第31話 一歩
扉を開け、一歩、部屋の中へと足を踏み入れる。
シルヴィアはベッドに横たわっていた。
銀白色の長い髪が枕の上に広がり、肩からこぼれた一房が頬を縁取っている。長い耳の先まで髪に隠れ、窓から差し込む月明かりが、その横顔を静かに照らしていた。
「……なんですか」
「……ああ、少し話がしたいと思って……な」
言葉が途切れた。
シルヴィアは顔を向けなかった。頬にかかった髪の向こうから、短い返事が届く。
「私には、話したいことはありません。出ていってください」
彼女が寝返りを打ち、こちらに背を向けた。銀白色の髪が枕の上を滑り、肩から背中へと流れていく。
「……少し、俺の昔話をさせてくれないか」
「…………」
返事はなかった。
「何も言わないってことは、勝手に喋らせてもらうな?」
ベッドの端に腰を下ろし、彼女に背を向ける。
顔を見ていると、言葉が途切れてしまう。俺は膝の上で手を組み、親指で反対側の指の関節をなぞった。同じ場所を何度か往復してから、ようやく口を開く。
「昔、俺たち吸血鬼が住む村に、人狼族の襲撃があったんだ。……いきなりの奇襲だったよ」
親指が止まった。
「俺には、父や母、そして姉がいた。父は領主だったからな。その襲撃に対して、家族はそれぞれ戦い、村のみんなを守ろうとした。俺も、姉に連れられて戦ったんだ」
父の背中。母の声。隣にいた姉の手。
記憶の中では、どれも失われる前の姿をしている。伸ばした手の先にあったはずの温もりは、もう残っていない。膝の上で指を組み直すと、爪が掌に触れた。
「でもな……姉は俺を庇って死んだんだ」
握り合わせた手に力がこもった。
背後で、シーツの擦れる音がした。
俺は振り返らなかった。
「……『お姉ちゃんは、弟を守るものだから』って言って、死んでいった……」
あのときの声が、耳の奥に残っている。
唇を閉じ、息を吸う。喉を通る空気が冷たく感じられた。掌に食い込んだ爪を離しても、指先はしばらく曲がったままだった。
背後から声は届かない。
「そこからは、無我夢中で覚えていない。……ただ斬って、血を吸って、斬って、斬って……だったと思う。気がつけば、敵は全員死んでいた」
戦いが終わったとき、父も母も姉も、そこにはいなかった。
「……家族も、全員犠牲になっていた」
言葉を口にすると、部屋の静けさがいっそう深くなった。
背後で、ベッドがわずかに沈んだ。俺は組んでいた手をほどき、膝の上に置いた。
「だから、何故あの襲撃が起こったのかも分からない。……もう、知りたくもない」
それ以上は話さなかった。
「……アルは……アルは、後悔してるんですか」
背中越しに届いた声は、先ほどよりも小さかった。
俺は掌を開き、爪の跡を親指でなぞった。
「……後悔か」
窓から差す月明かりが、床の上に細長く伸びている。
「誰かを殺すことは、ひどく虚しいものだったよ。どれだけ殺したところで、家族が帰ってくることもない」
返事はなかった。
「でも、俺の父も母も姉も、誰かを守るために戦ったんだ。……それは、誇らしいことだと思ってる。だから、俺も一族の一人として、同じでありたいと思う」
話し終えても、シルヴィアは何も言わなかった。
俺は膝の上で手を組み直した。
「……シルは、アイリスの聖槍から俺を守ってくれただろう?」
背後で、衣擦れの音がした。
「姉に似ていてな。……怖かったんだ。もう、俺を守って誰かが死ぬなんて嫌だったから……」
湖畔で見た光景が脳裏をよぎる。
俺の前に立ったシルヴィア。聖槍を受けた身体。剣を握る力を失いかけても、退かなかった姿。
膝の上に置いた手が、いつの間にか握られていた。指の節に力がこもり、手首まで強張っている。
「……私は、身体が勝手に動いてました。お姉さんの気持ち、分かる気がします」
その声を聞き、俺は振り返った。
シルヴィアは上半身を起こしていた。銀白色の髪が肩から胸元へ流れ、片頬にかかった一房が蒼い瞳の端に触れている。彼女は髪を払おうともせず、俺を見つめていた。
「……そうか」
視線を落とす。
「それからかな。俺は、人を遠ざけるようになったのかもしれない。誰かが俺のために心配するのも、やってほしくないんだ。俺には、その資格がない」
シルヴィアの手が、シーツの上で止まった。
唇がわずかに開く。彼女は何かを言おうとしたようだったが、息を吸ったところで声を失った。白い指先が布を掴み、細かな皺を作る。
「……だから、それだけは分かってくれないか?」
シルヴィアは俯いた。
銀白色の髪が頬を覆い、月明かりを受けていた横顔が見えなくなる。膝の上に置かれた両手は、シーツを挟んだまま固く握られていた。
しばらく、彼女は何も言わなかった。
やがてベッドが沈み、シルヴィアがこちらへ身を乗り出した。
「アルは、馬鹿ですね」
顔を上げると、彼女はすぐ目の前にいた。
「…………」
「……どうしようもない馬鹿!」
声が強くなった。
