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Pacta sunt servanda ――陸奥宗光になる君と、国際法の言の葉を――  作者: Altis―法律を物語に翻訳中―
CapitulumⅡ Inter absentes――離れた君へ、言の葉を重ねて――

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第四條 論事情変更之事――今度は、先に知らせて。

このお話には、実在した人も、実際にあった出来事も出てきます。


ただし、そのあいだで誰が何を考え、何を話し、何を約束したのか。


そこまで史実に尋ねるのは、少し酷だと思います。


ですので、そのあたりは物語としてお読みください。




 江戸へ戻って、センセに頼まれた辞書を探し始めた。


 英吉利の言葉を日本の言葉で調べられるものと、できれば仏蘭西の辞書も欲しいらしい。


 江戸なら何かあるやろうと気軽に考えとったけど、これが思うたより難しかった。


 書物を扱う店へ行けば別の店を教えられ、そこでは洋書に詳しい人間を訪ねろと言われる。その人間に会おうとしたら、今度は別の者へ話を通してもらわなあかんらしい。


 一冊の本を探しに来ただけなのに、気づけば本より人の名前の方が増えていた。


 それでも、何人かを辿るうちに、英吉利の言葉を日本の言葉で引ける、新しい辞書ができたらしいところまでは分かった。


 仏蘭西の方は、もう少し難しそうや。


 帰り道、久しぶりに江戸の城が目に入った。




挿絵(By みてみん)




