第二話 七年前の、一枚
予言者は長いあいだ、誰にも信じてもらえなかった。
帰り道の馬車のなかで、メリザンドはぼんやりとそう思った。
信じてもらう必要がなくなったころに、ようやく信じてもらえる日が来るものらしい。そういうふうにできている、と納得してしまえば、そう悪い話でもない。
窓の外は、もう夕方の光になりつつあった。王都の北門を出る前から、街の空気は昨日までと違っていた。
「嬢様、聞こえますか」
御者台の老僕フーゴが、窓越しに低く囁いた。
大時計が止まったらしい。本当らしい。財宝庫から煙が出たらしい。誰かが戸締まりを怠っただけだという者もあれば、湿気のせいだという者もあった。どの噂も、半分ずつしか当たっていなかった。
馬車の車輪がひとつ軋んだ。フーゴは、古い馬の歩幅を気遣って速度を落とした。この馬もフーゴも、メリザンドが物心ついたころから屋敷にいる。馬のほうが先に老いた。
膝の上には、議場を出てすぐに黒いローブの男から受け取った書面があった。封蝋には翼を広げた大鷲。アスカニア帝国の、皇家の紋章だった。
男は短く言った。
主はあなた様を七年お待ちでございます、と。
その声がまだ耳の奥に残っていた。
馬車のなかで封を切るべきではない、と直感が告げていた。乱れた路面で読めば、大事なものを取り落とすような気がした。メリザンドは書面を膝から胸元にしまった。
屋敷の車寄せに馬車が止まる頃には、陽がほとんど沈んでいた。
石段の上に、母ヒルデガルトが青い顔をして立っていた。
「ただいま帰りましたわ、お母様」
「メリザンド」
母は娘の顔を見て何か言いかけ、やめた。言葉を選ぶことに慣れていない人だった。
「お父様は」
「登城されたまま。あちらで足止めをくらっているらしいわ」
「謹慎、というほどのことでもなさそうですわね」
「わからないの。宮廷が、いま、何と言っているのか、まだ誰にも」
そこで母は黙った。玄関広間の花台に、見慣れない封書が置いてあった。
「お姉様から?」
「ついさっき、国境経由の早馬で。あなたの顔を見てから渡そうと思って」
コンスタンツェは三年前に大陸の向こうへ嫁いだ。毎月きまって二通の手紙を寄越す姉が、今月はこれで三通目だった。蜜蝋の封が端で歪んでいた。急いで押したらしい。
『帰ってきたと聞いた。話は通しておく。何があっても、来てね』
短い一行だった。続きはなかった。
「話を通すって、何のこと」
母が声を潜めた。メリザンドは手紙を二つに折って、胸元にもう一枚、しまった。
「わたくしの逃げ道を作ってくださっていますの」
「逃げ道」
「お姉様にはいつも、ご迷惑をおかけしますわね」
メリザンドは笑ってみせた。笑ってみせることは得意だった。七年のあいだに、笑い方の型は幾通りか身についた。母はその笑顔に慣れていて、慣れているからこそ、今日の笑顔の隅で何かが違うことに、すぐには気づかなかった。
その夜、メリザンドは自室で、帝国の書面を開いた。
書かれていたのは、ごく短い一文だった。
「直接お話ししたき用件あり。明朝、しかるべき者がそちらへ伺う」
署名はなかった。封蝋が署名の代わりだった。
メリザンドはそれを読み終えて、蝋燭の火を吹き消した。
眠れないだろうと思ったが、案外すぐに眠りが来た。胸元に仕舞った紙の束の重みが、ちょうど子供のころ毛布の上に乗せて寝た猫くらいの重さだった。
翌朝、二つのものが届いた。
一つは王宮の噂だった。
夜更けに王妃ヴィルヘルミーネが殿下を私室にお呼びになった。扉のうちから、殿下の声が二度だけ聞こえたという。一度目は「母上」。二度目は「聞いていない」。それきり声は絶え、廊下に出てきた殿下の顔色は蒼い紙のようだったと、配膳の侍女が同僚に漏らした。その話が侍女の妹に伝わり、妹はラーゲンフェルト邸の通用口にパンを配達に来たついでに、執事の耳にも入れた。
こういう経路で届く話は、王室の公式発表よりたいてい早く、だいたいにおいて正確だった。
もう一つは、来客だった。
