第1話「一年遅れの封鎖官」前編
王立星脈魔導院の候補生宿舎の朝は、ひどく静かだった。
窓の外にはまだ薄い朝霧が残り、白い尖塔の輪郭を淡く滲ませている。
遠くの飛空艇庫から低い駆動音が一度だけ届いたが、それもほどなく消え、部屋には再び深い静寂が戻った。
リセア・アルヴェインは、狭い一人部屋の中央に立っていた。
候補生宿舎の部屋は、必要なものだけでできている。
寝台と机、衣装棚、小さな洗面台。
壁には備えつけの魔力灯があり、窓際の棚には代理官課程で使い込んだ教本と、何冊かの古いノートが並んでいた。
相部屋ではないことをありがたいと思う日もあれば、その静けさが嫌になる日もあった。
嬉しいことがあっても、すぐに話す相手はいない。
けれど悔しいことがあっても、誰かの寝息を気にして平気なふりをする必要はなかった。
布団を頭までかぶってしまえば、泣いたところで誰にも気づかれない。
この一年は特にそんな孤独と自分自身に向き合わなければならず、自分よりも先を行く同期たちを思い出しては、自分のいる状況を受け入れられなくなったりもした。
本来なら去年、同期たちと一緒にこの部屋を出ているはずだった。
ミナは、魔力神経の安定と回復を担う調律官として調律局へ。
セラは、詠唱補助や術式支援を担う詠導官として詠導局へ。
二人は正式な魔導代理官となりそれぞれの任務へ進んだが、リセアだけが、もう一年、候補生宿舎に残った。
長かった。
その一年を思い返すように、しばらく静かな部屋を見渡す。
机の角に残った小さな傷。何度も引き出して縁が擦れた椅子。試験前の夜に積み上げたまま眠ってしまった教本。
見慣れすぎて、もう意識することもなくなっていたものばかりだった。
それでも今日で最後になると思うと、ほんの少しだけ寂しさのようなものを感じる。
ふと視線を外すと、壁の魔力灯が淡く点滅し朝の時刻を知らせた。
ひとつ息を吸い、衣装棚の扉を開けると、そこには今日から着る正式な代理官服が掛かっていた。
黒を基調にした内衣に、紺青の裏地を合わせた白い外套。
肩から裾へ落ちる布は候補生の制服より厚く、袖口には細い金糸で星紋が刺繍されている。
手に取ると、思っていたより重かったが、その重さが今日から自分が背負うものの形をしているように思えた。
Ⅱ型は、自ら魔法を外へ発現できない。
その代わり、魔力そのものに触れることができる。
星霊祝福の儀でⅡ型と判定されてから、リセアが初めて自分の道として意識したのが、魔導代理官という仕事だった。
専門課程を修め、国家資格試験を通過したⅡ型だけが就くことを許される国家資格職。
暴走する魔力を止める封鎖官、乱れた魔力の流れを整える調律官、魔導士の詠唱や術式を支える詠導官など、それぞれの適性に応じた役割がある。
魔法を宿せなかった者が、それでも魔法のすぐそばに立つための道だった。
白い外套に袖を通し、襟を整えると鏡の中には、見慣れた自分とは少し違う姿が映っていた。
濃い紫の長い髪と、緊張の抜けきらない顔。
その上に、まだ身体に馴染んでいない真新しい白い外套。
似合っているのかは分からないが、少なくとも鏡の中にはもう、十五歳の夜、一人で泣いていた頃と同じ少女はいない。
決して平坦ではない道を、自分を律し続けながら歩んでここまで来た。
裕福とは言えないⅡ型の人間が魔導院に通う方法は、学費全額が免除される特待枠での入学のみである。
だが、特待枠を競う者の中には幼い頃から家庭教師をつけ、専門教育を受けてきた貴族の子弟も珍しくないため、そこに割り込める可能性は限りなく低いと言われていた。
それでも諦めるという選択だけはせず、結果を得るために来る日も来る日も机に向かい、家に籠り続けた。
無理をする必要はない。
Ⅱ型として、もっと穏やかに生きる道もある。
両親は何度もそう言って止めようとしたが、
