第28話 決断
グラズヘイム大樹海を吹き抜ける風が、左右で結んだ金の髪を揺らしていた。
木々の隙間から差し込む陽光が、風に揺れる葉を通り抜け、地面に落ちた影をゆっくりと動かしている。湿り気を含んだ森の空気には、樹木と土の匂いが混じっていた。
目の前を歩く深緑の外套を羽織った男は、私の歩く速度に合わせている。
「…………っ」
声を出そうとしても、うまく出てこない。
何を言えばいいのか、それすら分からなかった。
「……殿下、どうされましたか」
ギルバートが振り返る。
ヴァルキア王国近衛兵団長。背中には漆黒の弓を背負っている。
その姿はいつもと変わらないはずなのに、今は少しだけ遠く見えた。
「な、何もないわ。こっちを見ないで」
思わず顔を背ける。
頬に触れた金の髪が、風に流されていった。
「そうでしたか。何か声が聞こえたような気がしたので。……失礼いたしました」
ギルバートはそれ以上何も言わず、前を向いた。
また歩き始める。
しばらく、森の中には私たちの足音だけが出て続いた。
……違う。
何か言いたい。
でも、何から話せばいいのか分からない。
シルヴィアお姉様。
アルノ。
湖で起こったこと。
頭の中に、いくつもの光景が浮かんでは消えていく。
「……ね、ねぇ、ギルバート」
ギルバートが足を止めた。
「はい、シャロン殿下」
「だから、こっちを見ないで。そのまま歩いて」
「はい、殿下。承知いたしました」
ギルバートは再び前を向いた。
私はその背中を見ながら、小さく息を吸う。
冷たい森の空気が胸に入った。
「……そ、その。シルヴィアお姉様を助けてくれて……あ、ありがとう。あ、後……アルノも」
やっぱり恥ずかしい。
ギルバートの顔は見られなかった。
「いえ、それが私の仕事ですので。私は自分の為すべきことをしたまでです。礼には及びません」
「……そ、そう。それならいいわ」
返事を聞いたあと、ギルバートの肩が僅かに揺れた。
「な、なによ、あなた。笑ってるわね?」
背中を向けたまま、ギルバートはゆっくりと首を横に振った。
「いえ、殿下。私は、シャロン殿下や王族の皆様方、そしてアルノ様に……取り返しのつかない事態の一端を招いてしまいました」
その声から、いつもの力強さが消えていた。
私は黙って、その背中を見る。
漆黒の弓を背負った身体が、いつもより小さく見えた。
「あなたは、こうなることを……知っていたの?」
「信じてもらえるか分かりませんが、知りませんでした」
ギルバートは静かに息を吐いた。
「私に命じられた任務は、グスタフ国王陛下より、アルカディア神聖帝国へ手紙を渡してくれないか、とのことでした。そして今日の昼に湖畔へ赴き、結果を知らせよ、と。……最後の命令だと書いてありました」
「……そ、そうなのね」
「目の前で起こったことは、信じられませんでした。……かといって、あの圧倒的な力を前に、私の力が及ばないことも分かりました」
その声に、悔しさが滲んでいた。
私は何も言わなかった。
私だって、何もできなかった。
シルヴィアお姉様が傷ついて。
アルノが倒れて。
それなのに私は、そこにいることしかできなかった。
その記憶が、今も胸の奥に残っている。
「あなたは、自分がしたことをどう考えているの?」
問いかけた瞬間、風が止まった。
木々の葉が動きを止め、森の中に静けさが落ちる。
ギルバートは答えなかった。
私も、すぐには次の言葉を出せなかった。
「…………正直、分かりません」
長い間のあと、ギルバートが答えた。
「……そう」
私も、分からない。
責めればいいのか。
許せばいいのか。
何が正しいのか。
その答えが見つからない。
それでも、目の前にいる人について、何かを決めなければならない。
そう思った。
「なら、あなたも罰を受けなさい」
自分の口から出た言葉に、胸が僅かに震えた。
けれど、取り消さなかった。
「……はい。私にできることならば、何でも償おうと思います」
ギルバートは静かに頭を下げた。
私はその姿を見つめた。
そして、初めてその言葉を、自分自身へ向けるように口にする。
「私は、エンスター家の一員……ヴァルキア王国の王族なのよ」
風が再び吹き始め、金の髪が頬を撫でた。
「私にできることは、一つしかない。……そうだったのよ。お母様もお姉様も、そうしていたのよ」
「……それは、なんですか?」