 堀の向こうには高い石垣が続き、大きな門からは役目を持った人間が次々と出入りしている。


 紀州にいた頃は、幕府いうたら何となくこの城を思い浮かべとった。


 けど、こうして眺めていると、城の中におる人間も、そこから出ていく人間も、それぞれ何か仕事をしとるんやろう。


 江戸で決まったことが紀州まで届くのも、誰かが書いて、誰かが運んで、それを受け取った人間が動くからや。


 ほな、幕府いうのは、どこからどこまでなんやろう。


 将軍様のことなんか、この城のことなんか。それとも、そうやって仕事をしとる人間まで全部含むんやろか。


 さっきまで辞書一冊のために、あちこちで人を紹介されとったせいか、妙に気になってしまった。


 センセに聞いたら、きっと面白がるやろうな。


 いや、その前に「あなたは何を幕府と呼んでいるのですか」と聞き返されるかもしれん。


 それで俺が答えを考えとる間に、話がもう一つ先へ進んでしまう。


 そこまで想像して、少し笑うてしもうた。


 まあ、今すぐ答えを出さなあかん話でもない。


 それより、辞書のことを知らせてやらんと。


 センセなら、新しい辞書があると聞けば、きっと喜ぶやろう。まだ実物も見てへんから、あんまり期待させるのもどうかと思うけど。


 宿へ戻った俺は、紙を広げた。


◇ ◇ ◇


【小二郎】


江戸へ戻った。


前に頼まれた辞書のことやけど、英吉利の方は、センセが言うてたものに近い本が出たらしい。


まだ実物は見てへん。


本を探しに行ったら人を紹介され、その人に聞いたらまた別の人を教えられて、今のところ辞書より人の名前の方が増えとる。


仏蘭西の方は、もう少しかかりそうや。


何か分かったら、また知らせる。


それと、前に聞いた話の続きや。


強い方でも、何をしても得になるわけやないいうのは分かった。


けど、それなら弱い方には何ができるんや。


取引を止めても、強い方より弱い方が困ることもあるやろ。ほかの国へ助けを頼んでも、その国まで強い方についたら、それで終わりや。


相手が欲しがるものを何も持っとらんかったら、言うことを聞くしかないんか。


それとも、同じような立場の国同士で、困る前から話をつけておくことはできるんやろか。


一つずつなら押し切られても、幾つか一緒に出てきたら、向こうも同じようには扱えん気がする。


ただ、それをするなら、集まった者同士で先に決めとかなあかんことも増える。


困ったときだけ来てくれと言うても、そのとき相手にも都合があるやろ。


辞書を一冊探すだけでも、先に誰へ聞けばええか分かっとった方が早い。


国同士でも、似たようなことはあるんか。


◇ ◇ ◇


 小二郎から手紙が届いたのは、ちょうど書付を一枚仕上げたところだった。


 受け取りに来た人が待っていたので、最後の数字を確かめてから渡す。以前の私なら手紙を先に開いていたかもしれないけれど、最近はそれくらい我慢できるようになった。


 まあ、受け取った人が部屋を出た途端、封を切ってしまったのだけれど。


 最初に読んだのは、もちろん辞書のところだった。


 どうやら、本当にあるらしい。


 英語を日本語で調べられる辞書が、ちゃんとできているという。


 これはうれしい。


 何しろ、今は分からない言葉を調べたくても、手元にある書付を見比べたり、自分であれこれ考えたりするしかない。辞書があれば、教えている方々にも使ってもらえるし、私だって随分と助かる。