三度目の挑戦で、ようやく鬼門と言われる上位十名の特待枠を掴み、アルヴェイン家を出てユリウスと同じように宿舎に入った。
二年間の候補生生活で勉学に励み、実践を積み、そして去年。
ようやく迎えた魔導代理官になるための最終実地試験で、同期の中でただ一人、不合格となった。
詳しいことを思い出そうとすると、今でも記憶の一部が白く霞む。
荒れ狂う魔力。ひび割れた演習場。耳の奥まで震わせた轟音。
そして、自分へ向けられた候補生たちの好奇の視線。
一度不合格になった事実は今も、消化しきれず背中のどこかに薄く貼りついている。
だが、今日はそれとも改めて向き合わなければ行けない。
そこまで考えて、顔が歪みそうなことに気づき鏡から目を逸らした。
机へ視線を移すと、そこには古いノートが一冊置かれていた。
『わたしが魔法使いになったら』
十五歳の夜、涙で文字を滲ませたノート。
そっと表紙に触れる。
魔法使いには、なれなかった。
それでも魔法のそばへ、戻ってきた。
それが本当に正しい道なのかは、まだ分からない。
けれど今日は、生徒としてではなく、魔導代理官としてここを出る。
「……大丈夫」
口にしてみると、静かな部屋の中では思った以上にはっきり聞こえた。
誰に聞かせるでもない。
自分に言い聞かせるための声だった。
*
王立星脈魔導院の朝は、白く眩しかった。
高い尖塔の先に触れた朝日が、磨かれた石畳へ淡い金色を落としている。
星霊を象った紋章が刻まれた院舎の向こうでは、空へ伸びる渡り廊下をかすめるように、訓練用の小型飛空艇がゆっくりと高度を上げていった。
見上げれば青い空があり、足元には星脈陣を模した白銀の線が続いている。
五年前には、どれも自分には届かないものだと思っていた。
今、その世界の中を歩いている。
宿舎棟から中央棟へ向かう途中、白樺の木の下に見慣れた姿を見つけた。
肩ほどまで伸びたブラウンの髪に、柔らかな目元。
白を基調とした制服には、調律局を示す水色の差し色が入っている。
ミナ・セルフィはリセアに気づくと、ほっとしたように笑った。
「おはよう」
「ミナ」
近づいてきたミナは、真新しい白い外套を上から下まで眺めた。
それから、祝いの言葉でも言うように口を開いた。
「おかえり」
その一言で、胸の奥が詰まる。
想像していたおめでとうでも、久しぶりでもなく。
おかえり。
それが、思っていたよりずっと優しくて、心地よかった。
「……ただいま」
そう返すとミナは満足そうに頷いたが、すぐに目を細めた。
「顔色は?」
「普通」
「普通って便利な言葉だね」
「緊張はしてる」
「それは正直でよろしい」
顔を覗き込まれ、リセアは目の下にできたくまを慌てて隠すように顔を手のひらで覆った。
「眠れた?」
「少し」
「少し?」
「……かなり浅かった」
「うん。そっちが本当だよね」
ミナの声はいつも穏やかだが、昔から誤魔化しだけはあまり通じない。
わかっているのに、誤魔化す癖も相変わらず治らない。
候補生時代のことを思い出し、気づかないうちに肩へ入っていた余分な力が抜けていった。
「ミナ、今日、医療区は?」
「午前だけ外してもらった。任命式を見届けたら戻るよ」
「わざわざ?」
「わざわざ」
当然のように言って、ミナは笑った。
「一年待ったんだから。それくらいするよ」
嬉しさと同時に、自分のためだけに時間を作らせてしまったことへの申し訳なさで胸がいっぱいになる。
本当なら、去年の春に三人揃って任命されているはずだったが、
最終実地試験で起きた、第七演習場暴走事故に巻き込まれたことにより予定が狂ってしまった。
リセアは規定外の封鎖術を使い試験は不合格扱い。
その後には事故調査、再審査、補講、再試験が続いた。
そうして一年足踏みをしているうちに、ミナもセラも魔導代理官となり、今では一年先をいくリセアの先輩という立ち位置にいる。
