十ミリ
「これ、返しに来ました」
玄関先に立っていた川端誠は、右手に一本のレンチを持っていた。
榊冬一は搬出用の箱を抱えたまま足を止める。
銀色の、片側が輪になった小さなレンチだった。油汚れはなく、持ち手まで布で拭かれている。
小田美紀が奥から出てくる。
「父のですか?」
「うん。先週借りた」
川端は工具を持ち上げた。
「十ミリ」
美紀が受け取る。
「わざわざありがとうございます」
「返すって言ったから」
小田清一、六十七歳。
川端とは二十五年以上、隣同士だった。
互いの家で飯を食うような仲ではない。旅行へ行ったこともない。電話をするより、玄関先や塀越しに声を掛ける方が多かった。
ただ、何かを直す時だけはよく相手の家へ行った。
川端の自転車の泥よけを留めているナットが緩んだのは、清一が亡くなる少し前だった。
工具箱を開ける。
十ミリがない。
昔持っていた一本は口が広がり、ナットを滑らせるようになって捨てた。
川端はそのまま隣へ行った。
『十ミリある?』
庭にいた清一が振り返る。
『またか』
『何が』
『この前も貸した』
『あれは十三』
『そうだっけ』
『お前の工具だろ』
清一は物置から工具箱を持ってきた。
中を見て一本出す。
『これ』
『助かる』
『返せよ』
『返してるだろ』
『遅い』
『返してるならいいだろ』
『借りる時だけ早いんだよ』
『貸さないの?』
『もう持ってるだろ』
そのまま渡された。
川端は自転車を直した。
レンチは玄関の棚へ置いた。
次に顔を合わせた時に返せばいいと思っていた。
返す前に、清一が亡くなった。
「工具箱、出てますか」
川端が聞いた。
「さっき物置から出しました」
美紀が作業部屋を指した。
冬一が言う。
「こちらです」
床に大きな金属製の工具箱が置いてある。
蓋を開けると、上段にレンチ類が並んでいた。
八ミリ。
十二ミリ。
十三ミリ。
十四ミリ。
十七ミリ。
途中に一本分だけ空いているところがある。
川端がしゃがんだ。
「ここだな」
美紀が十ミリを渡す。
川端は空いた場所へ置いた。
輪の向きを他と揃える。
ぴたりと収まる。
「父、こういうのだけはきれいに並べるんですよ」
美紀が言った。
「こういうのだけは、は余計だ」
川端が返す。
「部屋は普通に散らかってましたよ」
「知ってる」
「入ったことあるんですか」
「物置はな」
川端は工具箱の中を見る。
「家の中はほとんどない」
美紀が少し笑った。
「二十五年隣なのに?」
「隣だから入らなくても会うだろ」
川端は立ち上がった。
冬一は工具箱を閉じず、そのまま査定へ回す物の確認を続ける。
清一は工具を持っていた。
職人ではない。
家の棚を付ける。
自転車を直す。
雨樋を見る。
庭の物を締め直す。
それくらいだった。
だが、道具を人に貸すと細かかった。
川端が借りたレンチを返す。
清一が受け取る。
『拭いた?』
『拭いた』
『油付いてる』
『工具なんだから油くらい付く』
清一は布で持ち手をこする。
『これお前んちの油だろ』
『油に家あるのか』
『色が違う』
『分かるわけないだろ』
『分かる』
『じゃあその油だけ返すよ』
『いらん』
『何なんだよ』
清一は文句を言いながら工具箱へ戻す。
返却確認は細かいのに、自分が借りた物はそうでもない。
ある年の春。
清一が川端の家へ来る。
『脚立貸して』
『何する』
『雨樋』
『一人でやるの?』
『脚立だけ貸して』
『落ちたらどうすんだ』
『落ちない』
『落ちるやつみんなそう言うだろ』
『低いとこだから』
清一は脚立を持っていく。
川端も結局ついていく。
清一が脚立へ上がる。
川端が下で押さえる。
