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星脈の契約者  作者: 靉庭かさね
第1章

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第3話「首輪係たちの午後」

医療区は、星牢とはまるで違う匂いがした。


焦げた金属でも、焼けた魔力でもない。

清潔な薬草水と乾いた白布、それから魔力神経の鎮静に使われる薄荷油。

冷たい香りが鼻を抜けるたび、地下から身体の奥へ連れ帰ってきた熱が、少しずつ現実の輪郭を取り戻していくようだった。


白い壁に囲まれた第三処置室で、リセアは検査椅子へ座らされていた。

任命式を終え、星牢へ降り、ルゼン・ヴァルハルトと会った。

まだ半日も経っていないというのに、白い外套へ初めて袖を通した朝の自分も、白樺の下でミナに「おかえり」と言われたことも、星環ホールで特異体管理局付の辞令を告げられた瞬間さえ、黒い扉を越えるより前の出来事というだけで、ひとつ前の人生のように感じられた。


「左手、出して」


目の前に立ったミナ・セルフィが、淡い水色の検査布を広げる。


「右じゃなくて?」

「左。補助封鎖札を使った方」

「直接、ルゼンの魔力に触ったわけじゃないよ」

「札を通して稼働中の封鎖術式に接続したんでしょ。それなら十分」


言い返せず、おとなしく左手を差し出すと、ミナは手首へ細い銀環を嵌めた。

内側に刻まれた星紋が淡く灯り、皮膚の下を探るように光が一周していく。


魔力神経の状態を測るための簡易検査具だった。


魔力神経は、Ⅰ型なら自らの魔力を外へ導く時に、Ⅱ型なら外部の魔力や術式へ触れる時に働く。

魔法を生み出せないⅡ型も、身体まで魔力と無縁なわけではない。

むしろ代理官は、暴走する魔力や高密度の術式へ自ら近づかなければならない仕事だ。

外部魔力との接触が続けば神経に過熱や乱れが生じ、頭痛、発熱、痺れ、感覚異常を起こすこともあると、候補生時代には何度も叩き込まれていた。


代理官は、魔導士より先に倒れてはいけない。

だからといって、魔導士より無傷でいられる職でもない。


「痛みは?」

「ない」

「熱感」

「少し」

「痺れは?」

「……ほとんどないと思う」

「“思う”はいらない」


普段より少し硬いミナの声に促され、リセアは左腕へ意識を集中させた。

星牢を出てしばらく経った今も、手首から肘にかけて薄い違和感が残っている。

痛みとも熱とも少し違うそれを探りながら、「軽くある。誰かにずっと触られてるみたいな感じ」と言い直すと、ミナはようやく頷いた。


「それでいい」


銀環に浮かぶ数値を確認しながら記録を取る姿は、柔らかな顔立ちこそいつもと同じでも、視線だけは完全に調律官のものになっていた。


視界の揺れ、耳鳴り、吐き気。

ひとつずつ答えていき、最後に「胸の奥に熱が残っている感じは?」と問われたところで、返事が一瞬遅れた。


その間を見逃さず、ミナが顔を上げる。


「あるんだね」

「……少し」

「いつから?」

「星牢を出てから。たぶん緊張の――」

「原因じゃなくて、いつから?」

「星牢を出てから、少しあります」

「うん」


検査布が手首から肘へ滑り、淡い水色の光が皮膚の上を薄く走った。

星牢で触れたものとはまるで違う冷たさが神経の奥へ染み込んでいく。


「軽い魔力神経過熱。現場で言う“魔力焼け”だね」

「焼け?」

「普通の火傷じゃないよ。高出力の魔力へ触れた時、神経側に熱の感覚が残る状態。今のところ軽度だから、今日は休めば問題ないと思う。でも夜になって熱が出たり、痺れが強くなったりしたらすぐ連絡して」

