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商会の酒場に皇城の異変の噂が流れてきたのは、リコリスが連れ去られてから九日目の夜だった。
「皇城で人死にが出ているらしい、しかも連続して」
御用聞きから聞き出した情報を共有するために、組織の若い男がカウンターに肘をつきながら言った。
「武官が急死、女官が一人転落死。馬も三頭。呪いだと噂になっている」
「呪いねえ」
グリシャが杯を傾けた。ヴォルクは黙って酒を下ろした。
また『あれ』が始まったのだ。しかも皇帝のそばからだ。
この治世もあと僅か。
潮時だ。
「グリシャ」
「迎えにいくんだろう」
グリシャはヴォルクの目を見て、それ以上何も訊かなかった。裏部屋から外套と剣を持ってきた。
「……あの鑑定士のことはわからんが、お前のことは信用している」
「世話になった」
「鑑定士にもよろしく言っておいてくれ。あいつの目利きにはずいぶん助けられた」
ヴォルクは頷いて、雪の中に出た。歩きながら思う。
商会での日々は悪いものではなかったし、グリシャは犯罪組織の幹部にしては理不尽なことを言わない、いい雇い主だった。自分と同じ成り上がり方をしてきた男だからかもしれない。
これからこの国は荒れる。ヴォルクが離れれば、おそらく影響も波及するが、リコリスがここにいなければ軽度だろう。
国が揺れたとしても、商人というものはしぶといので、運良く生き残る者もいるかもしれない。
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九日目、皇帝は来なかった。理由は告げられなかった。
給仕の女官が震える手で食事を運んできた。その目は赤い。
「皇帝陛下は、本日は、訪れぬとのことです」
「そうですか」
リコリスは驚かなかった。女官は何かを言いたげにしていたが、皇帝について客人に伝えることは禁じられているのだろう。口を閉じて出ていった。
壁際にいたアンナは顔色を変えていない。リコリスはその表情管理を見習いたいとすら思った。おそらく何かを知っているはずなのに悟らせない。
「未熟な者が粗忽な態度で、申し訳ございません」
「いいえ。何かお辛いことがあったのでしょうか……」
白々しいが、心配なのは本当だ。
腹は空いていたが食べる気にはなれず、食事には手をつけなかった。
皇帝が唇で触れた首筋をそっと指でなぞった。痛みはない。何も残っていない。ただ、その何も残っていないところから、相手だけが蝕まれていく。
こうなることを知っていた。距離が近いほど速いのだ。
暖炉の火を見ていた。祖国が燃えた最後の夜、空は赤かった。
この国の終わりはきっと白い。
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十日目の昼過ぎ、アンナが青い顔で離宮に入ってきた。
「リリス様。これから皇帝陛下がいらっしゃいますが、……毒を盛られておいでです」
「毒?」
「昨夜の食事に。犯人は捕まっております。お伝えする許可はとっています」
リコリスは暖炉の前で固まって動かなかった。やっとの思いで短く問う。
「……誰が」
「侯爵家の男です。陛下のやり方に異を唱えてのことだと」
侯爵家の家名を尋ねると、最初のパーティーで真っ先に声をかけてきた、あの夫人の家だった。
何度も邸へ呼ばれて宝石を見立てた。令息とは面識がある。はにかみながら宮廷勤めだと挨拶してくれた、祖父の形見の石を襟元から外さない、おとなしそうな青年。
「リリス様を、お救いしたかったのだと……そう、申していたと……」
アンナの声は平坦だったが、手が震えていた。
リコリスは目を閉じた。自分を救おうとした人間が、皇帝に毒を盛った。唆してもいないのに、自分の意志とは関係なく。暴走だと言ってしまえばそれまでだが、あのおとなしそうな青年の顔が脳裏に浮かんだ。
自分がここに囚われていなければ、彼が皇帝に毒を盛ることなどなかっただろう。
リコリスの離宮に訪れた皇帝は衛兵に支えられていた。顔色は灰色がかっていて、鋭かった目は濁っている。毒の影響か、リコリスに近づいた影響か、おそらく両方だ。
「陛下、ご無理をなさらないでください」
リコリスが立ち上がると、皇帝は衛兵の手を払い、自力で椅子に座った。
「余を殺そうとした者がいる」
「……伺いました」
「お前のために、だ」
皇帝の目がリコリスを見た。濁っていても、そこにはまだ執着があった。
「お前があやつを唆したのではないと知っているが、お前のせいでこの様だ」
「……申し訳」
「お前はそういう男だ。拒みもしない、望みもしない。何もしないのに周囲は勝手に踊る。実家との軋轢もそのあたりからきたものであろうよ」
皇帝に図星を突かれてリコリスは黙りこくった。慧眼だ。苦しげな顔で皇帝はくつくつと嗤う。
「この十日あまりで武官、女官、馬三頭。そして余に盛られた毒。お前をここに籠めてからというもの、物騒で仕方がない」
「……はい」
「お前は呪われているのか」
率直な問いに、リコリスはどう返すのが正解かわからず、少しの沈黙の後で力なく正直に答えた。
「………………わかりません……」
皇帝は力のない、かすれた笑いを漏らした。
「珍しく嘘ではなさそうだな」
皇帝は立ち上がろうとしてよろめいた。衛兵が駆け寄る。
「呪いであろうとなんであろうと、余は決してお前を手放さぬ」
そう言い残して、皇帝は衛兵に抱えられるように出ていった。
扉が閉まった後、リコリスはゆっくりと座り直した。アンナが水を持ってきた。
「飲めますか」
「……ありがとうございます」
水を受け取って、一口だけ飲んだ。手が震えていたのは、アンナではなくリコリスの方だった。
故郷の人間は恐れて遠ざかった。呪いごと手放さないと、皇帝は言う。遠巻きにされるのではなく、この「体質らしきもの」を含めて執着をされるのは初めてのことだった。
侯爵家の令息は処刑されるだろう。
自分のために、自分のせいで死ぬのだ。
リコリスは銀の眉根を寄せて目を閉じ、黙祷した。




