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第8話 魔法の仕組み

 翌朝。東の空から差し込む明るい朝日が、ウォルターの質素な部屋を白く照らし出していた。


 ウォルターはダイニングテーブルの定位置に深く腰掛け、少し硬くなったバゲットをかじりながら、淹れたてのブラックコーヒーを飲んでいた。無言でパンを咀嚼し、熱く苦い液体で流し込む。石工としての過酷な肉体労働を支えるための、毎朝変わらない、実用性と効率だけを求めた食事だ。


 彼の視線の先――窓台に半分はみ出る形で置かれたガラスのサラダボウルの中では、水に浸かったイブリン(ぶどう)が朝日を全身に浴びていた。


 ボウルの水面には金色の光が反射し、そこに投影されたイブリンのホログラムは、まるで高級リゾートでくつろぐ令嬢のように心地よさそうに目を閉じている。


「これから食品とあと肥料を買いに出かけるけど、イブリン、君はここで留守番を頼むよ」


 ウォルターがコーヒーカップを置きながら淡々と告げると、ホログラムのイブリンはパチリと目を開けた。


『え。いやよ』


 一切の迷いがない、見事なまでの即答だった。


『私も連れていってよ。ホームセンターに行くんでしょ? 私の大切な肥料を選ぶんだから、自分の目で確かめたいわ。だいたい、宝物なんでしょ?』


 それはランタンであって、お前じゃない。


 ウォルターは内心で正確な事実関係を訂正しつつも、言葉に出して押し問答をするのは非合理的だと判断し、別の角度から説得を試みた。


「宝物というなら、なおさら安全な室内に大事にしまっておくべきだ。指名手配中の不法侵入者をわざわざ白昼の街に連れ出すリスクは冒したくない」


『いいえ、真の宝物というものは、肌身離さず持ち歩くべきよ!』


 思いもがけない、平行線を辿る見解の相違だった。


「いいか。君のホログラムは目立ちすぎる。ランタンの中に隠したとしても、少し揺れただけで中で騒ぐだろう。お前がなんと言おうと、今日は置いていく」


 ウォルターは有無を言わさぬ口調で切り捨て、テーブルの上の食器を片付けようと腰を浮かせた。


『……ふーん。そっちがその気なら、こっちもやりようがあるわよ』


 イブリンのホログラムが、不敵な笑みを浮かべた、その直後だった。


 フワッ、と。ウォルターの身体が、見えない巨大な手に持ち上げられるように宙に浮いた。


「……うわ」


 思わず声が漏れる。椅子から完全に尻が離れ、重力という物理法則から一人だけ切り離されたウォルターの身体は、床から数十センチ上の空中でピタリと静止した。


 極めて異様で、かつシュールな光景だった。ウォルターの手には飲みかけのコーヒーカップが握られたままだが、カップの中の黒い液面は微塵も揺れず、水鏡のように静止している。試しに足をジタバタと動かしてみたが、ただ虚しく空を切るだけで、重心を移動させて降りることすら叶わなかった。慣性の法則すらも完全に支配された、絶対的な拘束状態である。


「……なんだこれ。早く下ろせ」


『普通さ、魔法っていうのは魔導具とか杖とかの媒介が必要なんだ。なんでか知ってる?』


 ウォルターの抗議など全く耳に入っていない様子で、イブリンは空中で腕を組み、さも優秀な講師のような偉そうな態度で語り始めた。


「知らん。魔法の原理なんて石工の専門外だ。いいから早く下ろせ」


『なら、特別に教えてあげるわ。いい? 魔法はね、魔力を持った魔導石の中に『回路』を設定することで初めて発動するものなの。私たち魔導師の世界では、これを『ハードコーディング』って呼ぶわ』