『もういいぞ』
『まだ乗ってるだろ』
『押さえなくても平気』
『じゃあ俺帰るぞ』
『それは待て』
『脚立だけでいいって言ったじゃん』
『脚立は借りた』
『俺も使われてるだろ』
『お前は勝手に来た』
『帰るぞ』
『終わってからにしろ』
十分後。
清一が降りる。
『助かった』
『脚立だけでよかったんじゃないの』
『結果的には二人の方が早かった』
『最初から言え』
脚立は翌日返ってきた。
泥の付いた脚のまま。
川端が言った。
『拭いてないじゃん』
清一:
『脚立は外で使う物だろ』
『レンチの油は駄目なのに?』
『あれは工具箱に入れる』
『脚立も物置入れるだろ』
『床が汚れてるから平気』
『基準が全部お前なんだよ』
『俺の物置だからな』
その基準は最後まで変わらなかった。
午前の作業が進む。
冬一と佐伯は物置の棚を空にした。
電動ドリル。
延長コード。
水平器。
金槌。
使いかけの木ねじ。
短い木材。
美紀が一つずつ確認する。
使う予定はない。
状態の良い工具はまとめて買取へ。
消耗した物や古い部材は処分する。
「これも父のですかね」
美紀が黄色い延長コードを持つ。
川端が見る。
「それは知らん」
「よく借りてたのに?」
「コードの色までは覚えてない」
「じゃあ父のですね」
「何でそうなる」
「川端さんのじゃないなら」
「ほかから借りてるかもしれないだろ」
美紀が笑う。
「父、そんなに借ります?」
「借りるよ」
清一もよく川端へ声を掛けた。
『長い延長コードある?』
『何メートル』
『長いやつ』
『長いにも色々ある』
『お前んちの一番長いの』
『何に使う』
『庭』
『雨降るぞ』
『夕方からだろ』
『今三時だぞ』
『二時間ある』
『何するの』
『先に貸して』
『内容聞いてから』
『面倒くさいな』
『借りる側だろ』
清一は少し黙る。
『じゃあいい』
と言って帰る。
五分後。
戻ってくる。
『やっぱ貸して』
『何するの』
『電動の剪定機』
『最初から言えよ』
『言う必要ある?』
『今言ったじゃん』
『貸す?』
『貸すよ』
二人とも似たようなものだった。
川端は工具箱の横へ座り、出てきた物を少し眺めた。
美紀が言う。
「父、私にも工具の説明長かったんですよ」
「そうだろうな」
「棚一個組むだけなのに」
大学へ入った美紀が、小さな本棚を買った時だった。
実家へ持ってきて組み立てる。
清一が横から見る。
『最初から全部締めるなよ』
『分かってる』
『まず仮締め』
『分かったって』
美紀が一本締める。
『締めすぎ』
『まだ途中』
『固くしてるだろ』
『普通だよ』
『貸せ』
『自分でやる』
『ネジ潰すぞ』
『潰さない』
『斜めになってる』
美紀はドライバーを置いた。
『じゃあお父さんやって』
清一:
『自分でやるんじゃなかったのか』
『横から全部言われるなら同じ』
『じゃあ見ない』
清一は少し離れた。
三分後。
『そこ逆』
『見てるじゃん』
結局、半分以上を清一が組み立てた。
完成した棚を美紀が見て、
『私が作るはずだったのに』
と言う。
清一は、
『一緒に作っただろ』
と答えた。
『お父さんの割合高すぎる』
『完成したんだからいい』
「父、そういうのだけは我慢できなくて」
美紀が工具を箱へ戻す。
川端が言う。
「人の作業見ると口出すんだよ」
「川端さんにも?」
「俺にはもっと言う」
「何で」
「こっちも言い返すから」
壁へ小さな棚を付けた時。
川端が水平器を当てる。
清一が横から、
『右上がってる』
と言う。
『水平器は真ん中だぞ』
『壁が曲がってる』
『じゃあ壁のせいだろ』
『見た目が右上がり』
