星に選ばれなかった夜
私は、選ばれなかった。
そう思った瞬間、星霊殿の中に満ちていた光が、ひどく遠くなった。
白い尖塔の先から降り注ぐ春の陽射し。
磨き上げられた大理石の床。
天井いっぱいに描かれた星図。
銀の輪を幾重にも重ねた星脈陣。
そのすべてが、さっきまでは眩しいくらいに美しく見えていたのに。
今は、まるで硝子越しに、手の届かないものを眺めているようにぼやけていた。
*
十五歳の春。
アストラリア王国に生まれた子どもたちは、白い尖塔を持つ星霊殿へ向かう。
星霊祝福の儀。
そう呼ばれる儀式は、王国に生きる者にとって、二度目の誕生日のようなものだった。
生まれた日に身体を与えられ、十五歳の春に運命を与えられる。
星に祝福された者は、Ⅰ型となる。
魔法を授かり、空を守る魔導士への道が開かれる。
星に触れられても、魔法を宿さなかった者は、Ⅱ型となる。
自ら魔法を外へ発現することはできない。
けれど魔力に触れ、それに耐える性質を持つ者として、魔導士を支える道が残される。
そして、星に拒まれた者は、Ⅲ型となる。
そこまで説明すると、大人たちの声はいつも少しだけ小さくなった。
その先にあるものを、子どもには聞かせたくないとでもいうように。
リセアは、その声が嫌いだった。
そのたびに、まだ何者でもない自分まで、息を潜めなければならないような気がして、耳を塞いでしまいたくなる。
けれど今日は、自分の耳でしっかりと受け止めなければならない。
自分が何者なのかを、星に決められる日なのだから。
儀式の列に並びながら、リセアは両手を胸の前で握りしめていた。
指先が冷たい。
無意識に緊張と期待で力が入りすぎているのかもしれない。
今日、星が降る。
今日、自分にも魔法が宿る。
そう思うだけで、目の前に自分の道が開かれた後のことばかり考えてしまう。
考えすぎて息苦しくなるくらい、この日を待ち望んでいた。
星霊殿の天井には、王国の空を写し取った巨大な星図が描かれている。
白銀の線で結ばれた星々は、まるで空そのものが大きな魔法陣になったように輝いていた。
床には円形の星脈陣があり、中央に立つ子どもを囲むように、銀の輪が幾重にも刻まれている。
兄のユリウスも、五年前にこの場所へ立った。
その日の記憶は、リセアの中でもひどく曖昧だった。
残っているのは、星霊殿の外で待っていた時の空気と、扉の向こうから聞こえた歓声だけ。
Ⅰ型。
星に選ばれた子。
その知らせは旧土区の希望となり、どこへいくにも兄の名前を耳にするようになった。
両親の関心もしばらく兄の未来を中心に回り、リセアが食卓にいなくても気づかない日があるほどだった。
魔法院へ入るための支度。必要な書類。王都での生活。仕立て直された外套。
『なんでもできる兄を持ってよかったわね、リセア。どこへいっても鼻が高いでしょ。...あっ、ほら、やっぱりこの色がユリウスに似合うわ!リセアもそう思わない?』
リセアは、はしゃぐ母の''それ''を少し離れた場所で聞いているフリをしながら、何度も頷いていた。
その時の自分がどのような感情でいたのか、今となってはあまり思い出せないが、兄を嫌いだったわけではないことは確かだ。
ただ、ユリウスの名前が誇らしく呼ばれるたび、自分の名前が少しだけ遠くなる気がして居心地が悪かったのかもしれない。
魔導院へ入って宿舎暮らしとなった兄は、ほとんど家へ戻らなくなったが、両親の兄への関心は高まるばかりで、短い手紙が届くと旧土区の皆んなへ知らせにいくほどだ。
リセアが自分へ何か一言ないか確かめようにも、人気者の手紙はいろんな人の手に渡るが故に所在がいつもわからず、読むことをいつしか諦めるようになった。
ユリウスが自分を見る時の、あのなんとも言えない顔を思い出しては、自分に何か言葉を残すほど暇ではないのだ、と言い聞かせた。
兄が何を考えているのか、リセアには分からない。
