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星脈の契約者  作者: 靉庭かさね
第1章「星牢の少年」

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第4話「十二人目の空白」

黒い表紙を開くと、最初のページにはルゼン・ヴァルハルトの基本情報が、感情の入り込む余地もないほど整然と並んでいた。


氏名、分類、魔法系統、出力、封鎖区分、現在の管理施設。


分類――Ⅰ型・特異体。

系統――火炎系統・詳細分類不能。

出力――現行測定規格上限超過。

封鎖区分――最上位。

管理施設――星牢。


昼前に自分の目で見たものから、管理に必要な部分だけを切り取って文字へ置き換えれば、こうなるのだろう。


金色の炎も、幾重もの封鎖鎖も、その向こうから向けられた冷たい視線も、この紙の上では分類と数値に変わっている。あれほど息苦しかった星牢の熱さえ、数行の記録にしてしまえば驚くほど静かだった。


資料室の細い窓からは、西へ傾き始めた光が斜めに差し込んでいた。午後の白さを失った光はわずかに赤みを帯び、黒い資料の縁とリセアの指先だけを細長く照らしている。紙の上の文字を追ううちにも、一日はゆっくりと終わりへ向かっていた。


リセアは順に項目を追い、年齢の欄へ差しかかったところで指を止めた。


十八歳。


思わずもう一度数字を確かめる。自分より二つ下だった。


星牢の中心で幾重もの封鎖具に拘束され、王国でも最大級の魔力出力を持つ特異体として管理されていた人物が、自分より年下だという事実は、昼前に見た姿となかなか結びつかなかった。少年と呼ぶには鋭すぎる目をしていたし、周囲に満ちた魔力の圧力は年齢という尺度そのものを忘れさせた。


けれど、記録の上では確かに十八歳だった。


「そこで止まる奴、多いんだよな」


向かいに座り、別の書類へ目を通していたガレンが顔を上げた。


「年齢ですか」

「ああ。記録だけ先に読むと、“特異体”って言葉の方が人間より先に頭へ入るからな」


 何気ない言葉だった。


 リセアは十八という数字へもう一度目を落としてから、次のページをめくった。


そこから続いていたのは、星牢へ収容されて以降の封鎖具調整履歴だった。第一封鎖鎖の圧力変更、胸部封鎖輪の術式更新、緊急封鎖陣の再構築、外部結界の増設。細かな日付と数値が並び、その横には変更理由や観測結果が記されている。


 けれど、読み進めるにつれて黒く塗り潰された箇所が増えていった。


 年月日だけを残し、その先の内容が丸ごと消されている項目。文章の途中から唐突に黒へ沈み、結果だけが残された記録。何があったのかは読めないのに、その出来事によって封鎖具が追加されたことだけは分かるものもあった。


「本当に黒塗りだらけですね」

「言っただろ。新人補佐に上が全部見せるほど、管理局は親切じゃない」

「ガレンさんにも見えないんですか」

「俺にも閲覧区分はある。何でも知ってると思うなよ」


 肩を竦めたガレンが再び自分の書類へ視線を戻したので、リセアも続きを追った。


 さらに何枚かめくったところで、見出しが変わる。


歴代随伴代理官記録。


 そこには、一人目から十一人目まで、ルゼン・ヴァルハルトへ付いた代理官の名前が年代順に並んでいた。


 全員がリセアと同じ随伴封鎖官補佐だったわけではない。正式な封鎖官として配置された者、観測補助を中心に担当した者、別局との兼任だったらしい者。配置期間も数年から数週間までばらばらで、それでもこの記録ではすべて同じように「ルゼン・ヴァルハルトに随伴した代理官」として一人ずつ数えられている。


 一人目には配置解除。二人目は備考欄の大半が黒塗りになっており、三人目には魔力神経損傷。その先にも任務継続不能、長期療養、配置解除といった文字が点在し、いくつかは理由そのものが閲覧できなかった。


 やがて、一人の名前の横で視線が止まる。


死亡。


 理由はなかった。


 どの任務で何が起こったのかも、今のリセアに許されている閲覧範囲には残されていない。それでも、その二文字だけで十分だった。


 星牢でアイゼルから聞かされた言葉が、今になって紙の上で重さを持つ。


 辞めた。壊れた。死んだ。理由はそれぞれだ。


 あの時は、一つの恐ろしい数字として聞いていた。


 けれど今、目の前には十一人分の名前がある。


 誰かがあの黒い扉を越え、ルゼンの金色の炎を見た。日々の出力を測り、封鎖具を確認し、言葉を交わした者もいただろう。恐れた者も、彼を理解しようとした者もいたのかもしれない。