「そんなに?」

「相手が相手だから」


そこで初めて、ミナの声が僅かに沈んだ。


「ルゼン・ヴァルハルトだったんだよね」

「うん」

「……見た?」

「見た」

「どうだった?」


どうだった。


今日、その問いを聞かれるのは二度目だった。

アイゼルにも、ルゼンを見て何を思った、と問われた。

その時は「まだ分かりません」と答えたし、今もその答え自体は変わっていない。


「思っていたより……静かだった」

「静か?」

「炎はすごく強かった。でも、ずっと暴れてる感じじゃなかった。押し込めて、押し込めて、それでも外に漏れてるみたいな……」


そこまで口にしたところで、リセアは言葉を止めた。

また、自分が分かったような言い方をしかけている。


けれどミナは笑わず、少し考えるようにリセアを見た。


「それ、本人にも言った?」

「苦しそうだった、とは」

「...リセア」

「怒られた」

「でしょうね」


 深い溜息が落ちる。


「初対面の相手に“苦しそうだったので”は、かなり踏み込んでるからね」

「反省してる」

「本当に?」

「本当に」

「反省した上で、似た状況になったらまた動きそうなのが怖いんだよね」

「……しないように努力する」

「そこ。“しない”とは言わないところ」


困ったように笑いながら銀環を外したミナは、続けて鎮静用の薄い布を手首へ巻いた。


「封鎖具に干渉した件、アイゼルさんには?」

「怒られた。でも、第三封鎖鎖については報告書を出せって」

「じゃあ、観測そのものからは外されてないんだ」

「今のところは」

「それなら、見つけたことと命令違反はちゃんと別に扱われたんだと思う」


 リセアは頷いた。


なぜ自分が特異体管理局へ回されたのか。

第七演習場で規定外の封鎖を行い、一年遅れて任命されたばかりの新人が、通常なら容易に近づけない星牢へ初日から入れられた。理由がないとは思えない。


けれど今の自分には、それを判断する材料が足りなかった。


「今日は水分多め。夜に熱が出たらすぐ医療区へ連絡。報告書を書いてもいいけど、徹夜は禁止」

「初日から徹夜なんてしないよ」

「リセアならやる」

「やらない」

「……半分だけ信じる」

「半分?」

「初日の信用としては高い方」


少し笑って記録板を閉じたミナは、巻き終えた鎮静布の端を整えながら、「午後は封鎖局?」と聞いた。


「うん。第二実働班に挨拶しておけって」

「ガレンさんたちかな」

「知ってるの?」

「医療区には割と来るよ。怪我とか、魔力酔いとか」

「そんなに?」

「実働班だからね」


ミナは一度だけリセアの左腕を確認すると、少し声音を柔らげた。


「星牢だけが、封鎖官の仕事じゃないよ」

「うん」

「今日、それも見てきた方がいいと思う」


手首に残る冷たさを確かめながら、リセアは小さく息を吐いた。星牢の熱はまだ胸の奥に残っている。けれど、ルゼン・ヴァルハルトだけが今日から始まる仕事のすべてではない。


