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生活の跡  作者: 鷺沼鳩屋
少し違う暮らし
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21/22

空の容器

「これ、母のです」


高井直樹は、持ってきた鞄から透明な保存容器を一つ出した。


榊冬一が手を止める。


四角い容器に、薄い灰色の蓋。特別な物には見えない。側面には細かな擦り傷があり、蓋の角が少し白くなっている。


「ご自宅にあった物ですか」


「はい。うちにずっとあって。今日こっちのと一緒にしようと思って持ってきました」


直樹は台所の作業台へ置いた。


「返すの、遅くなってたやつです」


高井芳江、六十七歳。


一人で暮らしていた母の家を、三十九歳の息子が片づけている。


直樹は一人暮らしが長く、普段の食事も自分で作る。


それでも実家へ来ると、帰りに何か持たされた。


煮物。


きんぴら。


ポテトサラダ。


肉じゃが。


漬物。


芳江は一人分を作るのが苦手だった。


『またこんな作ったの』


『作ったら増えた』


『勝手に増えないでしょ』


『鍋だと少なく作れないの』


『小さい鍋使えば』


『小さいのは使いにくい』


直樹が帰ろうとすると、保存容器が出てくる。


『いらないよ』


『持って帰りなさい』


『うちにも飯ある』


『明日食べればいいでしょ』


『明日もある』


『じゃあ明後日』


『予定決めないでよ』


『冷蔵庫入れとけば大丈夫』


結局持って帰る。


食べる。


容器を洗う。


次に実家へ来る時、返す。


そこまでは毎回同じだった。


直樹が空の容器を台所へ置く。


『これ返す』


『そこ置いといて』


流しの横へ置く。


しばらくすると、芳江がその容器を持ってくる。


蓋が閉まっている。


『はい』


『何これ』


『煮物』


『返したんだけど』


『返ってきたでしょ』


『中身増えてる』


『空だったから』


『空にして返したんだよ』


『じゃあ使えるでしょ』


『何のために返したと思ってるの』


『また入れるため』


直樹は容器を受け取る。


『最初から勝てない仕組みじゃん』


『勝ち負けじゃない』


「この辺り、全部保存容器ですね」


佐伯の声で、直樹が戸棚を見る。


下段いっぱいに、似たような容器が重なっていた。


丸。


四角。


細長いもの。


蓋だけが別の籠に入っている。


直樹が息を吐く。


「これが面倒なんですよ」


「量ですか」


「蓋です」


佐伯が籠を見る。


「確かに多いですね」


「本体より多い気がする」


冬一たちは中身を一度出した。


変形している物。


変色している物。


蓋が割れている物。


本体しかない物。


蓋しかない物。


状態のいい物。


直樹が一つずつ確認していく。


「これは処分で」


「こちらは?」


「それも」


「これ、蓋ありますかね」


「たぶんないです」


蓋の籠を探す。


似た青色が三枚ある。


直樹が一枚取る。


閉まらない。


二枚目。


片側だけ浮く。


三枚目でようやく合う。


「これです」


佐伯が笑った。


「分かるんですね」


「分かってないから三つ試したんです」


芳江の家では、昔からそうだった。


直樹が冷蔵庫から残り物を出す。


保存容器へ入れる。


蓋を探す。


『これ閉まらない』


芳江は振り返りもしない。


『青いの』


『青三つある』


『薄い青』


『全部薄いよ』


『ちょっと四角いやつ』


『蓋は全部四角い』


『角が丸いの』


『先にそれ言ってよ』


一枚取る。


違う。


『それじゃない』


『じゃあ母さんがやって』


『見れば分かるでしょ』


『分かんないから聞いてるの』


結局、芳江が籠へ手を入れる。


一枚だけ抜く。


閉まる。


『ほら』


『容器と蓋に番号書こうよ』


『格好悪い』


『毎回探す方が面倒だろ』


『私は分かるから』


『俺が分かんないんだよ』


『じゃあ聞けばいいでしょ』


『今聞いてる』


毎回そこまで言って、直樹が負ける。


番号は最後まで書かれなかった。