 そして、何かが起きて、その場所を去った。


 ――みんな最後は同じだった。


 昼前のルゼンの声が蘇る。


 何が同じだったのか。その答えは、この記録を読んでもまだ分からなかった。


 リセアは指先で一つずつ名前を追い、十一人目の下へ辿り着いた。


 そこには、もう一つだけ枠があった。


 名前の記されていない、十二人目の欄。


 アイゼルから数字だけを告げられた時には、ただ恐ろしいと思った。けれど今、その数字の前には十一人の名前があり、誰かが生きた時間の残骸がある。


 やがて、この空白には自分の名が入る。


 リセア・アルヴェイン。正式な職位は随伴封鎖官補佐。それでもルゼンへ付いた代理官として数えるなら、自分が十二人目になる。


 空白の備考欄へ目を移すと、そこにもいつか文字が入るのだろうという考えが自然に浮かんだ。配置継続、解除、損傷。あるいは、この記録のどこかにあった二文字。


 そこまで考えたところで、リセアは静かに息を吐いた。


 まだ何も書かれていない。


 それなら、今から自分で最悪の結末を埋める必要もない。


 指先を空白から離して次のページへ進むと、そこから先はさらに黒塗りが増えていた。


 封鎖強度変更、外部接触制限、一時隔離。何らかの事故を示しているらしい日付だけが残り、大部分を黒い帯が覆っている。何が起きたのか分からないまま、それでも前後の記録から、ルゼンの出力が急激に上昇した日や、逆に数日間だけ異常なほど低下した時期、星牢への立ち入りそのものが制限された期間があったことだけは読み取れた。


 一つずつ追っていた視線が、ある行で止まる。


 そこだけは、黒く消されずに残されていた。


――第七演習場事故後、一時出力低下。対象、外部接触を拒否。


 リセアの指が止まった。


 第七演習場。


 その四文字を認識した途端、胸の奥で何かが熱を持った。そこは候補生として最後の実技へ臨み、規定を外れた封鎖を行った結果、一年間任命を見送られることになった場所だった。


