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生活の跡  作者: 鷺沼鳩屋
少し違う暮らし
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19/22

モモちゃんのお父さん

「大きい家具を出す間だけ、モモちゃんを別の場所にお願いできますか」


榊冬一が言うと、石井奈央は足元を見た。


茶色い犬が、食器棚の前で佐伯の靴を嗅いでいる。


「すみません。邪魔ですよね」


「家具を持ってる時に足元へ来ると危ないので」


「じゃあ、散歩行ってきます」


奈央は壁に掛かっていたリードを取った。


モモ、九歳。


亡くなった石井修が飼っていた犬だった。


これからは娘の奈央が引き取る。


「一時間くらい大丈夫ですか」


「その間に食器棚と箪笥を出しておきます」


「お願いします」


奈央が首輪へリードを付ける。


「行くよ」


モモはすぐ玄関へ向かった。


修は毎朝、モモを散歩へ連れて行っていた。


雨でも行く。


寒くても行く。


奈央が父の家へ来ると、たいていその話になる。


『今日も行ったの?』


『行った』


『雨だったでしょ』


『降る前』


『何時?』


『六時』


『早すぎるよ』


『モモが起きるから』


『父さんが起きてるんでしょ』


『モモが先だ』


『本当に?』


『たぶん』


修は少し考えて答える。


そこがすでに怪しい。


散歩はだいたい四十分。


長い日は一時間を超える。


奈央が、


『歩かせすぎじゃない?』


と言うと、


『モモが歩きたがる』


と返す。


『コンビニ寄ってるでしょ』


『ついでだ』


『缶コーヒー買ってるじゃん』


『散歩の途中に店がある』


『店のある道選んでるの父さんでしょ』


『モモがそっち行く』


奈央がモモを見る。


犬は何も答えない。


『全部モモのせいにするのやめなよ』


『本人が否定しない』


『できないんだよ』


修は毎回似たようなことを言った。


奈央が玄関を開ける。


モモが先に外へ出る。


階段を下り、住宅街へ出た。


どちらへ行けばいいのか、奈央は細かい道順までは知らない。


父と一緒に何度か歩いたことはある。


けれど、毎朝付き合っていたわけではない。


最初の角で、奈央は左へ曲がろうとした。


モモが右へ行く。


「そっち?」


軽くリードを引く。


モモは右を向いたまま待っている。


奈央はそちらへ歩いた。


住宅街の細い道。


公園。


小さな橋。


その先にコンビニがある。


「やっぱりこっちじゃん」


モモは歩いている。


父が犬に選ばせていたのか、父がこの道を覚えさせたのかは分からない。


コンビニの前を通る。


自動販売機もある。


修は冬でも冷たい缶コーヒーを買った。


奈央が一度、


『寒くないの』


と聞いた。


『温かいの甘い』


『ブラックあるよ』


『熱い』


『じゃあ家で飲めば』


『歩いた後に飲みたい』


『好きにすれば』


『好きにしてる』


冬なのに、冷たい缶を持って帰る。


夏も同じ物。


そこだけは季節が変わっても変わらなかった。


奈央は自動販売機の前を通り過ぎた。


モモも止まらない。


少し先で、小さな白い犬を連れた女性が歩いてきた。


女性が先に、


「あら」


と声を出した。


「モモちゃん」


奈央が顔を上げる。


モモの方は、その犬へ寄ろうとする。


「こんにちは」


奈央が頭を下げた。


女性も頭を下げる。


「今日はお父さんじゃないのね」


「あ、はい。娘です」


「そうなの」


女性はモモを見る。


「珍しいねえ」


奈央には、女性の顔に覚えがなかった。


「いつも父と?」


「朝よく会うの。うちもこの時間だから」


白い犬のリードを少し持ち直す。


「モモちゃん、今日は遅めね」


時計を見ると、午前十時を過ぎている。


「父はもっと早かったですよね」


「早い早い。六時台にも会うもの」


本当だったらしい。


