第6話 クリア後特典がまだあった
第六章 クリア後特典
海は、絵の具を二色だけ使って塗ったように青かった。
空の青と、海の青。
その間を、白い帆をいっぱいに張った三本マストの帆船が進んでいる。
ヴィヴィエンヌは船尾楼の手すりへ片手を置いた。
風がドレスの裾を揺らす。旅装なので舞踏会用ほど裾は広くない。濃い青の上着に、白いブラウス。襟元には細い銀糸が入り、帽子には同じ色のリボンが結ばれていた。
海風は強い。
それなのに、甲板を行き来する船員たちは妙にきれいだった。
白いシャツは白いまま。紺色の上着には塩の跡もほとんど見えず、帆索を引く若い船員まで、汗で髪が少し額へ張りつく程度で収まっている。日に焼けた顔も、ひげを整えた顔も、なぜか皆それなりに見栄えがした。
ヴィヴィエンヌは、前世で見たイベントCGを思い出した。
「……船員まで、ちゃんと攻略対象の世界なのね」
「何か言った?」
隣に立っていた青年が尋ねた。
隣国の王子だった。
「いいえ。海がきれいだと思っただけです」
「今日は風もいい。明日の午前には港へ入れると思う」
王子は白い帆を見上げた。
ヴィヴィエンヌは、彼とは王都の式典で何度か顔を合わせている。
外国使節を迎える夜会、王族の祝い、国王夫妻の大きな行事。公爵家を代表して出席すれば、隣国の王族とも挨拶を交わすことがあった。
その王子から手紙が届いたのは、公爵家の財務官から今年度末の債務超過を告げられた後だった。
手紙には、公爵領で進めた農業改革と製鉄の話が書かれていた。
四圃式を広げ、鉄の生産量を増やし、長い年月をかけて領地を発展させた。その実績を高く評価している、と。
最後には、ずいぶん親しげな一文が添えられていた。
「ぜひ、こちらへ来てほしい。君に見せたいものも、相談したいこともたくさんある」
ヴィヴィエンヌは、その手紙を父シャルル公爵の執務室へ持っていった。
父もまた、この世界らしくよく整った顔立ちをした壮年の男性だった。年齢を重ねた落ち着きまで含めて、前世の言葉なら立派なイケオジである。
そしてゲームでは、娘の領地開発を高く評価する男性側の一人でもあった。
財務官が持ってきた数字を父も読んでいる。
それでも、ヴィヴィエンヌが農業を変え、鉄の生産を増やし、領地に仕事を作ったという評価は揺れなかった。
「行ってきなさい」
父は手紙を返した。
「殿下がお前を必要としてくださっているのだ。隣国を見てくるのもよい経験になる」
「でも、領地のことが……」
「こちらは私たちが見る。お前は十分に働いた」
そう言われると、ヴィヴィエンヌにも断る理由はなかった。
ゲームでも、そこまで進めれば領地開発の条件はほとんど達成していた。
婚約を失っても立ち上がり、新しい農法を入れ、高炉を増やし、領地へ仕事を作る。
攻略対象や周囲の男性たちからの評価も十分に上がった。
そして、一定の条件を満たして本編を終えると、クリア後に隣国王子の特典ルートが開く。
攻略情報には、そう書かれていた。
父までが、ヴィヴィエンヌを次のルートへ送り出す役をきれいに果たした。
バッドエンドではなかった。
むしろ、その先にまだ物語が用意されていた。
「あなたの国は農業国なのですよね」
「そうだよ。平野が広い。麦はよく育つ」
「農法は?」
「三圃式が中心だね。秋播きの麦、春播きの麦や大麦、それから休ませる畑。地方ごとの差はあるけれど、大きくはそんなものだ」
「麦はたくさん取れる。でも、国の農業が麦に寄りすぎている。畜産やほかの作物へ移したいという話は何度も出たけれど、なかなか進まない」
ヴィヴィエンヌの目が少し明るくなった。
「四圃式は?」
「まだ広くは使っていない。試した領地があるという話は聞いたことがあるけれど」
