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だから言ったでしょう。  作者: 九葉(くずは)


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10/10

第十話 三十七通は、私への手紙でした

大陸同盟会議のあと、帝都アスカニアの街は、しばらく落ち着かなかった。


新聞は連日、王国の予言者と帝国の皇帝の話題で埋まり、記者が離れの門前に張り付くようになった。帝国の外務卿はメリザンドに、しばらく離れを離れて宮殿の奥の別邸へ移られてはどうかと勧めた。メリザンドは黙って首を振った。


「慣れておりますわ」


「慣れておいでですか」


「七年の間、別の理由で、ずっと見られておりましたから」


外務卿は、それ以上を言わなかった。


離れの窓からは、相変わらず、庭師が鉢を一つずつ手入れしていくのが見えた。彼の仕事の速度は、会議の前と後で、まったく変わらなかった。世の中の大きな出来事を、庭師はその日その日の鉢の手入れで量るらしかった、とメリザンドは思った。


王都からは、二通の手紙が届いた。


一通は、第一王子エーベルハルトの名義の、公的な書状だった。


王国としてのお詫びと、メリザンドの名誉回復を明記した布告の写しが添えてあった。布告には、ラーゲンフェルト家への賠償金の内容と、予言者奉納制度の運用を見直す委員会を新たに設けることも書かれていた。委員会の顧問席の一つには、「本人の意思次第」でメリザンドの名を置く、とも。


もう一通は、私信だった。署名は父の名だった。


『戻ってきたければ、戻っておいで。帰ってこないなら、それはそれで構わない。ただ、どちらの道を選んでも、父は、お前の選択を恥ずかしく思わない』


短い手紙だった。父はもともと、短い手紙しか書かない人だった。


メリザンドは二通を、両方とも、抽き出しの上の段にそっと置いた。


姉コンスタンツェからの手紙も、翌日には届いた。


『会議の様子は、こちらの新聞でも読んだわ。


妹、姉はね、あなたが七年のあいだひとりで堪えていたことを助けてあげられなかったのが、本当にずっと申し訳なかった。


靴のことは、許してね。五年前のあの夜、帝国から短い書簡が届いて姉は、迷ったの。あなたに話さないまま、寸法をお渡しするのは、お節介だと思った。でも、同じくらい、あの方のお気持ちは本物だと、姉には思えた。


どうか、今度こそは、自分のために選んでね。


姉より』


最後の一行だけ、インクが少しだけ濃かった。何度か書き直した跡が、紙の裏から、かすかに透けて見えた。


メリザンドは、手紙を畳んで、胸元に当てた。当ててから、目を一度、閉じた。


その晩、フロリアンが、皇帝からの短い伝言を持ってきた。


「明日の夕刻、お時間をいただけますか、とのお言葉でございます」


「場所は、どちらに」


「陛下の、私室でございます」


メリザンドは、小さくうなずいた。


「参りますわ」


翌日、陽が落ちるより少し前に、メリザンドは宮殿の奥へと案内された。


皇帝の私室は、広くなかった。想像していたよりもずっと、普通の部屋だった。暖炉の前に長椅子が一つ、窓際に机が一つ、書棚が一つ。本の並びは背の高さが揃っていなかった。皇帝の手で、日々使われている部屋だということが、そのあたりからも伝わった。


