6 羽裏の記憶
言葉にしなくても、伝わることがある。
長く共に過ごした時間と、積み重ねてきた想いが、
それを可能にする。
けれど、それでもなお、確かめなければならないこともある。
水絵はなにも言えなかった。
頭の中で、いろいろなことがぐるぐると回って、何をどう考えていいか分からない。でも……考えなければならない。
ひとつひとつの物事を取り出して、片付けて――。片付けた物を頭の中に全部並べて、見回して……そうして、ひとつの答えを見つけ出した。
見つけた答えを確かめるように顔を上げると、鏡之介が静かに問うた。
「気持ちは決まったか?」
その言葉に、今まで、鏡之介が黙って見守ってくれていたことに気づく。
すでに入相。ずいぶん長いこと思い悩んでいたのに、ずっと待っていてくれたのだ。
水絵は頷いて、鏡之介をまっすぐに見た。
「……父上が亡くなったのは、わたしが十二歳の時でした。今から五年前です。その時に、祖父ちゃんも亡くなって、おっかさんに頼れる人はいなくなりました。だけど、おっかさんは一度も泣き言を言ったことがありません。毎日、仕事に精出して、わたしをちゃんと寺子屋に通わせてくれて……」
鏡之介はなにも言わない。相槌さえ打たないことに感謝しつつ、水絵は続けた。
「だから……おっかさんが幸せになれるのなら、わたしはそれでいいと思います」
鏡之介の瞳に、温かい優しさが灯る。
「それだけの覚悟があるのなら、おまえはもう大丈夫だ。今日は帰って、おっかさんの気持ちを確かめてみるんだな。話はそれからだ」
「花吉さんたちに、分かったことを伝えなくていいんですか?」
「そいつは、志津さんの気持ちを確かめてからでいいだろう」
分かりましたと頷いて、水絵は立ち上がった。その時、ふと思い出した。
「そう言えば、鏡之介さんが調べたことって?」
鏡之介は「ああ……」とつぶやくと、にやっと笑って、
「そいつも、志津さんの気持ちを確かめた後でいいだろう」
と、教えてくれなかった。
「ただいま」
水絵が家に戻った時、真っ先に目に入ったのは新しい反物だった。
「お帰り……何かあったの?」
水絵の表情が硬いことに、志津はすぐに気づいたようだった。
「……うん」
水絵は視線を新しい反物に向ける。錆利休色の縞柄――おそらく……。
「『浅葱屋』の若旦那さん、また仕立てを頼みに来たの?」
尋ねると、志津は苦笑した。
「ええ。今度は羽織を作ってくれって」
「ふうん、いい色ね」
反物にそっと手を触れる。かなり上等な布地のようだ。だが……。
「羽裏はどうするの?」
そこにあるのは表地だけ。羽織に仕立てるなら、裏が必要なはずだ。
「合うのを選んでくれっておっしゃるのよ」
ちょっと困ったような顔で志津が首をかしげる。
「どんなのにするつもりなの?」
「そうね……薄鼠の無地かしら?」
その刹那、水絵は母の気持ちが分かった気がした。
記憶にある父の姿を思い出す。父の羽織は母が仕立てた物だった。同心らしく、表地は鉄紺の落ち着いた物だったが、羽裏は母が選んだ。
――霞模様に小花を散らした生成り。
派手ではないが美しく温もりのあるその羽裏が、幼い水絵は大好きだった。
「明日にでも、『鳴門屋』さんに行ってくるわ」
縫い物の手を休めずに言った志津が、ふと顔を上げる。その目が見つめる先には、祖父の位牌がある。
けれど、水絵には分かっていた。母が見ているのは位牌ではなく、その横に置いてある小さな手鏡。父が母に送った物……この家にある、父の形見のひとつ。
もう、言葉で訊く必要はないと、水絵は思った。
「それで?」
母は、再び縫い物に目を落としながら水絵に訊いた。
「何か、わたしに言いたいことがあったんじゃないの?」
もう訊かなくてよくなったと言おうとしたが、念のためひとつだけ伝えようと思った。
母の気持ちは確信しているが、念には念を入れなければ……。
「花吉さんが言っていたの。若旦那さんに縁談が持ち上がってるんですって」
「あら、そうなの」
母の縫い物の手は止まらない。
「縁談があるから、こんなに何枚も着物を誂えたのね、きっと」
そうではないことを水絵は知っている。そして、母も知っている。けれど、母のその答えがすべてだった。だから、水絵は言った。
「そうかもしれないわね。花吉さんは、いい縁談だって思っているみたい」
「お兄さん思いの花吉さんが言うなら、安心ね」
微笑んだ志津の表情は、母親のそれ。もしかしたら、おっかさんは信之助さんのことを子どもみたいに思っていたのかもしれない。歳は一つしか違わないけど……などと、水絵は思った。
「ごめんください」
小さな一軒家の玄関で、水絵はおそるおそる声をかけた。
「おう」
中から声がして、迎えに出たのは鏡之介。
ここは、駒込にある鏡之介の自宅だ。
「水絵が一番乗りだ」
と促され、家の中に入る。
玄関からすぐ入ったところに、六畳ほどの一間。机が脇に片付けられているところを見ると、そこに人を呼んで算学の教授をすることもあるのだろう。
次に通されたのは、それよりも広い居間。
「あ、あの、おじゃまします」
水絵が思わずそう言ってしまったのは、部屋の真ん中で箒を使っている、年の頃五十ばかりの女がいたからだ。女は、
「おや?」
と水絵を見ると、にやっと笑った。
「先生も隅に置けないねぇ。こんな別嬪と、いつの間にいい仲になったのさ」
静かに決めたことは、もう揺るがない。
けれど、周りの世界は、そう都合よくは止まってくれない。
次に待っているのは、思いがけない出会いだった。




