第30話 葛藤
「クロエラ……シルの様子はどうだった?」
古城へ帰ってきてから、シルヴィアとは一度も顔を合わせていない。
先にシャワーを浴びるよう勧めても、彼女は頑なに首を縦に振らなかった。肩へ流れる白銀の髪の隙間から、サファイアの瞳が伏せられていた。唇が何かを告げようとわずかに動いたものの、声は返ってこなかった。
結局、俺が先にシャワーを浴びた。
湯で血と汚れを洗い流しても、右肩を負傷したシルヴィアの姿は消えなかった。聖槍を前に動けなくなった俺を覆うようにして立ちはだかった背中。剣を握れなくなっても、俺の前から退かなかった彼女の姿が、目を閉じるたびに浮かんでくる。
食堂へ向かうと、シルヴィアの姿はなかった。
「……クロエラ。シルの様子はどうだった?」
食器を整えていたクロエラの指先が止まった。栗色の三つ編みが肩先に落ち、眼鏡の奥のエメラルドの瞳がこちらを向く。
彼女は俺の顔を見つめたあと、手元の食器へ目を落とした。
「……お話をしようとはしたのですが、今は難しそうでした」
「何か言っていたか?」
「いいえ。私が声をかけても、あまりお話しになりませんでした。ただ……」
クロエラの指先が、並べていた皿の縁に触れた。
「アルノ様がお戻りになってからも、ずっとお部屋にいらっしゃいます」
「……そうか」
差し出された珈琲を受け取る。カップの温もりが指先に伝わった。
「……何があったんですか? よろしければ、お聞きしますが」
「……ああ」
カップを持つ手を止め、俺は湖畔での出来事を話した。
グスタフの謝罪を装った手紙。アイリスたちとの戦闘。聖槍に貫かれ、動けなくなった俺と、傷を負いながらも守ろうとしたシルヴィア。彼女の力を受け取って再び立ち上がり、戦いを終えたこと。そして、帰り道で彼女を先に帰らせようとしたこと。
「……シルヴィア様は、肩を負傷されたのですね?」
話の途中で、クロエラが尋ねた。
「ああ。聖槍に肩を貫かれた。剣も握れなくなっていた」
クロエラの手が皿から離れた。眼鏡の奥の翠眼が、俺の顔を捉えたまま動かない。
「それでも、アルノ様を守ろうとなさったのですか?」
「ああ……俺の前から退こうとしなかった」
答えると、クロエラは唇を結んだ。膝の上で両手を重ね、視線をわずかに伏せる。
「……そうでしたか」
それきり、彼女は何も尋ねなかった。
俺も、すぐには言葉を続けられなかった。
話し終えると、クロエラは伏せていた顔を上げた。翠眼が俺の顔を確かめるように動き、重ねていた指がゆっくりとほどけた。彼女は小さく息を吐き、唇を開いた。
「……まずは、アルノ様もシルヴィア様も、無事に帰ってきてくださって本当によかったです」
「……ただいま」
クロエラは一度瞬きをした。眼鏡の奥の翠眼が細まり、口元に小さな笑みが浮かぶ。
「……ええ。おかえりなさいませ」
俺はカップへ目を落とした。
しばらくして、クロエラの指先が食卓の上で揃えられた。
「……ですが、アルノ様」
顔を上げる。
クロエラは背筋を伸ばしていた。眼鏡の奥の翠眼が、俺をまっすぐに捉えている。
「シルヴィア様への態度は、いけません」
「……分かってる。ただ――」
「アルノ様」
短く名前を呼ばれ、口を閉じた。
クロエラの膝の上で、重ねられた指が固く組まれていた。
「シルヴィア様は、ご自分の意思でアルノ様を守ろうとなさったのでしょう?」
「ああ」
「それなのに、アルノ様はご自分の判断だけで、あの方を遠ざけようとなさった。シルヴィア様のお気持ちは、確かめられたのですか?」
「……あの状態で、これ以上無理をさせるわけにはいかなかった」
答えたあと、カップの縁に親指を添えた。
「シルは、俺が何を言っても自分を後回しにする。だから、先に帰ってもらおうとしたんだ」
クロエラはすぐには答えなかった。組んでいた指をほどき、片手を膝の上に置く。眼鏡の奥の翠眼が、俺から離れない。
「では、シルヴィア様がご自分を後回しにしてでも、アルノ様を支えたいとお考えだったことは?」
「…………」
「そのお気持ちも、アルノ様が代わりに決めてしまってよいものなのでしょうか」
窓から差し込む光が、食卓の端を照らしている。カップの表面からは、もう湯気がほとんど立っていなかった。
クロエラは一度息を置いた。
「アルノ様が、シルヴィア様を傷つけたくなかったことは分かります。ですが、シルヴィア様も同じように、アルノ様を失いたくなかったのではありませんか?」
返す言葉が見つからなかった。