 なぜ、その名がルゼンの記録にある。


 紙の文字が揺れたわけではないのに、一瞬だけ視界の奥を金色が走った。


 焦げた空気。砕けた術式。ひび割れた魔法陣。


 そして、記憶とも幻聴ともつかない低い声。


 ――見るな。


「リセア?」


 ガレンに呼ばれ、意識が資料室へ戻った。


 顔を上げると、向かいからこちらを見ている。その背後では、西日が先ほどより低くなり、書架の影を長く床へ引き延ばしていた。


「大丈夫か。顔色悪いぞ」

「……少し、疲れただけです」


 そう答えながら記録へ目を戻すと、ガレンの視線も同じ箇所へ落ちた。


「第七演習場……お前の事故って、そこだったか」

「はい」


 日付を確かめる。


 間違いない。リセアが事故を起こした、その日だった。


「これ、どうしてルゼンの記録にあるんですか」


 ガレンは身を乗り出して記述を確認したが、すぐに首を振った。


「俺に聞かれても分からん。この前後が黒なら、俺にも見えてない」

「でも、事故のあとにルゼンの出力が下がってる」

「そう書いてあるな」

「偶然でしょうか」


 口にしながら、自分でも答えの出ない問いだと分かっていた。


 ガレンもすぐには答えず、しばらく記録を見たあと、椅子の背へ身体を預けた。


「偶然かもしれない。違うかもしれない。今見えてる情報だけじゃ、どっちとも言えん」


 まっとうな答えだった。


 だからこそ、胸の中に残る引っかかりは消えなかった。


 自分が規定外の封鎖を行った日、同じ日に地下深くにいたルゼン・ヴァルハルトの出力が下がっている。それだけならまだ何も意味しない。


 けれど、任命式で彼の名を聞いた時に浮かんだ記憶。金色の炎を目にした時に蘇った声。そして今、この記録。


 ばらばらだったものが少しずつ近づいているように感じるのに、それらを一本に繋ぐものだけが見つからなかった。


「お前、その事故の調査で一年残ったんだろ」

「はい」

「なら、余計に今日はそこまでにしとけ」

「でも――」

「明日も記録は逃げない。それに報告書も残ってるんだろ」

「……はい」

「だったら優先順位を間違えるな。読む、書く、寝る。全部仕事だ」


 思わず顔を上げる。


「寝るのも?」

「当然。寝不足の代理官が判断を誤って、一番迷惑するのは現場だぞ」


 ミナにも似たようなことを言われた。


「分かりました」

「“分かった”じゃなく守れ」

「……守ります」

「よし」


 ガレンはそれ以上追及しなかった。


 リセアも黒い記録を閉じたが、表紙に記されたルゼン・ヴァルハルトという名前へ、もう一度だけ目を落とした。


 星牢で見た彼と、ここに記録されている彼はもちろん同じ人物だ。それでも、同じだとは思えなかった。


 紙の上には出力と封鎖履歴と、周囲で起きた出来事が残っている。そこに嘘が書かれているとは限らない。けれど、事実だけをいくら積み上げても、人間一人がそのまま紙の上へ移るわけではないのだろう。


「ガレンさん」


 資料を返す前に尋ねる。


「こういう記録って、誰が書くんですか」

「一人じゃない。管理局、封鎖局、医療区。案件によっちゃ魔法院側の記録も入る」

「じゃあ、書いた人によって内容も変わる?」

「そりゃな」


 ガレンは黒い資料束を指先で軽く叩いた。


「記録は必要だ。残さなきゃ次の奴が同じところで死ぬ。でも、記録ってのは誰かが見て、必要だと思ったものを残した結果でもある。残した奴の都合もあれば、消した奴の都合もある」


 黒く塗られたページが頭に浮かぶ。


「だから、書いてあることを疑えって意味じゃない。書いてないものがあることを忘れるなってことだ」


 リセアは静かに頷いた。


 それなら、自分がこれから書く報告書も同じなのだ。


 何を書くか。何を書かないか。その選択そのものが、次に読む誰かの中でルゼン・ヴァルハルトという人物の形を作っていく。


 昼前、彼が吐き捨てた言葉の意味が、少しだけ違って聞こえた。


 勝手に見て、勝手に記録して。


 リセアは資料束から手を離した。


   *


 初回観測報告の下書きは、そのまま封鎖局の記録室で作ることになった。


 資料室を出る頃には、西の窓を染めていた光もかなり薄くなっていた。記録室へ移ると、窓辺には夕暮れの名残が細く残るだけで、室内ではすでに記録灯が点されている。


 候補生宿舎で使っていた机より広い記録机には、左側へ参照資料、中央へ報告用紙、右側へ観測板を並べられるようになっていた。壁際の棚には過去の任務報告が年度別に収められ、誰かが使い終えたばかりなのか、隣の机にはまだ乾ききっていないインクの匂いが残っている。


 椅子へ腰を下ろしたリセアは、一度だけ左手を開閉した。魔力焼けの痺れは昼より薄くなっている。


 ペンを握る。


特異体ルゼン・ヴァルハルト 初回観測報告


 そこまで書いたところで、星牢の奥に揺れていた金色の炎が目の裏へ蘇った。


「俺の何を知ってる」と問うた声。「帰れ。まだ間に合う」と言った金色の瞳。第三封鎖鎖が締まり、その顔がほんの僅かに歪んだこと。


 綺麗だと思った炎。


 怖いと思ったこと。


 どれも今日、確かに自分が見たものだった。


 けれど、すべてを同じように報告書へ書けばいいわけではない。


 リセアは一度息を吐き、まず観測した事実から記していった。


対象魔力出力、高位。常時暴発状態にはない。第三封鎖鎖と対象魔力の干渉により、一部流路が内側へ反転している可能性あり。補助封鎖札による流路角度変更後、封鎖圧および対象出力の低下を確認。


 続けて、ほんの少し迷ってから次の一文を書く。


管理責任者の制止後、許可を得ず補助封鎖札を使用。


 その一文だけは、書いている途中でペン先が僅かに重くなった。


 第三封鎖鎖の異常に気づいたことは事実で、介入の結果として出力が下がったことも事実だ。けれど、その結果だけを残せば、いつかこの報告を読む者が同じ行動を「成功した対処法」と受け取るかもしれない。


