【第一部完】第20話 この国からの陳情を受理します
三十七年前。
二十一歳の久世真臣は、白浜の瓦礫へ膝をついていた。
海だった場所に道路があり、道路だった場所を死者が歩いている。
助けたはずの子どもから、母親の名前が抜け落ちていた。
仮設本部の机へ、八洲継続協定の緊急改定案が置かれる。
「春夏冬成海を中核へ固定すれば、今夜は持つ」
担当者が言った。
「本人は」
「同意済みです」
「次の協議まで、一度だけとある」
「今は協議している時間がありません」
遠くで、救助隊の声が消えた。
名前を呼ばれなくなった者から、存在が境界へ溶けていく。
久世はペンを取った。
「十年だけ持たせる」
自分へ言い聞かせるように、署名する。
「十年で、必ず代案を作る」
朱印が落ちた。
白浜の境界が閉じた。
◇
現在。
五十八歳の久世真臣は、同じ署名を見ていた。
十年の暫定措置は、三十七年目に入っている。
◇
六封土消失。
国土基盤継続特別審査は、結論を出せないまま中断した。
黒くなった六地点は、成海さんの停止申立より前から劣化していた。
つまり、現行制度へ戻しても安全ではない。
国家側が守ろうとしていた「現状」は、もう存在しなかった。
「緊急全面再配置を提案します」
施設担当が言う。
「YOMI-00を中核へ戻せば、失われた六封土へ一時的に境界情報を再供給できます」
画面へ復旧予測が出る。
六地点、再点灯。
ただし、春夏冬成海の現人格消失率、九十八・七パーセント。
次回再配置可能期間、推定二年未満。
「前は、十年以上持ったはずです」
私が聞く。
「中核網自体が劣化しています。再配置のたび、保持期間は短くなる」
十七回使った部品を、十八回目だけ丁寧に扱っても直らない。
制度が壊れる速さに、人の人生を足して時間を買ってきただけだ。
「戻りません」
成海さんが言った。
「私を戻せば、黒点は点くかもしれません。でも、次の私へ壊れた網を渡すだけです」
「戻らなければ、今すぐ被害が出る」
久世が答える。
「承知しています」
「その責任を負えるか」
「一人で負いません」
成海さんは、私と山本さんを見る。
「そのために、三人でここへ来ました」
◇
「全国分散暫定協定を提案します」
私は、水を吸って波打った百八十頁の申立書を開いた。
ハンコさんが上へ乗り、紙を押さえる。
「第一。春夏冬成海による記憶、身体、人格の供出を三十日間停止する」
「三十日後に安定しなければ?」
「その時点で、本人を含む当事者全員が再協議します。自動再配置は認めません」
「第二。省庁怪異対策室を、怪異共生仮窓口として公的に設置する」
「仮、か」
「正式化を待っていたら、また三十七年かかります」
久世の目がわずかに動いた。
「第三。四十七封土のうち、黒点六地点と危険度の高い五地点を共同監査する。国家、自治体、怪異側、地域住民の四者から担当を出す」
「機密が漏れる」
御厨さんが言う。
「公開範囲は段階設定します。でも、秘密を理由に当事者を外さない」
御厨さんは反論しなかった。
「第四。怪異名を段階的に仮登録する。個別名の公開は本人同意制。仮名でも、契約主体と異議申立権を認める」
「第五。成海さんによる一括決裁を凍結し、地域ごとの小規模決裁へ分ける」
日本地図の中央から、細い線が四十七方向へ伸びる。
「完璧な代案ではありません」
私は先に認めた。
「失敗するかもしれない。三十日で足りないかもしれない。だから、失敗を隠さず修正できる期限と窓口を先に作ります」
「三十日で崩落が起きれば、被害は現行制度より大きくなる可能性がある」
久世の声は、最後まで現実を譲らない。
「はい」
「怪異が協力を撤回すれば?」
「撤回条件を契約に入れます」
「地方が負担を拒めば?」
「国が代行し、費用と責任を公開します」
「君たちが判断を誤れば?」
「私たちの名前で責任を負います」
「国家の存続を、実験へ載せるのか」
私は、久世の前にある三十七年前の署名を見た。
「三十七年待っても代案がない制度へ、もう一人分の人生を入れても、代案は生まれません」
言葉が審査室へ落ちる。
「現行制度だって、終わりを決めないまま続けた実験です。失敗を一人へ隠したから、実験に見えなかっただけです」
久世は何も言わない。
◇
山本さんが、暫定協定案へ青い文字を足した。
「撤回条項を入れます」
声は完全に戻っている。
「国家、怪異、地域、担当者のいずれかが重大な危険を確認した場合、二十四時間以内に緊急協議。単独で契約を破棄せず、被害回避措置を先に行う」
次の条項。
「情報公開。封土の安定率、供出量、再配置負担を、個人情報を除いて週次公表する」
「国家機密へ触れる」
御厨さんが言う。
「秘密指定の範囲と理由も、期限付きで記録します。消した事実まで消さない」
御厨さんは、自分の名を書いた。
情報保全責任者、御厨真昼。
「怪異側にも義務を置きます」
山本さんはミツハを見る。