代理官初日の午後は、まだ続いていた。


   *


 封鎖局第二実働班の詰所は、医療区ほど白くなかった。


魔導院中央棟の西側、訓練場と実働班待機所を繋ぐ灰色の建物。

その一階奥にある扉を開けた途端、医療区の清潔な静けさとも、星牢の重苦しい熱とも違う空気が流れてきた。


汗と革手袋、古い紙束、冷めた茶、補修途中の封鎖具の匂い。

壁には何枚もの任務配置表が貼られ、床際には護符箱が積み上げられている。

長椅子へ無造作に置かれた外套の横には読みかけの報告書があり、机の片隅では分解された封鎖具が修理の途中で放置されていた。

候補生の教室にはなかった生活感と緊張感が、雑然と同じ空間に息づいている。


ここは、実際に任務へ出る者たちの場所なのだ。


「お、来たな」


奥の机に腰を掛けていた男が顔を上げた。暗い髪を無造作に後ろへ流し、封鎖官の外套を肩へ引っかけている。

口元には軽い笑みがあったが、その目はリセアが扉を開けて立ち止まった一瞬まで見逃していないようだった。


「リセア・アルヴェインだろ?」

「はい」

「ガレン・ローク。第二実働班、封鎖官」


机から降りたガレンは、ごく自然な動作で右手を差し出した。


「ようこそ。首輪係の巣へ」


差し出された手を見てから、その顔へ視線を戻す。


「……首輪係?」

「嫌な呼び方だろ」

「はい」

「正直でよろしい」


ガレンは笑った。


「現場じゃそう呼ばれることがある。魔導士を縛る役。暴走したら止める役。何かあれば真っ先に“なぜ止めなかった”って言われる役」


言い方は軽かったが、中身まで軽くはない。


「封鎖官は嫌われることも仕事のうちだ。魔導士に好かれようとして、止めるべき時に手を鈍らせるなよ」


リセアが差し出された手を握ると、大きな掌には訓練や封鎖具の扱いでできたらしい硬さがあった。


「リセア・アルヴェインです。本日付で、封鎖局所属、特異体管理局付、随伴封鎖官補佐に任命されました」

「……堅いな」

「よく言われます」

「だろうな」


ガレンが笑ったところへ、書類棚の方から低い女性の声が飛んできた。


「ガレン。初日から変な肩書きを刷り込むな」


振り返った女性は、短く切った赤茶色の髪に鋭い目元をしていた。封鎖官の制服は実用一辺倒で、袖口には何度か補修したらしい跡が見える。


「ティナ・レイス。第二実働班、封鎖官。ガレンの話は全部真に受けなくていい」

「全部?」

「八割」

「増えたな」

「黙って」


ティナはそれだけ返すと、リセアの顔色から左腕の鎮静布へ視線を走らせた。


「医療区には行った?」

「はい。軽い魔力焼けだそうです」

「初日に星牢で高出力へ触れて、その程度ならまだ軽い方か。何したの」

「第三封鎖鎖の流路に異常があって、補助封鎖札で角度を変えました」

「何それ、許可は?」

「……ありませんでした」


僅かな沈黙のあと、ティナは呆れたように額へ指を当てた。


「馬鹿なの?」

「アイゼルさんにも言われました」

「でしょうね」


そのやり取りを聞いていたらしい青年が、部屋の奥の机から眠そうにあくびをしながら顔を上げた。

明るい茶色の髪に少し着崩した魔導士の制服、袖口には雷系統を示す細い紋が走っている。


「初日にアイゼルさんから馬鹿認定は、なかなかだな〜」

「カシル。寝てないで新人に挨拶して」

「今起きただろ。...カシル・グレン。第二実働班の魔導士で、ティナの担当」


リセアが軽く会釈をしようとする前に、ティナの低い声が飛ぶ。


「正確には“担当魔導士”」

「同じだろ」

「違う」


ティナに睨まれ、カシルは肩を竦めた。


窓際にはもう一人、青みを帯びた黒髪の青年が立っている。

こちらは制服をきちんと着込み、足元には魔法を収めた直後らしい蒼い残光が薄く残っていた。

目が合うと、彼は静かに手元の本を閉じて口を開いた。


「ノア・ベルクライン。ガレンの担当魔導士だ」


「よろしくお願いします」


リセアが頭を下げると、ノアは静かに頷き、近くの椅子を示した。


「星牢帰りなら、座った方がいい。」


必要以上に親しげではない。けれど、状態を見て最低限の気遣いはする。

その距離が今のリセアにはありがたく、礼を言って腰を下ろした。


ガレンが向かいの机へ軽く寄りかかる。


「それで。見てきたんだろ、ルゼン・ヴァルハルト」

「はい」

「どうだった?」


今日三度目の問いだった。

誰もが知りたいのだろう。星牢にいる特異体と初めて対面した新人が、何を見て、何を言うのか。


リセアは少し考えた。


「まだ、分かりません」


ガレンの口元に薄い笑みが浮かぶ。


「まあ、それでいい」

「そうですか?」

「初日で“分かった”って言われる方が怖いからな」


書類を束ねていたティナも、手を止めずに口を挟んだ。


「ルゼンに限らない。魔導士を理解したつもりになる代理官は、現場だと危ない」

「封鎖官は、魔導士を止める側だからですか」

「それもある。でも、一番怖いのは距離を間違えること」


そこで初めてティナは書類から目を上げた。


「痛みに同情しすぎれば封鎖が遅れる。力に憧れすぎれば逃げる判断が遅れる。嫌われるのを怖がれば、本当に止めなきゃいけない時に手が動かなくなる。封鎖官は魔導士の救済者じゃない。暴走したら止める。逃がせるなら逃がす。それでも駄目なら切る」


淡々とした声音だったが、教本の文章とは違った。

アイゼルの言葉にも似ている。けれど、アイゼルが命令として告げたものを、ティナはもっと古い傷のように口にしている気がした。


「……それだけ、ですか」


思わず尋ねると、ティナは僅かに目を細めた。


「それだけじゃ嫌なの?」

「嫌というより……」


答えを探しているリセアを見て、ティナの方が先に息を吐いた。


「最初から全部割り切れる奴なら、たぶんこの仕事は長く続かないよ。割り切れないから間に合うこともある。でも、割り切れないものを全部自分で抱え始めたら、そのうち代理官の方が折れる」