 結果が出たことと、判断が正しかったことを混同するな。


 アイゼルの言葉を思い出し、リセアは自分に不利な一文を消さないまま、対象反応の欄へ進んだ。


観測行為に対し、強い拒否反応あり。過去の観測・記録行為に関連する発言を確認。原因については現時点で断定不可。


 そこで再びペンを止める。


 断定不可。


 便利な言葉だった。分からないものを、無理に埋めずに残すことができる。

 けれど、その理由まで曖昧にしてしまえば、ただ判断を避けただけになる。


 しばらく考えたあと、その下へ文章を加えた。


断定不可の理由――対象の過去観測記録に閲覧制限箇所が多く、対象発言と過去事例との照合が現時点では困難なため。


 これなら、空白があることだけではなく、なぜ今そこを埋められないのかまで残せる。


 最後に身体反応の項目へ、術式越しの接触後に左上肢へ軽度の魔力神経過熱反応が生じ、医療区で処置を受けたことを記した。


 一通り書き終えたところで、リセアはペンを置いた。


 朝までは、自分が記録される側だった。名前を呼ばれ、資格と適性を読み上げられ、辞令を渡され、星牢へ送られた。


 今度は、自分が誰かについて記録する側にいる。そのことが、思っていたより重かった。


 記録しなければならない。次の事故を防ぐために。誰かが同じ封鎖具に触れた時、自分と同じ危険を繰り返さないために。


 けれど、紙の上へすべてを埋めることだけが記録ではないのかもしれない。


 確かめられたことを書く。


 まだ確かめられないことには、無理に答えを与えない。


 その空白がなぜ残っているのかまで、次へ渡す。


 リセアはもう一度ペンを取った。


   *


 報告書の下書きを提出した頃には、窓の外の空がすっかり群青へ沈んでいた。


 魔導院の塔の向こうでは、王都の魔力灯がひとつずつ夜へ浮かんでいる。白い光が規則正しく並ぶ上層区、その下に広がる中層区、さらに遠くには旧土区の不揃いな灯が、深くなっていく空の下で淡く瞬いていた。


 記録室を出ると、回廊の壁際で短札の束を確認していたティナが顔を上げた。


「終わった?」

「ティナさん」

「さん付けはいい。長い」

「……ティナ」

「よし」


 腰のポーチへ短札を押し込んだティナは、そのまま顎で廊下の先を示した。


「宿舎、案内する。候補生宿舎の荷物、まだ全部は動かしてないんでしょ」

「大きいものはまとめました。でも、細かいものはまだ」

「任命式やって、星牢行って、医療区行って、封鎖局回って、報告書書いて、最後に引っ越しか。初日に詰め込みすぎだね」


 ぶっきらぼうな言い方だったが、怒りの向いている先はリセアではないらしい。


「ありがとうございます」

「礼は部屋見てからにしな。たぶん想像より地味だから」


 ティナについて魔導院本棟の東側へ向かうと、調律局や詠導局の宿舎が集まる区画から少し離れた場所に、封鎖局代理官用の低い建物があった。


 実働班の詰所と訓練場には近いが、中央棟の白い塔からは遠く、灰色の外壁には緊急招集用の星脈灯が埋め込まれている。出入口の脇には封鎖具の持ち出し記録板と小さな札掛けがあり、生活するための建物というより、任務へ送り出した人間が帰ってきたかを確認する場所のようにも見えた。


 ティナは札掛けへ手を伸ばし、空いていた位置から銀灰色の札を一枚取ると、そのままリセアへ差し出した。


「帰還札。出る時は裏、戻ったら表。夜間出動でも同じ」


 受け取って目を落とすと、札にはすでに自分の名前と所属が刻まれていた。


リセア・アルヴェイン 封鎖局


 たった二つの情報しかない。それなのに、自分の名前と「封鎖局」という文字が並んでいるだけで、胸の奥が妙に落ち着かなかった。


「戻ったら表にするの、忘れないで」

「忘れたら?」

「誰かが探しに行く」

「そこまで?」

「封鎖官は、戻らない時があるから」


 軽い調子で告げられた言葉だったが、ティナは笑わなかった。


 候補生だった頃なら、夜になって部屋へ戻らなければ点呼で名前を呼ばれる程度だっただろう。けれど今日からは、この札が裏のままなら、自分が任務から戻っていないという意味になる。


 誰かがそれを確認し、必要なら探しに出る。


 リセアは名前の刻まれた札を表向きに掛けた。金属同士が触れた小さな音を聞きながら、自分が候補生ではなく、任務へ出て、帰ってくる側の人間になったことを改めて実感した。