「それなら、できることがあります」
「やっぱりそう思う?」
王子は楽しそうに笑った。
「君が公爵領でやった農業改革の話を聞いた時から、相談したかったんだ。こちらでも農業をもっと発展させたい」
四圃式――ノーフォーク農業。
ヴィヴィエンヌの記憶の中では、二つはほとんど同じ意味だった。
前世で遊んだゲームでも、領地開発の農業項目で四圃式を選べば、数ターン後に農業生産が上がった。
攻略情報には「ノーフォーク農業」と書かれていた。
公爵領では、なぜか期待したほど収入が伸びなかった。
農業生産そのものは維持され、クローバー畑も牛も増えた。周囲の評価も高かった。
何か条件が悪かったのだろう。
今度の国は、まだ三圃式が中心だ。
「今度こそ、四圃式農業で成功するわ」
ヴィヴィエンヌが言うと、王子が振り向いた。
「今度こそ?」
「こちらの話です」
海風が白い帆をふくらませた。
昼食は船尾楼の下にある小さな食堂へ運ばれた。
焼いた白身魚にレモンを搾り、薄く切ったパンと、塩気のある硬いチーズを添える。船で何日も運べるようにした燻製肉もあり、王子のために積まれた樽からは薄めた葡萄酒が出された。
食卓の窓から海が見える。
銀の皿も、ガラスの杯も、揺れで滑らないよう小さな縁の中へ収められていた。
「船の食事って、もっと大変かと思っていました」
「王族の船だからね。普通の商船よりずっと贅沢だよ」
「それにしても、きれいですね」
「船が?」
「船も、人も」
王子は少し考えてから笑った。
「それは褒め言葉として受け取っておこう」
ヴィヴィエンヌも笑った。
前世のゲーム会社は、人物の立ち絵とイベントCGには本当に力を入れていた。
青い海、白い帆、王子、きらめく船員。
クリア後特典としては、申し分のない画面だった。
◇ ◇ ◇
翌日、船は隣国の港へ入った。
石造りの防波堤の内側には、穀物を積むための倉庫が長く並んでいた。
荷役人たちが袋を肩へ担ぎ、木の桟橋を行き来する。湾内には地元の沿岸船だけでなく、海の向こうから来た大きな商船もいた。
王子の馬車は、港の外で待っていた。
濃い緑色の車体に金の細い飾り線が入り、扉には王家の紋章がある。四頭立てで、御者台の革まで手入れされていた。
ヴィヴィエンヌが乗り込むと、座席には柔らかな布が張られ、窓には薄いカーテンが下がっていた。
港町を抜ける。
石畳が終わると、景色が一気に広がった。
「……すごい」
ヴィヴィエンヌは窓を少し開けた。
風と一緒に、土の匂いが入ってきた。
黒い。
道の脇で耕された畑は、乾いて灰色になった表面の下から、ほとんど黒と言っていい土を見せている。前日に少し雨が降ったらしく、轍の深いところには湿り気が残っていた。
湿った土の匂いは強かった。
草の青臭さ、馬の匂い、遠くで刈られた麦藁の乾いた匂い。その全部の下に、重くて甘い土の香りがある。
ヴィヴィエンヌはもう一度深く息を吸った。
「いい土ですね」
「分かる?」
「見れば分かります。公爵領より黒い」
「この辺りは特に肥えている。麦を作るには困らないよ」
街道の両側には麦畑が続いた。
収穫前の畑では穂が黄色くなり、風が通るたびに大きな波ができる。少し離れた区画には春播きの作物があり、その隣には休ませている畑があった。
三圃式だった。
肥沃な土地で、二つの区画を穀物へ使い、一つを休ませる。
ヴィヴィエンヌには、その休耕地がもったいなく見えた。
「ここをカブにして、次を大麦、その次をクローバーにすればいいのね」
「もう考えてるの?」
「はい。休ませる畑をなくせます。四圃式なら毎年すべての畑を使えます」
王子は感心したように頷いた。
「やはり君を呼んでよかった」
馬車は麦畑の間を進んだ。
