第一話 三十七通、お渡ししました
「——虚言癖、と仰いましたわね」
メリザンド・ラーゲンフェルト伯爵令嬢は、背筋を曲げることもなく、議場の中央に進み出た。
夏の午後の王宮大広間は、天井のステンドグラスから薔薇色の光を落としている。貴族議会臨席のもと、婚約者である第二王子オズヴァルト・エルトハイムが、たった今、彼女に婚約破棄を宣告した直後だった。
「聞き間違いでしたら、もう一度お願い申し上げますわ。確認のためでございますの」
「……虚言癖、だ」
オズヴァルトは金縁の布告文をもう一度読み上げた。
「七年間、貴様は災厄めいた予言とやらを吐き続けた。国母たる王妃殿下もこれを深く憂いておられる。王家の品位を貶める者を、次期王妃とするわけにはいかぬ。よって本日をもって、婚約を破棄する」
メリザンドは、ゆっくりと一礼した。
涙は出なかった。
七年前、初めて彼に予言書を手渡した十五の春、扉の外で彼の笑い声を聞いた日に、涙はすべて使い切っていた。あの日以来、王宮に足を運ぶたび、彼女は心のうちで小さな木片を一枚ずつ、数えるように置いてきた。その最後の一枚を、いま、置き終えた。
「承知いたしましたわ」
議場の一角で、誰かが小さく息を呑んだ。
メリザンドは背後を振り返り、従者に目で合図を送った。扉のそばに控えていた白髪の老従者が、革張りのファイルを一冊、恭しく捧げ持って進み出てくる。
「殿下。お別れに先立ちまして、お返しするものがございますの」
「返す、だと」
「こちらでございます」
老従者はファイルを儀典官に預けた。儀典官が朗読台の上にそれを広げた。
「七年間で三十七通。通し番号と、奉納日付を付してございますわ」
議場の空気が、そこで初めて、ゆるやかに傾いた。
目録の一頁目。細字の整然とした書き込みが、銀灰色のインクで並んでいた。
『通番一番/春季・薔薇園東屋にて凶事の兆し/奉納先:王太子殿下』
『通番二番/秋季・北辺交易路の凍結予兆/奉納先:宰相府』
『通番三番/冬季・王妃殿下の持病、三ヶ月以内に再燃の兆し/奉納先:王妃殿下』
儀典官の落ち着いた朗読は、議場に静かに滑り落ちていった。薔薇園の凶事、交易路の凍結、王妃の持病。いずれも、七年のあいだに実際に起きた事柄であることを、議場の誰もが覚えている。
「三十七、だと」
オズヴァルトの声が、初めて途切れた。
「はい、三十七通ですわ」
メリザンドは口角だけで微笑んだ。
「もっとも、わたくしの手元に残しておくべきものではないと存じ、すべて殿下に、あるいは関係各位にお届けしてございます。受け取られた後にどう扱われたかは、わたくしの関知するところではございませんわ。お忘れでしたら、こちらの目録をご自愛のお供にどうぞ」
議場の貴族たちの視線が、ゆっくりと、王子に集まった。
オズヴァルトの唇が、動きかけて、止まった。
彼の目の裏に、書斎の暖炉で赤く縮む紙束の光景が、一瞬、焼きついたのかもしれなかった。
「殿下」
隣席に座したマティルダ・エックホフ男爵令嬢が、澄みきった声で割って入った。清楚な薄藤色のドレス、控えめな珊瑚の首飾り。彼女はまだ、この空気の傾きを読み違えていた。
「予言などと、わたくしは、そのようなもの、ついぞ信じたことがございませんの。メリザンド様がお書きになった、とされる書簡ですが、皆、行方が知れないと伺っております。本当にお書きになったのかどうかも——」
「エックホフ嬢」
メリザンドは、初めてマティルダの方へ、視線だけを向けた。
「あら。ただ今『書きになった、とされる』と仰いましたね。つまり、書かれたこと自体は事実だとご承知のうえで、今、行方をお尋ねくださっているのですか?」
