10 確かに
答えは、いつも言葉の形をしているとは限らない。
ただ、そこにあるだけで、十分なこともある。
――その日。
志津は、長持の底から鬱金の風呂敷に包まれた物を取り出した。
水絵がそれを見つめていると、志津はかすかに微笑んで風呂敷を解いた。
鉄紺色の羽織は、水絵の記憶と違わなかった。
「うちにあったんだ……」
父の遺品はなにひとつない――あるのは「水絵」という名前だけ――そう思っていたのに。
志津はそれを衣紋掛けに掛けた。
霞模様に小花を散らした生成りの羽裏も、憶えていたとおりだったが……。近寄って見て、思わず唇をかみしめる。
表地も羽裏も、きれいに繕われているが刃物で切り裂かれた跡がある。そして……薄くはなっても、どうしても消えない血の跡――。
「ごめんください」
入ってきた信之助は、水絵を見てまず驚いた。
「よくおいでくださいました」
丁寧に頭を下げると、信之助は気まずげに、
「今日は、寺子屋はお休みで?」
と言う。言葉の節が、江戸者とは少し違う気がした。花吉にもたまに感じることなので、これが鏡之介の言う「大坂訛り」なのだろう。
「眞性寺に法事がありまして」
答えながら、茶の支度をする。
そのとき、信之助が風呂敷包みを持っていることに気づいた。形から、新しい反物だと分かる。
「こちらが、お頼みの羽織でございます」
志津に言われて、信之助が部屋に上がりかけ……足を止めた。その目は、衣紋掛けの羽織に注がれている。
「お確かめください」
促されて、信之助はぎくしゃくとした動きで部屋に上がった。その前に、水絵はそっと茶碗を置く。
信之助は、震える手で包みをほどく。錆利休の袖を開くと、薄鼠の羽裏が顔を見せた。信之助の目が見開かれ、その後、もう一度衣紋掛けに向けられる。
それから、視線を落とし、しばらくうつむいていたが、やがて、思い切ったように包みを閉じた。
「……確かに」
そう言うと、紙に包んだ銭を畳の上に置いた。
志津が包みを開くと、そこには百文差しが五つ。
「これでは戴き過ぎです」
と、一差しを風呂敷の上に置く。
「いえ……」
若旦那はなにか言いかけたが、すぐに口を閉じ、その一差しを懐に入れた。そして、羽織の包みを抱え、立ち上がる。
「それでは」
立ち去ろうとする信之助に、水絵は声を掛けた。
「あの……」
振り返った信之助に、畳の上に置き忘れられた新しい反物を差し出す。
「お忘れ物です」
信之助は、唇をかみしめながら、それを受け取った。
「おおきに」
そして、奥にいる志津をじっと見つめた。
「大変、お世話になりました」
「どうぞ、お気をつけて」
信之助は顔を上げることなく、そのまま長屋を後にした。
「さすが、志津さんだな」
信之助とのいきさつを話すと、鏡之介はそう言った。
信之助が羽織を取りに来た翌日、寺子たちが帰った後のことだ。
水絵は、母と信之助のやりとりを、花吉や月之丞に話すつもりはなかった。でも、鏡之介にだけは言っておきたかった。
「このこと、花吉さんたちには……」
「誰にも言わねえよ」
察してくれた鏡之介の言葉にほっとしつつも、水絵はまだ釈然としないものを抱えていた。
「これで、花吉さんと月之丞さんからの頼み事は片付いた……と、言っていいんでしょうけど」
「確かに、これで終わりって気分にゃならねえな」
どうやら、鏡之介の気持ちも同じだったらしい。
「一つ聞くが、『花菱屋』のお琴さんってのは、どんな人なんだ? 水絵の知り合いなんだろう?」
「知り合いって言っても、何度か着物のお見立てをしただけですから」
お琴が着物を誂えるのは、日本橋の「鳴門屋」。だが、その店の番頭や手代の見立てが気に入らないと言い出した。
困った日本橋の大旦那が、巣鴨の「鳴門屋」の旦那――名は利助という――に相談。利助が「それなら、水絵がいいんじゃないか、歳も近いし」と言い出して、水絵が借り出された……という事情がある。
すると、鏡之介は眉をひそめた。
「その話だけだと、かなりわがままな娘に聞こえるが?」
「わがままという感じはしなかったですね」
水絵は、その時のことを思い出しながら言った。
「多分……なんですけど。『花菱屋』さんて、大店じゃないですか。だから、日本橋の番頭さんは、値の張る、立派な反物ばかりを勧めたんですよ。でも、お琴さんが着たいのは、派手じゃなくて、動きやすいものだったんです」
でも、その気持ちを番頭たちは分かってくれなかった。「『花菱屋』のお嬢さんなら、このくらいのものをお召しにならなくては」などと言い、お琴さんがいくら「使い勝手のいい、動きやすいもの」と言っても、出してくれなかったそうだ。
「そりゃあ、その番頭たちが良くねえな。客が本当に欲しいものを揃えるのが、いい商売人ってもんだ」
「お琴さん、わたしには優しかったですよ。明るくて、気さくで。大店のお嬢さんなのに、偉ぶったところもないし。友だちみたいに接してくれました」
「そりゃあ、おまえが……そういうやつだからだろ」
「そういうやつって、どういうやつです?」
「そういうやつは、そういうやつだ」
「それじゃ、さっぱり分かりません」
ちょっとむくれた顔をしたら、ははっと笑い、
「わからなきゃいい」
と、ごまかされた。
もっと文句を言おうかと思ったが、また「河豚みたい」と言われそうなので我慢した。
すると、鏡之介は、まるで新吉がいたずらを考えている時のような表情で言った。
「『花菱屋』との縁談、そのお琴さんは、どう思っているのか……水絵は知りたくないか?」
ひとまず一件落着……と言いたいところですが、
どうやら、まだ終わりではなさそうです。




