3 もう一人の兄
人の想いは、ときに思い違いから始まる。
名を挙げられた者と、名を伏せる者。
そのどちらもが、真実とは限らない。
ひとつの縁談をめぐる話は、思いもよらぬ形で広がっていく。
「ええっ!?」
水絵の大声に、一番驚いたのは鏡之介だった。
「素っ頓狂な声を出すな。驚くじゃねえか」
反対に、花吉は落ち着いている。
「水絵さんじゃ、ないんですか?」
「違いますよ。だって、わたし、信之助さんの顔も見たことありませんから」
すると、鏡之介が口をはさんできた。
「一度、おっかさんと『浅葱屋』に行ったことがあるじゃねえか。その時、顔を見なかったのか?」
「会ってません。花板の喜代彦さんには会いましたけど。お代は、仲居さんに渡したので」
どこかで会っているかと、もう一度考えを巡らせてもみたが、やはり覚えがない。
鏡之介は眉根を寄せて、花吉に問う。
「なんで、水絵だと思ったんだ?」
「兄の姿をうちの長屋の近くで見かけたって話をあちこちで聞いたもんで。うちの長屋、年頃の娘は、水絵さんしかいないでしょう? 兄から、付け文とかもらっていませんか?」
「もらってません!」
再び大声を出してしまい、鏡之介に渋い顔をされる。だが、言いたいことは言わなくてはならない。
「とにかく、わたしじゃないと思いますよ。お兄さんがうちの長屋に来たのって、花吉さんに会いに来たんじゃないんですか?」
想い人に会いに来たというより、そのほうが有り得る――と、水絵は思ったのだが。
「兄は、私のところには、一度も来ていません」
花吉は、少し悲しげに言い切った。
あまりに寂しげな顔に、水絵は言葉を失った。
すると、鏡之介が、わざとらしい明るい口調で言った。
「付け文も出さねえで、心密かに想っているってこともあるだろうから、その相手が水絵だって筋も、捨てちまうわけにはいかねえな。どちらにしろ、少し調べてみるか。必ず見つけると約束は出来ねえが」
わたしじゃないですよ……と言いたい気持ちを抑えて、水絵も頷いた。ここで押し問答しても、埒が開かないことに気づいたからだ。
「よろしくお願いいたします」
花吉は丁寧に頭を下げると、本堂から出て庭に降り立った。ふと、まだ本堂に並んでいる二人を見て、花吉は少し微笑んだ。
「水絵さんのその単衣、きれいな色ですね。よくお似合いだと思っていたんですが……」
花吉は、視線を鏡之介に向ける。
「鏡之介先生の鳩羽鼠色の小紋と並ぶと、なんというか……とてもしっくりきます」
褒め言葉なのだから、ありがとうと言うべきなのだろうが、素直にそう言えない気持ちもあって、水絵は返す言葉を見失った。
水絵の代わりに、鏡之介が言った。
「なるほど。絵の才がある人は、そんなふうに物を見るんだな」
花吉はもう一度頭を下げると、小さな声でなにか言った。水絵には聞き取れなかったが、聞き返す前に花吉は立ち去ってしまう。
水絵に聞き取れなかった言葉――。花吉はこう言ったのだ。
『相手が水絵さんなら、信之助兄さんにゃ見込みはないな』
「調べてみるなんて言っちゃって、信之助さんの想い人、見つけられるんですか?」
花吉の姿が見えなくなってから、水絵は鏡之介に訊いた。
「まあ、やれるだけやってみるさ。花吉さんには、『猫又双紙』の時の恩があるからな。とりあえず、水絵は長屋で聞き込みをしてくれ。信之助さんの姿を見た人もいるだろう」
「分かりました。それで、鏡之介さんは?」
「俺は……」
鏡之介がその答えを口にする前に、「ごめんください」と、声がかかった。
「はい」
と、水絵が振り返ると、そこに立っていたのは、歌舞伎役者の菊村月之丞だった。
「あら。千代ちゃんは、もう帰っちゃったんですよ」
水絵がそう言ったのは、月之丞が飼っている猫のお鈴が、千代のお気に入りだからだ。芝居が休みだったり、出番が早く終わった日には、よく連れて遊びに来ていた。
「いえ、すみません。今日は、お二人にお知恵を拝借したいことがありまして」
鏡之介と水絵は、この日何度目かの顔を見合わせた。口には出さないが、二人とも「今日は頼み事が重なる日だな」と思っていた。
そして、さらに重なったのは――。
「実は……兄のことなので、他の人には言いにくいんです」
本堂に上がった月之丞が、最初に発した言葉だった。
「兄さんというと、『浅葱屋』で花板をしている喜代彦さんのことだな」
この喜代彦に関しても、複雑な事情がある。
喜代彦と月之丞は双子の兄弟だ。父は、歌舞伎役者の菊村松三郎、母は、上州の芸者――菊乃――だ。――生まれた時の名は、月夜と月影。
六歳の時、月夜は父に引き取られ江戸で歌舞伎役者・菊村月之丞となり、月影は上州で田舎芝居に出ていた。しかし、昨年の冬の初め、月夜は「浅葱屋」の娘・お咲と駆け落ちをしてしまった。
そこで、松三郎は月影を江戸に呼び、菊村月之丞として顔見世興行の舞台に上げた。色々あった末、月影は菊村月之丞となり、月夜は喜代彦と名を変え、「浅葱屋」の板前におさまった。
その事情を知る者は少ないので、「他の人には言いにくい」ということになる。
「それなら、わたしたちより、祐光先生のほうが……」
さっきも同じことを言ったなと思いながら水絵が言うと、これまた、同じような返事が返ってきた。
「祐光先生には、ちょっと言いづらいんです……その……」
「まさか、色恋沙汰じゃ、ねえだろうな?」
鏡之介が訊くと、月之丞は驚いた顔をした。
「どうして、おわかりになったんです?」
似たようでいて、どこか違う二つの相談。
どちらも「兄」と「想い人」を巡る話でありながら、
その内実は、まだ見えてこない。
重なった問いは、やがて絡み合っていく。




