リロウド公爵家の兄弟。【後編】
「すまなかったね、パシィ」
「それは何の謝罪だ? 兄上」
二人のご夫人と別れて場所を屋敷の居間に移した後。
そう口にした兄に、パシクレウスは眉根を寄せた。
「色々ひっくるめて、かな。僕のせいで迷惑を掛けたし、今も無理を聞いて貰ったしね」
少し歳の離れた兄は、そう言って柔らかく笑みを浮かべる。
―――相変わらずだな。
パシクレウスは、兄が怒ったところを一度しか見たことがなかった。
そのたった一度も、パシクレウスが幼少の頃、癇癪を起こして侍従に手を上げた時で、自分の為ではなく人の為だった。
いつでも優しい兄がその時だけは鬼のように見えて、本当に怒らせてはいけない人間とはこういう人間なのだと、幼心に悟ったものである。
「別に気にしてはいない」
「公爵を務めるのは、大変だと思うけど」
「普通の人間はそう考えないらしいがな。兄がいなくなって地位が転がってきたのは幸運だと、散々言われたよ」
パシクレウスは、少し自嘲した。
兄に自分が勝る部分など、人格から頭脳から魔術まで、ほぼ何もないのである。
唯一、兄は体を動かすことだけは然程得意ではなく、パシクレウスは体を鍛えるのが好きだったこともあり、武術だけは勝るかもしれないが……それも魔術を使わない体術限定の話である。
『凡庸な弟が乱心した〝神童〟のお陰で得をした』というのが、大方の見方なのだ。
「心ない言葉など、気にする必要はないと思うよ。僕が言うことではないかもしれないけどね」
ちょっと困ったような兄の笑みに、パシクレウスは首を横に振る。
直接の悪意ではなくとも、平民になった貴族という立場の兄の方が、醜聞も併せてよほど過酷な環境ではあっただろう。
自業自得と言えば、それまでかもしれないが。
「気にしている訳ではない。が、実際、何もせず現状維持や財産を食い潰して生きるのなら、これほど楽な立場もない。うちは永世公爵家で、力のお陰で没落することもないからな」
「確かに、それはそうかもね」
パシクレウスが軽口を叩くと、兄の表情が緩んだ。
「俺はな、兄上」
「うん」
「兄上が公爵を継ぐべきだったと今でも思っているし、父上が兄上の行動を許した理由が、当時は分からなかった」
「……」
「相手は平民、それも富豪の娘でもない天涯孤独の女性だという。誰がそれをいいことだと思う? なのに父上は、嫡子から下ろしこそすれ勘当した訳でもなく、家を出た後まで気にかけていた」
「……そうだね」
パシクレウスは今となっては、兄を責めたい訳ではなかった。
ただ、当時は怒っていたし、本当に分からなかったのだ。
兄が家を避けていたこともあるし、こういう話をする機会は今まで得られなかった。
「兄上が相変わらずの才を発揮して、当時の学者や治癒師との人脈も徐々に復活していたことも、その名声が高まる機を見て父上が伯爵位を押し付けたことも、俺にとっては苛立つ要素だった」
―――他人を見誤って逃げられたのなら、さっさと帰ってくればいいものを。
そんな単純なことではないと理解はしていても、パシクレウスは兄が嫌いな訳ではなかったのだ。
父ナーヴェラに、『そこまで気にかけるなら何故呼び戻さない』と詰め寄ったこともある。
すると父は、こう告げた。
『我々の情の深さは、自分ではどうしようもないのだよ。今、君がクラーテスのことを気にかけるのと同じかそれ以上に、自ら愛した人を忘れられないんだ』
そう、悲しそうに笑ったのである。
「考えを改める転機になったのは、俺自身も妻となる女性に出会った時だったよ」
一目で分かってしまった。
この朱の瞳の力があるからこそ、自分たちはより美しい色の魂に惹かれてしまうのだと、理屈ではなく体験として理解してしまったのだ。
兄は外から見たら『裏切られた愚か者』でしかなかったが、愛する人を得たリロウドからしたら、決してそうではないのだと。
「兄上が何故待ち続けるのか、父上も知っているからこそ、どうしようもないと知って、余計にやるせなくなった」
平民を公爵夫人にすることは、不可能ではない。
養子として、下位貴族を経てどこかの高位貴族に名だけを貸してもらうという方法がある。
例えば爵位は低いが財産はある富豪の子女と沿う時や、異国との関係を強めたい時などには使われるものだ。
だが、愛する人が苦労すると分かっていて、地位だけを与えたいと思うか、という話だった。
事情を知る者達が妬めば、必ず悪意に晒されるのである。
それくらいなら自ら平民に降るのだと……リロウドの者は、そういう選択をしてしまうのだ。
パシクレウスの独白に、兄は静かに微笑むだけだった。
「父上にも、言われたよ。『せめて彼女が、元々貴族であればね』と。親不孝をしたい訳ではなかったのだけど」
「この瞳の力は本当に祝福なのかと、俺は疑いたくなった」
「違いないね」
そんなやり取り。
わだかまりなく当時のように、パシクレウスが喋って兄が相槌を打つこの時間が、再び得られたことに、少しだけ満足だった。
「兄上」
「何かな?」
「暇があれば、また来てくれ。……今度は、娘だけではなく義姉も連れてな」
ウェルミィが聡明で自ら泥を被るのも厭わない、実にリロウドの血統らしい女性だというのは、散々色々な噂も聞いていれば、レオニール陛下やイオーラ王妃殿下からも聞いている。
だがあの娘を産んだという、兄ほどの人が惚れる女性はどういう人物なのかがずっと、気になっていた。
それに天涯孤独だったというのなら、表沙汰には出来ず遅過ぎるかもしれないが、せめて身内として扱ってやりたい気持ちもあった。
パシクレウスが少し目を逸らしながら口にすると、兄は珍しく、満面の笑みを浮かべる。
「是非。妻に優しい弟を、弟に自慢の妻を、僕も紹介したいからね」
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