「そんな時間に」


奈央が言う。


女性が笑った。


「夏はもっと早い時あるわよ」


それは知らなかった。


だが、驚くほどの秘密でもない。


早起きして、犬を歩かせていた。


それだけだった。


「じゃあね、モモちゃん」


女性が犬と歩いていく。


奈央はその背中を見る。


名前を聞かなかった。


父も、散歩中に会う人間の名前をほとんど知らなかった。


奈央が以前、


『毎朝誰かと話すって言ってたじゃん』


と聞いたことがある。


『話すよ』


『誰?』


『ハナちゃんの人とか』


『人の名前は?』


『知らん』


『毎朝会うんでしょ』


『毎朝じゃない』


『何回くらい』


『週三、四回』


『十分多いよ。名前聞かないの?』


『別に困らない』


『何て呼ぶの』


『呼ばない』


『話す時』


『ハナちゃん元気ですね、とか』


『犬にしか名前ないじゃん』


『犬の散歩だからな』


他にも、


黒い柴犬の人。


小さいダックスフンドの人。


いつも帽子の人。


父の説明はその程度だった。


奈央は、


『向こうも父さんの名前知らないんじゃない?』


と聞いた。


修は、


『たぶん』


と言った。


『それでよく毎朝話せるね』


『毎朝同じ話するわけじゃない』


『何話すの』


『暑いとか』


『それだけ?』


『犬の話とか』


『それで足りる?』


『何が』


修には質問の意味が分からないらしかった。


奈央にも、それ以上説明できなかった。


モモが歩く。


道の端で立ち止まり、匂いを嗅ぐ。


しばらくしてまた進む。


奈央は急かさなかった。


父はモモに少し甘かった。


餌の量は決めていたが、おやつになると緩い。


奈央が会うたびに、


『モモ太った?』


と聞く。


修は必ず否定する。


『毛だ』


『前も言ってたよ』


『冬毛』


『今六月』


『抜け切ってない』


『触れば分かるよ』


奈央がモモの脇腹を触る。


『絶対太った』


『体重変わってない』


『測った?』


『見れば分かる』


『じゃあ何キロ』


修が黙る。


『測ってないじゃん』


動物病院で量ると、少し増えていた。


奈央は父へメッセージを送った。


『増えてるじゃん』


返事は、


『少し』


だけだった。


『おやつ減らして』


『分かった』


翌週。


奈央が訪ねる。


修がモモへ何かを渡している。


『今何あげた?』


『小さいの』


『量じゃなくて』


『おやつ』


『減らすって言ったよね』


『減らした』


『前は何個だったの』


『二個』


『今は?』


『一個』


確かに減っている。


奈央は何も言えなくなる。


修が、


『約束は守ってる』


と言った。


『そういうところだけ正確だね』


モモは一個分のおやつを食べていた。


奈央は歩きながら、リードを見る。


父が使っていた物だ。


持ち手の布が少し毛羽立っている。


今日の整理が終われば、犬の餌も食器もベッドも奈央の家へ持っていく。


必要だから。


父の物として保存するためではない。


公園へ着く。


ベンチ。


水飲み場。


犬を連れた人が二人いる。


モモが一匹の黒い柴犬へ近づこうとした。


飼い主の男性が気づく。


「ああ、モモちゃん」


また名前を呼ばれた。


「こんにちは」


奈央が言う。


「今日はお父さんじゃないんですね」


六十代くらいの男性だった。


「娘です」


「そうですか」


黒い柴犬とモモが互いの匂いを嗅いでいる。


男性は犬を見ながら、


「お父さん、いつも早いですよね」


と言った。


「六時くらいみたいですね」


「俺より早い時ありますよ」


「そんなに」


「夏はね」


やはり父は早かった。


男性は、


「雨だとこの公園まで来ないけど」


と言った。


奈央が見る。


「そうなんですか」


「橋の手前で曲がるんですよ。モモちゃん、雨嫌いだから」


奈央はモモを見る。


自分が知らなかったことではある。