机の上に書類が少しだけ寄せられ、中央に、古い皮革の手帳が並んでいた。


七冊。


下の段の濃い革から、上の段の淡い革まで。宿場町の部屋で見せられたときと、同じ積み方だった。


そして、その横に、もう一組の束が置かれていた。


王都司書ギルド中央館保管分の、正規謄本一式。会議で使われたあと、アルブレヒトが帝国に短いあいだ預けていた束。


皇帝は、机の脇に立って、メリザンドを迎えた。


「よくいらした」


「お招きをいただき、光栄でございますわ」


皇帝は、薄く笑みを返した。それから、机の上の手帳と束を、目で指した。


「先日の会議のあと、ひとつだけ、お伝えしておきたいことがあった」


「はい」


「椅子へ、どうぞ」


机の脇に、椅子が一つ用意されていた。彼自身の椅子だろう、という気がした。メリザンドはそこに、静かに腰を下ろした。


皇帝は、自分は立ったまま、机の脇に軽く身を預けた。


「七年前の春、私はこの一冊目の手帳に、最初の一枚を綴じました」


彼は、一番下の濃い色の革の表紙に、指先を乗せた。


「薔薇園東屋へは行かれぬよう。その一文が、私の命を救いました」


「はい」


「そのときから、私はあなたの字を、集め始めました。集める、という言い方は正しくない。正規の制度に則って司書ギルドから謄本を取り寄せ続けた、というのが正確です」


「はい」


「謄本は、ギルドから私のもとへ、年に何度か届きました」


皇帝は、少し、息を吐いた。


「届くたびに、私はそれを一晩だけ机の上に置いて、それからこの手帳に綴じ直しました。綴じる前に、一晩寝かせる癖がありました。理由は、うまく言葉にできない」


「存じませんでしたわ」


「存じなくていい、とも思っていました」


彼は、一冊目の表紙を、閉じた。


「七年、続きました」


それから、謄本の束のほうに、手を移した。


「会議のあと、束を再び開いて一通ずつ、読み直しました」


「すべて、でございますか」


「すべて、です」


皇帝はここで、ごく短い間を置いた。


「読み直してみて、初めて、気がついたことがあります」


「なんでございますの」


「三十七通」


彼は、謄本の束の一番上の、薄い一枚を指した。


「これはすべて、あなたが、王国の誰かを救うために書かれたものです。一番は王太子殿下、二番は宰相府、三番は王妃殿下。奉納先は、あなた以外の誰かに宛てられている」


「そうでございますね」


「ですが」


皇帝は、手帳の一冊目の表紙をもう一度、軽く撫でた。


「七年前の春に薔薇園東屋へは行かれぬよう、と書かれた一枚。奉納先は、王太子殿下でした。この一枚が、結果として、私の命を救った」


「はい」


「二年前、奉納先の空欄になっていた一枚。あれも結果として、いまの宰相派の不正を、白日のもとに晒した。あなたはそのとき、具体的な読み手を想定せずに、書いたとおっしゃっていた」


「さようでございますわ」


「そして」


皇帝は、ゆっくりと、メリザンドのほうへ顔を向けた。


「先日、議事堂の前で、あなたが馬車を止めてくださった一通」


「あれは、奉納いたしておりませんわ」


「ええ。奉納されていない」


皇帝は、静かに言った。


「けれど、あなたはあの瞬間、私に向けてはっきりと、書き直された。『馬車を止めてください』と」


メリザンドは、返す言葉がすぐには出てこなかった。


皇帝は、手帳の束にもう一度だけ、指を触れた。


「勝手な読み方で、申し訳ない」


「いえ」


「私は、読み直して、こう思いました」


彼は、少しだけ、息を整えた。


「三十七通は、あなたが私に宛てて書いてくださったものではない。当然です。あなたは、当時の私を知らなかった」


「はい」


「ただ」


皇帝は、机から身を起こした。


「私は、長いあいだこの三十七通を、自分に宛てられた手紙のように読んで暮らしてまいりました」


メリザンドは、何も答えられなかった。


「勝手な読み方をした人間が一人、別の国に、いたということです」


メリザンドは指先を、椅子の肘掛に軽く置いた。


置いたあと、自分の手が少しだけ温かいことに、気がついた。


「陛下」


「はい」


「わたくしに、書かせていただきたい一枚が、ございますの」


「書く、と」


「三十八通目を」


皇帝の目が、ほんの少しだけ、揺れた。


「机の端の紙を、一枚、お貸しいただけますか」


彼は黙ったまま、机の端の紙入れから薄い紙を一枚取り、ペンとインクを添えて、机の上に置いた。


メリザンドは、椅子から立ち上がり、机の前に進んだ。椅子は、皇帝がもう一度、引いてくれた。


今度はまっすぐに、机に向かい合う形で座った。


ペンを取った。


インク壺に先を、一度、浸した。


紙の冒頭にメリザンドは、いつもの筆で番号を書いた。


『通番三十八番』


奉納日付の欄には、今日の日付を書いた。


奉納先の欄には、迷わずに、短く書いた。


『カスパール・アスカニア陛下』


内容要旨の欄で、彼女はほんの少しだけ、ペンを止めた。


止めてから、ごく短く、書いた。


『生涯を通じ、陛下のお伴をさせていただきたく、謹んで申し上げ候』


書き終えて、ペンを戻した。


インクの乾きを待つあいだ、メリザンドは、顔を上げなかった。紙の上の細い筆跡を、指先で一度だけ押さえた。押さえたところは、柔らかく撓んで、元に戻った。


皇帝は、机の反対側で、紙を覗き込まなかった。


見るのをこらえている、という様子だった。


「乾きましたわ」


メリザンドは、顔を上げずに、そう言った。


「どうぞ、お納めくださいませ」


紙を差し出した。


皇帝は、両手で、それを受け取った。


受け取って、しばらく、無言だった。


「ありがとう」


それだけ、低く、言った。


言ってから彼は、紙を胸の高さで持ったまま、一度、静かに頭を下げた。深かった。王族の会釈というより、一人の男の、深い一礼だった。


頭を上げたとき、目のふちが少しだけ、赤かった。


メリザンドは、何も言わなかった。


代わりに、ゆっくり、立ち上がった。


立ち上がったあと、自分から机を回って、彼のそばへ歩いた。


皇帝は、何も動かなかった。動かずに、ただメリザンドが自分のほうへ近づいてくるのを、見ていた。


机の脇で、二人の距離は会議の席の椅子と椅子のあいだよりも、ずっと近くなった。


「陛下」


「はい」


「これからはただの、メリザンドとお呼びくださいませ」


皇帝は、静かに、うなずいた。


そしてゆっくり、彼女の手を、取った。


取ったまま、何も言わなかった。


手のひらの温度だけが言葉のかわりを、長いあいだ、務めてくれた。


窓の外では夕陽が、庭の石畳を深い橙色に染めていた。


そのずっと向こう、庭のいちばん奥では、庭師が今日の最後の鉢を、まだ手入れしていた。


ずっと信じてもらえなかった予言者がようやく、自分の言葉で手紙を書き始めた話。


その最初の一枚がちょうど今、あの人の手のなかで乾き始めている。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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