第九話 答え合わせ、大陸会議
大陸同盟会議場は、帝国議事堂の西館、長円形の大広間だった。
天井はドーム状で、控えめな漆喰の紋様が入っている。中央に据えられた円卓は、向こう側に座る人の顔がかろうじて見える大きさだった。席は、加盟十五カ国分。各国の代表と随行一名ずつが着席できる造りになっていた。
メリザンドは、皇帝の左隣の席に案内された。
腰かけるとき、椅子を引いたのは、皇帝自身だった。
「ご自分で、よろしゅうございますの」
「ここでは、そうしたい」
皇帝は小さく答えた。
他国の代表たちの視線が、その動作に、いっせいに集まった。集まったあと、ほとんどの者がごく短いあいだで視線を逸らし、目の前の書類に戻した。そこで何かを声にする者は、いなかった。
椅子の座り心地は、思っていたより深かった。肘掛に腕を預ければ、そのまま、背筋を自然に伸ばして座っていられる高さの椅子だった。肘掛の縁には、細い金の線が入っていた。メリザンドはその線を、指の腹で一度だけなぞり、そこから手を下ろした。
王国の席は、円卓の向こう側だった。
代表として立ったのは、オズヴァルトだった。
国王の体調がすぐれないために代理を務める旨の、短い前置きがまずあった。声は落ち着いていた。顔色も、悪くはなかった。ただ、王国の旗を背負って座るには、肩の線が、わずかに落ちて見えた。
議事は、予定どおり進んだ。
穀物関税の調整、海路の通航料の見直し、小国への融資に関する共同案。いずれも、事前にほぼ合意が取れていた案件で、午前中のうちに粛々と片付いた。
議事が午後の四項に入ったところで、議長が一度、卓に手を置いた。
「次の議題に移ります。貴族家の信用に関わる問題の、個別事案につきまして」
議長はアスカニア帝国の外務卿だった。穏やかな物腰の、やや年配の男だった。
「本件に関し、アスカニア帝国より、資料の提出がございます。議場にお諮りしてよろしゅうございますか」
挙手の確認が取られた。反対はなかった。
「では、どうぞ」
皇帝が、席を立った。
手に、薄い束を持っていた。表紙に、王国司書ギルドの印が押されている。続いて、アルブレヒトが、もっと分厚い束を小型の台車ごと押してきた。台車は音を立てなかった。車輪に厚い布が巻いてあった。
「アスカニア帝国皇帝、カスパール・アスカニアです」
皇帝は低く言った。
「本件につきまして、隣国エルトハイム王国の予言者奉納制度の運用の実態を、短く、ご報告いたします」
円卓のほうぼうで、ささやきが起きた。
皇帝は、束の一番上の紙を、卓の中央の演壇に置いた。続けて、アルブレヒトが、台車の上から一束ずつを皇帝に渡した。皇帝は、その束を演壇の脇の長卓の上に、古い順に並べていった。
一番から、三十七番まで。通し番号が振られた正規謄本の束が、通算で見て見事な直線を描いた。
オズヴァルトは、卓の向かい側で、その列を見ていた。
見ていた顔に、表情は、ほとんど出なかった。ただ、右の手が卓の下で、一度だけゆっくり握られるのが、左隣のメリザンドの位置からは見えた。
「これは、エルトハイム王国司書ギルド中央館に、現に保管されている、予言書の正規謄本一式でございます」
アルブレヒトが、演壇の脇から、静かに説明した。
「貴国の百年来の定めにより、奉納された予言書はすべて、正規に写本が起こされ、中央館にて保管されてまいりました。ただいま貴国の制度運用が他国の関心事となっておりますことから、ギルド理事会の正式な議決を経まして、本会議に原本と同等の証拠力を持つ写本として、これを提出いたします」
議長が、うなずいた。
「議場に、ご確認をお願いいたします」
卓のあちこちで、代表たちが身を乗り出した。随行の者が記録用紙を前に構えた。ぱらぱら、と書類のめくれる音が、しばらく続いた。