自分も兄に何を伝えたいのか、そもそも伝えたいと思っているのか、分からなかった。
だから二人の間には、いつも少しだけ距離があった。
そんなことを思い出して遠くに沈みかけていた意識を、儀礼官の声が引き戻した。
「エルネ・ソレイン」
「はい」
リセアの少し前にいた少年が、一歩進み出た。
旧土区第三街路で何度か顔を合わせたことがあり、
夕方の灯塔の下で、一緒に雨宿りをしたこともあった。
穏やかな声で話す子だったがその中に芯があるのをリセアは知っている。
エルネが星脈陣の中央に立ち、儀礼官が銀の杖を掲げた。
「星霊よ。この子に、ふさわしき導きを」
天井の星図が淡く瞬き、白い光が降った。
細い粒のような光が、エルネの肩に、髪に、指先に触れていく。
そして次の瞬間、彼の右手の人差し指に、小さな火が灯った。
金色の、やわらかな灯火。
途端に周囲の空気がふわりと暖かくなり、霊殿の中がわずかにざわめいた。
「Ⅰ型。灯火系統、初期発現確認」
儀礼官の声が響き、エルネは自分の指先を信じられないものを見るように見つめた。
困惑がに染まったその目の奥には、嬉しさが滲んでいるようにも見える。
リセアは、その小さな火から目を離せなかった。
綺麗だった。
旧土区の夕暮れに点る魔力灯よりも、ずっと小さくて、ずっと頼りない。
けれど確かに、それはリセアが焦がれてやまない魔法だった。
いざ目の当たりにすると、胸の奥が熱くなりはやる気持ちを抑えきれなくなる。
次は、自分の番。
エルネが星脈陣から降りる姿を見守っていると、ふとエルネの顔がこちらを向いた。
おめでとう。
目があってすぐに、声には出さず、口の動きだけで伝える。
彼は何か言いたそうに唇を動かしたが、儀礼官の声がそれを遮った。
「リセア・アルヴェイン」
心臓が跳ねた。
「はい」
自分の口から発せられた返事は思っていた以上にまっすぐ響き、
少しざわめいた星霊殿を静かにした。
リセアはその静寂に驚きつつも星脈陣の中央へ歩き、銀の輪の内側へ入る。
足元の魔法陣が、薄く冷たい光を返した。
大丈夫。
エルネがⅠ型なら、私だってきっと。
ずっと勉強してきた。
魔法史も、星霊信仰も、魔導士の階級も、基礎術式の構造も。
魔法は使えなくても、魔法のことは誰より好きで、誰より知っている自信があった。
準備を全て整えてきた今日、リセアは自分の足でここへ立ちたかった。
誰かの妹としてでも、旧土区の子としてでもなく。
リセア・アルヴェインというたった一人の人間として。
「星霊よ。この子に、ふさわしき導きを」
儀礼官の杖が掲げられ、天井の星図が瞬いた。
きらきらとした光が降り注ぎ、リセアは目を閉じ、息を止めた。
星の粒が頬に触れ、肩に触れ、胸元を通り、指先へ流れていく。
ひんやりと冷たく、感じたことの無い感覚だが不思議と心地良さを感じた。
次第に身体の中に、細い水路のようなものが開く感覚が広がり、光がその隙間を通っていく。
押し流すのではなく、触れて、確かめて、すり抜けていく。
リセアは何かが来るのを待った。
炎でもいい。
風でもいい。
小さな光でもいい。
なにも大それた才がなくたっていい。
指先に、ほんの少しでも魔法が宿れば、それだけでよかった。
自分が見ている今の世界を魔法に染められるものならばなんでも。
星図の光が一度強く瞬き、リセアは身体に魔法を迎え入れる準備をした。
いよいよだと、高ぶる気持ちを抑えるために深呼吸をしようと息を吸った途端、
その光は、リセアの心の準備を待たずに消えた。
何も起こらず、再び静寂が落ちた。
リセアは、自分の両手を見下ろした。
手のひらから手の甲、指先、爪の隙間まで凝視し、自分の身体に宿っているはずの何かを探した。
どこにも、何もない。
火も。
光も。
風も。
氷も。
冷たさも、熱さも、何一つ、感じない。
自分の身体から急激に温度が失われていく。
儀礼官が星脈陣の反応板を確認した。