それ以上説明しなかったティナに代わり、ガレンがいつの間にか淹れていた茶をリセアの前へ置いた。


「ティナの話は一度に飲み込むと胃に重いから、今日は半分くらい持って帰れ」

「半分でいいんですか」

「残りは現場で嫌でも身につく」

「それは嫌ですね」

「だろ?」


ガレンの笑い方は、重いものを軽く扱っているのではなく、重いまま持ち運べる大きさへ変えているように見えた。

そんな人なのかもしれない、と考えかけたところで、リセアは湯気の向こうへ視線を落とした。


初対面で、人を決めるのはやめよう。


「ところで新人」


カシルが椅子の背へ腕を掛けた。


「ルゼンには何か言われた?」

「まぁ、いろいろと」

「例えば?」

「帰れ、と」

「それはまた、随分な歓迎のされかただな」


笑いかけたカシルがティナの視線を受け、すぐに口元を引き締める。


「笑うな」

「笑ってない」

「今笑った」


二人を放っておいたガレンは、壁際に貼られた任務配置表を指した。


「特異体管理局付だからって、星牢だけ見てりゃいいわけじゃない。むしろ新人のうちは、普通の現場も知らないと話にならない」


配置表には、王都内外の任務予定が日付と担当者名とともに細かく並んでいた。

都市結界の点検、魔力灯の異常調査、演習場の封鎖補助、雲海航路の堕星体警戒、旧土区外縁の魔力濃度測定。


候補生時代に教本で見ていた言葉が、実際に誰かが向かう場所としてそこにある。


堕星体。


その文字へ自然と目が留まった。


暴走や異常な魔力侵食の果てに、人や生き物が変質した存在。

空社会ではその多くが魔物として扱われ、危険度に応じて封鎖や討伐の対象になる――教本ではそう習った。けれど、現場の配置表に書かれた同じ言葉は、紙の上の知識だった頃よりずっと近く、わずかに生々しく見えた。


「封鎖官の仕事は、派手な暴走を止めるだけじゃない」


ガレンの声に視線を戻す。


「結界の継ぎ目を確認する。魔力灯の乱れを記録する。魔導士の出力がおかしければ、本人より先に気づく。むしろ、そういう地味な仕事の方が多い。ただ、その地味な仕事を外すと、後で派手に死人が出る」


