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だから言ったでしょう。  作者: 九葉(くずは)


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7/10

第七話 予言を、抜きにして

宰相の件が片付いたあと、帝国の宮殿は、しばらく静かだった。


静か、というのは、表向きの話だった。大陸同盟会議は十日後に迫っていた。各国の使者が続々と帝都に入り、どこかの邸宅の灯が毎夜遅くまで消えなかった。外務卿の部屋の窓は、ほとんど夜通し明かりが灯っていた。


メリザンドの暮らす離れだけが、ひとり落ち着いていた。


警備は増えたが、侍女の入れ替わりは少なかった。朝夕の茶の時間は変わらなかった。庭師は今日も別の鉢の手入れをしていた。昨日は奥の石畳を一段磨き、今日はその隣を磨いていた。順に磨いていけば、いずれ庭全体が終わる、という種類の仕事ぶりだった。


メリザンドはその庭をしばらく眺めてから、部屋に戻って、新聞を開いた。


昨夕の、帝国の夕刊だった。


記事の真ん中より少し下のところに、短い論説が載っていた。署名は、有名なコラムニストのものだった。


『エルトハイム王国は、自国の予言者を失った。王国は、これを「過去に籍のあった伯爵令嬢の話」として片付けようとしているが、他国から見ればそうはいかない。彼女の一文に救われた国は、この大陸に少なくとも一つある。その国は、いま、彼女を賓客として迎えている。王国の外務は、この一事をもって、信用を一段落とした』


そのあとに、こう続いていた。


『王国の予言者について、各国の記者のあいだで呼び方の揺れがあったが、最近は「賢女」と呼ぶ者が増えてきた。適切な呼び名かどうかは、時間が決めることであろう』


メリザンドは新聞をたたんだ。


自分の名が出る記事を、静かに読める日が来るとは、七年前には思っていなかった。


「お気に召しませんでしたか」


茶器を片付けに来たフロリアンが尋ねた。


「いえ」


「お顔が、いつもと違うようでしたので」


「そう見えまして?」


「控えめに、申し上げれば」


メリザンドは小さく笑った。


「賢女、と呼ばれるのに、少しくすぐったいだけですわ。まだ、自分の名のほうがわたくしには馴染みがあるものですから」


フロリアンは深くうなずいた。余計なことは言わなかった。


夕方、皇帝から、小さな招きがあった。


離れの庭の端に、この夏は使われていなかった古い東屋があった。屋根の蔓を払わせて、ついでに床の板も直させてある、とフロリアンが言った。今夜はそこで、ごく内輪の晩餐を。


「晩餐、と申されましても、小ぶりで」


「どの程度のご用意を」


「陛下と、ラーゲンフェルト嬢と、私一人のみでございます」


「まあ」


「陛下が、できれば他の者なしで、と仰せでございました。ご無理でしたら、他の侍女も控えさせます」


メリザンドは首を振った。


「けっこうですわ」


東屋には、小さな卓が一つと、燭台が二つ用意してあった。夏の夕暮れはまだ明るく、燭の火は景を飾るほどの役しか持たなかった。風がときおり、庭木の葉を揺らした。葉擦れの音は、人の声を掻き消さない程度の、穏やかな大きさだった。


皇帝は、先に座っていた。


「お招きをいただき、光栄でございますわ」


「そちらへ、どうぞ」


皇帝は自分の向かいの椅子に手を差した。


メリザンドが座ると、フロリアンが音も立てずに皿を運んできた。軽いスープと、冷たい白い魚、それに薄く切った果物の盛り合わせ。帝国の公式晩餐より、ずっと簡素な献立だった。


