第7話 魔導石工とランタンのぶどう
組合本部での報告と換金を終え、街の喧騒を抜け出したウォルターが自宅のアパートメントに帰り着いた頃には、西の空はすでに濃いオレンジ色に染まりかけていた。
彼が暮らしているのは、繁華街の裏通りにある古いレンガ造りの集合住宅だ。間取りは一人暮らし用の1DK。日当たりの良い三階の角部屋である。旧式の建物ゆえに魔導昇降機が設置されておらず、重い機材を背負って毎日細い階段を昇り降りするのは少々億劫ではあった。だが、ダンジョンからも組合からも徒歩圏内という絶好の立地でありながら、階段しかないという理由だけで家賃が比較的安価に設定されている点が、極めて合理主義なウォルターの性に合っていた。
分厚い木製のドアを鍵で開け、ウォルターは住み慣れた静寂の中へと足を踏み入れた。
たたきで重い安全靴を脱ぎ、揃えて端に寄せる。室内は無骨な石工の住処らしく、必要最低限の質素な家具しか置かれていない。生活感というものがすっぽりと抜け落ちたような、ひんやりとした空間だった。
ウォルターはまず、胸に抱えていた旧式の魔導ランタンをダイニングテーブルの中央にそっと置いた。それから、腰に巻いた革のポシェットや背中に負っていたツルハシなどの採掘機材一式を置きに、奥の六畳ほどの寝室へと向かった。
壁際の定位置に機材を下ろし、付着したダンジョンの泥を軽く払い落としていると、ダイニングの方から鼓膜を直接震わせる甲高い声が飛んできた。
『ちょっと! 大事な宝物をこんなところに放置する気!? 早く出してちょうだい!』
さっそくイブリンが文句を言っている。
どうやら彼女は、先ほど組合の廊下でウォルターが同僚を誤魔化すために口にした「ぼくの宝物なんで」という言葉を、未だに自分へ向けられたものだと勘違いしたままらしい。訂正するのも面倒だったため、ウォルターはその勘違いをあえて放置することに決めていた。
ウォルターが無言でダイニングに戻ると、ランタンの上にイブリンのホログラムが投影されていた。彼女は空中で腕を組み、テーブルの上にちょこんと腰掛けるような姿勢でウォルターをジロリと睨みつけている。傍目には、他人の家のテーブルに行儀悪く座り込む、マナーの悪い高飛車な女の子にしか見えない。
「今出す。乾燥して干しぶどうになりたくないだろ?」
ウォルターはそう言い残し、キッチンの食器棚へと向かった。
あいにく、無骨な男の独り暮らしの部屋に、花瓶や気の利いた鉢植えなどという装飾品は存在しない。ウォルターは少し考えた末、食器棚の奥から手頃な大きさの分厚いガラスのサラダボウルを取り出し、そこに蛇口から直接水道の水をたっぷりと張った。
そのままダイニングテーブルに戻り、なみなみと水の入ったボウルをことりと置く。
「ここに植え替えるので良いか? 水なら張ってある」
『うん、気が利くじゃない。それで良いわ。ちょうど喉も乾いていたし、なんだか全身の水分が足りてない気がしてたのよね』
ぶどうの喉はいったいどこにあるのだろうか。ウォルターは甚だ疑問に思いつつも、ランタンのガラスカバーを開け、指先で丁寧にぶどう――イブリンの本体――をつまみ上げた。
傷をつけないようにそっとボウルの水の中に沈める。高純度の魔導石が癒着している分だけ、見た目以上にずっしりとした重みがあり、水面に沈んだ途端にアルキメデスの原理に従ってボウルの縁からザァッと水がこぼれ落ちた。
テーブルに広がった水を、ウォルターは手近な布巾で手際よく拭き取る。
『あー、生き返るわぁ。……ねえ、できれば窓際に置いてくれると良いわ。日が当たるところ。植物には定期的な日光浴が必要なのよ』
水に浸かったぶどうの本体から発せられる光がわずかに強くなり、ホログラムのイブリンが指示を出してきた。
ウォルターは言われた通り、重いボウルを両手で持ち上げ、西日が差し込む窓際の細い窓台の上へと移動させた。
しかし、建物の構造上、窓台の奥行きはボウルの底面の直径よりも明らかに短かった。ボウルの底の三分の一ほどが宙にはみ出しており、非常に不格好で危うい見た目になっている。
「……バランスが悪いな」
ウォルターは冷静に重心を確認した。はみ出てはいるが、質量の重い魔導石が底の中央に鎮座しているため、大地震でも来ない限りは落ちないだろう。ウォルターは「これなら問題ない」と自分の中で実用的な結論を下した。
『ちょっと、落とさないでよね!? 絶対に押しちゃ駄目よ!?』
自分の本体が宙ぶらりんになっているのを見たホログラムのイブリンが、ひやひやした声で抗議する。
「ぼくは押さない。君が勝手に揺れて落ちないように気をつけろ」
『私が自力で動けるわけないでしょ!』
文句を言いつつも、夕暮れ時の柔らかな日差しを浴びたイブリンのホログラムは、ぐっと気持ちよさそうに背中を伸ばした。
『はぁ……。日差しとお水で、本当に生き返るわぁ……』
「それは良かったな。これで今日の世話は終わりだ」