議場のどこかで、堪え切れなかった笑いが一つ、短く、起きた。
マティルダの頬が、はっきりと強ばった。予想外の反応に、彼女は言葉の継ぎ目を失った。メリザンドは、そこに追い討ちをかけるつもりはなかった。反論を重ねる必要は、もはやなかった。
空気は、もはや王子の味方ではなかった。
「ご不快でしたら、どうぞお下がりを」
メリザンドは一礼した。
「わたくしはこの議場にお招きいただいた最後の一日を、可能な限り静かに締めくくりたく存じますの」
その瞬間だった。
大広間の天井に、王国でただ一基の塔時計が掛かっている。いつも正午と夕刻を告げる、あの大時計が。
鐘を、打たなかった。
振り子の音が止んでいた。時計の針が、午後四時のあたりで止まったままになっていた。
代わりに、遠い塔の警鐘が不規則に、けたたましく鳴り響いた。
「火事か?」
「どこだ、どこが燃えている?」
回廊の方から、伝令の従者が転がるように駆け込んでくる。彼は敷居の前で跪き、息を切らせて叫んだ。
「申し上げます——! 王家財宝庫、西棟より、煙!」
議場が一斉にざわついた。
オズヴァルトが身を乗り出した。マティルダが扇を取り落とした。老貴族たちが互いに目配せを交わし、やがて、その視線のすべてが、ふたたび目録の上に戻ってきた。
そしてメリザンドは。
「だから言ったでしょう」
静かに、それだけ言った。
誰に言ったわけでもなかった。ただ、指先を目録の中ほどにすべらせ、通番二十九番と、通番三十三番の奉納先を、ゆっくりとなぞった。
『通番二十九番/王家財宝庫西棟の湿度管理異常、夏以内に発火の恐れ/奉納先:第二王子殿下』
『通番三十三番/大時計塔の歯車油脂劣化、翌夏までに停止の懸念/奉納先:第二王子殿下』
ページの上で、銀灰色のインクが、薔薇色の光を鈍く跳ね返した。
「三十三、通。二十九」
オズヴァルトが、目録を食い入るように見ていた。
かつて暖炉で焼いた紙束の中に、この二つの予言があったのかどうか。彼はもう、思い出せなかった。読んでいなかったのだから。
メリザンドは、その視線に気づかぬふりをした。気づかぬふりができるほど、彼女は七年という歳月を過ごしてきた。
「ごきげんよう、殿下。エックホフ嬢。議会の皆様」
彼女はドレスの裾を軽く持ち上げ、完璧な角度の退場の辞をとった。
「ああ、それから」
踵を返しかけて、ふと振り返り、付け加えた。
「通番三十七番は、いまだわたくしの手元にございますの。奉納先は、まだ決めてございませんわ。お入り用でしたら、いつでも」
議場の誰もが、言葉を失った。
オズヴァルトの額に、細い汗が一筋、流れたのを、前列の老侯爵だけが見ていた。
メリザンドは振り向かなかった。大広間の正面扉を、衛兵が両開きに開けた。
そして、そこに。
扉の向こうの石柱の陰に、一人の男が立っていた。
黒いローブに、深く頭を埋めている。年齢は判然としない。ただ、ローブは極めて上質な絹織りで、裾に染め抜かれた縁取りは、この国の宮廷の衣ではなかった。
そして、袖口から伸びた手。その薬指に、金の環が一つ。
環の面に刻まれているのは、翼を広げる大鷲の紋章。
メリザンドは、それがどこの紋章であるかを、知っていた。
隣国、アスカニア帝国の、皇家の紋章だった。
男は無言で、ローブの胸元から、折りたたまれた一枚の書面を取り出し、差し出した。封蝋は、同じ大鷲の印。
「主は」
頭を垂れたまま、男は低く、静かに言った。
「あなた様を、七年、お待ちでございます」
回廊の向こうで、警鐘がまだ、鳴っていた。