『水平が正しいだろ』
『毎日見るのは目だぞ』
『水平器何のためにあるんだ』
『測るため』
『測った結果無視してるじゃん』
結局二人で少し下げる。
棚は数年後もそのままだった。
川端は、
「今見てもたぶん右下がりだ」
と言った。
美紀が笑う。
「直さないんですか」
「物落ちないから」
「父なら言いますよ」
「言うだろうな」
そこで話は終わった。
昼休憩。
川端は帰らず、玄関脇で缶コーヒーを飲んでいた。
美紀が、
「お昼大丈夫ですか」
と聞く。
「家戻ればある」
「じゃあ何で帰らないんです?」
「もうちょっと見たら帰る」
それ以上理由を付けなかった。
冬一たちは外で昼を済ませ、作業へ戻る。
午後、物置の奥から小さな箱が出た。
中にはボルトやナットがサイズごとに分けられている。
ただし、途中から面倒になったらしく、一番大きな区画には色々混ざっていた。
美紀が言う。
「途中で諦めてる」
川端が覗く。
「最初だけやるんだよ」
「知ってるんですか」
「一回一緒に分けた」
『混ざってるじゃん』
川端が言う。
清一は箱を見る。
『使える』
『探すの面倒だろ』
『見れば分かる』
『十ミリと十一ミリ見ただけで分かる?』
『だいたい』
『じゃあ分けよう』
二人で始める。
十五分。
川端が飽きる。
『もういいだろ』
清一:
『言い出したのお前だろ』
『こんなあると思わなかった』
『最後までやれ』
『お前のだろ』
『勝手に始めたのもお前だ』
三十分後。
大半は分かれた。
最後の一握り。
清一が、
『これは混ぜとく』
と言う。
川端:
『何で』
『疲れた』
『最後までやれって言ったのお前だろ』
『俺のだからいい』
『また基準それかよ』
今、同じ区画に残っている。
川端は指で二つほど動かした。
分け直そうとはしなかった。
「これも処分でいいです」
美紀が言う。
細かな金具は買取対象にはならない。
箱ごと処分する。
川端も止めない。
夕方前。
工具類の査定用箱ができた。
大きな工具箱もその中へ入れることになった。
美紀が川端へ聞く。
「川端さん、何か使います?」
「いや」
「工具、結構ありますけど」
「うちにもあるから」
川端は工具箱を見る。
さっき返した十ミリも中にある。
美紀は、
「じゃあ全部出しますね」
と言う。
「うん」
それだけだった。
冬一と佐伯が箱を運ぶ。
工具箱は重い。
川端が少し道を空ける。
玄関を出る直前、工具箱の蓋がわずかに浮いた。
冬一が止まり、留め金を掛け直す。
カチン、と音がした。
そのまま運び出す。
川端は玄関に立って見ていた。
「じゃあ俺も帰る」
美紀へ言う。
「今日はありがとうございました」
「何もしてないよ」
「工具返してくれました」
「あれは俺が返す物だったから」
靴を履く。
「片づけ、まだかかる?」
「今日中には終わるみたいです」
「そう」
川端は外へ出た。
隣の自分の家まで、数十歩もなかった。
翌朝。
川端は自転車を玄関から出した。
昨日締めたはずの泥よけが、少しだけ鳴った。
しゃがんで触る。
ナットがまた緩んでいる。
家へ戻り、工具箱を開ける。
八ミリ。
十二ミリ。
十三ミリ。
ペンチ。
ドライバー。
十ミリはない。
川端は蓋を閉めた。
財布を持って外へ出た。
ホームセンターの工具売り場。
同じサイズが何種類か並んでいる。
高い物。
安い物。
短い物。
長い物。
川端は一本取った。
十ミリ。
レジへ持っていく。
家へ戻る。
新品のレンチでナットを締めた。
一度、自転車を揺らす。
音はしない。
レンチを自分の工具箱へ入れた。
新品の銀色だけが、少し明るかった。
蓋を閉めた。