わずかな間。
その沈黙の短さが、かえって残酷だった。
「Ⅱ型」
声は淡々としており、感情は感じられない。
「魔力接触適性あり。外部発現なし」
外部発現なし。
その言葉だけが、星霊殿の白い壁に何度も反響した気がした。
何かの間違いではないかと、リセアは儀礼官をじっと見つめる。
けれど儀礼官の目は、すでに次に儀式を受ける子どもへ向いていた。
信じられない気持ちのまま、その場から動けずにいると、別の儀礼官がリセアの腕を取り、星脈陣の外へと連れ出した。
遠くなる星脈陣の中へ、自分とすれ違った子供が歩みを進めていく。
これで終わってしまうのか、もうできることは無いのか。
真っ白になった頭で考えるが、何も思いつかない。
されるがまま足を動かすリセアの後ろから、誰かが小さく息を吐いた。
落胆でも、驚きでもない。
もっと曖昧な、扱いに困ったような音だった。
列の脇へ下がったリセアに、誰かが「よかったよ」と囁く。
そして、その一言を皮切りに、周囲は口々に慰めの言葉をかけた。
「Ⅲ型じゃないなら安心ね」
「Ⅱ型なら、まだ普通に暮らせる」
「お兄さんがⅠ型だから、少し期待しすぎたのかも」
誰も、リセアを傷つけようとして言ったわけではない。
むしろその逆の意図で考えてくれたのだと、頭ではわかっている。
それでも、その言葉は全部、針のようにちくりと胸に刺さり積もっていった。
よかった。
普通。
期待しすぎ。
リセアは、指先を見つめたまま動けなかった。
何も宿らなかった手。
魔法を掴めなかった手。
同じ旧土区の子でも、選ばれる者は選ばれる。
選ばれない者は、選ばれない。
理屈では、たったそれだけのことだ。
けれどリセアには、どうしてもそれだけで片づけられなかった。
この日のために掲げてきた夢が、何度も心の中で、違う、こんなはずではなかった、と叫び続けてやまない。
張り詰めた空気の中で、聞き覚えのある笑い声が聞こえ、ふと顔を上げると、
星霊殿の入り口近くで、エルネが嬉しそうに誰かと言葉を交わしていた。
その姿を見た瞬間、リセアの胸の奥に、ずしりと鉛のような重いものが落ちた。
*
その日の夜、アルヴェイン家の食卓は、いつもより静かだった。
父は何度も咳払いをし、母は温かなスープをリセアの前に置いて、そわそわと目線を泳がせている。
兄の席は空いている。
もう何年も、そこにユリウスが座って食事をする姿を見ていない。
けれど、その空席は家の中で一番目立っていた。
誰も座っていないのに、いつもそこに兄の気配がある。
選ばれた人の席。
白い飛空艇に乗って、魔法院へ行った人の席。
リセアには届かなかった場所へ、先に進んでしまった人の席。
「...Ⅱ型なら、よかったじゃない」
母は優しく言った。
「Ⅲ型だったら、本当に大変だったもの。普通に暮らせるのよ」
「そうだな」
父も小さく頷いた。
「ユリウスとは違う道になるが、リセアにはリセアに合った生き方がある。無理に魔法にこだわる必要はない」
リセアはスプーンを握ったまま、黙っていた。
目の前にはご馳走が並んでいたが、なに一つ口をつける気にはなれなかった。
二人の言っていることも、心配してくれていることも分かる。
きっとこれは、慰めなのだ。
でも。
普通に暮らせる。
無理にこだわらなくていい。
リセアにはリセアに合った生き方がある。
それは全部、魔法使いにはなれないという事実の裏返しでしかない。
その言葉たちは、魔法という夢を失った心の穴を埋めてはくれない。
母が、兄の空席をちらりと見た。
「ユリウスにも、手紙を書かないとね」
リセアの息が、ほんの少し止まった。
「……兄さんに?」
「ええ。あなたの儀式のこと、気にしていたと思うから」
気にしていた。
その言葉が、胸に引っかかった。
気にしていたなら、どうして来なかったのだろう。
忙しかったから。
魔導士だから。
王国に仕える立場だから。
理由はいくつでも思いつく。
