2 名を明かさぬ想い人
人には、それぞれ胸に秘めた想いがある。
それが誰にも言えぬものであればあるほど、なおさらに。
江戸の町で、ひとつの縁談が持ち上がった。
だがそれは、めでたい話として片付けるには、少々込み入った事情を抱えていた。
「そいつぁ、めでてえ話だ……と言いたいところだが、それだけじゃ済まねえんだろうな」
鏡之介が言うとおり、めでたいだけの話なら、花吉が「兄のことで、知恵を借りたい」などと言わないはずだ。
水絵は、ふと思いついて尋ねた。
「そう言えば、『浅葱屋』の若旦那さんて、おいくつなんですか?」
母の志津と「浅葱屋」には一度だけ行ったことがあるが、若旦那の顔は見ていない。
「兄は――名前は、信之助と言いますが――三十二歳になります」
「俺より年上なのか……」
鏡之介が思わず、つぶやいた。
花吉は今年二十歳のはずだから、一回り年上の兄だ。信之助と花吉は母が違うので、年が離れていることに不思議はない。
花吉が「浅葱屋」を出たのは、花吉の母である後妻のお常が、信之助を差し置いて花吉に「浅葱屋」を継がせようとしたことに端を発している。
「しかし、妙だな」
と、鏡之介が首をひねる。
「『浅葱屋』の若旦那なら、嫁をもらっていてもおかしくない歳だ。縁談のひとつやふたつ、あっただろうに」
それもそうだ……と水絵も思う。江戸では、一生独り身で過ごす男が少なくない。しかし、それは商家に住み込みの丁稚や手代、あるいは職人、日雇いなどであって、「浅葱屋」ほどの料理屋の跡取りなら、二十歳前後で嫁取りしてもおかしくない。
鏡之介の言葉に、花吉は気まずそうな顔をした。
「縁談はいくつもあったんですが……うちの母が、きつい人なので……」
おそらく、お常自身が断ってしまった場合と、お常を怖がって相手側から断られた場合と、どちらもあるのだろう。
鏡之介も納得したらしく、ひとつ頷くと、
「じゃあ、今度の縁談も、『浅葱屋』のおかみさんは、首を縦に振らねえと?」
と尋ねる。すると、花吉はゆっくり首を横に振った。
「いいえ、今度のは、えらく乗り気です」
そして、少しためらった後、口を開いた。
「嫁取りじゃなくて、婿入りの話なんで……」
「え!?」
水絵は、思わず声を上げてしまう。
料理屋の跡取り息子がどこかに婿入りするなど、そうある話ではない。
「ご存じの通り、信之助は料理の腕があまり良くないので、板場には立たず、ずっと帳場を預かっているんですが……」
――それが、花吉が「浅葱屋」を出た訳だった。
「浅葱屋」は、もともと父親の宗兵衛が花板を務めていた。しかし、病に倒れ、今は包丁を持つことが出来ない。そこで花板となったのが、花吉――その時の名は信次郎――だ。信次郎は腕の良い板前で、料理番付で大関を取るまでになったが、兄がないがしろにされているのに心を痛め、家を出たのだ。
今、「浅葱屋」の花板を務めているのは、花吉の妹であるお咲の婿、喜代彦だ。
花吉は、鏡之介をまっすぐに見て言った。
「鏡之介先生を前にして言うことじゃないかもしれませんが、兄は、そろばんの腕はすこぶるいいんです。速い上に、間違えたこともない。その腕を買われての婿入りの話なんです」
「と言うことは、縁談の相手は商いの家か?」
「はい。『浅葱屋』が酒を仕入れている『花菱屋』という酒問屋です」
店の名前を聞いて、水絵は口を開いた。
「『花菱屋』さんなら知ってます。着物の仕立てを何度か頼まれたので。ひとり娘のお琴さんは、私と同じくらいの歳だったと思いますけど」
「十八歳です。お琴さんは明るいしっかり者だし、『花菱屋』の旦那も、穏やかなお人柄で、しかもうちの事情もよくご存じなので……」
花吉の言葉に、鏡之介は表情を緩めた。
「つまり、花吉さんは、この縁談をよしとしているのだな?」
「はい」
花吉はきっぱりと言い切った。
「そりゃあ、跡取り息子の信之助が、よその店に婿入りなんておかしな話かもしれません。けれど、信之助のためにはそのほうがいいんじゃないかと思うんです。うちで母に気兼ねしながら肩身の狭い思いをしているよりは、そろばんの腕を買ってくれてる『花菱屋』さんに行ったほうが」
そこまで言い切ったものの、花吉は「でも……」と言葉を濁す。
「誰かが、承知しないってことか。おかみさんは乗り気だそうだから、承知してねえのは、『浅葱屋』の旦那か、それとも信之助さん本人か……?」
「父は、『信之助の好きにすればいい』と言ってます。でも、兄が……」
うつむいていた花吉がばっと顔を上げ、すがるように鏡之介と水絵の両方を見た。
「お願いです! 兄の想い人が誰なのか、探っていただけませんか?」
突然の言葉に、鏡之介と水絵は思わず顔を見合わせた。
「どういうことだ?」
尋ねられて、花吉はことの次第を話した。
信之助のところに縁談が持ち込まれたのは、今からひと月ほど前のことだという。正式な仲人を立てる前にと、日本橋の呉服屋「鳴門屋」の主人が話を通してきた。
ちなみに、水絵と母が仕立てを請け負っているのは、巣鴨の「鳴門屋」――日本橋の「鳴門屋」の番頭が、暖簾分けをしてもらった店だ。
お常はすぐに乗り気になり、宗兵衛は「信之助に任せる」と言ったのに、当の信之助が返事を濁している。乗り気ではないらしいが、そのわけを言おうとしない信之助に業を煮やした宗兵衛が、お咲を通じて、花吉に「信之助の心持ちを聞き出してくれ」と、頼んできたのが十日ほど前。
「それで、兄にどういうつもりなのか、尋ねたのですが……兄が言うには、自分には想い人がいるので、出来れば、その人と添い遂げたい……と。なのに、肝心のその人の名前を言わないんです。自分の片思いだから、相手を困らせてしまうと言い張るばかりで」
「それで、俺たちに相手を探してほしいってことか……」
鏡之介は腕組みをして考え込んだが、花吉は、意を決したように水絵に向かう。
「あの……」
そう声をかけてから、少しためらった後、言った。
「兄の想い人は、水絵さんじゃないかと思うんですが」
想い人の名は伏せられたまま、話は思わぬ方向へと転がり始めた。
果たして、それはただの思い過ごしか。
それとも、隠されるべき理由があるのか。
次に明かされるのは、誰の本心か――。