『でも、ちょっと物足りないのよね』
ウォルターが背を向けようとすると、背後から不満げな声が追いかけてきた。
「まだ不満があるのか。水も光も与えただろう」
『明日でいいから、ホームセンターで肥料を買ってきてくれない? できれば水耕栽培用の、ちょっと良い液体肥料をお願い。吸収効率が良いやつ』
ウォルターは足を止め、心底理解できないという顔でホログラムを振り返った。
「……お前、ほんとにもと人間なんだよな? 自分が元人間だと思い込んでいる、ただの魔力を持ったぶどうの魔物じゃないよな?」
『失礼ね! 間違いなく元人間よ。……というか現在進行形でれっきとした人間よ! いまちょっと、仮の姿としてぶどうになってるだけよ』
「ちょっと、の次元を超えていると思うが」
『まぁ、身体が変わっちゃったから、本能的に求める栄養素も変わっちゃうのよね。魂と肉体はふたつでひとつだから、器に引っ張られるのは魔導学の観点からも当然の帰結なのよ』
「……そういうものかな」
天才魔導師の尤もらしい学術的見解に、ウォルターは深く追求することをやめた。所詮、魔法の原理など石工の専門外だ。
それよりも、ウォルターはひどい空腹を覚えていた。一昨日からダンジョンに潜り、ほとんどまともな食事をとっていなかったのだ。
彼はキッチンの小さな冷蔵庫を開けた。中には、数日前に買った葉物野菜と、厚切りのベーコン肉が少し残っている。あとは、紙袋に入った固いバゲットが一本あるだけだ。
肉を香ばしく焼いて、野菜はちぎって山盛りのサラダにでもしようか。そう考えたウォルターだったが、すぐに一つの物理的な問題に直面した。
この部屋にある唯一の大きなサラダボウルは、つい先ほど、偉大な天才魔導師様の「お風呂兼ベッド」として提供してしまったばかりなのだ。
「……仕方ない」
洗い物を増やすのも非合理的だ。ウォルターはサラダを作ることを即座に諦め、メニューを変更した。
フライパンに火をかけ、分厚いベーコンに焼き目をつける。油の弾ける音と肉の焼ける匂いが狭い部屋に充満した。その間にバゲットにナイフを入れ、水洗いした葉物野菜を適当にちぎって挟み込む。こんがりと焼けた肉をその上に乗せれば、即席のボリューム満点なサンドイッチの完成だ。飲み物は、コップに注いだ水道水で十分だった。
慣れた手つきで調理と後片付けを並行して終わらせ、皿を持ってダイニングテーブルに戻ると、窓際からイブリンが感心したように目を細めてこちらを見ていた。
『へえ、料理できるんだ。無骨な男の一人暮らしだから、毎日酒場で干し肉でもかじってるのかと思ってたわ』
「料理というほどのものじゃない。挟んだだけだ」
ウォルターは椅子に座り、分厚いサンドイッチを大口でかじった。固いバゲットの食感と、肉の塩気が疲れた身体に染み渡る。
『ふふん。料理なら私も得意よ』
イブリンが自慢げに胸を張った。
『明日にでも、私が極上のディナーを披露してあげるわ』
ウォルターは無言のまま口の中のパンと肉を咀嚼し、水道水で綺麗に飲み込んでから、淡々と事実を指摘した。
「手足がないのに、どうやって?」
『私は天才魔導師なの。魔法を使えば、包丁を宙に浮かせて切ることも、火加減を完璧に調整することも思いのままだわ。不可能はないのよ』
誇らしげに語るイブリンに対し、ウォルターは残りのサンドイッチに手を伸ばしながら、一切の感情を交えずに正論をぶつけた。
「なら、そんな無駄なことに魔力を使うより、いますぐその魔法で人間の姿に戻ったら良いじゃないか」
『うっ……』
イブリンのホログラムが、図星を突かれたように一瞬言葉に詰まる。
『そ、それは……魔法ってのは、複雑な術式の構築とか、触媒の準備が必要なものも多いのよ! 簡単な念動力と一緒にしないでよね!』
「はいはい」
適当に相槌を打ちながら、ウォルターは食事を済ませた。空になった皿とコップをシンクへと運ぶ。
『ねえ、このあとはどうするの?』
「疲れたから、シャワーを浴びて寝るだけだ」
『あら、そう……』
なぜか、イブリンの声が少しだけ残念そうにトーンダウンした。暗いダンジョンから解放され、ようやく話し相手ができたと思ったのに、また一人で静かな夜を過ごさなければならないのが不満なのかもしれない。
ウォルターはタオルの準備をしながら、背越しに一つだけ約束を投げかけた。
「明日は休みにする。食料の買い出しにいくから、ついでに例の肥料も買ってきてやるよ」
『えっ……! あら、本当!? ありがとう!』
イブリンのホログラムが、ぱっと花が咲いたような明るい笑顔になった。その無邪気な反応は、とても国を揺るがすテロリストのものとは思えなかった。
窓の外は完全に日が落ち、街の明かりが遠くで瞬き始めている。
部屋の中には、古い油の匂いと、ボウルを満たす水の微かな冷気。そして、少しだけ賑やかな声。
こんな風にして、無愛想な魔導石工とランタンのぶどうの、奇妙な同居生活は始まったのだった。