「今日の新聞をお読みになりましたか」


「拝見しましたわ」


「賢女、という呼び方は新聞社が勝手に決めたものですが、帝国の使者たちのあいだでも、いつの間にか使われるようになりました」


「そう」


「君がこの国に来てから、まだ、そう多くの日は経っていない」


「さようでございますね」


「その短いあいだで、君の名が、他国に広まりました。広げたのはあなた自身です。私ではない」


メリザンドは、スープの器にそえた指先を、少しだけ強く握った。


皇帝はそれに気づいた顔をせず、続けた。


「会議の席で、君の名は、何度も挙がるはずです。その席で君のことを、帝国の賓客として、また命の恩人として、私からきちんと紹介します」


「はい」


「そのうえで、一つ、お伝えしておきたいことがあった」


スープが少しだけ冷めかけたころだった。


皇帝は器を脇に寄せ、卓の上で、手をそっと組んだ。組んだ手の甲に、細い古傷があった。少年のころの傷だろう、とメリザンドは思った。


「予言者としての君に、私は、長いあいだ、敬意を払ってきました」


「はい」


「これからも、それは変わりません」


「はい」


「だが、今日以降は、予言を抜きにして、君を選びたい」


彼はそこで一度、口を閉じた。


それから、卓の上の手を、ほんの少しだけ、こちらのほうへ進めた。取ろうとしたわけではなかった。取れる距離に置いた、というほうが近かった。


「予言が一枚もなかったとしても、私は、今日、同じことを言います」


「陛下」


「君に、会えてよかった」


メリザンドの視界の縁が、ゆっくりと、にじみはじめた。


涙は、出ないはずだった。七年前、十五の春に、もう使い切ったつもりでいたのだから。


ところが出た。


一粒。それから、もう一粒。


止めようとすると、止まらなかった。止めなくてもいい気がして、ひとまず手を卓の下に下ろした。


皇帝は、立ち上がらなかった。席を離れて抱きしめることもしなかった。


彼は卓の上に置いた手をそのままにして、じっと、こちらを見ていた。


見ながら、ごく静かに言った。


「ゆっくり、泣いてよろしい」


それだけだった。


それだけが、ちょうどよかった。


ゆっくり、とは、どのくらいの時間を指すのかわからなかったが、メリザンドはフロリアンが静かに下がる足音を聞いた。東屋の外で、足音は一つだけ止まった。守ってくれているのだろう、と思った。


そのあいだずっと、皇帝は、卓の上の手を動かさなかった。


涙が、二筋、三筋と続いたあと、ようやく細くなっていった。メリザンドは小さく息を吐き、手巾で頬を拭った。手巾が湿った。手巾はきれいに折り畳まれたものだった。新品の匂いがした。


「みっともないところを」


「いや」


「陛下、申し訳ございません」


「私は」


皇帝は一度、言葉を飲んだ。


「あなたが、ここでようやく泣けたことが、嬉しい」


メリザンドは、手巾をもう一度、畳み直した。畳む手元をしばらく見ていた。


「予言を抜きにして、でございますね」


「はい」


「わたくしも、お返しを申し上げなくてはなりませんわ」


「お返し?」


「陛下のお言葉への、お返しでございます」


メリザンドは顔を上げた。


目のふちは、まだ赤かった。けれど、声は、もう震えていなかった。


「今すぐには、決められませんの」


「はい」


「七年無視され続けたわたくしが、三日や四日で信じる、などと申し上げるのは、陛下に対して失礼な気がいたしますの」


「そうですね」


「もう少し、お時間を、いただいても、よろしゅうございましょうか」


「もちろん」


皇帝は、静かに答えた。


それから、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。抜いたあとに、ようやく、小さな笑みを浮かべた。困ったような、不器用な笑みだった。


「七年、待てたのです。これから先は、いくらでも」


「まあ」


メリザンドは、ひと呼吸だけ置いて、そう言った。


それから、小さく笑った。


今度の笑みは、頬にまで届いた。


その夜遅く、離れに戻ってから、フロリアンが扉の前で、控えめに声をかけてきた。


「恐れ入ります、ラーゲンフェルト様」


「はい」


「本日、王都より、司書ギルド長アルブレヒト殿が、帝都にお着きになりました」


メリザンドは、手紙をたたんでいた手を止めた。


「ギルド長が、じきじきに?」


「はい。裏の街道を、供回りを減らしてお越しになられたとのことでございます。帝都では、明朝より、陛下とご面会の由にございます」


「どういった、ご用件で?」


フロリアンは少し声を落とした。


「そこまでは、わたくしも、まだ。ただ、ギルド長殿は帝都へお着きになるなり陛下に直接、『陛下のお耳にのみお入れしたきことあり』とお申し出でございました」


「そう」


メリザンドは手紙を抽き出しの奥にしまった。


窓の外では、夜の風が、庭木の葉を少しだけ揺らしていた。


司書ギルド長の名を聞くのは、七年ぶりだった。


祖父の古い友人で、祖父の葬儀の時に最後にお会いして以来の名前だった。


あの方が、帝都にまで、ご自身で?


思い当たるふしが、一つだけあった。


あの方が守り続けているものは、この国の予言者の字である、ということ。


その字は、王都で一度、炎にくべられたという噂がある、ということ。


けれど、司書ギルドには、制度がある、ということ。


メリザンドはしばらく立ち尽くしてから、ゆっくりと腰を下ろした。


胸の奥で、長いあいだ閉じてあった抽き出しが一つ、音もなく開くのがわかった。

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