シルヴィアの手がシーツを離れ、俺の腕を掴む。白い指が服の上から食い込み、引き寄せる力が強まった。
「アルは、逆だったらどうしたんですか。お姉さんを助けようと思わないんですか」
「……死ぬと分かってても、姉さんを助けてたよ」
答えに迷いはなかった。
シルヴィアの手が、俺の腕を掴んだまま止まる。彼女は一度だけ息を吸い、俺を見据えた。
「じゃあ、お姉さんがアルを助けたことは無駄だと言いたいんですか。あなたの命は、そんなに軽いものなんですか」
「…………」
答えられなかった。
シルヴィアは俺の腕を引いた。
身体が傾き、背中がベッドに沈む。銀白色の髪が視界を横切り、枕の上へと広がった。
「こっちを見なさい!」
シルヴィアが俺の上にいた。
すぐ近くに蒼い瞳がある。彼女は両手で俺の腕を押さえ、逃がさないように身を乗り出していた。肩から流れた髪が頬に触れ、月下香の香りが近づく。
「あなたは、いつも無茶なことをする。あなたは、周りのことを何にも気にしていない!」
「……だから、言ってるだろう。俺には、その資格が――」
「だから、馬鹿だと言ってるんです。あなたは、相手の想いを何も考えていない!」
シルヴィアの声が、俺の言葉を断ち切った。
俺は彼女を見返した。俺の腕を押さえる手には確かな力がこもっている。けれど、服を掴む指先は、わずかに震えていた。
「ああ、そうだな。……さっきもクロエラに同じようなことを言われたよ」
シルヴィアの動きが止まった。
「私には相談せずに、クロエラさんには相談したんですね。そこも、無性に腹が立ちます!」
彼女は顔を伏せた。
銀白色の髪が頬を覆い、二人の間に落ちる。俺の腕を押さえていた手が動き、今度は服を掴んだ。
「……いや、相談というか、話を聞いてもらっただけで――」
「同じことです!」
シルヴィアが顔を上げた。
蒼い瞳がまっすぐに俺を捉えている。彼女は口を開きかけ、一度息を吸った。けれど、その先の言葉は出てこなかった。
「……すまない。ここで言うことではなかったな。シルも落ち着いて話そう。まずは、どいてくれるか」
「嫌です! アルが分かるまでどきません!」
俺の腕を押さえる手は離れなかった。
「……このままでは、落ち着いて話すこともできないだろう? いいから、どくんだ」
「だから、嫌です! 暴れないでください!」
俺は身体を動かし、彼女の拘束から抜け出そうとした。
シルヴィアが身を乗り出す。
銀白色の髪が頬をかすめ、視界の端に長い耳が映る。俺の腕を押さえていた彼女の手が位置を変え、二人の顔が近づいた。
唇が重なった。
シルヴィアの身体が固まった。
腕にかかっていた力が消え、彼女の手が離れる。すぐ目の前で、蒼い瞳が大きく開かれていた。吸いかけた息が途切れ、俺も動けなくなる。
二人の間に、銀白色の髪が落ちていた。
シルヴィアはゆっくりと顔を離した。頬が赤く染まり、唇が何かを言おうとするように開く。
「……ち、違……っ」
俺は身体を起こした。
「……あ、ああ。分かってる。今のは事故だ」
シルヴィアの顔から、赤みが引いていく。
開きかけていた唇が閉じる。彼女の手がシーツの上に落ち、白い指が布を握り込んだ。
「…………っ!! 出ていってください!」
俺は立ち上がりかけた。
けれど、シルヴィアの声が耳に残り、足が止まった。
彼女はベッドの上で身を起こし、俺を見ていた。銀白色の髪が肩から流れ、蒼い瞳には月明かりが映っている。
俺は手を伸ばし、彼女の肩に触れた。
「…………っ!」
シルヴィアの肩がこわばった。
俺の手が止まる。彼女は息を詰め、長い睫毛の下から俺を見上げていた。
俺は一瞬、指先を緩めた。
それでも、手を離さなかった。
彼女の肩を引き寄せる。
銀白色の髪が俺の腕に流れ、月下香の香りが近づいた。シルヴィアの手が俺の肩に触れる。服を掴んだ指先に力がこもったが、彼女は俺を抱き返さなかった。
俺は彼女の顔を見つめた。
今度は、身体がぶつかったわけでも、互いの動きが重なったわけでもない。
自分の意思で、俺は唇を重ねた。
彼女の唇は温かかった。
シルヴィアの手が俺の肩に触れたまま止まる。蒼い瞳は閉じられず、すぐ近くで俺を見ていた。彼女の指先が服を掴み、それから、ゆっくりと力を緩める。
俺は唇を離した。
「……シル。俺はまだ、分からないことが多い。でも、これが俺がシルを守りたいっていう証にしてほしい」
シルヴィアは答えなかった。
頬にかかった髪の向こうで、彼女の唇がわずかに動いた。声は返ってこない。肩に触れていた手は、まだ俺の服に残っていた。
「……っ! いいから、今は出ていってください」
俺は手を離した。
服を掴んでいた指がほどける。
扉へ向かう。床に伸びた月明かりを踏み越え、取っ手に手をかけた。
振り返ると、シルヴィアは俯いていた。
銀白色の髪が頬を覆い、蒼い瞳は見えない。膝の上に置かれた手が、シーツを握りしめている。
俺は扉を開いた。
唇には、まだ彼女の温度が残っていた。
何も言わず、部屋を出た。