皇帝は、その間、何も付け加えなかった。
待った。
長いあいだ、長い時間をかけて、人々が、読み終えるまで。
「貴国代表」
議長が、しばらくののちに、オズヴァルトに声をかけた。
「本資料につきまして、ご意見はございますか」
オズヴァルトは、一度だけ、口を開きかけた。
何も出なかった。
もう一度、口を開いた。
「事実、関係の、確認が、必要でございます」
声は、掠れていた。
「こちらとしても、こちらのギルド理事会に、再度の確認を取りたい」
「承知いたしました」
議長は、冷静に答えた。
「会議終了後、貴国司書ギルドより、公式の回答を頂戴することといたします」
それから議長は、少しだけ声を落とした。
「ただし、資料の一部につきましては、本日、この場で読み上げさせていただきたく存じます」
議場に、ふたたび、ごく短いざわめきが走った。
議長は束の一番上から数枚を脇に寄せ、それとは別に用意してあった一枚を、演壇の中央に置いた。
「通番三十七番、奉納先、空欄」
声に出して、議長は読んだ。
「奉納年月、二年前の秋季。記載者、メリザンド・ラーゲンフェルト伯爵令嬢」
メリザンドは、自分の名がこの場で口に出されるのを、黙って聞いていた。椅子に深く座ったまま、肘掛の金の線にもう一度、指を触れた。
「内容要旨。『エックホフ男爵令嬢、将来において某国情報屋筋に取り次ぎを行い、王家の行軍予定の流出に関わる怖れあり。時期は、おおむね二年ののち』」
議長は、そこで一度、読むのをやめた。
静寂が、円卓の端から端へと広がった。
先日の宰相失脚と、エックホフ家勘当の事実は、すでに多くの国の耳に届いている。届いているからこそ、いま、この一文が読み上げられた意味を、議場の誰もが同じ速度で理解した。
理解しながら、それぞれの代表がそれぞれの書類に、小さく何かを書き込んだ。
議長は、卓の端に目を移した。
「王国代表。ご感想は、いかがでございますか」
オズヴァルトは、答えなかった。
卓の下の手が、もう一度だけ、強く握られた。
握った手が細かく震えているのは、左隣のメリザンドからも、もう、わかった。
議場の後方の扉が、ここで、静かに開いた。
入ってきたのは、王国の正式な伝令使の制服を着た男が一人と、その後ろにもう一人、痩せ形の人影だった。
痩せ形のほうが、議長の前まで進み、深く一礼した。
顔を上げたとき、議場のうちの、年配の代表の何人かが、小さく息を呑んだ。
「お久しゅうございます、皆様」
静かな、よく透る声だった。
「エルトハイム王国、第一王子、エーベルハルトでございます」
メリザンドは、息をひとつ、ゆっくり吐いた。
吐きながら、袖の奥に仕舞ってあった、古い一枚の紙のことを思い出した。あの紙は、もうこの世にない。焼かれたわけではない。役目を終えて、二年前の冬に、彼女自身が暖炉に入れた。
『第一王子殿下、二年の療養を推奨す。帰途、慎重なる選択を』
奉納先は、王太子殿下本人だった。
殿下は、それに、従った。
今日、帰ってきた。
エーベルハルトは、議長に短く一礼してから、円卓全体を見渡した。
「本日、わたくしがこの場に参りましたのは、まず、皆様にお詫びを申し上げるためでございます」
彼の声は、低いが、よく通った。
「王国は、長きにわたり、自国の予言者を軽んじてまいりました。これは、王家の不明であり、わたくし自身が王太子として、止めるべくして止めきれなかった過ちでございます。その結果、皆様の議場を、このような形でお煩わせすることとなりました。慎んで、お詫び申し上げます」
彼は深く頭を下げた。頭を下げ続ける長さが、並みの謝罪よりも、明らかに長かった。
顔を上げると、視線を弟のほうへ向けた。
「オズヴァルト」
「——兄上」
「続きは、王国に戻りまして、二人で、話そう」
それだけを、短く言った。
