空の容器
「これ、母のです」
高井直樹は、持ってきた鞄から透明な保存容器を一つ出した。
榊冬一が手を止める。
四角い容器に、薄い灰色の蓋。特別な物には見えない。側面には細かな擦り傷があり、蓋の角が少し白くなっている。
「ご自宅にあった物ですか」
「はい。うちにずっとあって。今日こっちのと一緒にしようと思って持ってきました」
直樹は台所の作業台へ置いた。
「返すの、遅くなってたやつです」
高井芳江、六十七歳。
一人で暮らしていた母の家を、三十九歳の息子が片づけている。
直樹は一人暮らしが長く、普段の食事も自分で作る。
それでも実家へ来ると、帰りに何か持たされた。
煮物。
きんぴら。
ポテトサラダ。
肉じゃが。
漬物。
芳江は一人分を作るのが苦手だった。
『またこんな作ったの』
『作ったら増えた』
『勝手に増えないでしょ』
『鍋だと少なく作れないの』
『小さい鍋使えば』
『小さいのは使いにくい』
直樹が帰ろうとすると、保存容器が出てくる。
『いらないよ』
『持って帰りなさい』
『うちにも飯ある』
『明日食べればいいでしょ』
『明日もある』
『じゃあ明後日』
『予定決めないでよ』
『冷蔵庫入れとけば大丈夫』
結局持って帰る。
食べる。
容器を洗う。
次に実家へ来る時、返す。
そこまでは毎回同じだった。
直樹が空の容器を台所へ置く。
『これ返す』
『そこ置いといて』
流しの横へ置く。
しばらくすると、芳江がその容器を持ってくる。
蓋が閉まっている。
『はい』
『何これ』
『煮物』
『返したんだけど』
『返ってきたでしょ』
『中身増えてる』
『空だったから』
『空にして返したんだよ』
『じゃあ使えるでしょ』
『何のために返したと思ってるの』
『また入れるため』
直樹は容器を受け取る。
『最初から勝てない仕組みじゃん』
『勝ち負けじゃない』
「この辺り、全部保存容器ですね」
佐伯の声で、直樹が戸棚を見る。
下段いっぱいに、似たような容器が重なっていた。
丸。
四角。
細長いもの。
蓋だけが別の籠に入っている。
直樹が息を吐く。
「これが面倒なんですよ」
「量ですか」
「蓋です」
佐伯が籠を見る。
「確かに多いですね」
「本体より多い気がする」
冬一たちは中身を一度出した。
変形している物。
変色している物。
蓋が割れている物。
本体しかない物。
蓋しかない物。
状態のいい物。
直樹が一つずつ確認していく。
「これは処分で」
「こちらは?」
「それも」
「これ、蓋ありますかね」
「たぶんないです」
蓋の籠を探す。
似た青色が三枚ある。
直樹が一枚取る。
閉まらない。
二枚目。
片側だけ浮く。
三枚目でようやく合う。
「これです」
佐伯が笑った。
「分かるんですね」
「分かってないから三つ試したんです」
芳江の家では、昔からそうだった。
直樹が冷蔵庫から残り物を出す。
保存容器へ入れる。
蓋を探す。
『これ閉まらない』
芳江は振り返りもしない。
『青いの』
『青三つある』
『薄い青』
『全部薄いよ』
『ちょっと四角いやつ』
『蓋は全部四角い』
『角が丸いの』
『先にそれ言ってよ』
一枚取る。
違う。
『それじゃない』
『じゃあ母さんがやって』
『見れば分かるでしょ』
『分かんないから聞いてるの』
結局、芳江が籠へ手を入れる。
一枚だけ抜く。
閉まる。
『ほら』
『容器と蓋に番号書こうよ』
『格好悪い』
『毎回探す方が面倒だろ』
『私は分かるから』
『俺が分かんないんだよ』
『じゃあ聞けばいいでしょ』
『今聞いてる』
毎回そこまで言って、直樹が負ける。
番号は最後まで書かれなかった。
容器が息子の家へたまることもあった。
ある日の夕方、芳江から短いメッセージが来た。
『容器そっちにない?』
直樹は冷蔵庫と戸棚を見る。
『三つある』