容器が息子の家へたまることもあった。


ある日の夕方、芳江から短いメッセージが来た。


『容器そっちにない?』


直樹は冷蔵庫と戸棚を見る。


『三つある』


すぐ返事。


『持ってきて』


『急ぎ?』


『なくなってきた』


『何で俺んちに三つもあるの』


『持って帰ったからでしょ』


『持たせたんでしょ』


翌週、直樹は三つ重ねて持っていった。


芳江が数える。


『四つあった気がする』


『知らないよ』


『四角い白い蓋の』


『全部四角いよ』


『白いやつ』


『白二つある』


『大きい方』


直樹は一つ思い出した。


『まだ冷蔵庫にある』


『中身は』


『きんぴら』


『まだ食べてないの』


『昨日もらったばっかりだろ』


『じゃあ今度でいい』


芳江は三つを戸棚へしまう。


一分もしないうちに一つ取り出した。


冷蔵庫の鍋から煮物を入れる。


『はい』


直樹は受け取らない。


『今、返したよね』


『三つ返ってきた』


『一つまた出てきた』


『二つ増えたでしょ』


『そういう数え方なの?』


『合ってる』


その日、直樹は結局また一つ持って帰った。


現在の台所でも、蓋はばらばらのままだった。


冬一が古い蓋を一枚持つ。


「こちらは本体がなさそうです」


「捨ててください」


直樹は迷わなかった。


昼前には半分以上が処分側へ回った。


残すのは数個だけ。


それも直樹が持ち帰るわけではない。親戚へ渡す食品用に使い、その後どうするかは相手へ任せることにした。


戸棚の上段から、小さなガラス容器が出た。


直樹が見る。


「それ、漬物のやつです」


「残しますか」


「いらないです」


即答する。


「俺、これ嫌いなんですよ」


「容器が?」


佐伯が聞く。


「中身です。母、何にでも漬物付けるんで」


芳江は息子が好きではないと知っていても入れた。


『これいらない』


『食べなさい』


『好きじゃない』


『野菜だから』


『他の野菜食ってるよ』


『漬物は別』


『何が別なの』


『漬物が』


『答えになってないよ』


『一切れでいいから』


『何でそんな食わせたいの』


『余ってるから』


理由は急に現実的だった。


ポテトサラダにも、毎回小さな揉め事があった。


芳江はときどき、薄く切ったりんごを入れる。


『また入れた?』


『少しだけ』


『いらないって言ってるじゃん』


『りんごだけ避ければいいでしょ』


『最初から入れなきゃいいでしょ』


『私は好きなの』


『じゃあ母さんの分だけ入れて』


『分けるの面倒』


『食べる俺の方が面倒なんだけど』


芳江は、


『じゃあ今度入れない』


と言う。


次の何回かは入らない。


忘れた頃にまた入る。


『入ってるじゃん』


『久しぶりだからいいかと思って』


『何がいいの』


直樹は文句を言いながら、りんごだけ最後に残して食べた。


『じゃあ自分で食べてよ』


『食べてる』


『まだ余ってるじゃん』


『作りすぎた』


『またかよ』


芳江は笑う。


結局、直樹は二切れほど食べる。


残りをまた容器で持たされる。


「漬物まで持たされてました?」


冬一が聞く。


「毎回じゃないですけど」


直樹はガラス容器を処分箱へ入れた。


「たまに断り切れなくて」


芳江の煮物は味が濃い日もあった。


ポテトサラダは多すぎた。


肉じゃがは翌日になるとジャガイモが崩れている。


直樹は普通に文句を言った。


芳江も普通に言い返した。


ただ、食べられないほどまずいわけではない。


だから持って帰れば食べた。


午後、冷蔵庫を空にする。


食品の確認が終わると、冬一たちは棚を拭いた。


直樹は食卓で書類を分けている。


保険。


公共料金。


取扱説明書。


古い領収書。


重要な物だけ別にする。


しばらくして、直樹が言った。


「俺も渡してたんですよ」


冬一が顔を上げる。


「何をですか」


「飯です。母からだけじゃなくて」


直樹は書類から目を離さない。


「一人暮らしだからって、毎回もらってたみたいに見えるなと思って」


「料理されるんですね」


「しますよ」


少し笑う。


「母より辛いですけど」


カレーを作りすぎた夜。


