第10話 トラム(路面魔導列車)
駅のホームに滑り込んできた二両編成の魔導トラムは、木と鉄が擦れ合う重厚な音を立てて停車した。
圧縮空気の抜ける音と共に、蛇腹式の折り戸が開く。
ウォルターが乗降口のステップに足を掛けた時には、すでに信じられない光景が広がっていた。
彼が胸に抱えている旧式のランタンの中に「本体」があるはずなのに、そこから投影されたホログラムたるイブリンは、ウォルターを置いてさっさと車内へと乗り込み、素早く窓際の空いた二人掛けの座席を見つけてちょこんと座っていたのだ。
「こっちこっち!」
緑色のふかふかしたベルベット生地の座席から、イブリンがぶんぶんと手を振っている。まるで、初めての遠出にはしゃぐ子どものようだ。
「……」
ウォルターは小さくため息をつき、油引きされた木の床を軋ませながら、彼女の隣へと腰を下ろした。
車内には、平日の昼前ということもあって数人の乗客がまばらに座っていた。彼らの視線が、ウォルターたちの方へちらちらと向けられている。
――また変な目で見られているのか……?
と身構えたウォルターだったが、乗客たちの視線は、不思議と不審者に向けるような冷たいものではなかった。むしろ、目を細めて微笑ましく見守るような、妙に温かい視線だった。
無理もない。「すれ違う人には実在する人間に見える」というイブリンの高度な魔法のせいで、周囲の乗客の目には『無愛想で少し不器用そうな青年が、とびきり美人で元気な恋人に引っ張られてデートに出かける図』にしか見えていないのだ。そして、青年が大事そうに胸に抱えている古ぼけたランタンすらも、何か二人だけの思い出の品か、ロマンチックな贈り物のように好意的に解釈されているらしかった。
そんな乗客たちの勝手な妄想の温かさが、ウォルターにとってはひどく居心地が悪く、ただただ恥ずかしかった。
「発車いたします。おつかまりください」
凛とした声が車内に響いた。
乗降口の横に立っているのは、このトラムの乗務員である女性の車掌だった。頭にはツバのない丸い帽子(ピルボックス帽)をちょこんと被り、襟の詰まったキリッとした紺色のジャケットに、ふくらはぎまである長いプリーツスカートを合わせている。肩からは分厚い革の大きな「がま口カバン」を斜め掛けにしており、まさにこの街の最先端を行くハイカラでモダンな職業婦人の出で立ちだった。
車掌が天井から伸びる合図の紐を引くと、軽快な発車ベルが鳴り響いた。
床下にある魔導モーターのコンバーターが低く唸りを上げ、滑るようにトラムが動き出す。
「わあ、いい景色ね!」
イブリンは身体ごと窓に向けて座り、窓ガラスにへばりつくようにして外の様子を楽しんでいる。
すり鉢状の急な坂道を下っていくトラムの窓からは、赤レンガの街並みが俯瞰するような形で一望できた。石畳の歩道を歩く人々、軒先に並ぶカラフルなお店の看板、時折すれ違う鈍く光る魔導自動車。活気ある工業都市の日常風景が、次々と後ろへ流れていく。
純粋に景色を楽しむその横顔を見て、ウォルターはふと、根本的な疑問を抱いた。
――こいつ、警察に追われているんじゃなかったか?