すぐ返事。
『持ってきて』
『急ぎ?』
『なくなってきた』
『何で俺んちに三つもあるの』
『持って帰ったからでしょ』
『持たせたんでしょ』
翌週、直樹は三つ重ねて持っていった。
芳江が数える。
『四つあった気がする』
『知らないよ』
『四角い白い蓋の』
『全部四角いよ』
『白いやつ』
『白二つある』
『大きい方』
直樹は一つ思い出した。
『まだ冷蔵庫にある』
『中身は』
『きんぴら』
『まだ食べてないの』
『昨日もらったばっかりだろ』
『じゃあ今度でいい』
芳江は三つを戸棚へしまう。
一分もしないうちに一つ取り出した。
冷蔵庫の鍋から煮物を入れる。
『はい』
直樹は受け取らない。
『今、返したよね』
『三つ返ってきた』
『一つまた出てきた』
『二つ増えたでしょ』
『そういう数え方なの?』
『合ってる』
その日、直樹は結局また一つ持って帰った。
現在の台所でも、蓋はばらばらのままだった。
冬一が古い蓋を一枚持つ。
「こちらは本体がなさそうです」
「捨ててください」
直樹は迷わなかった。
昼前には半分以上が処分側へ回った。
残すのは数個だけ。
それも直樹が持ち帰るわけではない。親戚へ渡す食品用に使い、その後どうするかは相手へ任せることにした。
戸棚の上段から、小さなガラス容器が出た。
直樹が見る。
「それ、漬物のやつです」
「残しますか」
「いらないです」
即答する。
「俺、これ嫌いなんですよ」
「容器が?」
佐伯が聞く。
「中身です。母、何にでも漬物付けるんで」
芳江は息子が好きではないと知っていても入れた。
『これいらない』
『食べなさい』
『好きじゃない』
『野菜だから』
『他の野菜食ってるよ』
『漬物は別』
『何が別なの』
『漬物が』
『答えになってないよ』
『一切れでいいから』
『何でそんな食わせたいの』
『余ってるから』
理由は急に現実的だった。
ポテトサラダにも、毎回小さな揉め事があった。
芳江はときどき、薄く切ったりんごを入れる。
『また入れた?』
『少しだけ』
『いらないって言ってるじゃん』
『りんごだけ避ければいいでしょ』
『最初から入れなきゃいいでしょ』
『私は好きなの』
『じゃあ母さんの分だけ入れて』
『分けるの面倒』
『食べる俺の方が面倒なんだけど』
芳江は、
『じゃあ今度入れない』
と言う。
次の何回かは入らない。
忘れた頃にまた入る。
『入ってるじゃん』
『久しぶりだからいいかと思って』
『何がいいの』
直樹は文句を言いながら、りんごだけ最後に残して食べた。
『じゃあ自分で食べてよ』
『食べてる』
『まだ余ってるじゃん』
『作りすぎた』
『またかよ』
芳江は笑う。
結局、直樹は二切れほど食べる。
残りをまた容器で持たされる。
「漬物まで持たされてました?」
冬一が聞く。
「毎回じゃないですけど」
直樹はガラス容器を処分箱へ入れた。
「たまに断り切れなくて」
芳江の煮物は味が濃い日もあった。
ポテトサラダは多すぎた。
肉じゃがは翌日になるとジャガイモが崩れている。
直樹は普通に文句を言った。
芳江も普通に言い返した。
ただ、食べられないほどまずいわけではない。
だから持って帰れば食べた。
午後、冷蔵庫を空にする。
食品の確認が終わると、冬一たちは棚を拭いた。
直樹は食卓で書類を分けている。
保険。
公共料金。
取扱説明書。
古い領収書。
重要な物だけ別にする。
しばらくして、直樹が言った。
「俺も渡してたんですよ」
冬一が顔を上げる。
「何をですか」
「飯です。母からだけじゃなくて」
直樹は書類から目を離さない。
「一人暮らしだからって、毎回もらってたみたいに見えるなと思って」
「料理されるんですね」
「しますよ」
少し笑う。
「母より辛いですけど」
カレーを作りすぎた夜。
