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生活の跡  作者: 鷺沼鳩屋
少し違う暮らし
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22/22

十ミリ

「これ、返しに来ました」


玄関先に立っていた川端誠は、右手に一本のレンチを持っていた。


榊冬一は搬出用の箱を抱えたまま足を止める。


銀色の、片側が輪になった小さなレンチだった。油汚れはなく、持ち手まで布で拭かれている。


小田美紀が奥から出てくる。


「父のですか?」


「うん。先週借りた」


川端は工具を持ち上げた。


「十ミリ」


美紀が受け取る。


「わざわざありがとうございます」


「返すって言ったから」


小田清一、六十七歳。


川端とは二十五年以上、隣同士だった。


互いの家で飯を食うような仲ではない。旅行へ行ったこともない。電話をするより、玄関先や塀越しに声を掛ける方が多かった。


ただ、何かを直す時だけはよく相手の家へ行った。


川端の自転車の泥よけを留めているナットが緩んだのは、清一が亡くなる少し前だった。


工具箱を開ける。


十ミリがない。


昔持っていた一本は口が広がり、ナットを滑らせるようになって捨てた。


川端はそのまま隣へ行った。


『十ミリある?』


庭にいた清一が振り返る。


『またか』


『何が』


『この前も貸した』


『あれは十三』


『そうだっけ』


『お前の工具だろ』


清一は物置から工具箱を持ってきた。


中を見て一本出す。


『これ』


『助かる』


『返せよ』


『返してるだろ』


『遅い』


『返してるならいいだろ』


『借りる時だけ早いんだよ』


『貸さないの?』


『もう持ってるだろ』


そのまま渡された。


川端は自転車を直した。


レンチは玄関の棚へ置いた。


次に顔を合わせた時に返せばいいと思っていた。


返す前に、清一が亡くなった。


「工具箱、出てますか」


川端が聞いた。


「さっき物置から出しました」


美紀が作業部屋を指した。


冬一が言う。


「こちらです」


床に大きな金属製の工具箱が置いてある。


蓋を開けると、上段にレンチ類が並んでいた。


八ミリ。


十二ミリ。


十三ミリ。


十四ミリ。


十七ミリ。


途中に一本分だけ空いているところがある。


川端がしゃがんだ。


「ここだな」


美紀が十ミリを渡す。


川端は空いた場所へ置いた。


輪の向きを他と揃える。


ぴたりと収まる。


「父、こういうのだけはきれいに並べるんですよ」


美紀が言った。


「こういうのだけは、は余計だ」


川端が返す。


「部屋は普通に散らかってましたよ」


「知ってる」


「入ったことあるんですか」


「物置はな」


川端は工具箱の中を見る。


「家の中はほとんどない」


美紀が少し笑った。


「二十五年隣なのに?」


「隣だから入らなくても会うだろ」


川端は立ち上がった。


冬一は工具箱を閉じず、そのまま査定へ回す物の確認を続ける。


清一は工具を持っていた。


職人ではない。


家の棚を付ける。


自転車を直す。


雨樋を見る。


庭の物を締め直す。


それくらいだった。


だが、道具を人に貸すと細かかった。


川端が借りたレンチを返す。


清一が受け取る。


『拭いた?』


『拭いた』


『油付いてる』


『工具なんだから油くらい付く』


清一は布で持ち手をこする。


『これお前んちの油だろ』


『油に家あるのか』


『色が違う』


『分かるわけないだろ』


『分かる』