 ティナは階段を上がり、そのまま二階の廊下を奥へ進んだ。


「この辺は今ほとんど空いてる。長期任務で外に出てる奴もいるし、勤務時間もばらばら。夜は意外と静かだよ」


 そう言いながら奥から二番目の扉の前で足を止め、小さな鍵をリセアへ渡した。


「ここ」


 手のひらへ落ちた鍵の冷たさを感じながら扉を開けると、室内には寝台、机、椅子、小さな本棚、それに封鎖具を保管するための鍵付き棚が整然と置かれていた。


 候補生宿舎の部屋より少し狭く、装飾らしいものもほとんどない。ただし机だけは妙に広く、記録板と資料を同時に広げても十分な奥行きがある。その机を見ただけで、この部屋で暮らす者が一日の終わりに何をするのか、少し分かった気がした。


 窓の向こうに見えるのも、中央棟の白い塔ではなく封鎖局の訓練場だった。夜間用の低い灯りが点き始め、昼間には聞こえていた訓練の音も今は途絶えている。


「水回りは廊下の奥。緊急招集は赤灯三回、青灯二回なら待機。黒灯が入ったら寝てても外套だけ持って出る。細かい規則は机の一番上」

「分かりました」

「あと」


 出ていきかけたティナが扉のところで振り返った。


「ルゼンの随伴になったからって、何でも一人で抱えないこと」


 リセアが顔を上げると、昼間、詰所で話していた時よりもティナの目は静かだった。


「封鎖官は、一人で格好つける仕事じゃない。止める時は止める。逃がす時は逃がす。一人じゃ無理なら呼ぶ。自分で抱えて何とかすることより、間に合わせることの方が大事だから」


 星牢で聞いた「帰れ。まだ間に合う」という声と、昼間の訓練盤の前でティナに言われた「自分に流すのが、一番まずい」という言葉が、続けて頭をよぎった。


「……覚えておきます」


 ティナの眉が僅かに上がったが、今日は「覚えるだけじゃ足りない」とは続かなかった。


「まあ、最初はそれでいいよ。本当に困ったら呼びな。同じ棟にはいるから」


 優しい言い方ではないし、手を差し伸べるような響きもない。それでも、ひどく温かい言葉に聞こえた。


「ありがとうございます」


 ティナは小さく手を上げ、そのまま廊下へ出ていった。


 扉が閉まると、部屋の中へ静けさが戻った。


 リセアはしばらくその中央に立ち、朝までいた候補生宿舎とは違う空気を確かめるように室内を見回した。


 ここは封鎖局の代理官宿舎だ。


 今日から、自分はこの部屋へ帰ってくる。


 星牢で金色の炎に拒まれても、報告書へ「断定不可」と記さなければならなくても、魔力へ触れて左腕を焼いても、首輪係の巣へようこそと笑われても、一日の終わりにはここへ戻る。


 胸元へ触れると、朝に受け取った星紋章が指先へ当たった。一日中身につけていたせいか、もうあの時のような冷たさはない。


 鞄を机の上へ置き、今日の報告書を取り出したあと、リセアはその隣へもう一冊、古びたノートを置いた。


『わたしが魔法使いになったら』


 十五歳の夜から、何度荷物を整理しても捨てられなかったものだった。


 昔の自分なら、この中へ何を書いただろう。空を飛ぶ魔法。灯りを生み出す魔法。誰かを救う魔法。そして、星に選ばれた自分。


 けれど今日は開かなかった。


 代わりに、その隣の報告書へ目を向ける。


 夢を書いたノートと、今日見た現実を残すための報告書。


 どちらか一方が間違っていたわけではない。


 魔法を好きだったからこそ、今ここにいる。魔法を捨てられなかったから、魔法を止める仕事を選んだ。


 二つの紙は、同じ机の上に並んでいた。


 窓の外では、夜の魔力灯が淡く灯っている。その向こう、魔導院の地下深くには星牢がある。黒い扉の奥で、金色の炎は今も揺れているのだろうか。


 ルゼン・ヴァルハルト。十八歳。歴代随伴代理官、十一人。そして、第七演習場。


 今日一日で、新しく知ったことは増えた。


 けれど同時に、埋まっていない場所も増えた。


 歴代代理官の黒塗り。第七演習場との繋がり。ルゼンが観測を拒む理由。そして、まだ名前しか入っていない十二人目の欄。


 答えの出ないものを、急いで答えへ変える必要はない。


 今残せる事実と、まだ埋めることのできない空白を、どちらもそのまま記しておけばいい。


 リセアは椅子へ腰を下ろし、報告書の続きを広げた。


 胸の奥には、まだ金色の熱が残っている。


 それをただ抱え込むのではなく、一つずつ文字へ変えていくように。


 新しい部屋の静けさの中で、十二人目の代理官は初めての報告書の続きを書き始めた。

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