第29話 心の内
グラズヘイム大樹海。
鬱蒼と茂る木々の間を、俺たちは古城へ向かって歩いていた。少し後ろにはシルヴィアが続いている。木々の隙間から差し込む光が彼女の白銀の長髪を照らし、歩みに合わせて揺れる毛先に淡い輝きを与えていた。
初めての吸血行為。
戦いの緊張が解け、互いに冷静さを取り戻した今になって、先ほどの出来事が鮮明によみがえる。恥ずかしさと気まずさが胸の内に残り、何を話せばいいのか分からなかった。
ふと振り返ると、シルヴィアと目が合った。
「…………っ」
長い耳がわずかに動く。伏せられた睫毛の下で、サファイアの瞳が揺れた。頬にかかった白銀の髪をそのままに、彼女は唇を結び、顔をそむける。
俺も前を向いた。
――勇者アイリスとの戦い。
聖槍ミストルティン。
あの矛を止めるために展開した、白銀の盾。
戦いは終わった。
張り詰めていたものが解けた途端、足取りが重くなった。息を吸っても胸の苦しさは抜けず、身体の奥に残った疲労が、一歩進むごとに全身へ広がっていく。
……まずいな。
シルヴィアには、これ以上心配はかけたくない。
「……シル?」
足を止めて振り返った。
少し離れた場所で、彼女も立ち止まっていた。木々の間から差す光が白銀の髪を縁取り、頬に落ちた影がその輪郭をなぞっている。サファイアの蒼眼が、こちらを見つめていた。
「は、はい。……どうしましたか、ア……アル?」
俺を呼ぼうとした声が、途中でためらいを帯びた。
「……その。血を大分吸ってしまったような気がするが、身体は大丈夫か? 例えば、立ちくらみとか」
「え、ええ。そこは、問題ないです……」
答えながらも、シルヴィアは俺を見つめていた。
風が白銀の髪を肩から流し、細い毛先が頬をかすめる。彼女の唇が何かを言いかけるように開いたが、結局、声になることはなかった。
「……そ、そうか。それはよかった。で、それ以外があるのか?」
「い、いえ。……な、何でもありません」
「何かあるなら、言ってほしい」
シルヴィアの眉が寄った。
唇を結び、息を飲む。それでも、彼女は俺から顔を背けなかった。
「だ、だから。……大丈夫ですって!」
白銀の髪が肩越しに揺れた。蒼眼は俺を捉えたまま、逸れなかった。
「あ、ああ。分かった」
これ以上尋ねても、今は答えてくれそうになかった。
シルヴィアはしばらく俺を見つめていたが、やがて顔をそむけ、古城へ向かって歩き出した。
白銀の髪が背中を流れ、木々の影の中へ遠ざかっていく。
俺も足を踏み出した。
思うように歩幅が伸びない。
前を行くシルヴィアの背中が、少しずつ遠ざかっていった。
「……すまない、シル。先に古城まで帰っててくれないか?」
「なんでですか?」
返事はすぐだった。
シルヴィアが足を止め、振り返る。肩から流れた白銀の髪の隙間から、長い耳がこちらを向いた。
「少しやることができた。頼む」
口にできたのは、それだけだった。
「それなら、私も一緒に――」
「頼む、シル」
彼女の言葉を遮った。
シルヴィアの唇が止まる。
風が二人の間を通り抜けた。白銀の髪が揺れても、彼女は動かなかった。
今の状態を正直に話せば、きっと彼女は帰ろうとしない。俺を支えようと、自分のことを後回しにするだろう。
そんなことをさせたくなかった。彼女には、もう十分に無理をさせている。
……だから、ここは一人で。
そう決めたはずなのに、シルヴィアの顔を見ていると、その先の言葉が出てこなかった。
彼女の指先が、服の裾をつまむ。
何かを言いかけたように唇が動いたが、声は聞こえなかった。やがて、サファイアの蒼眼が伏せられる。
「……分かりました。そこまで言うのなら……」
声の終わりが、かすかに沈んだ。
シルヴィアは唇を引き結び、それ以上何も言わずに踵を返した。
白銀の長髪が木々の間を遠ざかっていく。
俺は、その姿を見送っていた。
彼女が見えなくなってから、ようやく息を吐いた。
すぐそばにあった大樹の陰へ身を寄せ、幹に背を預ける。そのまま、ゆっくりと腰を下ろした。
(……古城に帰って、普段と同じようにするんだ。みんなに心配をかけるな)
目を閉じ、呼吸を整える。
(……大丈夫だ。少し休めば元に戻るはずだ。まずは、呼吸を整えろ)
ゆっくりと息を吐いた。
身体の重さは消えない。
それでも、今は休むしかなかった。
再び目を閉じる。
風が頬を撫で、木々の間を抜けていった。
その風に乗って、月下香の香りが届いた。
「……アル」
聞き覚えのある声が、俺の名を呼んだ。
「……シル?」
顔を上げると、シルヴィアが立っていた。
白銀の髪が肩から流れ、尖った耳がその隙間から覗いている。サファイアの蒼眼は、俺をまっすぐに捉えていた。
「……私がそんな簡単に帰るとでも思いましたか?」
「…………っ」
返す言葉が出なかった。
シルヴィアは俺の前に立ったまま、動こうとしない。
唇を結び、彼女は俺の返事を待っていた。その姿からは、今度こそ何も言わずに立ち去るつもりがないことが伝わってきた。
「どうして、アルは私を頼ってくれないんですか? お兄様に腕を斬られた時もそう。痛いなら痛いと頼ってくれればいい」
