第四話 靴職人、五年前から
朝食の席に、わたくしの足に合う靴があった。
宿場町を発ったのは、朝まだ暗いうちだった。街道は帝国領に入るとすぐに舗装の質が変わった。王国のそれよりも固く、馬車の振動が明らかに減った。国の差というより、手入れの差だった。
途中の小さな村で、馬を一度だけ休ませた。フロリアンが井戸の水で手を洗い、戻ってきて、短く「もう少しでございます」と言った。彼はよく、短く言う。メリザンドはその短さに、だんだん慣れてきた。
帝都に入ったのは、翌日の昼前だった。
宮殿は遠くから見ると、背の高い二本の尖塔しかわからなかった。近づくにつれて城壁が現れ、さらに近づくと、灰色の石が空の色を鈍く吸っているのが見えた。王都の白い宮殿とは違う種類の威厳だった。帝国は若い国ではあるが、この宮殿は古い。王朝よりも古い建物らしい、と馬車のなかでフロリアンが教えてくれた。
表玄関ではなく、宮殿の東側の別館に馬車は着けた。こじんまりした離れだった。皇帝の個人的な客人として、ということらしかった。案内をしてくれた侍女は穏やかで、余計な話をしない人だった。
通された部屋は二間続きだった。居間と寝室。寝室の窓からは庭の一角が見えた。居間の窓際に朝食の席が整えられていた。
そして翌朝、その席の横の小さな踏み台に、部屋履きの靴が揃えてあった。
薄い革の、柔らかい靴。色は淡い灰色だった。
メリザンドは足を入れた。
合った。
宿場町の部屋で一度、同じ経験をしていたはずだった。けれど二度目のほうが、胸の奥に、波のようなものが立った。
朝食のあと、フロリアンが茶を淹れに来た。
「靴職人に、いつご連絡なさっていたのかしら」
メリザンドは軽い調子で聞いた。悪気のない問いのつもりだった。
フロリアンはポットを置きかけて、止まった。止まったまま、少しだけ困った顔をした。
「陛下のお言葉では、ございますが」
「はい」
「だいぶ、前からで」
「だいぶ、とは」
フロリアンは短く迷った。
「五年ほど前からでございます」
メリザンドは茶碗に伸ばしかけた指を止めた。
「五年」
「陛下がある夜、靴職人をお呼びになりました。君の寸法を頼む、と」
「わたくしの、寸法」
「さようでございます」
「どうやって、寸法を」
「わたくしの存じ上げる限りでは、ラーゲンフェルト家の古い侍女頭にご協力を仰がれたとのことでございます。お姉様のコンスタンツェ様のお口添えがあったと伺っておりますが、この先はお姉様に直接お確かめになるほうが確かでございましょう」
メリザンドは茶碗を持ったまま、しばらく黙った。
姉の、口添え。
思い当たるふしがないわけではなかった。三年前、姉が嫁ぐ前の冬に、突然「靴を新しく仕立てなさい」と言い出したことがあった。仕立て上がった靴は少し凝った作りで、仕立屋が「同じ型紙を二組とりましたが、珍しいご注文で」と不思議そうに漏らしていた。
姉は、ずっと知っていたのかもしれない。
「ご不快でございましたら」
「いいえ」
メリザンドは茶をひとくち飲んだ。
「不快ではございませんわ。ただ、長い時間ですわね」
「さようでございます」
フロリアンは、それだけ短く答えた。
茶の温度が、今日もちょうどよかった。誰かが湯の頃合いをきちんと計っていた。
昼過ぎ、扉が叩かれた。
フロリアンだった。いつもより、顔の表情が少なかった。
「陛下がお呼びでございます」
「何かございましたの」
「王国より、書状が届きました。陛下がご自分で処分なさるとのことでございます」
メリザンドはゆっくりと立ち上がった。
通されたのは、宮殿の奥の一室だった。小さな暖炉があり、火が細く焚いてあった。夏の盛りに火を入れるのは不思議だったが、この城は壁が厚く、奥の部屋は常に肌寒いのだという。
皇帝は暖炉の前に立っていた。
手に、王国の紋章の封蝋を押された、一通の書状があった。
「ご覧いただく前に、処分させていただきたい」
彼はメリザンドを振り返って言った。
「お読みいただく必要は、ないと思った」
「内容は、なんと」
「引き渡し要求です」
フロリアンが皇帝の代わりに答えた。
「貴国の予言者を王国臣民として返還せよ、と。丁重に遇する用意がある、と。後段に、当人が拒否した場合でも強制的に返還を求める旨が、言葉を選びながらも確かに記されておりました」
メリザンドは息を一度、整えた。
長いあいだ、王国は自分を見ていなかった。いまさら何を返せと言うのだろう。返すほどのものは、こちらには、もう、あまり残っていなかった。
「お焚きになって、差し支えございませんわ」
「同意を求めたわけではない」
皇帝は短く言った。
「こちらの判断で処分する。以上」
メリザンドは一礼した。
皇帝は書面を、封蝋ごと暖炉の火にくべた。
蝋がじゅっと音を立てて溶けた。紙はすぐに縮みはじめた。皇帝はしばらく火を見ていた。
「君を王国に返す気はない」
顔を上げず、低い声で言った。
「近いうちに返書を送る。『皇帝の個人的な客人である』とだけ、記す」
メリザンドはもう一度、一礼した。
返す言葉が、すぐには出てこなかった。
火は紙を食べ終えて、縮んだ。炭の上に、読めない細い灰の線が残った。
暖炉の部屋から離れに戻ったあと、フロリアンが居間の扉を閉めながら、低く言った。
「もうひとつ、お耳に入れておきたきことが」
「なんでしょう」
「王都で、エックホフ男爵令嬢が、妙な動きをなさっているそうでございます」
「妙な、とは」
「海沿いのさる国の情報屋筋と、ひそかに接触なさっているとの報告が入っております。名は、まだ伏せさせていただきますが、帝国にとっても貴国にとっても、友好的とは言いかねる筋の国でございます」
メリザンドはゆっくりとうなずいた。
「何の取引をなさっているのか、おわかりになる?」
「そこまでは、まだ」
「そう」
メリザンドは窓の外を見た。宮殿の庭の奥のほうに、低い瓦屋根の建物があった。古い図書館のようだった。
司書ギルドの謄本は、確か、王都の中央館と地方の三つの館に分けて保管されているはずだった。中央館の館長は、祖父と親しかった老齢の方。お顔だけなら、覚えている。
そこまで考えて、メリザンドは小さく首を振った。
焦る必要はない。王国が自分を虚言癖と呼んだ日から、まだ、そう多くの日は経っていなかった。
その夜、メリザンドは姉の手紙をもう一度、抽き出しから取り出した。
『帰ってきたと聞いた。話は通しておく。何があっても、来てね』
三年前、姉が嫁ぐ前の冬の、妙な型紙の靴。
姉の嫁ぎ先は、大陸の向こうの、海沿いの国。
そして、帝国の皇帝が長い時間、誰かに見つからないように靴職人を呼び続けていたこと。
この三つを、見えない糸で繋いだのが、いつ、誰なのか。それを考えるのは今夜ではなかった。
メリザンドは手紙をたたんで、もとの抽き出しの奥に戻した。
眠る前にもう一度だけ、部屋履きの靴を見た。
合っている靴は、やはり、合いすぎていた。
窓の外で、夜鳥が短く、一度だけ鳴いた。




