黄色い旗
「これは、処分しない方がよさそうです」
榊冬一が玄関収納から出したのは、黄色い旗だった。
短い棒の先に蛍光色の布が付いている。布には地域見守り会の名前が印刷されていた。
その下から、反射材の付いたベストと腕章も出てくる。
宮下理恵が振り返った。
「あ、それ町内会のです」
「お父様の私物ではないんですね」
「はい。朝の見守りで使ってました」
冬一は処分品とは別の場所へ置いた。
「返却されますか」
「吉村さんに連絡してあります。今日、取りに来てくれるって」
宮下徹、七十二歳。
亡くなるまで九年間、地域の見守り活動に参加していた。
平日の朝、小学校近くの横断歩道に立つ。
毎日ではない。
当番の日だけ。
雨の日もある。
冬の朝もある。
本人は、その活動を立派なこととして話したことはなかった。
むしろ文句の方が多かった。
『朝早い』
理恵が実家へ来た時、父が言った。
『自分で入ったんでしょ』
『入った時はこんな寒いと思わなかった』
『冬なんだから寒いよ』
『去年より寒い』
『毎年言ってるよ、それ』
『今年は本当に寒い』
徹は厚手の上着を着る。
その上から黄色いベスト。
玄関で腕章を巻く。
『じゃあ辞めれば』
『人数減るだろ』
『じゃあ行けば』
『今行くところだ』
文句を言いながら出ていく。
帰ってくると、
『今日一人走った』
と言う。
『何が?』
『子供』
『走るでしょ』
『横断歩道では走るなって言ってる』
『注意したの?』
『旗出した』
『言葉では?』
『間に合わなかった』
その翌週。
『今日はゼロ』
『何が』
『走った子』
『数えてるの?』
『吉村さんと』
『何で』
『何となく』
大人二人で、朝からそんなものを数えていた。
走った子供を数える時にも、二人のルールは一致していなかった。
徹は、横断歩道へ入る前に走っていても、渡る時に歩けば数えない。
吉村は、信号へ駆け込んできた時点で一人にする。
『今歩いた』
『来る時走ってた』
『横断歩道では歩いた』
『じゃあセーフなのか』
『見守るのは横断歩道だろ』
『都合いいな』
その日の帰りも、
『ゼロ』
『一人』
で決着しなかった。
理恵が初めてその話を聞いた時、
『そんなことで毎朝揉めてるの』
と呆れた。
徹は、
『毎朝じゃない』
と訂正した。
『走る子がいた日だけだ』
理恵は最初、冗談だと思っていた。
そのまま何年も続いた。
冬一は玄関収納の奥を確認する。
黄色い旗とは別に、普通の傘が三本。
折り畳み傘。
靴磨き。
買い物袋。
その中から古い軍手が何組か出た。
「こちらは?」
「捨ててください」
理恵の判断は早い。
残す物はすでにかなり絞ってある。
写真。
時計。
書類。
父が使っていたマグカップを一つ。
それ以外は、必要かどうかで決めていた。
見守りの旗だけは、そもそも父の物ではない。
居間へ移る。
冬一と佐伯が本棚を空にする。
理恵は食器を確認していた。
「父、見守り始めたのいつ頃だったかな」
独り言のように言う。
「定年してから少し経ってからです」
佐伯が本を箱へ入れながら聞いた。
「きっかけあったんですか」
「町内会で人が足りないって言われたみたいです」
理恵は皿を一枚戻した。
「最初は一年だけって言ってました」
一年が二年になる。
二年が三年になる。
いつの間にか九年だった。
『まだやってるの』
理恵が聞く。
『まだ頼まれるから』
『嫌なら断ればいいじゃん』
『嫌とは言ってない』
『毎回寒いって言うじゃん』
『寒いのは嫌だ』
『活動は?』
『別に』
『楽しいの?』
『別に』
『じゃあ何なの』
徹は少し考えて、
『朝終わるの早いから』
と答えた。
何の答えにもなっていない。
