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第4話 保安管理課の悩み

 上層へ向かうにつれて、岩肌から発せられる魔力の残滓は薄れ、代わりに地上の乾いた風の匂いと、大勢の人間が活動する騒々しい生活音が混ざり合い始めていた。


 静寂に包まれたダンジョンから、喧騒の支配する街へと足を踏み入れる。ウォルターは手にしたランタンをわずかに持ち上げ、足元の不規則な段差を確認しながら、緩やかな傾斜の続く坑道を淡々と登り続けた。ガラス越しに放たれる白色の光は安定しており、足元を照らすには十分すぎるほどの光量を保っている。


 その優秀な光源の持ち主は、先ほどからウォルターの鼓膜を直接震わせてやかましく喋り続けていた。


『ちょっと、もう少し静かに歩けないの? ランタンが揺れて酔いそうなんだけど』


「果物が酔うわけがないだろう。我慢しろ」


『果物じゃないわよ! 私は繊細な魔力回路を持った天才魔導師なの! 振動は術式構築の妨げになるのよ!』


「なら静かにしていろ。まもなくすれ違う者が増える」


 ウォルターが小声で警告した通り、坑道の幅が広がるにつれて、これから下層の採掘へ向かう同業の魔導石工たちとすれ違うようになった。


 彼らの大半は、岩よりも硬い筋肉と豊かな髭を蓄えたドワーフの男たちだ。過酷な労働環境をものともしない彼らは、純粋なヒトでありながら誰よりも深く長くダンジョンに潜るウォルターのことを、一種の変人として扱いながらも、その腕前を認めて気さくに声をかけてくる。


「おぉ、今回も随分と長く潜ってたなウォルター。生きてて何よりだ」


「今回も良い純度の石が取れたか?」


「第四区画の西側で突発的な出水があったらしい。あんたは行かないだろうが、地盤が緩んでるから崩落に気をつけろよ」


 すれ違う度に投げかけられる太く野太い声に対し、ウォルターはその都度、立ち止まることもなく「ええ」や「はい」、「助かります」といった必要最低限の短い回答だけを返し、歩みを止めなかった。彼にとっての挨拶とは、情報の伝達と生存確認という実務的な目的さえ果たせればそれで十分なのだ。


 その実直すぎる素っ気ない態度は、ランタンの中に居座る元・大学院生のインテリ魔導師にとっては大いに不満だったらしい。


『……ねえウォルター。あなた、もう少し愛想良くしたらどうなの?』


「ちゃんと返事をして、必要な情報交換はしている」


『そういう問題じゃないわよ。社会性って言葉を知らないの? 相手はあなたの無事を喜んでくれてるんじゃない。せめて立ち止まって、笑顔の一つくらい向けるのが大人のマナーってもんでしょ』


「そんなマナーをぼくは知らない。それに、ぼくの顔の筋肉は愛想笑いをするようには作られていない」


『うわぁ、開き直った。そういう不器用なところが気になって仕方ないのよ。私が学院にいた頃なんて、毎朝すれ違う教授や後輩たちと優雅に――』


「あ、また前に人がいるから、黙っててくれ」


『ちょっと! 人の話を――』


 イブリンの抗議を脳内で強制的にシャットアウトし、ウォルターは無言のまま坑道の最後の角を曲がった。


 途端に、視界の先が白く弾けた。


 ダンジョンの巨大な鉄格子の向こう側から、強烈な地上の太陽光が容赦なく差し込んでくる。冷え切り、湿気に満ちた洞窟の空気から一転、初夏のむっとするような熱気と、土埃の匂いがウォルターの全身を包み込んだ。


「やっと帰ってきましたね……! 遅いですよ!」


 眩しさに目を細めたウォルターの耳に、聞き慣れた高い声が飛び込んできた。


 ダンジョンの出入り口で、腰に両手を当てて仁王立ちしている女性がいた。ダンジョンの出入りやダンジョン内の安全衛生を管理するダンジョン組合の部署、保安管理課の事務員、エマである。


 彼女はドワーフの女性だった。ドワーフらしく背丈はウォルターの胸元ほどしかない小柄な体格だが、燃えるような赤髪の天然パーマを後ろで無造作に束ね、組合の制服がはち切れんばかりの豊かな胸と、安産型という言葉では片付かないほど張りのある大きなお尻を持つ、極めて魅惑的なスタイルの持ち主だ。


 気立てが良く、誰とでも分け隔てなく接する彼女は、魔導石工たちのアイドル的存在として君臨している。


 しかし、今のエマの愛らしい丸顔には、はっきりとした怒りと安堵の入り混じった険しい表情が浮かんでいた。


「一両日中には戻ってくるように、いつも私が口を酸っぱくして言っているじゃないですか! あと半日遅れていたら、本当に捜索願を出して、救助隊を組織するところだったんですよ!?」


 駆け寄ってきたエマは、ウォルターを見上げるなり矢継ぎ早に説教を始めた。


 ウォルターは表情を変えないまま、淡々と問い返した。


「エマさん。いま、何日ですか?」


「五月四日の、お昼を回ったところです」


「ぼくがダンジョンに入ったのは、五月二日の朝だった。計算すると、まる二日と少し……およそ三日目ですね。なら、ちゃんと『一両日中』に収まっているはずですが」


「三日は一両日中とは言いません! 何度も言っていますよね!? 一両日中というのは、今日か明日のうち、つまり一泊二日までのことです! 昨日の夕方には戻ってきていなければならないんです!」