ヴィヴィエンヌは、黒い土の匂いを吸いながら、前世の攻略画面を思い出していた。
この土地なら、きっとうまくいく。
◇ ◇ ◇
同じころ、海を挟んだ王国では、シャルロットが王家直轄地を訪れていた。
十年前には砂の色が目立った土地だった。
今は、地平線の近くまで金色だった。
麦の穂が風を受けて、一斉に傾く。
水路と農道で区切られた大きな区画が何枚も連なり、その向こうにも麦畑が続いている。
シャルロットは馬車を降り、農道の端へ立った。
足元の土は、昔のさらさらした砂とは手触りが違う。
泥灰土を混ぜ、堆肥を入れ、水を引き、排水を整えた土地だった。
麦の乾いた香りに、湿った土の匂いが混じっている。
「今年も、よく実りましたね」
隣にいた農業技官エティエンヌが頷いた。
「この区域は特に順調です。収穫量は昨年を少し上回る見込みです」
シャルロットは穂を一本だけ手に取った。
粒はよく入っている。
元がほぼ生産ゼロだった土地から、これだけの麦が出る。
そのまま市場へ出る穀物の純増になった。
増えた量は、国内価格を押し下げるのに十分だった。
都市ではパンの値段が下がった。
穀物を買って生活する職人や労働者にとって、毎日の食費が下がる効果は大きい。
さらに今年は、港へ回る量も増えていた。
王宮へ戻ると、国王エミールの机には輸出の報告書が置かれていた。
「隣国向けの穀物、また増えた?」
シャルロットが尋ねる。
「増えた。向こうの商人から追加契約が来てる」
エミールが紙を一枚渡した。
小麦、大麦、加工した粉。
その下には鋼材の数量も並んでいた。
王家側の製鉄所で作られた棒鋼、板材、農具用の鋼材。
十年前に研究から始めた設備は、今では王国内だけでなく輸出にも回せる量を作っている。
「鋼材も増えていますね」
「向こうで農具と建築用に需要が伸びているらしい。港の倉庫も足りなくなってきたそうだ」
穀物と鋼材の輸出代金は王国へ入り、港では倉庫、荷役、運送の仕事も増えていた。王家直轄地の増産は、国内で食料を安くすると同時に、輸出でも王国の収入を増やしていた。
別の報告には、隣国の穀物価格が以前より下がったことも書かれていた。
作柄の悪い地方では、輸入穀物が入るようになってから、冬の終わりに食料を買えなくなる世帯が減っている。
シャルロットは報告書を読み終えた。
「よかった」
「何が?」
「安く食べられる人が増えたことです。こちらも輸出で収入になりますし」
「鋼材もね」
「はい」
窓の外には王宮の庭がある。
そのずっと先、王家直轄地では、風がまた金色の穂を揺らしていた。
◇ ◇ ◇
隣国での最初の四圃式試験は、王都からそれほど遠くない隣国王家の試験地で始まった。
ヴィヴィエンヌは農業担当者と畑を歩いた。
「ここを四つに分けます。小麦、カブ、大麦、クローバーです。毎年、一つずつずらしてください」
「休耕は?」
「なくします。クローバーの区画では家畜を増やします」
担当者は帳面へ書き込んだ。
「牛舎も増やしますか」
「必要ですね。カブの保存場所も」
王子が横から言った。
「予算は付けるよ。最初の試験はきちんとやろう」
木柵が作られ、牛舎が増築され、カブを保存する穴蔵が掘られた。
クローバーの種も集められた。
翌年には、休耕地だった区画にも緑が広がった。
見た目は素晴らしかった。
麦の黄色、クローバーの緑、カブの葉、放された牛。
王子が視察に来た日には、農民たちが新しい畑の前へ並んだ。
「これが、ノーフォーク農業なんだね」
王子が言った。
「はい。四圃式です」
ヴィヴィエンヌは迷わず答えた。
前世のゲーム会社も、そう扱っていた。
ゲームの説明では、三圃式から四圃式へ移れば農業技術が一段上がる。
小麦、カブ、大麦、クローバーを順番に植える。