理恵はそれ以上聞かなかった。
見守りを終えた徹は、たいてい自販機で缶コーヒーを買って帰った。
冬でも冷たいブラック。
理恵が、
『せめて温かいのにしたら』
と言っても、
『熱い』
で終わる。
同じ当番の吉村正一は逆だった。
春でも温かいコーヒーを買う。
徹が言う。
『もう暑いだろ』
吉村。
『朝は寒い』
『今十五度あるぞ』
『冷たいの飲むほどじゃない』
『コーヒーは冷たい方がうまい』
『腹冷えるぞ』
『年寄り扱いするな』
『同い年だろ』
二人とも七十を過ぎている。
どちらも自分を年寄りだとは言いたがらなかった。
夏休みに入った最初の朝、一度だけ二人とも間違えて持ち場へ出たことがある。
七時半になっても、ランドセルの子供が一人も来ない。
徹が道路の向こうの吉村を見る。
吉村も徹を見る。
信号が一度変わる。
誰も渡らない。
徹が横断歩道を渡ってきた。
『今日、何曜日だ』
『火曜』
『学校は』
『夏休み』
二人でしばらく黙った。
『お前、何で来た』
『当番だから』
『休みだろ』
『お前もいるだろ』
『俺は確認しに来た』
『何を』
『お前が間違えて来てないか』
『旗持ってるじゃないか』
徹は自分の手にある黄色い旗を見る。
言い返せない。
結局、そのまま自販機へ行った。
『せっかく起きたから』
と徹が言う。
吉村も、
『そうだな』
と答えた。
その日だけは見守りをせず、朝から二人で缶コーヒーを飲んだ。
翌年から、夏休みに入る前の日には吉村が、
『明日来るなよ』
と言う。
徹は、
『お前がな』
と返す。
理恵がその話を聞いたのは、父からだった。
吉村本人とは、町内で顔を合わせれば挨拶する程度。
家へ遊びに来るような関係ではない。
昼前。
冬一が押し入れから段ボール箱を下ろした。
中には古いタオルと、裁縫箱。
理恵が見る。
「裁縫箱、まだあったんだ」
「残しますか」
「中だけ見ます」
蓋を開ける。
糸。
針。
ボタン。
小さな鋏。
「父、裁縫なんてできないですよ」
その時、玄関の呼び鈴が鳴った。
理恵が出る。
「こんにちは」
男の声。
少しして、七十代くらいの男性が居間へ入ってきた。
「吉村です」
「榊です」
挨拶をする。
理恵が玄関を指す。
「旗とベスト、あそこにあります」
「ありがとう」
吉村は黄色い旗を手に取った。
布を広げる。
反射ベストも見る。
「ああ、これ徹さんのだ」
理恵が聞いた。
「分かるんですか」
「ベストは」
裾を持ち上げる。
片側だけ、白い糸で縫われていた。
縫い目は斜めに進み、途中で幅が変わっている。
「これ、自分で縫ったやつ」
理恵が近づく。
「父が?」
「大きいって言ってな」
吉村が笑う。
徹に支給されたベストは少し大きかった。
初日に着て、
『これ長い』
と言った。
吉村は、
『そうか?』
『しゃがむと邪魔だ』
『替えてもらえば』
『これでいい』
次の当番の日。
裾が短くなっていた。
『縫ったのか』
『縫った』
『自分で?』
『それくらいできる』
吉村が近くで見る。
『曲がってるぞ』
『着れば分からない』
『分かる』
『子供は裾見てない』
『俺は見える』
『じゃあ見るな』
九年間、そのまま使った。
理恵が縫い目を見る。
「できてないですね」
「できてない」
二人で笑った。
冬一は裁縫箱の中を見る。
白い糸がある。
それがベストを縫った糸かどうかは分からない。
確認する必要もなかった。
「裁縫箱、どうされますか」
理恵は少し考えた。
「処分でお願いします」
「分かりました」
吉村も何も言わなかった。
黄色い旗を見ていた佐伯が、
「旗も九年同じ物ですか」
と聞く。
吉村は首を振る。
「いや、旗は入れ替わってるよ」