「ありがとう」
「それは受け取る。でも、まだ泣くには早いよ」
「泣かない」
「泣きそうな顔してる」
「してない」
「してる」
言い返せずにいると、背後から涼しい声が落ちてきた。
「朝から随分と感傷的ね」
振り向けば、廊下の柱にもたれるようにセラ・オルディスが立っていた。
濃紺の長い髪を低い位置でひとつに結び、前髪はまっすぐに切り揃えられている。
詠導官の制服には皺ひとつなく、袖口を縁取る金糸に至るまで、いかにもセラらしく隙がなかった。
「セラ」
「何。その顔」
「来ると思ってなかったから」
「別にあなたのために来たわけじゃないわ。中央棟に提出する資料があっただけ」
「そっか」
「……任命式の時間と、たまたま重なっただけよ」
横を見ると、ミナがにこにこしていた。
「セラ、朝からずっと時計見てたよね」
「見てない」
「任命式が何時からだったか、三回確認してた」
「業務上の時間確認よ」
「うんうん」
セラは眉を寄せたものの、それ以上は反論しなかった。
思わず笑みがこぼれる。
彼女は、大丈夫、よかったね、頑張ったね、と真正面からわかりやすく優しい言葉をかけてくれるような人間ではない。
そんな彼女がたまたまと言いつつ顔を出しに来た。
その行動だけで、彼女の中の優しさは候補生時代から変わらないのだと嬉しくなった。
「一年遅れたからって、今日から新人であることに変わりはないわ」
和らいだ空気を切り替えるように、セラが言った。
「任命されたら、候補生時代みたいに守られない。局に入れば、失敗はあなた一人の評価では済まない。担当する魔導士の命に関わることもある」
「セラ、今日くらいもう少し……」
ミナが困ったように眉を下げた。
「いいの」
首を振り、セラを見る。
「分かってる。ありがとう」
セラは一瞬だけ視線を逸らした。
「礼を言われることじゃないわ」
言葉はいつも通りだったが、その声にはわずかな柔らかさが混じっていた。
*
任命式は、魔導院中央棟の星環ホールで執り行われる。
円形のホールへ足を踏み入れた瞬間、リセアは無意識に天井を見上げた。
遥か頭上には、星霊信仰に基づく巨大な星図が広がっている。
白銀の線で結ばれた星々は中央へ向かって幾重もの輪を描き、その真下、磨き上げられた床には同じ形を写し取った星脈陣が刻まれていた。
新任代理官たちは、その星脈陣を囲むように整列している。
周囲には、緊張で肩を強張らせている者もいれば、誇らしげに胸を張る者もいる。
二階の参列席に家族の姿を探し、何度も視線を上げる者もいた。
ほとんどが、自分より年下なのを確認し、
一年という時間がいかに長かったかを実感してしまう。
リセアが列に入ろうとすると、近くにいた数人がコソコソと耳打ちを始めた。
「嘘、あれ、去年落ちた人だよね」
「今年は受かったんだ」
「例の第七演習場の子でしょ」
「まあ封鎖官確定でしょ」
...何も言われないとは思っていなかったが、想像以上に自分を知る者が多い。
息を潜めていたつもりが、一年がたったいまでも話題に上がるほど、彼らにとっては大きな出来事だったのかもしない。
噂話をしていた数人から離れ、比較的余裕がある列に並び直した。
本当なら、去年この列に並んでいた。
胸の奥に引き続き鈍い痛みが走るが、それを無理に押し殺そうとは思わなかった。
痛いままで、ここに立てばいい。この痛みを、むしろ忘れては行けない。
周囲につられて顔を上げると、二階席には、先任代理官や各局の関係者が並んでいた。
調律局医療区の席にはミナの姿があり、こちらに気づくと、胸の前で小さく手を振った。
少し離れた詠導局の席では、セラが腕を組んでいる。
目が合うと、ほんのわずかに顎を引いて口を動かした。
始まる。
その言葉に背筋を伸ばして正面へ視線を戻すと、壇上に魔導院長が姿を現した。
老齢の院長が手にした白銀の杖を床へ一度打ちつけると、澄んだ音が星環ホールを巡った。