『じゃあその油だけ返すよ』


『いらん』


『何なんだよ』


清一は文句を言いながら工具箱へ戻す。


返却確認は細かいのに、自分が借りた物はそうでもない。


ある年の春。


清一が川端の家へ来る。


『脚立貸して』


『何する』


『雨樋』


『一人でやるの?』


『脚立だけ貸して』


『落ちたらどうすんだ』


『落ちない』


『落ちるやつみんなそう言うだろ』


『低いとこだから』


清一は脚立を持っていく。


川端も結局ついていく。


清一が脚立へ上がる。


川端が下で押さえる。


『もういいぞ』


『まだ乗ってるだろ』


『押さえなくても平気』


『じゃあ俺帰るぞ』


『それは待て』


『脚立だけでいいって言ったじゃん』


『脚立は借りた』


『俺も使われてるだろ』


『お前は勝手に来た』


『帰るぞ』


『終わってからにしろ』


十分後。


清一が降りる。


『助かった』


『脚立だけでよかったんじゃないの』


『結果的には二人の方が早かった』


『最初から言え』


脚立は翌日返ってきた。


泥の付いた脚のまま。


川端が言った。


『拭いてないじゃん』


清一:


『脚立は外で使う物だろ』


『レンチの油は駄目なのに?』


『あれは工具箱に入れる』


『脚立も物置入れるだろ』


『床が汚れてるから平気』


『基準が全部お前なんだよ』


『俺の物置だからな』


その基準は最後まで変わらなかった。


午前の作業が進む。


冬一と佐伯は物置の棚を空にした。


電動ドリル。


延長コード。


水平器。


金槌。


使いかけの木ねじ。


短い木材。


美紀が一つずつ確認する。


使う予定はない。


状態の良い工具はまとめて買取へ。


消耗した物や古い部材は処分する。


「これも父のですかね」


美紀が黄色い延長コードを持つ。


川端が見る。


「それは知らん」


「よく借りてたのに?」


「コードの色までは覚えてない」


「じゃあ父のですね」


「何でそうなる」


「川端さんのじゃないなら」


「ほかから借りてるかもしれないだろ」


美紀が笑う。


「父、そんなに借ります?」


「借りるよ」


清一もよく川端へ声を掛けた。


『長い延長コードある?』


『何メートル』


『長いやつ』


『長いにも色々ある』


『お前んちの一番長いの』


『何に使う』


『庭』


『雨降るぞ』


『夕方からだろ』


『今三時だぞ』


『二時間ある』


『何するの』


『先に貸して』


『内容聞いてから』


『面倒くさいな』


『借りる側だろ』


清一は少し黙る。


『じゃあいい』


と言って帰る。


五分後。


戻ってくる。


『やっぱ貸して』


『何するの』


『電動の剪定機』


『最初から言えよ』


『言う必要ある?』


『今言ったじゃん』


『貸す?』


『貸すよ』


二人とも似たようなものだった。


川端は工具箱の横へ座り、出てきた物を少し眺めた。


美紀が言う。


「父、私にも工具の説明長かったんですよ」


「そうだろうな」


「棚一個組むだけなのに」


大学へ入った美紀が、小さな本棚を買った時だった。


実家へ持ってきて組み立てる。


清一が横から見る。


『最初から全部締めるなよ』


『分かってる』


『まず仮締め』


『分かったって』


美紀が一本締める。


『締めすぎ』


『まだ途中』


『固くしてるだろ』


『普通だよ』


『貸せ』


『自分でやる』


『ネジ潰すぞ』


『潰さない』


『斜めになってる』


美紀はドライバーを置いた。


『じゃあお父さんやって』


清一:


『自分でやるんじゃなかったのか』


『横から全部言われるなら同じ』


『じゃあ見ない』


清一は少し離れた。


三分後。


『そこ逆』


『見てるじゃん』


結局、半分以上を清一が組み立てた。


完成した棚を美紀が見て、


『私が作るはずだったのに』


と言う。


清一は、


『一緒に作っただろ』


と答えた。


『お父さんの割合高すぎる』


『完成したんだからいい』


「父、そういうのだけは我慢できなくて」


美紀が工具を箱へ戻す。


川端が言う。


「人の作業見ると口出すんだよ」


「川端さんにも?」


「俺にはもっと言う」


「何で」


「こっちも言い返すから」


壁へ小さな棚を付けた時。


川端が水平器を当てる。


清一が横から、


『右上がってる』


と言う。


『水平器は真ん中だぞ』


『壁が曲がってる』


『じゃあ壁のせいだろ』


『見た目が右上がり』


『水平が正しいだろ』


『毎日見るのは目だぞ』


『水平器何のためにあるんだ』


『測るため』


『測った結果無視してるじゃん』


結局二人で少し下げる。


棚は数年後もそのままだった。


川端は、


「今見てもたぶん右下がりだ」


と言った。


美紀が笑う。


「直さないんですか」


「物落ちないから」


「父なら言いますよ」


「言うだろうな」


そこで話は終わった。


昼休憩。


川端は帰らず、玄関脇で缶コーヒーを飲んでいた。


美紀が、


「お昼大丈夫ですか」


と聞く。


「家戻ればある」


「じゃあ何で帰らないんです?」


「もうちょっと見たら帰る」


それ以上理由を付けなかった。


冬一たちは外で昼を済ませ、作業へ戻る。


午後、物置の奥から小さな箱が出た。


中にはボルトやナットがサイズごとに分けられている。


ただし、途中から面倒になったらしく、一番大きな区画には色々混ざっていた。


美紀が言う。


「途中で諦めてる」


川端が覗く。


「最初だけやるんだよ」


「知ってるんですか」


「一回一緒に分けた」


『混ざってるじゃん』


川端が言う。


清一は箱を見る。


『使える』


『探すの面倒だろ』


『見れば分かる』


『十ミリと十一ミリ見ただけで分かる?』


『だいたい』


『じゃあ分けよう』


二人で始める。


十五分。


川端が飽きる。


『もういいだろ』


清一:


『言い出したのお前だろ』


『こんなあると思わなかった』


『最後までやれ』


『お前のだろ』


『勝手に始めたのもお前だ』


三十分後。


大半は分かれた。


最後の一握り。


清一が、


『これは混ぜとく』


と言う。


川端:


『何で』


『疲れた』


『最後までやれって言ったのお前だろ』


『俺のだからいい』


『また基準それかよ』


今、同じ区画に残っている。


川端は指で二つほど動かした。


分け直そうとはしなかった。


「これも処分でいいです」


美紀が言う。


細かな金具は買取対象にはならない。


箱ごと処分する。


川端も止めない。


夕方前。


工具類の査定用箱ができた。


大きな工具箱もその中へ入れることになった。


美紀が川端へ聞く。


「川端さん、何か使います?」


「いや」


「工具、結構ありますけど」


「うちにもあるから」


川端は工具箱を見る。


さっき返した十ミリも中にある。


美紀は、


「じゃあ全部出しますね」


と言う。


「うん」


それだけだった。


冬一と佐伯が箱を運ぶ。


工具箱は重い。


川端が少し道を空ける。


玄関を出る直前、工具箱の蓋がわずかに浮いた。


冬一が止まり、留め金を掛け直す。


カチン、と音がした。


そのまま運び出す。


川端は玄関に立って見ていた。


「じゃあ俺も帰る」


美紀へ言う。


「今日はありがとうございました」


「何もしてないよ」


「工具返してくれました」


「あれは俺が返す物だったから」


靴を履く。


「片づけ、まだかかる?」


「今日中には終わるみたいです」


「そう」


川端は外へ出た。


隣の自分の家まで、数十歩もなかった。


翌朝。


川端は自転車を玄関から出した。


昨日締めたはずの泥よけが、少しだけ鳴った。


しゃがんで触る。


ナットがまた緩んでいる。


家へ戻り、工具箱を開ける。


八ミリ。


十二ミリ。


十三ミリ。


ペンチ。


ドライバー。


十ミリはない。


川端は蓋を閉めた。


財布を持って外へ出た。


ホームセンターの工具売り場。


同じサイズが何種類か並んでいる。


高い物。


安い物。


短い物。


長い物。


川端は一本取った。


十ミリ。


レジへ持っていく。


家へ戻る。


新品のレンチでナットを締めた。


一度、自転車を揺らす。


音はしない。


レンチを自分の工具箱へ入れた。


新品の銀色だけが、少し明るかった。


蓋を閉めた。


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