第五話 予言ではなく、あなたを
カスパールは、即位の日の朝の光を、あまりよく覚えていなかった。
覚えているのは、光よりも、机の上に置かれた一枚の薄い紙のほうだった。
前夜、侍従長が顔色を変えて持ってきた司書ギルドの写本だった。遠い国の、見知らぬ娘が、春の一日に書いたと記された、短い警告。薔薇園東屋へは行かれぬよう。ただ、それだけの一文だった。
即位式の段取りには、薔薇園の東屋で臣下から剣を受ける場面があった。前皇帝の代からの慣例だった。カスパールは侍従長に短く告げた。中庭の奥の礼拝堂で執り行う。人員の配置をやり直せ。理由は問うな。
式は滞りなく済んだ。
あとになって、薔薇園の東屋の脇の壁の裏に、弓を構えた者の痕跡が残っていたと報告が上がった。矢は、使われなかった。使われないまま、こちらの手に回収された。
ひとりの娘の一行のおかげで、命が残った。
名前を調べさせた。知らせを送ろうとした。十五歳になったばかりの隣国の伯爵令嬢だった。王国では予言者として公的に扱われていると聞き、手を止めた。名を挙げれば、その国で、この娘に余計な重みがかかる気がした。
かわりに、彼女の字を集めさせた。司書ギルドには写本制度があった。制度に従って、正規の手続きで謄本を取り寄せた。一枚目は箱に入れた。箱は机の抽き出しに入れた。二枚目、三枚目と増えるうちに、箱が手帳になり、手帳が冊になり、冊が積み重なった。
七年の間、そのあいだずっと、王国の議事を横目で眺めていた。娘の予言は、たびたび無視されていた。無視されるたびに、カスパールは机の上の手帳の背表紙を見た。
ある夜、不意に思った。
いま、彼女に何もしていない自分は、結局のところ、無視する側とそう変わらないのではないか、と。
その夜から、彼は靴職人を呼んだ。
彼女がいつかこの国の床を歩く日のために、寸法だけでも揃えておきたかった。寸法を知るのは、難しい仕事ではなかった。娘の姉にあたる人が、遠い国へ嫁いでいた。便りを一度送って、事情のかけらだけを伝えた。返書には、ごく簡潔に、こう書かれていた。
『わかりました。妹は強い子ですから、助けようなどとお考えにならないように。けれど、いつか妹が歩く床があるなら、その床の硬さくらいは、ご存じでいてほしく存じます』
以来、五年。
カスパールは、手帳と靴とをそれぞれの抽き出しにしまい続けた。
扉の音で顔を上げた。
フロリアンが入ってきた。一礼のあと、低い声で切り出した。
「離れの朝食の席に、先ほど、部屋履きの靴をお運びいたしました」
「反応は」
「ご自分で、お履きになられたご様子でございます」
カスパールは息をひとつ吐いた。長い息だった。
「陛下」
「なんだ」
「ラーゲンフェルト嬢は、おそらく、靴の件について、ほどなくお気づきになります」
「だろうな」
「お気づきになったあと、お気持ちが、どちらに傾かれるか」
カスパールは机の抽き出しを、ほんのわずかだけ開けて、閉めた。
「そのときは、そのとき、だ」
◇
宮殿の離れの朝食の席で、メリザンドは二杯目の茶を淹れ直してもらった。
昨日の靴の話のあと、眠りが少し浅かった。
離れの庭に面した窓の外では、庭師がバラの枝を剪定していた。夏の半ばに、この国ではバラの枝を切ると来年のために良い、のだそうだった。王国では誰もそんな時期にバラを触らなかった。国が違うというのは、こういう小さな習慣の積み重ねのことらしかった。
フロリアンが新聞の夕刊と、昼の便で届いた手紙の束とを持ってきた。
「お手紙の一通目は、コンスタンツェ様からでございます」
姉の字だった。
『帝都に着いたのね。靴の件、察したでしょう。怒らないでね。
姉はあのとき、あなたがどうしても信じてもらえていない国から、いつか誰かが、ちゃんと迎えに来てくれる日があったらいいと、それだけを願って返事を書きました。姉のしたことは、お節介の部類ですから、どうか恨まないで。
何かあったら、いつでもいらっしゃい。部屋は空けてあります』
メリザンドはしばらく字を見つめ、それから折りたたんで、胸元にしまった。
「新聞をいただけるかしら」