「封土維持へ協力する。人へ直接被害を出す前に仮窓口へ申立を行う。違反時は、怪異名で調査と再契約を受ける」
『受ける』
ミツハが答えた。
『ただし、人も同じく名を出せ』
「国家側の責任者名も記録します」
久世が自分で言った。
国家責任者、久世真臣。
逃げない人だった。
だから、逃げないまま間違いを続けてしまった人でもある。
◇
「私からも条件があります」
成海さんが立った。
「三十日間、境界官として働きます」
「停止申立と矛盾します」
施設担当が言う。
「供出を停止したのであって、私が働くことを停止したのではありません」
成海さんは、自分の腕の十七本の印を見せる。
「中核部材としてではなく、契約当事者として。記憶を失う決裁はしません。小規模決裁は、内容と代償を聞いたうえで、私が選びます」
「三十日後は」
久世が問う。
「続けるかどうか、私に聞いてください」
平らだった声に、意思があった。
「次の私ではなく、今の私に」
久世は目を閉じた。
三十七年前の自分と、長い協議をしているようだった。
やがて、ペンを取る。
「暫定協定を認める」
署名する。
「三十日間。危険度が基準を超えた場合は即時再審査。成功を保証したわけではない」
「分かっています」
「私が敗北を認めたわけでもない」
「私たちも、勝ったとは思ってません」
ハンコさんが協定書の上へ跳んだ。
久世の署名。
山本さんの契約文。
成海さんの本人意思。
ミツハの水印。
私の受理欄。
ぽん。
暫定決裁。
黒い六点のうち、一つだけが薄い朱色へ戻った。
完全な復旧ではない。
生きているか、死んでいるかもまだ決まらない色。
未決裁の色だった。
◇
御厨さんが公示を出した。
『怪異共生仮窓口設置のお知らせ』
地下十三階の看板が、初めて外された。
省庁怪異対策室。
その下へ、新しい板をかける。
怪異共生仮窓口。
「仮が二つあるような不安定さですね」
私が言う。
「三十日後に一つ減らせばいいです」
山本さんが答えた。
「窓口は残るんですね」
成海さんが看板へ触れる。
「残します」
開庁三秒後、ファクスが鳴った。
一枚。
二枚。
十枚。
百枚。
天井から河童の皿が落ち、机の下から座敷童の転居届が出て、黒電話は『山の影が日照権を侵害している』という苦情を読み上げた。
「祝いの申請ですかね」
「苦情です」
「開庁祝いに苦情を送る文化なんですか」
ミツハからは、旧町の水で作った酒が届いた。
会計担当から即座に通知。
『怪異からの贈答品は評価額を算定できないため受領不可』
「国と再契約した直後に、会計で差し戻された!」
百笑主からは笑い声百個。
『無形資産に該当する可能性があります』
「祝いまで資産登録しないで!」
ハンコさんは申請の山へ飛び込み、楽しそうに『仮受理』を押している。
私たちは床へ座り込んだ。
「これで、勝ちですか」
私が聞く。
「三十日の執行猶予です」
山本さんが答える。
「でも」
成海さんは、鮭おにぎりを一口食べた。
「次の私ではなく、今の私がいます」
それは勝利より、小さくて確かなものだった。
◇
赤い直通回線が鳴った。
久世からだった。
『地下十三階の主画面を開け』
「今度は何です」
『暫定協定の締結により、開示権限が更新された』
壁の日本地図が開く。
四十七封土。
中央にYOMI-00。
春夏冬成海。
それは知っている図だった。
「下層表示を許可する」
久世の操作で、成海さんの名の下にあった黒塗りが消える。
さらに深い場所へ、赤い線が伸びていた。
封土から封土へ。
古文書からサーバーへ。
住民台帳、河川記録、墓籍、道路、祭祀、未決裁文書。
国を形作るすべての記録が、一つの巨大な網になっている。
表示名。
国土基盤契約網・申立主体。
「申立主体?」
山本さんが画面へ近づく。
「装置じゃないんですか」
『私も、そう考えていた』
久世の声が低い。
『長年、一方的に契約を改定し、異議を未決裁へ送り、犠牲を継続した。その未処理の意思が、契約網の中で一つにつながった』
画面の赤い線が、脈打った。
どくん。
地下十三階の照明が揺れる。
どくん。
全国のファクスが同時に鳴った。
端末が震える。
ハンコさんが、初めて怯えたように私の足へしがみついた。
天井から、一枚の紙が落ちてくる。
濡れていない。
古くも、新しくもない。
どの省庁の様式にも属さない、白い申立書。
申立人欄へ、文字が浮かぶ。
日本国。
申立内容。
現行契約による存続が困難。
終了または再締結の協議を求む。
久世の呼吸が、電話の向こうで止まった。
『国が』
三十七年間、国を存続させるために署名し続けた人が、震える声で言う。
『自分を終わらせろと、言っている』
私は申立書を拾った。
山本さんを見る。
眼鏡の奥で、契約の水脈が光っている。
成海さんを見る。
受理印の残る手で、しっかり頷いた。
ハンコさんが私の肩から降りる。
朱肉へ、全身を沈めた。
私は白い申立書を机へ置く。
「受理します」
手を添える。
「次の陳情人は、この国です」