直樹は容器へ入れ、翌日実家へ持っていった。
『これ食べる?』
芳江が受け取る。
『何』
『カレー』
『辛くない?』
『普通』
『あんたの普通は辛い』
『じゃあいらない?』
芳江は蓋を開け、匂いを嗅ぐ。
『食べる』
『辛いって言うなら返して』
『まだ食べてないでしょ』
翌日。
芳江からメッセージが来る。
『辛い』
直樹は、
『だから言った』
と返す。
少しして、
『でも食べた』
と来る。
『じゃあいいじゃん』
『次は甘くして』
『次もこれ』
『じゃあ少なくして』
『食うんじゃん』
数日後、空の容器が返ってきた。
その中には何も入っていなかった。
直樹が、
『今日は増えてないんだ』
と言う。
芳江は、
『カレー入ってた容器に煮物入れたくない』
と言った。
『洗ったでしょ』
『匂いする』
『しないよ』
『する』
直樹が嗅ぐ。
『しない』
芳江も嗅ぐ。
『ちょっとする』
『気のせいだよ』
『じゃあ持って帰って』
結局、その容器は直樹の家へ戻った。
「同じ容器が行ったり来たりしてたんですね」
佐伯が言う。
「誰のか途中から分かんないのもありましたけどね」
「それは困りますね」
「母は自分のだって言うし、俺も自分で買った気がするし」
冬一は口を挟まなかった。
午後三時頃、食器棚の整理に入った。
芳江が普段使っていた皿。
茶碗。
マグカップ。
来客用の湯呑み。
直樹が必要な物だけ確認する。
高価な物はない。
食器はほとんど処分になった。
「これもいいです」
「こちらも?」
「はい」
冬一が白い小皿を重ねる。
直樹は見ていたが、途中から視線を戻した。
「母の食器、俺の家に何枚かあるんですよ」
「持っていかれた物ですか」
「料理ごと」
直樹が笑う。
芳江は保存容器が足りなくなると、皿ごと渡すことがあった。
『これ持ってって』
『皿じゃん』
『ラップしてあるから大丈夫』
『返すの面倒なんだけど』
『次来る時でいい』
『その次まで皿足りるの?』
『まだある』
確かにあった。
『食器多すぎない?』
『人来た時使う』
『最近誰来たの』
芳江は少し考える。
『あんた』
『俺に出してるのこれじゃないじゃん』
『じゃあそのうち使う』
使わないまま残った皿も多かった。
直樹の家には、芳江の皿が二枚ある。
今も普通に使っている。
それを取りに戻る話にはならなかった。
夕方。
大きな家具の搬出が始まる。
食器棚。
小さなラック。
台所横のワゴン。
物がなくなるにつれ、壁が見える。
最後に保存容器を入れていた戸棚を空にした。
残す物は別の箱へ。
処分する物は搬出。
蓋の籠もなくなる。
戸棚の中には何もない。
冬一が棚板を拭く。
「台所はこちらで終わりです」
直樹が頷いた。
「はい」
作業台の端に、朝持ってきた保存容器が一つ残っている。
冬一が確認する。
「こちらはどうしますか」
「ああ」
直樹が手に取る。
空の容器。
薄い灰色の蓋。
直樹は戸棚を開けた。
中は空だった。
そのまま一度、容器を入れかける。
止める。
取り出す。
「これ、返すつもりで持ってきたんでした」
直樹は容器を見た。
「……持って帰ります」
「分かりました」
「使えるんで」
冬一はそれを残す物の箱へ入れなかった。
「ご自身の鞄で大丈夫ですか」
「はい」
直樹は朝と同じ鞄へ容器を戻した。
作業はそのまま続いた。
夜。
直樹は自宅で野菜炒めを作った。
一人分のつもりだったが、少し多かった。
食事を終え、フライパンを見る。
残りを皿へ移そうとしてやめる。
戸棚を開ける。
朝持って帰った保存容器を出した。
中へ入れる。
蓋の入った引き出しを開けた。
薄い灰色を一枚取る。
片側が浮いた。
「違うか」
戻す。
もう一枚。
今度は四隅が閉まった。
直樹は容器を冷蔵庫へ入れた。
引き出しを閉めた。