「個人ごとじゃないんですね」
「倉庫から持ってくんだ。傷んだら替えるし」
理恵が見る。
「じゃあこれも、父の旗ってわけじゃないんですか」
「昨日誰が使ったかまでは分かるけど、ずっと同じじゃないね」
理恵は少し笑った。
「父の物だと思ってました」
「ベストはだいたい各自だけどな」
吉村は旗を丸めた。
理恵が聞く。
「これ、一つくらい残しちゃ駄目ですか」
吉村は少し困った顔をした。
「旗?」
「はい」
「数決まってるからなあ」
「ですよね」
理恵はすぐに笑った。
「じゃあ返します」
「悪いね」
「父のじゃないですもんね」
吉村は旗とベスト、腕章をまとめる。
玄関へ持っていく前に、理恵が聞いた。
「父、ちゃんとやってました?」
「何を」
「見守り」
吉村は少し考える。
「普通に」
「普通」
「遅刻もするし」
理恵が笑う。
「するんだ」
「一回だけな」
朝七時半。
吉村が持ち場へ行く。
徹がいない。
七時三十二分。
向こうから歩いてくる。
『遅いぞ』
『二分だ』
『子供来てる』
『信号まだ赤だろ』
『そういう問題じゃない』
『来たからいいだろ』
その日の活動後。
徹が言う。
『今日は走ったの一人』
吉村。
『二人だ』
『一人』
『お前来る前に一人走った』
徹は黙る。
『じゃあ二人』
『遅刻したから見逃したな』
『二分だけだ』
『一人分だ』
それ以来、吉村は遅刻のたびにその話をした。
徹は毎回、
『一回しかしてない』
と言い返した。
「最後まで言われてました?」
理恵が聞く。
「先月も言った」
「父、何て返してました?」
「一回しかしてない」
「毎回?」
「毎回」
「九年で一回なら優秀じゃないですか」
「だから本人もそう言ってた」
「父、絶対根に持ってたな」
「俺も言う方だからな」
二人で笑った。
吉村が帰る前、理恵は父の缶コーヒーの話をした。
「吉村さん、今も温かいのですか」
「夏はさすがに冷たい」
「父、春でも温かいって言ってましたよ」
「昔はな」
「変わったんだ」
「暑いもん」
理恵が笑う。
「父、それ知らなかったかも」
「言ってないからな」
吉村も笑った。
それで玄関へ向かった。
「じゃあ、これ返しとくから」
「お願いします」
「片づけ大変だろうけど」
「はい」
吉村は黄色い旗とベストを持って出ていった。
冬一たちは作業へ戻った。
午後。
食器棚。
本棚。
小さな箪笥。
不要になった家具を順に運び出す。
理恵が残した物は多くなかった。
見守り活動に関する物は、家からなくなった。
夕方、玄関収納も空になる。
そこに黄色い旗が立て掛けられていた跡は残っていなかった。
作業を終える。
冬一が言う。
「こちらで終了です」
「ありがとうございます」
理恵が頭を下げる。
それだけだった。
吉村は町内会の倉庫へ寄った。
扉を開ける。
黄色い旗が十数本、まとめて立ててある。
持ち帰った一本をそこへ入れる。
隣の旗と同じ色。
同じ長さ。
見守り会の同じ文字。
吉村にも、次に見ればどれだったか分からない。
反射ベストと腕章は別の棚へ戻した。
徹のベストだけは、曲がった白い縫い目が残っている。
翌朝。
当番の人間が倉庫へ集まった。
それぞれ黄色い旗を一本取る。
吉村も一本取った。
昨日持ち帰った物かは見なかった。
もう一人の担当者が、徹が立っていた側へ向かう。
吉村が声を掛ける。
「そこ、左から自転車来るから気をつけて」
「分かりました」
「朝、結構飛ばしてくるから」
二人で横断歩道へ立った。
登校する子供が増えてくる。
一人が信号の点滅を見て走ろうとする。
吉村が旗を出した。
「次で行こう」
子供が止まる。
信号が青になった。
黄色い旗が上がった。