それだけが、十分だった。
エーベルハルトは、ふたたび議長のほうへ向き直り、告げた。
「本会議の席をお借りいたしまして、王国を代表して、三つの件につき、表明させていただきます」
議場の空気が、息を潜めるように引き締まった。
「一つ。本日の資料提出について、司書ギルド中央館保管の正規謄本であることを、王太子として、ここに公式に確認いたします」
「二つ。本資料の内容、ならびに宰相家・エックホフ家の件に関しまして、王国として責任の所在を明らかにし、しかるべき処分を進めてまいります。弟オズヴァルトにつきましても、同じく、責を問う対象といたします」
「三つ」
ここで彼は、一度、呼吸を整えた。
「王国の予言者の運用につき、司書ギルドの独立性を、改めて王家として尊重いたします。奉納先を欠いた予言書であっても、ギルドはこれを正規に扱う権限を有する。本日確認された三十七番の扱いも、その運用の範囲内であることを、王国として追認いたします」
議場のほうぼうで、代表たちがうなずいた。
うなずきのなかに、王国に対する厳しい顔つきもあった。ただ、それはすでに、怒りの顔ではなく、採点を終えた者の顔だった。
議長は、長い静寂のあと、ゆっくりと、一礼した。
「王国の、ご表明、確かに承りました」
議長は続けた。
「なお、最後に、アスカニア帝国側からも、本件に関する短いお言葉があると伺っております」
皇帝が、ふたたび席から立った。
今度は、束は持っていなかった。
立って、議場全体を、見渡した。左隣のメリザンドのほうは、見なかった。見ないことで、むしろ彼女の存在を、はっきりと示した。
「アスカニア帝国皇帝、カスパール・アスカニアとして、この場で、一つだけ、申し上げます」
彼は、低く、短く告げた。
「わが帝国は、ここにおられる、メリザンド・ラーゲンフェルト伯爵令嬢に、二度、命を救われてまいりました」
議場の空気が、静まった。
「一度目は、七年前、わたくしの即位の朝。二度目は、つい先日、この帝都議事堂の前にて。いずれも、このご令嬢の書かれた一文によるものでございます」
皇帝は、一拍、置いた。
「本日、議場の皆様の前にて、このお方へのわたくしの立場を、改めて申し上げたい」
次の一文のとき、初めて、皇帝は、メリザンドのほうへ、目を向けた。
「このお方は、わたくし個人にとって、命の恩人でございます」
「そして」
「わたくしが、生涯をかけて、お伴させていただきたいと願う、ただひとりの人でございます」
議場は、しばらく、音を立てなかった。
やがて、一人の代表が、卓の上で、両の掌を合わせた。乾いた拍手が、一度。
続いて、別の代表が、同じようにした。
拍手は、次第に広がっていった。大きくはならなかった。静かで、長い拍手だった。
メリザンドは、椅子の肘掛に、もう一度、指を触れた。
指先は、冷たくなかった。
王国の席では、オズヴァルトが、両手を卓の上に置いたまま、うつむいていた。兄エーベルハルトは、その横で、静かに弟の肩に、一度だけ、手を置いた。
肩に置かれた手を、オズヴァルトは、払わなかった。
それが、その日、彼にできた唯一のことだった。
◇
会議のあと、退席の段で、議長がメリザンドのそばを通った。
「賢女様」
低く呼びかけられて、メリザンドは振り向いた。
「本日は、お疲れさまでございました」
「いえ」
「この議場は、今後も、何度でも、あなた様をお迎えいたします」
議長は、それだけを言って、離れていった。
メリザンドは、一礼して見送った。
振り返ると、皇帝が、少し離れて立っていた。
目が、合った。
彼は、何も言わなかった。言わずに、ただ、ごく静かに、一度だけ、うなずいた。
うなずき返したあとで、メリザンドの口の端に、小さな笑みが灯った。
今度の笑みは、迷わずに、頬まで届いた。