笑みは残ったままでも、最後だけ声が低くなった。


「覚えておきます」

「今はそれでいい」


そう言うと、ガレンは腰へ提げた錨鎖へ手を掛けた。


「ついでだ。顔と名前だけ覚えて、現場で初めて能力を見るってのも困る。簡単に俺たちのやり方くらい見せとくか」

「今ですか?」

「今。実物の方が早い」


ティナは呆れたように息を吐いたが止めはせず、ガレンが机の端から小型の訓練盤を引き寄せるのを眺めていた。


白い塔とその外周を巡る魔力線、複数の支点が刻まれた簡易模型だった。


「俺の錨鎖は固定が役目だ。対象そのものを縛るってより、動かしたらまずい場所を先に止める」


短くした鎖の先端が支点へ落ち、硬い音とともに白い点が重く光った。


「塔なら土台。魔力の流れなら根。崩れたら全部持っていかれる場所を先に固定する」


続いてノアが手をかざすと、淡い蒼の魔法陣が盤面へ広がった。


「蒼重域。俺の魔法は、対象や流れへ重力を加える。完全に止めるんじゃなく、遅らせる」


盤上を走っていた光の速度が目に見えて落ちた。

止まってはいない。ただ、先ほどまで捉えにくかった流れが、目で追える程度まで鈍くなっている。


「ガレンが支点を取るための時間を作ることが多い」

「逆もあるけどな。俺が先に固定して、ノアが周囲を重くする。どっちを先に入れるかは現場次第だ」


ティナは二枚の短札を指へ挟み、その間から伸びた細い光を盤面へ落とした。


「符糸。私は境界を縫う。仮留め、補強、それから可視化」


光の糸が曖昧だった魔力線の縁をなぞると、どこまでが安定した流れで、どこからが乱れているのかが目に見える形で浮かび上がった。


思わず身を乗り出したリセアの視界を、今度は細い雷光が横切る。


「最後に俺」


カシルが走らせた雷は魔力線へ正面からぶつからず、その外周を滑るように進み、溢れた光だけを拾い上げて訓練盤の外へ導いていった。


「雷導線。余剰魔力の逃がし先を作る。雷っていうと撃つ方が目立つけど、現場じゃ流すために使うこともある」


その流れ方を見た瞬間、星牢の第三封鎖鎖が脳裏へ浮かんだ。

押さえ込むのではなく、逃がす。


「……似てる」


 無意識に零れた言葉へ、カシルが顔を向ける。


「何が?」

「星牢で、私がやったことに。もちろん規模も精度も全然違いますけど」


答えたのはティナだった。

符糸を解きながら、先ほどまでとは違う真面目な声になる。


「だから危ない。逃がす判断自体は間違ってなくても、逃がし先を間違えれば別の場所が壊れる。まして、自分の身体へ流せば最悪だよ」


左腕の奥に、星牢の熱が蘇ったような気がした。


「自分に流すのが、一番まずい」


リセアは返事をせず、訓練盤を見つめた。


ガレンが白い支点を指す。


「お前が封鎖官として最初に見るなら、ここだ。どこを止めるか。どこへ逃がすか。それから、どこを止めちゃいけないか」

「止めてはいけない場所もあるんですか」

「ある」


ノアが短く答えた。


「止めたことで壊れる流れもある。高出力の魔法や、長く使われた魔力線ほどそうなりやすい」


金色の炎と第三封鎖鎖、それから逃げ道を失って内側へ折れた流れを思い返しながら、リセアは静かに頷いた。


「覚えておきます」


今度は誰も、その言葉を訂正しなかった。


   *


簡単な局内説明を受けたあと、リセアはガレンに連れられて封鎖具保管庫、補助札調整室、緊急出動待機室、報告書管理室と順に回った。


候補生時代にも一部の施設を使ったことはあったが、正式な代理官として眺めると同じ場所とは思えなかった。

棚に並ぶ封鎖具は教本の図より重く見え、壁に残った焦げ跡には、それが訓練によるものか実戦によるものかを示す札すらない。

いつ呼ばれても動けるようにするための緊張が、建物全体へ薄く張りついているようだった。


「重い顔してるな」

「重い場所なので」

「正直でよろしい」

「それ、好きですね」

「便利なんだよ」


軽く返しながら、ガレンは訓練場を見下ろす窓の前で足を止めた。

下では若い魔導士たちが術式演習をしている。

光の槍が走り、風の刃が標的を切り裂き、水膜の結界が薄く広がった向こうで淡い炎が揺れる。

代理官候補生たちは傍らに立ち、魔力の流れと出力を記録していた。


リセアは無意識に見入っていた。


何度見ても、魔法は美しい。

自分には使えないと分かっていても、その感覚だけは十五歳の春から変わらなかった。


「まだ好きか」


不意に聞かれ、リセアは訓練場から視線を外さないまま答えた。


「……はい」

「魔法が?」

「はい」

「封鎖官になっても?」


嘲る響きではなく、本当に確認しているだけなのだと分かった。


「封鎖官でも、好きです」


しばらく黙っていたガレンは、やがて窓枠へ軽く肩を預けた。


「なら、大事にしろ」

「いいんですか」

「何が」

「封鎖官が、魔法を好きでも」


ガレンが小さく笑う。


「嫌いなものを命懸けで止め続ける方が、よっぽどきついだろ。ただ、好きなものが人を殺すこともある。それだけ忘れるな」


ちょうどその時、訓練場で光の槍が大きく弾け、候補生の一人が慌てて補助札を展開した。直後に指導官の叱責が響く。


美しい光だった。

同時に、一歩間違えれば誰かを傷つける力でもある。


リセアはその両方を目に焼きつけるように見つめてから、ゆっくりと息を吸った。


「はい」


今度は、それだけ答えた。


   *


夕方近くになった頃、ガレンから「明日から星牢の定期観測へ入るなら、最低限読ませとくものがある」と声を掛けられた。


封鎖局の小さな資料室へ通され、机の前へ座って待っていると、奥の書架から戻ってきたガレンが分厚い黒表紙の資料束を置いた。机が鈍い音を立てる。


「……全部ですか」

「全部」

「これで最低限?」

「特異体管理局へようこそ」


悪びれもしないガレンの向こうで、黒い表紙の文字が目に入った。


特異体管理対象記録

ルゼン・ヴァルハルト

閲覧権限:制限付

複写禁止/外部持出禁止


昼前には黒い扉の奥にいた人物が、今は一冊の記録として目の前に置かれている。


「読んでいいんですか」

「読まないで星牢へ入る方が危ない。ただし、読めるところが全部だとは思うな。新人補佐に開示される記録なんて、半分残ってりゃ良い方だ」


 リセアは黒い表紙へそっと指を置いた。

紙そのものは冷たかったのに、その名へ触れた瞬間だけ、星牢の熱が胸の奥で再び揺れた気がした。

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