それまで残っていた小さな話し声が消え、数百人の気配がひとつの沈黙へ収束していく。
院長は、整列した新任代理官たちをゆっくりと見渡した。
「今日この場に立つ諸君は、星に力を与えられた者ではない」
低く、よく通る声だった。
「それでも諸君は学び、訓練を重ね、自らの意思で魔力の傍らへ戻ってきた」
リセアは、知らず息を止めていた。
候補生時代にも、同じ趣旨の訓示を何度となく聞いている。
けれど今日は、その言葉が自分へ向けられている。
「魔導代理官に求められるのは、魔導士への盲従ではない。また、その力を恐れるだけの従者でもない。支えるべき時には支え、止めるべき時には止める。その判断を誤れば、失われるのは術式でも名誉でもなく、人の命である」
ホールの空気が、ひときわ張りつめた。
「己が魔法を持たぬことを恥じるな。そして、魔法を持たぬからこそ見えるものがあることを忘れるな」
その一言だけが、胸の奥へ深く落ちた。
リセアはその見えるものに出会えていないからこそ、どんな
やがて院長が杖を胸元へ掲げると、二階席を含め、ホールにいる代理官たちが一斉に頭を垂れた。
星霊への祈りが始まる。
「天を巡り、星脈を渡る光よ」
静かな唱和が、巨大なホールに満ちた。
「我らに宿らぬその力を、畏れず、奪わず、正しく見届けるための目を与えたまえ」
リセアも胸元へ右手を添えた。
「力ある者の傍らに立つ時、驕らず。力なき者の前に立つ時、侮らず。我らの手が、星と人との境を違えぬための導きとなりますように」
最後の言葉が消えると、天井の星図が淡く明滅した。
それに応えるように、床の星脈陣へ白銀の光が走る。
祝福ではない。
魔法を授けるための光でもない。
それでも一瞬、十五歳の春に立った星霊殿が脳裏をよぎった。
あの時何も宿らなかったリセアは、今、自分の意思でここに立っている。
それを、少しだけ誇らしく感じる自分が心の奥底にいた。
祈りが終わると、今度は任命を受ける者たちだけが一歩前へ出た。
壇上の書記官が誓約文を開く。
「右手を胸へ」
それぞれが一斉に胸に手を当てると、無数の衣擦れの音が重なり、
一つの楽器のように静かなホールへ響き渡った。
リセアも、星紋のまだない胸元へ手を置く。
「我ら魔導代理官は、星脈に触れる者として、その力を私欲に用いず」
新任たちの声が、一つになる。
「魔導士の力を正しく支え、必要とあらばこれを制し、王国に生きる民の命と秩序を守ることを誓う」
「我らの判断を、恐怖にも情にも委ねず」
「知識と責務に基づき、自らの意思をもって行うことを誓う」
最後に、院長が問うた。
「その責務を負う意思はあるか」
一瞬の静寂。
「あります」
声が、星環ホールを震わせる。
候補生時代何度も練習した言葉たちだったが、今日はその一つひとつが今までとは違う重さを持って心の奥底へ沈んでいった。
その余韻に浸る間もなく、任命が始まった。
「サリア・ネスト」
「はい」
名を呼ばれた少女が列から進み出る。
任命官は書面を読み上げ、所属と職位を告げたあと、代理官の証である星紋章を手渡した。
「調律局、医療支援第二班」
控えめな拍手が起こる。
次の名前。
「詠導局、航路灯補助班」
また次の名前。
「封鎖局、都市結界保全班」
一人ずつ、これまで候補生だった者たちが代理官として送り出されていく。
それを見ているうちに、手のひらへじっとりと汗が滲んだ。
順番が近い。
息を整えようと顔を上げると、天井いっぱいに広がる星図が目に入った。
その瞬間、五年前の景色が重なる。
白い尖塔。
星脈陣。
エルネの指先に灯った、小さな金色の火。
選ばれなかった夜。兄の空席。窓の向こうを飛んでいった白い飛空艇。
会えないまま遠くなった、ユリウスの背中。
指先を握っても何も宿らないが、それでも、ここにいるのだ。