 まだ実物は見られないらしいけれど、小二郎がわざわざ探してくれたと思うと、それだけでもありがたかった。


 さて、後半は国際法の話だ。


 弱い国には何ができるのか。


 なるほど、そこが気になったのか。


 小二郎は、こちらが一つ答えると、その答えではうまくいかない場合を見つけてくる。


 なかなか手厳しい。


 でも、私はこういう話が嫌いではない。せっかく考えた答えを簡単に引っくり返されると、ちょっと悔しくはあるけれど。


 それに今回は、困る前からほかの国と話をつけておけばいいのではないか、と自分なりの考えまで書いてくれていた。


 うん。それなら、話はもう少し先へ進められそうだ。


 私は新しい紙を取り出した。


◇ ◇ ◇


【成瀬】


辞書のこと、ありがとうございます。


英語の方は、ぜひ一度見てみたいです。


まだ実物も見ていませんから、訳語についてあれこれ言うつもりはありません。


あなたが心配しそうなので、先に書いておきます。


仏語については急がなくて構いません。こちらでも探します。


さて、弱い国はどうするのか、という質問でしたね。


あなたが考えたように、困ってから初めて相手を探すのではなく、あらかじめ協力する約束をしておくことはできます。


二つの国でも、それ以上でも構いません。


ただ、国がたくさん集まったからといって、単純にその数だけ強くなるわけではありません。


それぞれの国に事情がありますし、守りたいものも、どこまで負担できるかも違います。


例えば、ある国は船を出せても、別の国にはそれができないかもしれません。助けるつもりはあっても、どんな場合でも助けられるとは限らないでしょう。


だからこそ、何が起きたら一緒に動くのか、誰が何をするのか、どこまで助け合うのかを、先に決めておく必要があります。


もちろん、約束したからといって、必ず助けてもらえるとは限りません。


それでも、何も決めずに困ってから頼みに行くよりは、ずっと話を進めやすくなると思います。


それから、あなたが書いていた、誰に聞けばよいのかを先に知っておくという考え方も大切です。


国同士でも、相談する場所や、連絡を受ける人をあらかじめ決めておくことができます。


何か起きるたびに使いを出して、誰に会えばいいのか、どこで話をすればいいのかと探していたら、それだけで時間がかかってしまいますから。


誰が参加するのか。何について一緒に話すのか。誰にどこまで任せるのか。


そういうことを前もって決めておけば、困ったときにも、すぐに話を始められます。


ただし、相談する場所を作ったからといって、そこが何でも決めてよいわけではありません。


参加する国が、自分たちで決めた範囲の仕事を任せるのです。


ですから、任された人が勝手に別のことまで決め始めたら、それはまた問題になるでしょう。


人数が増えれば、意見が合わないことだってあります。


それでも、話をする相手と場所が決まっているだけで、随分と違うはずです。


ところで、加太から戻ってから、私の仕事も少し変わりました。


初めは「何と書いてあるのか」と聞かれるだけだったのですが、最近では「相手は何を求めていると思う」と尋ねられることまであります。


でも、私は外国語が読めるだけで、書いた人の考えが全部分かるわけではありません。


ですから、自分では分からないことは、詳しい方へ聞いていただくようにしました。


初めは少し申し訳なかったのですが、その方が早く済むこともあります。


なかなか便利です。


ただ、仕事が早く終わるようになったせいか、次のお仕事も早く回ってくるようになりました。


そこは、あまりうれしくありません。


辞書の方は、引き続きお願いします。


でも、私のためだけに江戸中を歩き回る必要はありませんからね。


本当にありません。


心配なので、二度書いておきます。


◇ ◇ ◇


 それからしばらく、仕事が続いた。


 最近は、外国語の書付を読むだけでなく、ほかの人へ確認してもらうことも増えている。


 最初の頃は、聞かれたことには何でも自分で答えなければいけないと思っていた。


 せっかく任せてもらえたのだから、できないと思われたくなかったのもある。


 でも、知らないことを無理に答えようとしても、結局あとで確かめ直すことになる。それなら初めから詳しい人に聞いた方がいいし、そう伝えたところで、別に怒られるわけでもなかった。