休耕がなくなり、家畜が増え、農業生産が伸びる。
それが、そのまま「ノーフォーク農業」だった。
実際にノーフォークで発達した農業は、四種類の作物を並べただけの仕組みではなかった。
軽い砂質土など、もともと肥沃とは言いにくい土地を改良し、カブやクローバーを飼料にして家畜を増やす。家畜から出る厩肥を畑へ戻し、休耕を減らし、土地の地力を上げていく。用排水や土壌改良まで含めて、土地と家畜と作物を一つの循環へ組み込む農業体系だった。
ゲーム会社が拾ったのは、その中でも分かりやすい四作物の輪作部分だった。
ヴィヴィエンヌが知っていた攻略情報にも、そこまでの説明はない。
そして、この国の黒い土は最初からよく肥えていた。
麦を作るだけなら、三圃式でも高い収量が出る。
三圃式では、毎年およそ三分の二の土地を穀物へ回せる。
典型的な四圃式へ変えると、穀物は小麦と大麦の二つ、つまり半分になる。
王家の試験地で四年分の輪作結果が出そろうのを、国は待たなかった。
試験開始からおよそ二年遅れで、全国規模の導入が始まった。
その二年間は準備期間になった。
カブもクローバーも、もともと国内にある。種を増やし、各地へ配ることはできた。
難しかったのは家畜の方だった。
牛や羊は予算を付けても急には増えない。
牛舎や羊小屋、柵、飼料置き場、カブの貯蔵場所も足りなかった。
建物を先に造っても、入れる家畜が十分にそろわない地域まであった。
ゲームでは、《四圃式農業を全国導入》と設定すれば、その後は時間経過で政策が進んだ。
小麦から始める区画、カブから始める区画、大麦から始める区画、クローバーから始める区画も、自動で散らされる。
プレイヤーが村ごとに輪作の位相を調整する操作はなかった。
現実の役所も、その仕様をなぞるように計画を組んだ。
全国の畑が一斉に同じ作物になることはなく、四つの位相を地域ごと、区画ごとに散らして始めた。
ただし、家畜の不足までは自動で埋まらない。
クローバーがよく育ったのに、それを食べる家畜が足りない畑が出た。
カブが豊作でも、貯蔵場所が足りない地域があった。
牛舎、柵、飼料の運搬、人手には全国規模で金がかかった。
牛は少しずつ増えた。
肉と乳の生産も伸びた。
その一方で、よく肥えた畑を土地改良して劇的な増収を得る余地は小さい。
穀物へ使う面積そのものは三分の二から半分へ減った。
数年がたつと、国内の穀物総量は以前より減った。
それでも、パンの値段は大きく上がらなかった。
海の向こうの王国から、安い穀物が入ってきたからだった。
「食料は足りていますね」
王子は報告書を見て満足そうに言った。
「はい」
「牛も増えた。乳製品も前より市場へ出ている」
「四圃式にしてよかったですね」
「君のおかげだよ」
ヴィヴィエンヌは微笑んだ。
ゲームであれば、この会話のあとに農業改革成功の豪華なイベントCGが出る。
金色の麦畑、緑のクローバー、丸々した牛。その上へ光が走り、《農業改革成功》の文字が大きく浮かぶ。
現実でも、王子の評価は同じように上がっていた。
◇ ◇ ◇
次にヴィヴィエンヌが目を向けたのは鉄だった。
隣国にも鉄鉱石はある。
反射炉もあり、鍛冶と精錬に携わる技術者もいた。
そして彼らは、本来なら銑鉄と鋼鉄の違いをきちんと知っていた。
ヴィヴィエンヌがこの国へ来る前、王子が高炉で作られた鉄の見本について尋ねた時には、反射炉を扱う担当者がこう説明していた。
「殿下、これは鋼ではありません。銑鉄です」
「鉄なのだろう?」
「鉄ではありますが、必要とされている鋼材とは性質が違います」
高炉から大量に出てくるのは、炭素を多く含む銑鉄だった。