「はい」
朝刊だった。
帝国の新聞は、各国の通商会議のことを一面で扱っていた。沿岸の諸国の代表が集まり、穀物の輸出量や関税のことを話し合う、季節ごとの会合だった。
その記事のなかに、短い一段落があった。
『議事の席上、エルトハイム王国代表に対し、複数国より、同国が自国の予言者を軽んじてきた件についての質問が寄せられた。王国代表は、明確な回答を示さないまま退席した』
メリザンドは、ゆっくりと新聞をたたんだ。
フロリアンは黙って茶器を片付けた。
「お耳に入れる必要のある話が、もう一つございます」
「はい」
「王国の南部、メッセルブルンの穀倉地で、先日、大規模な水害がございました」
「メッセルブルン」
その地名を、メリザンドは覚えていた。覚えているどころか、その地名をインクで書いたのは、自分自身だった。
通番三十四番。メッセルブルン用水路の堤、夏の長雨に持ちこたえられぬ恐れあり。奉納先は宰相府だった。
奉納したのは、半年前の冬の終わりだった。
「被害は、ひどく?」
「幸い、死者は出なかった由にございます。ただ、夏の収穫の相当部分が駄目になりました。秋以降、王都の穀物価格が上がるかと存じます」
「そう」
それ以上、言葉は出なかった。
怒りではなかった。悲しみとも、少し違った。ただ、書いたものが書いたまま起こるのを見る者の、慣れきった疲れのようなものだった。
その日の夕方、皇帝に呼ばれた。
通されたのは庭だった。別館の脇にある、こじんまりとした庭園。薔薇の鉢がいくつか、長椅子のそばに並べてあった。枝の切り口がまだ新しい。昼間に剪定が済んだ鉢だった。
皇帝は、長椅子の端に立っていた。
「座っていいか」
「もちろんでございますわ」
彼は長椅子の端に腰を下ろした。メリザンドはもう一方の端に座った。薔薇の鉢を挟むかたちで、二人の距離は、夕方の影よりも少しだけ、近かった。
「水害の知らせは、聞いた?」
「はい」
「予言書を、出していたんだな」
「半年前に」
「そうか」
皇帝は、膝の上で手を組んだ。節の目立つ手だった。指の関節にペンだこがあった。皇帝でありながら、日々、自分の手で書いている人の手だった。
「責めないでほしい、と頼んで、いいですか」
「何を、でございますか」
「君の、書いたものを、こちらの国が守れなかったこと」
メリザンドは首を小さく振った。
「それは、こちらの王国が守るべき事柄でございましたわ。陛下の管轄ではございません」
「そうだが」
彼はそこで言葉を切った。
庭の奥のほうで、庭師が道具を片付ける音がしていた。遠い音だった。
「一つ、お伝えしておきたいことがあった」
「はい」
「私は、これまで、君を予言者として敬ってきました。その事実は、今後も変わりません」
「はい」
「だが、今日以降は、予言者であることと別のところで、君自身を、知りたい」
メリザンドは、顔を上げなかった。
上げれば、彼の表情がよく見えすぎてしまうと思った。
「それは、どういう意味、でございますの」
「言葉どおりの意味です」
「予言を抜きにして、わたくしを、でございますか」
「そうです」
彼は、そこで初めて、困ったように笑った。笑うのが、あまり上手な人ではなかった。
「うまく言えない。私は、ものを言うのが、あまり得意ではないので」
「存じてございますわ」
メリザンドは小さく答えた。
それから、少しだけ、笑いたくなった。笑いは、控えめに、口の端にだけ出した。
皇帝は、それを見て、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
庭の風が、薔薇の枝を軽く揺らした。
離れに戻ったあと、居間の卓の上に、一通の封書が置かれていた。
大陸同盟会議の、召喚状だった。
出席者の欄に、アスカニア帝国皇帝カスパール・アスカニアの名。
その下に、手書きで、もう一名が書き加えられていた。
メリザンド・ラーゲンフェルト、と。
帝国側の賓客席、の欄に。
メリザンドはその一行を、しばらく見つめていた。
夕陽が、離れの壁を、深い橙に染めていた。