いくらなんでも、こんな白昼堂々と姿をさらして平気なものなのだろうか。
「なあ……」
ウォルターは周囲の目を気にしながら、小声で呼びかけた。
「もっと目立たない方がいいんじゃないか?」
「え? 別に目立ってないでしょ」
窓の外を見たまま、イブリンはあっけらかんと答えた。そもそも自分が目立っているという自覚すら欠如しているらしい。ウォルターは単刀直入に言うことにした。
「警察から身を隠さなくて良いのか、と聞いているんだ」
誰にも聞かれないよう、ウォルターは手元のランタンのガラスケースに口をぴったりと寄せるようにして囁いた。
隣の席に座っている美しい少女のホログラムを完全に無視し、膝の上の薄汚れたランタンに向かって真剣な顔でボソボソと話しかける青年の姿。客観的に見れば完全に狂気の沙汰であり、周囲の乗客たちの「温かい視線」が一瞬にして「戸惑い」へと変わったが、ウォルターにとっては『会話の相手の本体がランタンの中にある』のだから、この物理的距離の取り方が最も合理的で仕方ないことだった。
「あぁ、そんな心配してくれてたんだ。大丈夫よ、気にしなくて」
イブリンは振り返り、ウォルターの顔を見てふふっと笑った。
「私だってわからないから」
「……どういう意味だ?」
「どう……って、そのまんまの意味だけど。……あ! それよりあれ見て! すっごく美味しそうなパン屋さんがある!」
窓の外の景色に再び気を取られるイブリン。
ぶどうがパンを食べるのか? という疑問はさておき、ウォルターの思考は彼女の放った「私だってわからない」という言葉に釘付けになっていた。
見られても大丈夫という、その絶対的な自信はどこから来るのか。
少しの間混乱したウォルターだったが、彼特有の合理的な推論によって、ひとつの結論に達した。
そうだ。今、隣に座っているこの可憐な少女の姿は、あくまで彼女が魔法で作り出した『ホログラム』だ。光の屈折でいかようにでも誤魔化せる以上、必ずしも本人の実際の姿と似ているとは限らない。
つまり、手配書に描かれている本来のイブリンの姿は、これとは似ても似つかないということだ。もしかしたら、実際の彼女の肉体は、見上げるほど背が高くて、筋骨隆々で、ものすごく太っている大柄な女性なのかもしれない。それなら、この可憐なホログラムのアバターで街を歩いていても、絶対に本人だとはバレないだろう。完全に納得がいく。
「……ねえ、なんか今、ものすごく失礼なこと考えてない?」
ウォルターの顔を見て、イブリンがジト目で睨んでくる。
「いや……?」
「あやしい。絶対に何か失礼なこと考えたわね」
「……気にするな。人の価値は見た目で決まる訳じゃない。少なくとも、ぼくはそういう基準で人を判断したりしないから、安心してくれ」
「は? なんの話?」
今度はイブリンが心底混乱する番だった。
「失礼いたします。乗車券を拝見します。どちらまでお越しですか?」
そんなすれ違いの会話の最中、車内を巡回してきた女性車掌が、ウォルターたちの座席の横で足を止めた。
「南林駅まで」
ウォルターは、これから向かう郊外のホームセンター『オズワルド・マテリアル』の最寄り駅を告げた。
「はい、南林駅ですね」
車掌はにっこりと営業スマイルを浮かべ、首から下げた革のがま口カバンに手を添えた。
「大人二名様で、四百二十ギニーになります」
言われるがまま、ウォルターは腰の小袋から硬貨を取り出し、車掌の手のひらに乗せた。
車掌は手慣れた動作でカチャリとがま口を開けて硬貨をしまうと、束になった紙の切符を二枚引き抜き、手に持った金属製の改札鋏を当てた。
小気味良い金属音が二回鳴り、半円型の小さな穴が開けられた二枚の切符が、ウォルターの手に丁寧に渡された。
「ありがとうございました。ごゆっくりどうぞ」
車掌は一礼し、再び車内を歩いていく。
ウォルターは、受け取った二枚の切符と、遠ざかる車掌のモダンな後ろ姿をぼんやりと見つめた。
そして、ふと思った。
――大人、二人……?
視線を落とす。自分の手には、確かに大人二人分の切符がある。
隣を見る。嬉しそうに窓の外を眺める美しい少女のホログラムがいる。
膝の上を見る。薄汚れた旧式のランタンの中に、ぼんやりと光るぶどうの房が一つ転がっている。
確かに傍目には『大人二人』の客だろう。
しかし、物理的な現実として、この場に存在している質量は『大人の男が一人』と『ランタンが一つ』である。
自分は今、照明器具の中に入ったフルーツのために、れっきとした人間一人分の交通費を全額支払わされたのだ。
「……」
なんという理不尽だろうか。
ウォルターは、膝の上のぶどうと手元の二枚の切符を交互に見比べながら、なんだかひどく釈然としない、深い虚無感に襲われていた。