鋳物には使えるが、農具、刃物、建築材、機械部品など、この国が広く欲しがっている材料の中心は鋼鉄、つまりスチールである。
銑鉄から鋼鉄へ進むには、炭素を減らし、成分を整える製鋼工程が要る。
ヴィヴィエンヌは、その作り方を知らなかった。
前世のゲームでは、そんな工程は存在しなかった。
《高炉を建設する》を選べば鉄鋼生産量が上がり、画面上では高炉から直接、鋼鉄ができる扱いだった。
だからヴィヴィエンヌは、王子の執務室で迷わず言った。
「高炉を作りましょう」
集められたのは、以前なら銑鉄と鋼鉄の違いを説明していた反射炉の技術者たちだった。
ところが、ヴィヴィエンヌの提案を聞いた途端、反応が変わった。
「素晴らしいです」
一人が大きく頷いた。
「炉を止めずに大量の鉄を作れるのですね」
「これで我が国も製鉄を産業の中心に置けますね」
「農具も建築も、大きく変わります」
銑鉄と鋼鉄の違いを忘れたわけではない。
それでも、ヴィヴィエンヌが持ち込んだ高炉という政策への評価だけは、ゲームの成功判定に沿うように一斉に高くなった。
王子もすぐに予算を認めた。
建設には金がかかった。
耐火材を選び、送風装置を作り、水車を整え、鉱石と木炭を運ぶ道を直す。
炉が完成して火が入ると、止めずに操業するための人員も必要になった。
最初の銑鉄が流れ出した日は盛大だった。
夕方の空の下で、炉口が赤く光った。
熱気が押し寄せ、火の粉が細く舞う。
流れ出す銑鉄は橙色から黄色へ輝き、鋳床の溝を進んだ。
「素晴らしい」
反射炉の技術者たちが、また口々に言った。
「これだけの量を連続して作れるのですか」
「殿下、これなら我が国も製鉄を産業の中心に置けます」
王子はヴィヴィエンヌの横で、子どものように目を輝かせた。
「本当に止めずに作れるんだね」
「はい」
「これで鉄が増える」
「増えます」
その言葉どおり、銑鉄の生産量は大きく増えた。
必要な鋼材は、引き続き海の向こうの王国からも輸入された。
棒鋼、板材、農具用の鋼材。高炉から出た銑鉄を、それらと同じ鋼鉄へ変える工程をヴィヴィエンヌは持っていない。
燃料、鉱石輸送、補修、人員、その先の精錬と加工まで含めた採算は、また別の帳簿に載った。
ゲームの製鉄イベントでは、高炉が動いた時点で成功だった。
赤く輝く炉と火花を背景に、《製鉄改革成功》の文字が豪華な光とともに出る。
王子からヴィヴィエンヌへ贈られる花の量が、また増えた。
◇ ◇ ◇
「次は衛生です」
ある日の昼食で、ヴィヴィエンヌが言った。
王宮の食堂には、薄く焼いた鴨肉、豆と玉ねぎを煮た料理、白いパン、蜂蜜を使った小さな菓子が並んでいた。
王子は肉を切る手を止めた。
「衛生?」
「石けんを普及させます」
「石けんなら、うちにもあるよ」
「高級品でしょう?」
「まあ、安くはないね」
王子が手を洗うために使っている石けんは、海の向こうから輸入されていた。
淡い乳白色の固形石けんだった。
オリーブ油を原料にし、表面には小さな紋章が押されている。濡らすと細かな泡が立ち、乾いた後には薄い薔薇の香りが残った。
王宮では普通に使われている。
富裕な商人や上位貴族も買う。
値段は高かった。
「庶民にも使えるものを国内で大量に作れば、衛生状態を改善できます」
「できる?」
「灰汁と油脂があれば作れます」
国庫から、製造所と大釜、原料をそろえるための予算が付いた。
木灰を集め、水を通して灰汁を取る。
石灰を焼いて消石灰を作り、灰汁へ混ぜる。沈殿を除き、けん化に使える強いアルカリ性の液へ寄せる。
そこへ家畜から得た脂を入れて煮る。
灰の樹種と焼き方にはばらつきがあり、灰汁の濃さも脂の状態も毎回少しずつ違った。
最初の大釜が仕上がった日、ヴィヴィエンヌは製造所へ呼ばれた。
「できました」
