第八話 七年、全部残っておりました
翌朝、メリザンドは皇帝の執務室に招かれた。
昨夜、ギルド長アルブレヒトが帝都に入ったという話を聞いたときから、なんとなく、そういう呼び出しがあるだろうとは思っていた。思ってはいたが、いざ迎えの侍女が静かに扉を叩いたとき、支度の手が少しだけ遅れた。
執務室は、前に通された暖炉の部屋とは別の、もう一段奥の部屋だった。長い机がひとつ、窓を背にして据えてある。机の上が、普段よりも片付いていた。書類がすべて脇に寄せられ、中央に、広い作業卓のような空間が取られていた。
皇帝が、机の向こうに立っていた。
机の反対側、メリザンドのほうの端に、白髪の老人が一人、腰かけていた。
「ご無沙汰しておりますのう、ラーゲンフェルト様」
老人はゆっくりと立ち上がり、ごく古風な形で頭を下げた。
祖父の葬儀の日に、棺の前で同じ深さの礼をした人だった。背はやや曲がり、肩の線は細くなっていたけれど、目の色は、あのときのままだった。
「アルブレヒト様」
メリザンドは、名を呼ぶだけで、喉が少し詰まった。
「ご壮健で、何よりでございますわ」
「お互い様でございますじゃ」
老人は低く笑った。それから、机の上の空間をゆっくり指した。
「陛下と、少し、ご覧いただきたいものがございましてな」
机の上には、書類の束が、何本かに分けて、整然と積んであった。束の上に、小さく番号が振られた紙片が載っていた。一番から始まって、三十何番まで。
メリザンドは、思わず、机の端に手をついた。
「これは」
「王都司書ギルド中央館、保管分の、正規謄本一式でございます」
アルブレヒトが、静かに答えた。
「謄本」
「さようでございます。奉納された予言書は、本来、ギルドにて写本を起こし、中央館と地方三館に分けて保管されるならわしでございます。百年前の予言破棄事件以来、この国の法に組み込まれてございます」
メリザンドは、机に手を突いたまま、しばらく動けなかった。
知らなかったわけではない。知っていた。むしろ、よく知っていたはずだった。
十五の春、初めて予言を奉納した日の、手続きの書面に目を通したとき、このならわしのことは教えられた。祖父が、葬儀の年、最後に渡してくれた覚え書きにも、制度の条文の写しが綴じてあった。
それから七年。
七年のあいだ、メリザンドの頭のなかで、予言書は「渡しては、焼かれるもの」になっていた。焼かれるものに、写本があるという事実が、少しずつ、記憶の奥に押しやられていた。奥に押しやったのは、彼女自身の諦めだった。
諦めていた分だけ、いま、制度のほうが、彼女を覚えていた。
「全部、ですの」
「全部、でございます」
アルブレヒトは、机の上の束を、一つずつ、指で示していった。
「一番は春の薔薇園。二番は秋の北辺交易路。三番は王妃殿下の御持病。四番が、水路の冬期改修。最後の一本が、三十七番でございますな」
束の最後に、もう一つ、別に置かれた薄い紙があった。ほかの束と同じ様式、同じ筆跡、同じ検印。
ただ、奉納先の欄だけが、空白になっていた。
「通番三十七番、奉納先、空欄」
アルブレヒトは、短く読み上げた。
「内容の要旨。『エックホフ男爵令嬢、将来において某国情報屋筋に取り次ぎを行い、王家の行軍予定の流出に関わる怖れあり。時期は、おおむね二年ののち』」
メリザンドは、束の縁を、そっと爪先でなぞった。
二年前の、秋の初め。机の抽き出しに入れたまま、奉納先を決めあぐねていた一通。思い出せるように、通番だけ先に打っておいた一通。ギルドの謄本制度に従い、写しだけは先に提出してあった。
提出してあったことすら、忘れていた。
「生きて、残っておりましたのね」
「はい」
アルブレヒトは深くうなずいた。
「残さぬわけには、参りませんでしょう」
メリザンドは、目を閉じた。
閉じて、すぐに、また開けた。
閉じているあいだに、何かが胸の奥でゆっくり崩れて、そのあとで、もっとゆっくり積み直されるのがわかった。崩れたのは、七年分の諦めだった。積み直されたのは、制度に対する、もう少し冷静な信頼のようなものだった。
皇帝は、黙って立っていた。
メリザンドが何か言うのを待っているようには見えなかった。言わなくてもいい、と思ってくれているように見えた。
「泣き笑い、と、申しますのかしら」
ぽつりと、メリザンドは呟いた。
「このような、中途半端な顔を、お二方にお見せしてしまっては、申し訳ございませんわ」
「中途半端でよろしいですじゃ」
アルブレヒトが、低く笑った。
「儂もこちらに参るまでに、同じような顔を、幾度もしてまいりました」
皇帝が、初めて、机の向こうから出てきた。
机の側面をまわって、メリザンドの立つ側へと歩を進めた。近づきすぎない距離で止まった。
「明日の会議の席で、使わせていただく」
「はい」
「貴国側からの異議は、必ず出る。そのとき、束ごと、卓に出す」
「はい」
「出すのは私です。発言するのは私です。あなたは、黙って、席についていてくれればいい」