湖畔で、シルヴィアは俺の前から退かなかった。肩を貫かれても、俺を守ろうとした。帰り道では、俺がひとりで休もうとするのを見抜き、結局、戻ってきて肩を貸してくれた。
クロエラは組んでいた指をほどき、片手を膝の上に置いた。
「言い訳では、シルヴィア様を納得させられませんよ」
「……そうだな」
カップから手を離す。
帰り道、シルヴィアは俺に肩を貸してくれた。白銀の髪が頬のすぐそばで揺れ、月下香の香りが近くにあった。彼女は俺を支えながら、最後まで歩調を合わせていた。
クロエラは少しの間、俺を見つめていた。それから息を置き、指先を膝の上で開いた。
「アルノ様。分かっているのでしたら、やることは一つしかありませんよ」
「…………」
「シルヴィア様と、お話をされてください」
カップの取っ手に置いた指が動いた。
「ああ……少し、頭を整理させてくれ」
クロエラの唇が閉じられた。翠眼が俺の顔に留まる。
「……今のままでは、シルヴィア様とお話しされても、またご自分のお考えばかりを伝えてしまう。そういうことですか?」
「……ああ」
「少し休む。そのあとで……話す」
「……分かりました」
クロエラは一度頷いた。視線はまだ俺に向けられていたが、やがて眼鏡の位置を指先で直し、口を開いた。
「ですが……アルノ様。休むことと、先延ばしにすることは違いますからね」
「……分かってる」
俺はカップを持ち上げ、冷め始めた珈琲を口にした。
「すまない。シルヴィアの様子も、確かめておいてくれないか? 今、俺が行っても、余計に怒らせるだけかもしれない」
「承知いたしました」
クロエラは椅子から立ち上がり、俺のカップへ目を向けた。
「……珈琲、冷めてしまいましたね。淹れ直しましょうか?」
「いや、いい。ありがとう」
彼女は小さく頷いた。唇には微笑みが残っていたが、食器へ手を伸ばす前に、もう一度こちらへ顔を向けた。
「珈琲、美味しかったよ。ごちそうさま。俺は休む」
「ええ。ごゆっくりお休みください、アルノ様」
食堂を出るとき、振り返ることはしなかった。
背後では、食器を整える音がしなかった。
自室へ戻り、ベッドに身を横たえる。天井を見上げてから、隣の部屋との境に目を向けた。
壁一枚を隔てた向こうに、シルヴィアがいる。
目を閉じると、湖畔で彼女が差し出した血と、銀白色の魔力を帯びた盾が浮かんだ。聖槍を受け止めたあの力は、俺一人では生み出せなかったものだ。
寝返りを打ち、枕へ頬を寄せる。
「……少し寝よう」
目を閉じた。
どれほど眠っていたのだろう。
扉を叩く音で、意識が浮かび上がった。
「アルノ様、夕食のご用意ができています。起きていらっしゃいますか?」
「……ああ。今、行く」
窓の外には夜の帳が下りていた。身体を起こすと、戦闘後から続いていた疲労は幾分か和らいでいた。
部屋を出て、隣の扉へ目を向ける。
数歩進んだところで足が止まった。扉へ伸ばしかけた手を下ろし、俺は階段へ向かった。
「クロエラ……シルは、来ていないようだが」
食堂に入ると、隣の席は空いたままだった。シルヴィアの分の料理も、食卓には並んでいない。
「……後で召し上がるそうです」
クロエラは食器を置き、空席へ目を向けた。それから眼鏡の奥の翠眼をこちらへ戻した。
「アルノ様。早く決断されなくては、この件はさらに拗れていきますよ」
「ああ、分かってる。……食べ終わったら行くよ」
クロエラは返事をしなかった。食卓に置いていた手を引き、指先を揃えてから、俺の席へ料理を置いた。
俺は席に着いた。
いつもと変わらない夕食が目の前に並んでいる。隣の席だけが空いていた。
箸を取る。料理へ伸ばしかけた手が止まり、指先が箸を握り直した。
「……クロエラ、すまない。俺も料理は後で食べる。置いておいてくれるか」
「……ええ、もちろんです。上手くいくことを願っています」
「ありがとう。行ってくる」
クロエラは小さく頷いた。栗色の三つ編みが肩先で揺れる。眼鏡の奥の翠眼は俺を追っていたが、彼女は何も言わなかった。
俺は食堂を出た。
階段を上がる。窓から差し込む月明かりが、廊下の床に細長い影を落としていた。
シルヴィアの部屋の前に立つ。
手を伸ばしかけて、止めた。
『守りたい存在だ』
あのときの言葉が脳裏をよぎった。
扉の向こうからは何も聞こえない。
俺は息を吸い、指先を曲げた。
もう一度手を伸ばす。
今度は止めなかった。
扉をノックする。
「……はい」
返事が届くまでに、わずかな間があった。
俺は、その扉を開けた。