職人が言った。
ヴィヴィエンヌは釜の中を見た。
「……これ?」
「はい」
白い固形石けんを想像していた。
釜の中にあるものは、茶色と乳白色がまだらに混じった半固体だった。
表面には鈍い艶があり、茶色い部分へ白っぽい筋がうねって入っている。
前世の記憶にある食べ物でたとえるなら、たこ焼きの表面にかかったソースとマヨネーズを、途中までぐにゃりと混ぜたような見た目だった。
木を燃やした時の煙っぽい匂いがする。
煮た脂の匂いも残っている。
木べらですくうと、どろりと垂れた。
子どもの工作に使う糊より柔らかい。
「固まらないの?」
「この灰汁ですと、こういう石けんになります」
職人は少し困った顔をした。
「洗えます」
布へ付け、水で揉む。
泡は少ないが、油汚れは確かに落ちた。
ヴィヴィエンヌはもう一度釜を見る。
「……石けんには違いないのね」
「はい」
大量生産が始まった。
ロットによって硬さも匂いも違った。けん化しきらず脂が残ったものは、保存しているうちに酸敗して匂いが強くなった。製造所では灰汁の濃さと煮る時間を記録し、少しずつばらつきを減らしていった。
桶へ詰めて共同洗い場へ配る。
兵舎、救貧施設、工房にも回す。
衣類を洗う回数が増え、手を洗う場所も増えた。
実際に、洗浄そのものには意味があった。
その一方で、井戸と便所の位置、飲み水、汚物の処理、食品の保管、感染者の隔離は、それぞれ別の問題だった。
ゲーム会社が作った内政イベントでは、そこまで分かれていなかった。
石けんを普及させる。
衛生問題を克服する。
イベントとしては、それで一組だった。
王子は共同洗い場を視察し、桶に入った茶色い軟石けんを見て満足そうに頷いた。
「これなら高価な輸入品を買えない家でも使える」
「はい」
「また一つ、国がよくなったね」
数か月後、ヴィヴィエンヌは王宮の式典室へ招かれた。
国の健康保健大臣から、石けんの普及によって国民の衛生改善へ貢献したとして、正式な感謝状を贈られることになったのである。
金縁の厚い紙に大臣の署名と印章が入り、花束まで用意されていた。
「ヴィヴィエンヌ様の取り組みに、国を代表して感謝します」
健康保健大臣が感謝状を手渡すと、広間に拍手が広がった。
前世のゲームなら、ここで白い泡と薔薇の花びらが画面いっぱいに舞い、光の輪が何重にも広がったはずだった。
《衛生改革成功》
《国民の健康に貢献》
そんな文字が、金色の装飾と一緒に現れるイベントである。
ヴィヴィエンヌは感謝状を受け取り、深く礼をした。
その夜、王子の私室の洗面台には、海の向こうから来た薔薇の香りの固形石けんが置かれていた。
ヴィヴィエンヌも客室で同じものを使った。
柔らかな泡から、薔薇の香りがした。
◇ ◇ ◇
ヴィヴィエンヌは、前世の攻略情報をもう一度思い出した。
領地開発の項目では、農業や衛生、産業のイベントをいくつか進め、一定のポイントをためると、新しい作物の選択肢が解放された。
その一つが、ジャガイモだった。
品種を選ぶ画面はなかった。
早生も晩生も、病気への強さも、用途の違いもない。
表示されるのは、ただ「ジャガイモ」だった。
ゲーム内の説明文も短い。
痩せた土地でも育ち、収量が多く、貧しい農民を飢えから救う作物。
ヴィヴィエンヌは王子の執務室へ向かった。
「次は、ジャガイモね」
「また何かあるの?」
「貧しい農民の食料を増やせます」
王子は、もう疑わなかった。
「やろう」
王家は、すでにジャガイモを大規模生産している国から種芋を購入することにした。
売り手の国は親切だった。
隣国の気温、雨量、霜の時期、土壌、植え付け時期を確認し、この黒土地帯でよく育つ品種を選んで送ってくれた。