 むしろ、早く終わることの方が多い。


 何だ、もっと早くそうすればよかった。


 就職活動をしていた頃は、何ができますかと聞かれるたびに、できることを一生懸命探していた。


 できませんと言ったら、それだけで不利になるような気がしていたのだ。


 あの頃の私に、分からないことをちゃんと伝えるのも仕事のうちだと教えてあげたい。


 たぶん、あまり納得してくれないだろうけれど。


 それにしても、仕事というものは、慣れたら慣れただけ楽になるわけではないらしい。


 前より早く片づくようになったはずなのに、今日も一日があっという間に終わってしまった。


 部屋へ戻ると、小二郎から手紙が届いていた。


 阿国は、ちょうど席を外している。


 私は文机へ座ると、さっそく封を切った。


◇ ◇ ◇


【小二郎】


辞書の話、もう少し分かった。


英吉利の方は、ほんまにセンセが言うてたようなものらしい。


今度、実物を見られるところへ連れていってもらえることになった。


まだ中も見てへんから、先に細かい注文を書くなよ。


出たばっかりの辞書に、ここの意味は違うとか言い始めるセンセの顔がもう浮かんどる。


仏蘭西の方は相変わらずや。


そっちはもう少し待ってくれ。


それで、国同士の話も考えた。


皆の上に将軍様みたいな人がおらんでも、自分らで話をする場所や、仕事を任せる相手を決めることはできるんやな。


けど、仕事を任せたからいうて、その相手が皆の上になるわけでもないんやろ。


頼んだことについては従うとしても、何でも好きに決めてええことにはならん。


任せることと、全部を預けることは違う。


たぶん、そういうことなんやと思う。


その辺を考えとったら、前から少し気になっとったことまで、また分からんようになった。


今度会ったら聞く。


最近は家のことで人に会うことも増えた。


一人の話だけ聞いとったら筋が通っとるように思えても、別の人へ聞けば、そう簡単でもないことがある。


人に会うほど分からんことが増えるいうのは、あまり便利やないな。


それでも、知らんままよりはましなんやろ。


それから、近いうちに京へ行く。


家のことで動く用もあるから、どこに落ち着くかはまだ決まってへん。


宛先が分かったら知らせる。


センセもどこかへ動くなら、先に知らせてくれ。


今度は、会えるかどうかくらい確かめてから会おう。


◇ ◇ ◇


 最後まで読んでから、私は少しだけ前の方へ戻った。


 近いうちに京へ行く。


 そこをもう一度読んで、思わず顔が緩んだ。


 実は、私も京へ行くことになっている。


 三浦様からお供をするように言われたのは、ちょうど昨日のことだった。


 昨日は、また遠くまで行くのかと少し驚いたし、道中の支度も考えなくてはいけないと思っていた。


 けれど、小二郎も京へ行くらしい。


 そう知った途端、何だか急に楽しみになってきた。


 もちろん、向こうも仕事や家の用事があるだろうし、私だって好きなときに出歩けるわけではない。


 それでも、同じ頃に同じ場所へ行くのなら、少しくらい顔を合わせられるかもしれない。


 小二郎の手紙には、今度は会えるかどうか確かめてから会おう、と書いてあった。


 何だか少しおかしくて、また笑ってしまった。


 会えるかどうかくらい、先に確かめる。


 言われてみれば当たり前なのに、前はそれができなかったのだから。


 私は手紙を机に置き、さっそく新しい紙を取り出した。


◇ ◇ ◇


【成瀬】


私も、近いうちに京へ行きます。


三浦様のお供です。


こちらも、到着の日はまだはっきり決まっていません。


着いたら宛先を知らせてください。


私も知らせます。


辞書の件も、本当にありがとうございます。


細かい注文は、実物を見るまで書きません。


見るまでは。


そこは約束します。


それから、今度会ったら聞く、と書いてあったことも覚えておきます。


何を考えているのかは知りませんが、私に答えられることなら答えます。


最近はいろいろな方と会っているようなので、その話も聞かせてください。


手紙では誰に会ったのかは分かっても、どんな人だったのかまでは、なかなか伝わりませんから。


法の話を考える参考にもなると思います。


たぶん。


では、京で。



挿絵(By みてみん)



 手紙を出すと、阿国が旅支度を始めた。


 私も手伝おうとしたのだけれど、何をどう畳めばいいのか迷っている間に、阿国の方はどんどん荷物をまとめていく。


 下手に触るとかえって邪魔になりそうだったので、私は必要なものを渡す係に回った。


 不得意なことは得意な人に任せた方がいいと、小二郎にも書いたばかりだ。ちょうどよい機会なので、ここは実践しておこうと思う。


「阿国。この羽織で大丈夫かしら」


「お仕事にお召しになるのでしたら、差し支えございません」


 広げてもらった羽織を確かめる。


 袖口に墨もついていないし、襟もきれいだ。これなら三浦様のお供をしても、そうおかしな格好にはならないだろう。


 そうして羽織を阿国へ渡したところで、荷物の脇に置いた小二郎の手紙が目に入った。


 今度会ったら聞く。


 その一文を思い出すと、何だか小二郎の声まで聞こえてきそうだった。


 きっと、あの頃と同じ調子で聞いてくるのだろう。


 こちらが答えに困っても遠慮なく続きを尋ねるし、少し話が長くなれば、また途中で止められるかもしれない。


 そう考えると、つい笑ってしまう。


 でも、最後に顔を見てから、もう随分と時間がたっている。


 私が文字を覚えたり、仕事で加太まで出かけたりしている間、小二郎だって江戸へ戻り、お父上に会い、いろいろな人と話してきたのだ。


 手紙の中では、いつも知っている小二郎のままだけれど、実際に会ったらどうだろう。


 背も伸びているかもしれないし、声だって少し変わっているかもしれない。


 それに、最近は家のことで人に会うことが増えたと書いてあった。


 きっと私の知らない話も、たくさんある。


 何から聞こうかな。


 国際法の続きも気になるけれど、まずはお父上のことを聞きたいし、江戸でどんな人に会ったのかも知りたい。


 それから、辞書の話も。


 ……いや、辞書は後でもいいかもしれない。


「何か、お持ちになりますか」


 阿国に尋ねられて、私は少し考えた。


 京へ行ったら仕事もあるだろうから、余計な荷物は増やさない方がいい。


 でも、せっかく久しぶりに会うのだから、何かあった方がいいだろうか。


 そういえば、あの頃はよく一緒に団子を食べた。


 久しぶりに会って、またあんなふうに話せたら楽しいだろうな。


「……団子は、向こうで買った方がいいわよね」


 阿国の手が、ほんの少し止まった。


「左様でございますね」


 答えはごく普通だった。


 その前の、妙に長く感じた間については、聞かないことにした。


 私は畳まれた羽織を阿国へ返し、荷物の脇にある手紙をもう一度見た。


 今度は、本人に会う。

今回は、国際法のお話もちょっとだけ。


国同士が協力するとき、何を一緒にするのか、誰にどこまで任せるのか。


こうした約束や話し合いの仕組みは、のちの国際組織にもつながっていく考え方です。


この辺りは、また補講で詳しくお話しできればと思います。



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