でも、心の奥では別の声がする。
会いたくなかったのかもしれない。
選ばれた兄は、妹が選ばれなかった時に、何を言えばいいか分からないのかもしれない。
あるいは、もう自分とは違う場所の人になってしまったのかもしれない。
それが本当かどうか、リセアには分からない。
ユリウスは何も言っていない。
選ばれただけで、リセアに何かをしたわけでもない。
ただ、互いに言葉を交わしてこなかったぶん、兄の沈黙はリセアの中で何度も形を変え続ける。
「リセア?」
母に呼ばれて、リセアは顔を上げた。
「うん。書いておいて」
「あなたも一言書く?」
リセアは少しだけ迷い、ゆるく首を振った。
「いい」
「そう?」
「うん」
何を書けばいいのか、分からなかった。
兄さん、私はⅡ型でした。
兄さんみたいにはなれませんでした。
会いに来てくれなかったのは、分かっていたからですか。
そんなこと、書けるはずがない。
頭に浮かぶのは、そんな言葉ばかりだった。
ユリウスがその手紙を受け取って、どんな顔をするのか。
考えかけて、すぐに打ち消した。
「ごちそうさま。おやすみ」
ほとんど口をつけないままそう告げると、両親の顔が分かりやすく曇った。
それを見ないふりをして、リセアは早々に自分の部屋へ戻った。
旧土区の家は小さい。
部屋の窓から見える空も、王都中心部ほど広くはない。
低い屋根と屋根の間に切り取られた夜空の向こうを、白い飛空艇が一隻、ゆっくりと通り過ぎていった。
魔法院行きの定期艇だろうか。
それとも、王都上層へ向かう貴族用の船だろうか。
どちらにしても、自分とは関係のない空だった。
リセアは机の引き出しを開けた。
古いノートが一冊、入っていた。
表紙には、幼い文字でこう書かれている。
『わたしが魔法使いになったら』
小さい頃から、何度も書き足してきたノートだった。
魔法使いになったら、白い飛空艇に乗る。
魔法使いになったら、旧土区の魔力灯を全部明るくする。
魔法使いになったら、困っている人を助ける。
魔法使いになったら、父さんと母さんを広い家に住ませる。
魔法使いになったら、兄さんと同じ場所に立つ。
「魔法使いになったら……」
ページをめくるたびに、胸が苦しくなった。
もう叶わない夢と希望が、そこに無邪気に並んでいる。
破って、燃やしてしまえたらいいのに。
そう思った。
でもリセアには、燃やすための魔法すらない。
それが悔しくて、気づけば頬に涙が伝っていた。
泣いたところで現実が変わるわけではない。
それでも、涙は止まらなかった。
リセアは目を擦ると、机に向かい、使い古したペンを取った。
新しいページを開く。
まっさらな紙面が、目の前に広がった。
ペンを握ったまま、しばらく何も書けなかった。
何を書こうと思ってペンを握ったのか、理由を探してふと窓の外を見ると、白い飛空艇の光が遠ざかっていた。
その光が完全に見えなくなる前に、リセアは震える手で一行を書いた。
『どうして私は、選ばれなかったんだろう。』
インクが少し滲んだ。
涙が落ちたのだと気づくまで、少し時間がかかった。
落ちた涙を袖で拭くと、書いた文字はさらにひどく滲んだが、
リセアは唇を噛み、もう一度ペンを握る。
『選ばれなかった。』
『魔法は宿らなかった。』
『星は、私を魔法使いにはしてくれなかった。』
それでも。
胸の奥には、まだ消えないものがあった。
悔しさ。
憧れ。
諦めきれない痛み。
星霊殿で降った光は、リセアの中に魔法を残さなかった。
けれど、その憧れまで消してはくれなかった。
リセアは泣きながら、もう一行を書いた。
『私は、まだ魔法を捨てられない。』
窓の外で、星が瞬いた。
その光が、リセアの手に宿ることはない。
けれどリセアは、ノートを閉じなかった。
涙で滲んだ文字を見つめたまま、何度も何度も、自分の中で繰り返した。
それでも私は。
まだ、魔法を捨てられない。