「いや、ぼくの持っている国語辞典には、一両日中とは『一日または二日。転じて二、三日のうち』を指すと明確に記載されていました。つまり三日目は許容範囲内です」


 ウォルターが大真面目な顔で論理的な反論を口にすると、エマは信じられないものを見るような目で天を仰いだ。


『……うわぁ。それはさすがに屁理屈が過ぎると思うわよ、お兄さん』


 ランタンの中から、呆れ果てたようなイブリンのテレパスが耳元で響く。


 いくらなんでも、心配して待っていてくれた相手に辞典の定義を持ち出して言い負かそうとするウォルターのコミュニケーションスタイルは、人間関係の構築において下の下である。大学院で高度な教育を受けてきたイブリンから見ても、絶望的だった。


『ほら、早く素直に謝りなさいよ。女の子を怒らせたら後が怖いわよ。だいたいあなたって人は――』


「黙っててくれ」


 ウォルターが口を開いた直後、しまった、と気がついた。


 イブリンの声は、テレパスの魔法によってウォルターの鼓膜を直接揺らしているため、他の誰にも聞こえていないのだ。


 当然、目の前にいるエマは、自分がウォルターから直接「黙れ」と冷酷に言い放たれたのだと解釈した。


 エマの顔からサッと血の気が引き、ギョッとしたように目を丸くする。


「な、なんですって……!?」


「あ……いや」


 痛恨のミスだった。いくら他人に興味がないウォルターでも、自分の身を案じてくれた受付の女性に対して、唐突に暴言を吐き捨てるほど狂ってはいない。


 だが、ここで「ランタンの中のぶどうに話しかけた」などと言えばどうなるか。頭がおかしいと思われるか、ランタンが調べられてイブリンのことが明るみになるか。そのどちらかだろう。どちらもウォルターの望むところではない。ウ彼の脳髄がかつてない速度で回転し、もっともらしい言い訳を構築する。


「……いまのは、あなたに向けた言葉ではありません。言い間違いです」


「言い間違いって、誰に向かって……ここには私とウォルターさんしかいませんけど!?」


「独り言です。……ダンジョンの絶対の暗闇の中に三日も一人でいると、岩肌に埋まった石が話しかけてくるような幻聴が聞こえるようになりまして。そのやかましい石の幻聴に向かって、黙れと」


 ウォルターは一切の表情を崩さず、まるで学術的な事実を述べるような真面目なトーンで言い放った。


 十秒ほどの沈黙が落ちた。


 エマは信じられないものを見るような目でウォルターを見つめ返し、やがて、今日一番の深くて重いため息を吐き出した。


「……ウォルターさん。あなた、自分で思っている以上に限界が来ています。休んでください。石と会話するようになったら、石工は引退の危機なんですよ」


「ご心配をおかけしてすみません。以後は気をつけます」


「はぁ……もういいです。生きて帰ってきただけ良しとします。とにかく、帰還の手続きと魔導石の査定をしますから、こちらへ来てください」


 すっかり毒気を抜かれたエマは、呆れ顔で踵を返し、組合の重厚な赤レンガ造りの本部建物に向かってすたすたと歩き始めた。


 その後ろ姿を追いかけようとウォルターが歩き出した時、周囲の視線に気がついた。


 広場に集まっていた魔導石工や、機材の搬入に来ていた街の商人たちが、ニヤニヤとだらしない笑みを浮かべながら、遠巻きにウォルターとエマのやり取りを眺めていたのだ。


 彼らからすれば、無愛想で誰とも会話をしない変人ウォルターに、組合のアイドルであるエマが顔を真っ赤にして世話を焼いている姿は、微笑ましいラブコメディのワンシーンにしか見えない。ほぼ毎回のように繰り広げられるこの口論は、周囲からすれば「またやってるよ」「本当に仲がいいことだ」という程度の、日常の娯楽なのだった。


 そして、その空気を誰よりも敏感に察知した女が、ランタンの中にいた。


『へぇ……なるほどね。ウォルターも、隅に置けないところがあるじゃないの』


 耳元で、イブリンのからかうような、甘ったるい笑い声が響く。


「……どういうことだ。いや、だから黙っててくれと言っただろう」


『あんなに可愛い受付の女の子に心配させて、ニヤニヤ見守られてるのに、当の本人は辞典の定義を持ち出してマジレス。……あなた、女心が本当に一ミリも分かってないのね。童貞?』


「君は本当に人の言葉に耳を傾けないな」


『あなたに言われたくないわ! でも、あの子がちょっと不憫になってきたわ。私が同居するからには、あなたのその絶望的な社会性を少し矯正してあげる必要があるみたいね』


「余計なお世話だ」


 ランタンの中のぶどうからの的外れなお節介に内心で毒づきながら、ウォルターは決して表情には出さず、赤いレンガの建物へと向かうエマの小さな背中を静かに追った。

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