農業担当者の書類には品種名も記されていたが、ヴィヴィエンヌのゲーム知識に品種という選択肢はない。
彼女にとっては、それもただの「ジャガイモ」だった。
届いた種芋は王家の試験地だけで終わらず、最初から大きな面積へ配られた。
黒い土を掘る。
鍬が入るたび、しっとりした土が裏返る。
春の畑には、冬の湿り気を残した濃い土の匂いが立った。
この国の黒土地帯は、麦を作るための土地としてすでに豊かだった。
そこへ、その土地に合うよう選ばれた種芋を入れた。
結果は大豊作だった。
秋、株を掘り上げると、黒い土の中から丸い芋が次々に出てきた。
籠がいっぱいになり、荷車にも山積みになった。
「本当にたくさん取れる」
王子は掘り上げられた芋を見て声を上げた。
「これなら、貧しい人も飢えません」
ヴィヴィエンヌも笑った。
収穫が終わるころ、王都では大収穫祭が開かれた。
広場にはジャガイモを積んだ籠が何段にも並び、大鍋では肉と一緒に煮込み、別の屋台では皮ごと焼いた芋へ塩と乳製品を添えて売った。
農民たちは今年の収穫を持ち寄り、王子とヴィヴィエンヌが姿を見せると大きな拍手が起きた。
ゲーム会社なら、ここを特大のイベントCGにしただろう。
黒い土から溢れるほどのジャガイモ、笑顔の農民、籠を抱えた子ども、夕暮れの祝祭。
画面の上では《救荒作物導入成功》の文字がきらきらと光る。
ヴィヴィエンヌの中でも、ジャガイモは完全な成功になった。
前世のゲームが切り取った歴史には、抜けている部分があった。
肥沃な土地で麦が豊かに実っていても、その麦を農民自身が十分に食べられるとは限らない。
納税に取られ、不在地主への小作料に取られ、市場へ出す分を差し引けば、作った本人の手元に残る量は少なくなる。
そうした農民が、小麦を作りにくい小区画や家の周りへジャガイモを密に植え、自分たちが食べる分を確保した。
ジャガイモが貧しい農民を支えた背景には、土地と税と小作の仕組みがあった。
ゲームには、その仕組みがなかった。
そして大豊作を見たヴィヴィエンヌは、もっと作ればもっと人を救えると考えた。
「来年は、もっと増やしましょう」
王子も即座に頷いた。
「そうしよう」
全国へ広げたばかりの四圃式の輪作表に、ジャガイモが入り込んだ。
小麦、カブ、大麦、クローバーと回すために位相まで調整した畑の一部が、大規模なジャガイモ畑へ変わった。
大収穫だった区画では、翌年もジャガイモ、その次もジャガイモと、連作まで始まった。
せっかく整え始めた四圃式そのものが、成功したジャガイモによって崩れていった。
肥沃な黒土と適地向けの種芋のおかげで、最初の収量は高い。
連作による病害や地力の偏りが数字へ現れるには時間がかかる。
その間にも、税と小作料の制度はそのままだった。
不足する麦は、海の向こうから買えた。
王家直轄地で増産された安い麦が、港へ毎年入ってくる。
市場にはパンがある。
王都の倉庫にも穀物がある。
四圃式で国内の穀物が減り、さらにジャガイモへ畑を回しても、すぐに食料危機にはならなかった。
外から見れば、国は安定していた。
ヴィヴィエンヌの評価は、さらに上がった。
◇ ◇ ◇
王子が結婚を申し込んだのは、その年の冬だった。
宮殿の温室には、季節外れの花が咲いていた。
夜会のために灯された蝋燭がガラスへ映り、ひとつの火がいくつにも増えて見える。
楽団は、ゲームの特典ルートで使われていた曲によく似た旋律を奏でていた。
ヴィヴィエンヌは淡い青銀色のドレスを着ていた。
胸元には細かな真珠が縫い込まれ、袖には銀糸の刺繍が走る。歩くたびに布が光を拾い、青にも白にも見えた。
王子は正装だった。
「ヴィヴィエンヌ」
「はい」
「この国へ来てから、君はいくつも新しいことを始めてくれた」