「嬢様、お客様でございます」
白髪の老執事ゲオルクが、珍しく緊張した声で取り次いだ。
「どなた」
「お国の御使いではございません。よその、でございます」
その一言で、メリザンドは昨夜の封書を思い出した。
応接の間に、三人の男が立っていた。
筆頭の男は、昨日の黒ローブの人だった。今日はローブを脱ぎ、落ち着いた旅装に身を包んでいる。年齢は、思っていたより若かった。三十手前くらいだろうか。茶色の短い髪、左耳の裏に小さな傷痕。身分の人だとわかる着付けだった。
彼は深く一礼した。
「はじめまして、ラーゲンフェルト嬢。アスカニア帝国皇帝陛下、カスパール・アスカニア様に仕える近侍、フロリアン・アインフォーゲルと申します」
「ご丁寧に」
メリザンドは片手を腹に当てて会釈した。
「昨日は、わたくしが議場を出るまで、扉の外にお立ちでしたの」
「扉が開く気配があった時から、でございます」
「それは、長いあいだお立たせしてしまいましたわね」
「いえ」
フロリアンはためらいなく言った。
「陛下が、七年お立ちでしたので」
メリザンドは、息を止めた。
フロリアンは淡々と続けた。
「本日参りましたのは、陛下よりお預かりしたものを、お見せするためでございます」
「書面でしたら、昨夜いただきましたわ」
「書面ではございません」
供の者が、細長い木の匣を卓に置いた。フロリアンが自ら蓋を開ける。
なかには、薄い皮革の手帳が一冊、入っていた。革は長いあいだ人の掌に触れ続けてきた色に馴染んでいた。角が丸くなっていた。新しいものではなかった。
「七冊のうちの、一冊目でございます」
「七冊」
「残りの六冊は、陛下の執務机にございます。本日はこの一冊のみ、お目にかけるため、お預かりしてまいりました」
フロリアンは手帳の最初の頁をめくった。
そこに、メリザンドのよく知る筆跡で、ただ一行、薄い筆記体の字が記されていた。
『薔薇園東屋へは、行かれぬよう。』
そのあとに、小さく、あの頃の自分の署名と日付が添えてあった。十五歳の春。
メリザンドは、それを見つめた。
見つめたまま、しばらく動けなかった。
十五歳の誕生日に書いた予言書だった。王太子殿下への奉納として、彼女が生涯で初めて書いた一通だった。奉納先は、このエルトハイム王国の王太子、現在、療養中の第一王子エーベルハルトのはずだった。
「これは、確かにわたくしの手によるものでございますけれど」
声が、自分でも意外なほど掠れた。
「なぜ、こちらに」
「司書ギルドに、写本を起こす制度がございます」
「存じております」
「そのうちの一枚を、陛下が取り寄せられました。七年前、春のことでございます」
「七年前」
メリザンドは顔を上げた。
フロリアンは頭を垂れたままだった。
「そのころ陛下はまだ、ご即位を目前に控えた皇太子でらっしゃいました。ご即位の朝、薔薇園の東屋にて刺客に襲われる手筈になっていたと、後日、判明いたしました。それを、この一枚が止めました」
メリザンドの指先が、かすかに震えた。
「陛下は、命の恩人に、書簡を送りたいとお考えになった時期がございました」
「送られておりませんわ」
「はい。送ってはおられません」
フロリアンは初めて顔を上げ、静かに言った。
「お名前を出せば、この国で、あなた様に障りがあると思し召しでございましたので」
応接の間の窓の外で、どこかの鳥が短く鳴いた。
メリザンドは匣のふちに、ゆっくりと指先を触れた。木は、人のぬくもりをわずかに残していた。誰かが長く抱えてきた箱だった。運ばれた荷物とはちがう温度だった。
「近いうちに、国境の宿場までご足労を願いとうございます」
フロリアンが言った。
「陛下が、お待ちでございます」
メリザンドは目を伏せ、それから、もう一度手帳の一行に目を戻した。
薔薇園東屋へは、行かれぬよう。
十五歳の自分が書いた、ただの警告だった。命令ではなかったはずだった。
その一枚を、七年、抱えつづけた人がいた。
窓の外の鳥が、もう一度鳴いた。