けれど父が隠していたわけでもない。


聞いたことがなかっただけだ。


男性は、


「でも小雨くらいだと来るか」


と自分で訂正した。


その程度の話だった。


「父、皆さんのこと犬の名前で覚えてたんですよ」


奈央が言った。


男性が笑う。


「こっちも似たようなもんです」


「黒い柴の人って言ってました」


「ひどいな」


笑いながら言う。


「でも俺も、モモちゃんのお父さんだな」


二人とも笑った。


黒い柴犬の名前を、奈央は聞かなかった。


公園を出る。


モモはもう少し歩きたそうだったが、家の作業もある。


「そろそろ戻るよ」


来た道へ向かう。


モモもついてきた。


途中、別の犬を連れた高齢の男性が向こうから来た。


茶色と白の中型犬。


その犬が先にモモへ気づいた。


男性も顔を上げる。


「お、モモちゃん」


奈央は足を止めた。


男性はモモへ軽く手を振ってから、奈央を見る。


「お父さん今日は?」


奈央はすぐには答えなかった。


「父、亡くなったんです」


男性の顔から笑みが消えた。


「ああ……」


それだけ言って黙る。


大げさに驚かなかった。


詳しい死因も聞かなかった。


「そうでしたか」


男性は小さく頭を下げた。


「すみません、知らなくて」


「いえ」


「最近見ないなと思ってたんです」


モモが男性の犬へ近づく。


男性はしゃがんで、モモの頭を撫でた。


「お前、引っ越すのか」


奈央が答える。


「うちで飼うことになったので」


「そうですか」


男性は立ち上がった。


しばらくして、


「俺、名前聞かないままだったな」


と言った。


奈央が男性を見る。


「父の?」


「うん。ずっとモモちゃんのお父さんで」


奈央は答えた。


「修です」


少し間を置く。


「石井修」


男性は一度頷いた。


「石井さんか」


それだけだった。


「毎朝、ありがとうございました」


奈央が言う。


男性は少し困ったような顔をした。


「いや、こっちも犬歩かせてただけだから」


犬のリードを引く。


「じゃあ、またね、モモちゃん」


男性が歩き出す。


数歩先で、犬が別の方向へ行こうとした。


「ハナ、そっちじゃない」


男性が呼ぶ。


奈央はその背中を見た。


ハナちゃんの人だった。


名前は分からない。


奈央も聞かなかった。


家へ戻ると、食器棚はもうなかった。


箪笥も廊下へ出されている。


「お帰りなさい」


冬一が言った。


「大物は終わってます」


「ありがとうございます」


モモが水飲み場へ向かう。


父が使っていた器から水を飲む。


奈央はリードを外した。


「この辺、犬用品は全部残す方でいいですか」


冬一が確認する。


「使える物は持って帰ります」


餌。


食器。


ベッド。


未開封のトイレシート。


ブラシ。


冬一が古い散歩バッグを持つ。


底が擦れて、縫い目が一部ほどけている。


「こちらは?」


奈央が見る。


「それは捨ててください。新しいの買いました」


「分かりました」


父が何年使った物かは知らない。


まだ使おうと思えば使えるかもしれない。


奈央は残さなかった。


次に、玄関の棚から犬用の雨具が出た。


「これは使います」


「はい」


モモの物も、一つずつ分かれた。


必要な物。


もう使わない物。


父の物だったからというだけでは決まらなかった。


夕方。


作業が終わる。


奈央の車には、残した書類と小さな箱、それから犬用品が積まれた。


後部座席へモモを乗せる。


いつものリードも一緒に持っていく。


冬一が玄関から最後の袋を運んできた。


「こちらで全部です」


「はい」


奈央は家を見た。


それから車へ戻る。


モモが窓越しにこちらを見ている。


奈央は運転席の扉を開けかけて、


「明日は七時でいい?」


と聞いた。


モモは答えなかった。


奈央は乗り込んだ。


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