ギルバートが尋ねた。
私は一度、息を吸った。
「決断よ」
「自分の目で見て、自分で考えて、自分で選ぶ。……そういうことだったのよ」
ギルバートが黙る。
私はその背中を見つめた。
自分が正しいのかは、まだ分からない。
でも、誰かが決めたことに従うだけではなく、自分で見て、自分で考えることなら、私にもできる。
「だから、何を見極めるのか……それが、信じるということなのかもしれないわ」
「……シャロン殿下」
ギルバートが振り返った。
今度は、私は目を逸らさなかった。
「だから、私についてきなさい。ギルバート」
ギルバートは静かに私を見つめた。
「はい、殿下。私に進むべき道を示してください」
その言葉に、少しだけ戸惑った。
進むべき道。
私だって、まだ分からない。
それでも。
「私も迷うかもしれない。だから……あなたも私を信じてくれる?」
私は歩き出した。
今度は、ギルバートの背中を追うのではなく、その隣へ並ぶ。
風が森を抜け、金の髪を後ろへ流していく。
木々の隙間から差し込む光の中へ、私たちは歩いていった。
「ええ、もちろんです、シャロン殿下。……ヴァルキア王国はもうすぐです。帰りましょう、殿下」
「ええ。行くわよ」
私たちは、森を抜けた。
――ヴァルキア王国、執務室。
「お母様! お話があります」
扉を開けると、お母様が顔を上げた。
「どうしたの? そんなに服を泥だらけにして……」
そして、お母様の視線が私の後ろへ移る。
「……ギルバート? あなたも何の用かしら」
ギルバートは扉の近くで静かに頭を下げた。
「ご報告がございます、メザリア女王陛下」
「……そう。まずは聞きましょう」
お母様の声は落ち着いていた。
私は、その声を聞きながら一度だけ息を吸った。
「お母様! お父様がまた、シルヴィアお姉様や……アルノを」
「……どういうこと? 説明してちょうだい」
「お父様が、私に手紙を……シルヴィアお姉様に渡すようにって」
「それで?」
「それは嘘だったの。私は……間違えたの」
お母様はすぐには何も言わなかった。
私ではなく、ギルバートを見る。
「あなたは、その件に関わっているのね?」
「……はい。私にも責任がございます」
「そう」
お母様は静かに目を伏せた。
少しだけ間を置いてから、私を見る。
「それで、シャロン。あなたは何を伝えに来たの?」
「私に、今回の件を任せてほしいの」
「……任せる?」
「ええ」
自分でも少しだけ緊張していた。
でも、今度は目を逸らさなかった。
「アルノくんやシルヴィアは無事なの?」
「ええ、無事よ。大丈夫なのよ」
「そう……」
お母様は短く息を吐いた。
そして、私とギルバートを順番に見た。
「今回の件について、あなたが何を考えているのかは分かったわ。でも、これはあなた一人に任せて済むような話ではありません」
「……うん」
「それでも、あなた自身が考えて、私に伝えに来たことには意味があるのでしょうね」
私は小さく頷いた。
「だから、お母様にもお願いしたいの」
「ええ。私も動きます」
その言葉に、私は顔を上げた。
「今回の件は、私自身が王として確認しなければならないことがあります。あなたが見たものだけで判断するつもりもありません。私自身の目で確かめます」
お母様の声には、女王としての静かな強さがあった。
「ギルバート。あなたにも話を聞かせてもらいます。あなたが何を知り、何を知らなかったのか。そして、何を見たのか。すべて話してください」
「……承知いたしました、女王陛下」
ギルバートが深く頭を下げる。
お母様は、そんな彼をしばらく見つめていた。
「それから……今回のことについて、私の方でも調べます」
「お母様……」
「シャロン」
「な、なに?」
お母様は、少しだけ微笑んだ。
「あなたも、少し成長したのね」
「……そうなの?」
「ええ」
その言葉が、なんだか少しだけ恥ずかしかった。
私は頬に触れた金の髪を指先で弄ぶ。
「……まだ、分からないことばかりなのよ」
「それでいいのよ」
お母様は静かに答えた。
「分からないからこそ、自分の目で見て、自分で考えるのでしょう?」
「……うん」
私は小さく頷いた。
「私も、エンスター家の一員として……ちゃんと考えていくのよ」
窓の外から、風が吹き込んでくる。
金の髪が揺れた。
私はその風を感じながら、もう一度だけ前を向いた。




