「お待たせいたしました、アルノ様」


 クロエラは俺の前に夕食を置いた。それからシルヴィアの方へ向き直る。


「シルヴィア様のお食事も、すぐにご用意いたしますね」


「ありがとうございます。お願いしますね、クロエラさん」


 シルヴィアはクロエラへ顔を向けた。髪をつまんでいた指が離れ、膝の上で静かに重なる。

 クロエラは微笑んで一礼し、再び食堂を出ていった。

 俺は目の前の料理へ視線を落とした。


「……やっぱりいいです。アルは馬鹿なので。そんなんだから……。そういえば、好きな人やパートナーはいるんですか?」


「いないさ。ずっと一人だった」


 シルヴィアがこちらを向いた。


「ほら、やっぱり。そんなんだから出来ないんですよ」


「……う、うるさいな。シルだって、そうだったんじゃないのか? 初めてだったんだろう?」


「…………っ!」


 蒼い瞳が見開かれる。


 シルヴィアの頬が赤く染まり、唇がわずかに開いた。息を吸いかけた口元が止まり、銀白色の髪が肩から胸元へ滑り落ちる。


「……い、いはい。シウ……」


 頬をつねられた。

 思わず顔をしかめる。

 シルヴィアの指が頬をつかんでいる。間近にある蒼い瞳が、俺を見据えていた。頬に触れる指先には遠慮のない力がこもり、彼女の髪が俺の顔のすぐそばで揺れている。


「いいですか、アル! 一つだけ言っておきます」


 俺は痛みに耐えながら、彼女を見返した。


「私は、あなたの隣に立ちたいと思うことは私の意思です! ちゃんと私を見ていてください。……私もアルのこと見てますから」


 言葉が途切れた。

 シルヴィアは俺を見ていた。

 俺は何度か頷いた。頬をつねられたままでは、まともに返事をすることもできない。


「わ……わあった」


 ようやく手が離れた。

 俺は頬を押さえた。つねられた場所に熱が残り、指で触れると、まだ少し痛む。


 シルヴィアは顔を背けた。銀白色の髪が頬を覆い、赤くなった耳がその隙間から覗いている。膝の上で重ねられた指先が、片方の手をゆっくりと握り込んだ。


 クロエラが戻ってきた。


「お待たせいたしました、シルヴィア様」


 彼女はシルヴィアの前に皿を置き、食卓を整えた。


「ありがとうございます。いただきますね」


 シルヴィアは食事を始めた。

 フォークを持つ指が動き、彼女は目の前の料理を口へ運ぶ。銀白色の髪が肩から胸元へ流れ、顔を傾けるたび、頬にかかった毛先が揺れた。


 俺も皿に向き直る。

 しばらくして、隣から視線を感じた。


「アル。食べないならそのお肉貰いますね」


「お、おい――」


 俺の皿から肉が取られた。


「なんですか? 乙女を馬鹿にした罪は重いんですよ。覚えていてくださいね」


 シルヴィアは、俺の肉を口に運びながら、俺を横目で見ている。

 フォークを持つ手は止まらない。頬にかかった髪の向こうから、蒼い瞳が俺を窺っていた。


「あ、ああ。悪かったよ」


「分かればいいんです」


 彼女は再び食事へ戻った。


「ふふ。なんだかいつも通りになられたようですね」


 クロエラが俺たちを見つめて微笑んでいた。


 眼鏡の奥の翠玉の瞳が、俺とシルヴィアの間を行き来する。彼女は食器を整え、白いエプロンの前で手を揃えた。栗毛の編み上げ髪が肩に沿い、顔を上げると、頬に柔らかな笑みが浮かんでいた。


「まぁな」


 俺は自分の皿へ目を落とす。

 隣から月下香の匂いが漂ってくる。


 シルヴィアがフォークを動かす。銀白色の髪が肩に沿って揺れ、彼女は何も言わずに食事を続けていた。

 食卓には、食器の触れ合う音と、クロエラが給仕を続ける気配があった。


 俺は隣へ目を向けた。

 シルヴィアは皿に視線を落としたまま、料理を口へ運んでいる。伏せられた睫毛の下で蒼い瞳が動き、頬にかかった髪が肩へ流れていた。


「そういえば、これからのこと色々考えなくちゃいけないな」


 俺は、フォークを置く。


「……そうですね。お父様のことや帝国のこと。どうするつもりですか?」


 シルヴィアは食事の手を止め、俺へ顔を向けた。

 蒼い瞳がこちらに留まる。銀白色の髪が頬を伝って肩へ流れ、彼女の指がフォークの柄を握り直した。


「……今日はやっぱり辞めよう。頭が混乱する。明日考えよう」


「分かりました」


 シルヴィアは短く答え、皿へ視線を戻した。フォークを握る指が、柄の上で位置を変える。


「……シル。その……ありがとう」


 言葉にしたあと、俺は彼女の返事を待った。


「いきなり、なんですか?」


 シルヴィアが顔を向ける。

 蒼い瞳が俺を捉えていた。頬にかかる髪がわずかに揺れ、彼女の唇が次の言葉を待つように閉じられている。


「言ってなかったと思ってな。今日は、シルのおかげで助かった」


「……はい。私は、アルを助けますから」


 シルヴィアは俺を見つめていた。

 俺も、その蒼い瞳を見返した。


「ああ、頼む」


 シルヴィアは、目の前の皿へ視線を戻した。

 銀白色の髪が、肩から胸元へ静かに流れている。

 俺も、残っていた食事に手をつけた。


 隣から、月下香の匂いが届いていた。


 そうして夜も更けていく。

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