「……そ、それは――」
「それはなんです?」
シルヴィアの声が、俺の言葉を断ち切った。
彼女は唇を引き結び、一度息を飲んだ。胸元で指先がわずかに動く。
「そんなに私は頼りになりませんか?」
「そ、そういうことでは……」
「じゃあ、なんです? そんなに私は弱そうに見えますか?」
返そうとした言葉が止まった。
俺がオズワルドに問いかけたことと、同じだった。
あの古龍に全力の一撃を放ち、深い傷を刻んだときのことが脳裏をよぎる。
どれほど強大な矛を持っていても、それだけでは守りたいものを守り抜けない。
あのとき、俺はその答えを求めたはずだった。
それなのに――。
俺は今、守りたいと思う相手を、自分から遠ざけようとしている。
「……い、いや――」
言葉を続けようとした、そのときだった。
「私は、アルの隣に立つには不足ですか?」
シルヴィアの指が、衣服を握り締めていた。布地に皺が寄るほど力を込めながらも、彼女はその手を離そうとしなかった。
「さっきの戦闘だって、私が必要だから血を吸ってくれたんじゃないんですか?」
サファイアの瞳が、かすかに揺れた。
血を吸ったのは、シルヴィアを守りたかったからだ。
それは間違いない。
けれど、それだけなのか。
自分の中に生まれた問いに、答えを見つけられなかった。
俺は彼女を見つめた。
彼女は自分の力を使い、身体を張ってまで俺を助けてくれた。俺のために傷つくことさえ、自ら選んだ。
それなのに、俺は彼女に何を返せているのだろう。
「……私は、アルにとってなんなんですか?」
握り締められた布地に、まだ皺が残っていた。
「守りたい存在だ」
その問いには、すぐに答えられた。
それだけは、迷わなかった。
「……なんですか。その曖昧な答えは」
シルヴィアの眉が、わずかに寄った。
俺は彼女の蒼眼から目を逸らせなかった。
「私は、アルにとって戦闘でただ役に立つエルフとしか思われてないんでしょうか」
「違う。それは……違う」
否定の言葉が先に出た。
そんなふうに思っているわけがない。
シルヴィアが戦闘で役に立つから、大切なのではない。彼女が強いから、守りたいのでもない。
それなのに、俺は彼女を守るという言葉の陰に隠れ、何も伝えようとしていなかった。
口を開きかけ、閉じる。
沈黙が落ちた。
シルヴィアは俺の前に立っていた。衣服をつかんでいた指先が、わずかに動く。それから、ゆっくりと力が抜けていった。
「……分かりました。これからは、私はあなたと対等な立場です。あなたにも負けません。あなたに対しても、口調を変えます。……いいですね?」
シルヴィアは言い切った。
その声には、もうためらいがなかった。
けれど、彼女の蒼眼には、まだ言葉にできなかった何かが残っていた。
「あ、ああ……」
返せたのは、それだけだった。
シルヴィアは俺へ手を差し出した。
「……立てないんでしょう? 肩を貸します」
差し出された手を見つめる。
今の身体では、ひとりで立ち上がることさえ難しい。
彼女の手を取ればいい。それだけのことだ。
それなのに、どうして今まで、それすらできなかったのだろう。
「ああ、助かる」
その手を取り、身体を起こした。
肩に体重を預けると、白銀の髪がすぐ近くで揺れた。月下香の香りが、先ほどよりも近くに感じられる。
シルヴィアは何も言わず、俺を支えていた。
そのとき、かすかな声が耳に届いた。
「絶対に振り………………だから」
最後まで聞き取れなかった。
「……何か言ったか?」
聞き返そうとした、そのとき。
「ア、アルノ様!!」
木々の向こうから、聞き覚えのある声が届いた。
栗色の三つ編みを揺らし、クロエラがこちらへ駆け寄ってくる。眼鏡の奥のエメラルドの瞳が俺の姿を捉えると、彼女はすぐそばで足を止めた。
「何かお邪魔でしたか?」
俺とシルヴィアを見比べるようにして、クロエラが尋ねた。
「いえ、一番いいタイミングでした。さぁ、帰りましょう。クロエラさんも肩を貸してくれますか」
「いや、そこまでは……」
「アルは黙って!」
シルヴィアの声が、すぐそばで響いた。
「あぁ……」
思わず口を閉じる。
シルヴィアは俺の返事を待つことなく、クロエラへ向き直った。
「……私の肩ならいくらでもお貸しします。まずは、あの城へ帰りましょう」
クロエラが反対側へ回り、俺の身体を支えた。
栗色の三つ編みが肩から落ち、眼鏡の奥のエメラルドの瞳がこちらを見上げる。
二人に身体を預け、ようやく歩き出した。
「……ああ、帰ろう」
そう答え、古城への道を進んでいく。
両側から支えられた身体は、ひとりで歩こうとしていたときよりもずっと安定していた。
隣のシルヴィアに目を向けかけて、俺は前を向いた。
彼女は何も言わなかった。
けれど、俺が歩調を崩すたび、その肩は静かに俺を支え続けていた。
守るつもりで、遠ざけた。
心配をかけまいとして、何も告げなかった。
それでも彼女は、俺のもとへ戻ってきた。
その事実を、今の俺はまだ、どう受け止めればいいのか分からなかった。
木々の間を抜け、俺たちは古城への道を進んでいく。