 ウォルターは宙吊りのまま、不本意ながらも彼女の言葉に耳を傾けた。


『魔導師が何本も違う種類の杖を持ち歩くことが多いのは、ひとつの杖(魔導石)の容量に施せる魔法の回路には限りがあるからなのよね。炎の回路を刻んだ石からは炎しか出せない。氷の回路を刻んだ石からは氷しか出せない。魔導師の仕事の九割は、事前のその回路設定で決まるの。実戦では、あとは引き金を引いて放つ時期と場所を決めるだけ』


「……なるほど」


『それをお手軽にしたのが、世間に普及している魔導具ってことね。高品質な魔導石を組み込んで、あらかじめ単純な回路を設定しておくことで、魔力さえ通せば必要な魔法を誰にでも放てるようにしているってわけ』


 イブリンの説明は、インフラを支える末端の技術者であるウォルターにとっても、非常に論理的で納得のいくものだった。


「それはよくわかった。実に勉強になったから、早く下ろしてくれ」


『ここまで聞けば、私がいま、魔法を放つ上でどれだけ『異常で理想的な状態』にあるかがわかるよね?』


 イブリンがウインクを一つ落とすと同時に、サラダボウルの水面が微かに揺れた。


 ウォルターは目を細めた。


 水に浸かったぶどうの房――その根元から伸びた極細のつるが、まるで生き物のように、いや、熟練の職人の指先のように高速で蠢いていたのだ。


 蔓の先端が、癒着した高純度の魔導石の表面を撫でるたび、そこに青白い光を放つ複雑な幾何学模様の回路が瞬時に描き出されては、次の瞬間には消えていく。


『私は今、極限まで純度の高いこの魔導石と直接繋がっている。だから、自分自身の身体――ここの蔓をインターフェースにして、状況に合わせてその場で変幻自在に回路を書き換える(コーディングする)ことができるのよ! あらかじめ刻まれた杖の容量制限なんて関係ない。その上、私は天才魔導師! 瞬時の術式構築において、私の右に出る者はいないわ。つまり、今の私に実現できない魔法はこの世に存在しないってこと!』


 ドヤ顔で語り終えたイブリンのホログラムの背後で、朝日が後光のように輝いている。


 それは確かに、国家の根幹を揺るがしかねない、戦略兵器レベルの規格外の能力だった。彼女が本気になれば、街の一つや二つ、消し飛ばすことも容易いだろう。


 だが、ウォルターにとって今一番重要なのは、国家の危機ではなく、自分の足が床に着くかどうかだった。


「そうか。お前が天才で規格外なのはよくわかった。じゃあ、ぼくを下ろすことも簡単だな」


『ええ、もちろん。下ろさないで、あなたが餓死するまでその場に放っておくことも簡単ね』


 イブリンは、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。


『で? 私を一緒に連れていく気になったかしら?』


 完全な脅迫だった。


「……わかったわかった。連れ出してやるから」


 抵抗するだけ無駄だと悟り、ウォルターは深い深いため息をついて投げやりに言った。


『よろしい』


 ストン、と。


 突然重力が仕事を取り戻し、ウォルターの身体は床へと着地した。手に持っていたコーヒーカップの水面がちゃぷんと跳ね、一滴だけ手にこぼれた。


「……はぁ」


 ウォルターは首の後ろを掻きながら、もう一度大きな息を吐いた。


 これは、とんでもないやつを引き取ってしまった。


 彼女は確かに天才であり、強大な力を持っている。しかし、その精神性は駄々をこねる子供と大差ない。もし彼女を一人で部屋に放置して出かけたりすれば、退屈しのぎにどんな魔法を暴走させ、部屋ごとマンションを吹き飛ばすかわかったものではない。


 こいつは、自分が手綱を握り、常に監視しておかなければ、いつか必ずろくでもないことをやらかす。


 それは石工としての勘ではなく、共に過ごしたわずか一日の間に得た、揺るぎない絶対の確信だった。


「……絶対に、外では喋るなよ」


『わかってるわよ! さあ、魅惑のホームセンターへ出発よ!』


 サラダボウルの中のぶどうが、嬉しそうに房を揺らしていた。


 ウォルターは静かに絶望しながら、再び大きく息を吐いた。

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