直樹は容器へ入れ、翌日実家へ持っていった。


『これ食べる?』


芳江が受け取る。


『何』


『カレー』


『辛くない?』


『普通』


『あんたの普通は辛い』


『じゃあいらない?』


芳江は蓋を開け、匂いを嗅ぐ。


『食べる』


『辛いって言うなら返して』


『まだ食べてないでしょ』


翌日。


芳江からメッセージが来る。


『辛い』


直樹は、


『だから言った』


と返す。


少しして、


『でも食べた』


と来る。


『じゃあいいじゃん』


『次は甘くして』


『次もこれ』


『じゃあ少なくして』


『食うんじゃん』


数日後、空の容器が返ってきた。


その中には何も入っていなかった。


直樹が、


『今日は増えてないんだ』


と言う。


芳江は、


『カレー入ってた容器に煮物入れたくない』


と言った。


『洗ったでしょ』


『匂いする』


『しないよ』


『する』


直樹が嗅ぐ。


『しない』


芳江も嗅ぐ。


『ちょっとする』


『気のせいだよ』


『じゃあ持って帰って』


結局、その容器は直樹の家へ戻った。


「同じ容器が行ったり来たりしてたんですね」


佐伯が言う。


「誰のか途中から分かんないのもありましたけどね」


「それは困りますね」


「母は自分のだって言うし、俺も自分で買った気がするし」


冬一は口を挟まなかった。


午後三時頃、食器棚の整理に入った。


芳江が普段使っていた皿。


茶碗。


マグカップ。


来客用の湯呑み。


直樹が必要な物だけ確認する。


高価な物はない。


食器はほとんど処分になった。


「これもいいです」


「こちらも?」


「はい」


冬一が白い小皿を重ねる。


直樹は見ていたが、途中から視線を戻した。


「母の食器、俺の家に何枚かあるんですよ」


「持っていかれた物ですか」


「料理ごと」


直樹が笑う。


芳江は保存容器が足りなくなると、皿ごと渡すことがあった。


『これ持ってって』


『皿じゃん』


『ラップしてあるから大丈夫』


『返すの面倒なんだけど』


『次来る時でいい』


『その次まで皿足りるの?』


『まだある』


確かにあった。


『食器多すぎない?』


『人来た時使う』


『最近誰来たの』


芳江は少し考える。


『あんた』


『俺に出してるのこれじゃないじゃん』


『じゃあそのうち使う』


使わないまま残った皿も多かった。


直樹の家には、芳江の皿が二枚ある。


今も普通に使っている。


それを取りに戻る話にはならなかった。


夕方。


大きな家具の搬出が始まる。


食器棚。


小さなラック。


台所横のワゴン。


物がなくなるにつれ、壁が見える。


最後に保存容器を入れていた戸棚を空にした。


残す物は別の箱へ。


処分する物は搬出。


蓋の籠もなくなる。


戸棚の中には何もない。


冬一が棚板を拭く。


「台所はこちらで終わりです」


直樹が頷いた。


「はい」


作業台の端に、朝持ってきた保存容器が一つ残っている。


冬一が確認する。


「こちらはどうしますか」


「ああ」


直樹が手に取る。


空の容器。


薄い灰色の蓋。


直樹は戸棚を開けた。


中は空だった。


そのまま一度、容器を入れかける。


止める。


取り出す。


「これ、返すつもりで持ってきたんでした」


直樹は容器を見た。


「……持って帰ります」


「分かりました」


「使えるんで」


冬一はそれを残す物の箱へ入れなかった。


「ご自身の鞄で大丈夫ですか」


「はい」


直樹は朝と同じ鞄へ容器を戻した。


作業はそのまま続いた。


夜。


直樹は自宅で野菜炒めを作った。


一人分のつもりだったが、少し多かった。


食事を終え、フライパンを見る。


残りを皿へ移そうとしてやめる。


戸棚を開ける。


朝持って帰った保存容器を出した。


中へ入れる。


蓋の入った引き出しを開けた。


薄い灰色を一枚取る。


片側が浮いた。


「違うか」


戻す。


もう一枚。


今度は四隅が閉まった。


直樹は容器を冷蔵庫へ入れた。


引き出しを閉めた。


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