農業も、鉄も、石けんも、ジャガイモも、王子の中ではどれも成功だった。
健康保健大臣の感謝状も、大収穫祭も、その評価をさらに確かなものにしていた。
「最初に君をこちらへ誘った時、私は君の力を借りたいと思っていた。でも今は、それだけじゃない」
王子はヴィヴィエンヌの前へ立った。
「これからも、私の隣にいてほしい」
ヴィヴィエンヌは、一瞬だけ前世の記憶へ引き戻された。
攻略本の最後に書かれていた、クリア後特典ルート。
領地開発を進め、隣国王子との好感度を十分に上げる。
必要なイベントを終える。
そして最後に、王子から求婚される。
ここまで来た。
「はい」
ヴィヴィエンヌは答えた。
「喜んで」
周囲から拍手が上がった。
楽団の音が大きくなる。
温室の高いガラス天井から、冬の月が見えた。
ゲーム会社なら、この瞬間にどれだけの光を画面へ飛ばしただろう。
花びらを舞わせ、宝石をきらめかせ、専用のエフェクトを重ね、最高額の一枚絵を出したはずだった。
現実の宮殿でも負けていなかった。
◇ ◇ ◇
結婚式の日、王都の大通りには朝から人が集まった。
王宮から大聖堂へ続く道には白と青の旗が並び、窓から花が下がっている。
馬車は六頭立てだった。
白に近い淡い灰色の車体へ銀の装飾が入り、車輪の縁まで磨かれていた。馬の胸革には小さな銀飾りが並び、動くたびに朝日を返した。
ヴィヴィエンヌの婚礼衣装は、ゲーム会社がクリア後特典のためだけに新しく起こしたデザインを、そのまま現実へ持ち込んだようだった。
白い絹の上へ、ごく薄い青の刺繍が重なる。
裾には麦の穂と薔薇の意匠が入り、腰から後ろへ流れる布には小さな真珠が縫い付けられていた。
頭には大きすぎない冠飾りが置かれ、そこから薄いヴェールが落ちる。
王子の礼装も白と濃紺でまとめられていた。
大聖堂の扉が開く。
音楽が立ち上がった。
金管の音が石の天井へ響き、その上へ弦と合唱が重なる。
色ガラスを通った光が床へ赤、青、金の模様を落とした。
誓約を交わす。
指輪を受ける。
外へ出た瞬間、鐘が一斉に鳴った。
広場から歓声が上がる。
上の窓から花びらが降った。
ヴィヴィエンヌは王子と並んで馬車へ乗った。
沿道には、四圃式の試験に参加した農民もいた。
高炉の職人もいる。
石けん工房の職人たちは、祝いの印として小さな桶を飾っていた。
市場の一角では、今年取れたジャガイモを積んだ籠まで並べられている。
どれも、ヴィヴィエンヌがこの国へ来てから始めた仕事だった。
王子が彼女の手を取った。
「きれいだ」
「ありがとうございます」
「海を渡ってきてもらって、本当によかった」
「私もです」
ヴィヴィエンヌは笑った。
青い海と白い帆から始まった特典ルートは、最後の条件まで満たされた。
農業改革、製鉄改革、衛生改革、救荒作物、そして王子の好感度。
攻略情報に照らせば、どの項目も最高の成功判定へ届き、特典ルートの条件もカンストしていた。
バッドエンドではない。
公爵令嬢ヴィヴィエンヌのクリア後特典は、隣国王子との結婚で終わった。
ゲーム会社が用意したハッピーエンドは、現実の王都で、これ以上ないほど豪華に完成した。
相次ぐ新規事業の費用がかさんでこの国の租税負担率がついに60%を超過した。
お読みいただきありがとうございました。終章は11000文字以上の加筆となりました。
一風変わった悪役令嬢のお話、令嬢もヒロインもハッピーエンドで終了です。
ゆるゆる設定でなくきっちり検証していくとこのようになる、という技術的事実に基づいたおはなしです。
残念ながら、評価もブックマークも0というジャンクのような作品になってしまったので、次に悪役令嬢を書くときは迎合路線にしないとダメですねw




