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だから言ったでしょう。  作者: 九葉(くずは)


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3/10

第三話 手帳は七冊ありました

皇帝はわたくしの字を暗記していた。


国境の宿場町に着いたのは、夕方の手前だった。


王都を出るまでに、父の謹慎解除の報が二度届いた。一度目は宮廷からの形ばかりの詫び状だった。二度目は伯爵邸に戻った父自身の、疲れた顔だった。


「ひとまず、行ってきなさい」


父はそれだけ言った。娘の旅の目的をどこまで察したのかはわからない。察しているなら何も聞かない種類の父だった。メリザンドはありがたく、その無言に甘えて出発した。


宿場町はエルトハイム王国側の、最後の街だった。石畳の舗装が街外れで唐突に途絶え、そこから先はなだらかな野原が続いた。境目には簡素な検問所がひとつあるだけで、柵も壁もなかった。両国のあいだに戦がない証でもあった。


宿は三階建の地味な石造りだった。看板の青い塗料が剥げかけていた。帝国の皇帝がこんな場所にいるとは、街の誰も思わないだろう、と思った。そのつもりで選ばれた宿なのだろう、とも思った。


馬車寄せにフロリアンが立っていた。


「ご到着、お疲れさまでございました」


「こちらこそ、お待たせしてしまいましたかしら」


「いえ。陛下は、お部屋でお待ちでございます」


フロリアンは最後のところで少しだけ、言葉を濁した。濁した部分にどれほどの時間が挟まっているのか、メリザンドは聞かなかった。聞いてしまえば、踏み出した一歩が、一歩で済まない気がした。


通されたのは二階の奥だった。廊下の板がやや軋んだ。古い宿だった。


扉の前でフロリアンが短く声をかけた。なかから低い応えがあった。


扉が開いた。


窓際の机に、薄い皮革の手帳が積まれていた。古い順に積まれていた。下のほうほど革の色が濃く、上にいくほど淡かった。背表紙の栞が、少しずつ、色を違えていた。


メリザンドはそれを一目見て、あとは入り口から動けなかった。


「ようこそ」


その声のほうに顔を向けた。


紺の上着をきちんと着た男が、机のそばに立っていた。年齢は思っていたより若かった。そして、疲れていた。顔色は悪くないが、眠りがやや足りないだろう、と思った。帝国の内政が忙しい時期にあると、王都の新聞で読んだばかりだった。


「カスパール・アスカニアです」


はっきりとした発音だった。


「メリザンド・ラーゲンフェルトでございます。お目にかかれて光栄でございますわ」


「よく、来てくれた」


彼はわずかに頭を下げた。王族の会釈としては、やや深かった。


メリザンドはドレスの裾を軽く持ち上げ、きちんと深く返礼した。


「手帳を、拝見してもよろしゅうございますか」


「どうぞ」


彼は机のそばの椅子を引いた。自分の席ではなく、こちらのための席だった。


一冊目を開いた。


最初の頁に、十五歳の春の一行が、薄い筆記体で記されていた。日付と、小さな署名。その次の頁に秋の一通。その次に冬の一通。


頁をめくるたびに紙の匂いが少しずつ違った。最初のほうは乾いていた。あとのほうは革の匂いを吸っていた。長いあいだ、同じ場所に置かれてきた紙だった。


五冊目の途中までめくって、メリザンドは手を止めた。


「全部、暗記なさっているの」


「すべては覚えていない」


彼は素直に言った。


「だが、このあたりは覚えている」


彼は指先を、四冊目の中ほどに置いた。十七歳の冬、帝国北方の凍結に関する一通だった。


「この年、君の警告に従って交易路を二週間早く閉じた。国境の村がいくつか助かった」


「存じませんでしたわ」


「こちらから伝えなかった。伝えれば、あなたに障りが出ると思った」


彼はそこで言葉を切った。ほんの少しだけ、困ったような表情をした。


「結果として、君には、長く無視され続けるだけの国に見えていただろう」


「いえ」


メリザンドは答えた。


「無視をしておりましたのは、こちらの国ですわ」


彼は何も言わず、机の端の銀の筆立てを、指先でほんの少しだけ動かした。筆立ては元の位置に戻った。無意味な動作だった。人間くさい動作だった。


「お召し替えは、もう済まされましたか」


「まだでございます」


「隣の部屋に、用意がある。フロリアンに言えば届く」


「ご配慮、痛み入りますわ」


メリザンドは頭を下げ、隣の部屋に通された。


衣装簞笥のそばに、部屋着用の靴が揃えてあった。試しに足を入れてみた。


合った。


ぴったりだった。少し、ぞっとするほど合っていた。


不思議に思うよりも先に、メリザンドは笑いたくなった。七年無視されていたと思っていた側から見れば、相手は情報部で靴のサイズまで取っていたことになる。皇家のやり方だろう、と一度は自分に言い聞かせた。言い聞かせるには、まだ、少しだけ言葉が足りなかった。


夕刻、フロリアンが茶を運んできた。


「昼過ぎに、通商会議の議事録が届きました」


「通商会議、でございますか」


「帝国と沿岸の国々との、年次の会議でございます。今回、エルトハイム王国のお使者もご出席でした」


「噂は伺ってございますわ」


「議長席が、冒頭の挨拶で、陛下に感謝を申し上げました。アスカニアが、過去数度、予言の恩恵を受けて災いを避けてきた旨を。その後、他国の代表より、エルトハイム王国が自国の予言者を軽んじてきた件について、直接の問いがかかったそうでございます」


メリザンドは茶をひとくち啜った。温度が手にちょうどよかった。湯を淹れる頃合いを、誰かが計っていた。


「王国のお使者は、お答えになれましたの」


「お答えにならなかったそうでございます」


フロリアンは静かに頭を垂れた。


「議事録は各国の宮廷に回されます。早ければ明日、遅くとも十日のうちには、王都にも届くかと」


「そう」


メリザンドは窓の外を見た。国境の宿場町は日没が早い。山の向こうへ陽が沈むのが、王都よりも早かった。遠くの家々の煙突から、夕餉の煙が細く上がっていた。どこかで犬が一度だけ吠えた。


部屋の扉が軽く叩かれた。


「入って、よろしいか」


声だけで、皇帝だとわかった。


「どうぞ」


扉が開いて、皇帝が入ってきた。


片手に、一冊の手帳を持っていた。最初の一冊だった。


「名乗り忘れた、わけではないのだが」


彼は机のそばに立ったまま、言った。


「先ほど、お伝えしておくべき言葉が、ひとつあった」


メリザンドは姿勢を正した。


皇帝は一冊目の手帳を、胸のあたりで軽く握った。


「あなたは、私の命の恩人です」


短い文だった。


言い終えて、彼はゆっくりと息を吐いた。長く吐いた。長く抱えていたものを、一度だけ、外の空気に触れさせたような、そういう吐き方だった。


「初めて、直接申し上げた」


それだけ言って、彼は一礼して、部屋を下がった。


扉が閉まる音は、静かだった。


メリザンドはしばらく、窓際から動けなかった。


茶は、まだ温かかった。

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