メリザンドは、顔を上げた。
「席、でございますか」
「こちら」
皇帝が、手を小さく差した。
執務室の奥に、別の扉があった。その奥にもう一部屋あり、そちらで会議の席次表が広げられているのだ、と侍従が先に耳打ちした。
通されて、メリザンドは、息を止めた。
大きな円卓の図面が広げられていた。各国の代表の席次が、それぞれの国名で書き込まれている。アスカニア帝国の席は、長椅子に囲まれた、ひときわ大きな席だった。その隣に、もうひとつ、同じ高さの席が用意されていた。
席の名札が、すでに書き加えられていた。
「メリザンド・ラーゲンフェルト」
その下に、小さく、控えめな字で、こう添えられていた。
「アスカニア帝国皇帝 個人的賓客。皇帝の左隣」
メリザンドは、名札の上に、指を落とした。触れた先が、思ったより、冷たくなかった。
「左隣、は、帝国におきまして」
「皇后の席です」
皇帝は、短く言った。
「明日一日、そこに座っていただきたい。それ以上のことは、申し上げません」
「明日一日」
「今はまだ、ただの席次表です」
彼はそこで、少しだけ困ったような顔をした。
「ただ、あなたがここに座る光景を、一度、頭のなかで見ておきたかった。勝手ですが」
メリザンドは、名札のふちを、指で軽く押した。紙は、柔らかく撓んで、元に戻った。
「陛下」
「はい」
「一つ、伺ってもよろしゅうございますか」
「どうぞ」
「仮に、明日一日のみでわたくしがまた、この席を離れるときは、この名札は、どうなさいますの」
「取っておきます」
皇帝は即座に答えた。
「お捨てにはならないのですか」
「捨てる気はありません」
皇帝はそれ以上を言わなかった。言わない部分のほうが、長く残った。
机の端で、アルブレヒトが小さく咳払いした。立ち上がって、二人に背を向け、何でもない書棚の上の埃を、指の腹でこすった。埃はほとんど付いていなかった。埃を払う動作を、彼は、しばらく続けた。
◇
同じ夜、王都。
オズヴァルトは、自分の執務室で、ひとり、書類の山を前にしていた。
宰相の失脚以来、回ってくる書類の量が急に増えていた。後ろ盾を失った王子を、しかし公然と粗末にする貴族は、さすがにいない。その代わり、彼のもとには、誰にも押しつけられない種類の案件ばかりが運ばれてきた。
遅い時刻に、扉が叩かれた。
入ってきたのは、侍従長だった。老齢の痩せた男で、父王の代から仕えている。オズヴァルトの味方とも敵ともつかない、ただ、王家に仕える人だった。
「殿下、ご報告を、一件」
「遅い時刻に、悪いな」
「帝国より、大陸同盟会議の正式な議題集が届きました」
「中身は」
「明日、陛下のご覧に入れたのちに殿下にも回すことになりますが、その前に一点だけ、お耳にお入れしておきたく」
侍従長は、声を落とした。
「議題の四項、貴族家の信用問題の議論にあたり、アスカニア側より王国の予言者奉納制度の運用について、資料の提出がある由にございます」
「資料」
「王都司書ギルド中央館に保管されている、正規謄本一式、とのことでございます」
オズヴァルトは、手にしていた羽ペンを、机に置いた。
置くときに、指先が、少しだけ、ペン軸からすべった。ペンが机の上で小さく転がり、インク壺の縁で止まった。
「ギルドに、謄本が」
「百年前より、定めにございますので」
侍従長は、それだけを答え、頭を垂れた。
オズヴァルトは、答えなかった。
書斎の暖炉で、紙束を焼いた夜のことを、思い出していた。あの夜、暖炉の前にいたのは、自分一人だったはずだった。マティルダは部屋の奥の椅子に座って、ぱらぱらと別の本を捲っていただけだったはずだった。
けれど、紙束に火を入れたあと、自分は確かに、侍従長に一度、「この件は表に出すな」と命じた。命じたうえで、それ以外のことは誰にも確かめなかった。謄本の存在を確かめなかった。
確かめていれば、そのときに焼いた紙束が、どういう種類の紙束か、もう少し深く考えたかもしれなかった。
考えなかった。考える必要を感じなかった。感じなかったのは、その紙束を書いた人の字を、最初から、きちんと読んでいなかったからだ。
オズヴァルトの指先が、机の端で、軽く震えた。
震えを止めようとして、手を握った。握ったまま、しばらく動かなかった。
侍従長は、もう一度だけ、頭を下げた。
「ご就寝前に、もう一点」
「なんだ」
「ハーベル南部の街道にて、エックホフ男爵令嬢が捕縛されたとの報がございます。国境へ向かわれる途中の、小さな旅籠にて」
オズヴァルトは何も答えなかった。
「男爵家では、お嬢様の所在につき、一切の関知を否定なさっておいでです。早ければ明朝、公的な勘当の文書が回る見通しにございます」
オズヴァルトは、それでも、答えなかった。
侍従長は退出した。扉が閉まったあと、部屋にはペン軸の小さな転がりの音も、もう残らなかった。
オズヴァルトは、机に両手をついた。
額を、指先の上にそっと乗せた。
指先は、まだ、震えていた。




