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生活の跡  作者: 鷺沼鳩屋
少し違う暮らし
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18/19

木曜二時

冷蔵庫の扉に、小さな白いカードが貼ってあった。


木 14:00〜16:00 吉岡


榊冬一が視線を止めると、宮本達也が言った。


「それ、訪問介護の予定です。母の」


カードの上には事業所名が印刷されている。裏は細い磁石だった。


「こちらは残しますか」


「たぶん事業所の物です。今日、吉岡さんが来るので聞いてみます」


八十二歳で亡くなった宮本静江は、この部屋で一人で暮らしていた。


息子の達也は別の市に住んでいる。週末には顔を出していたが、平日の生活を全部知っていたわけではない。


冬一はカードへ触れず、冷蔵庫の中を確認した。


調味料。

開封済みの牛乳。

小さな容器に入った漬物。

使いかけの味噌。


食品は達也の確認を受けながら処分していく。


呼び鈴が鳴った。


「たぶん吉岡さんです」


達也が玄関へ向かう。


入ってきたのは、四十代くらいの女性だった。


「吉岡理沙です。今日は事業所の物だけ回収に」


「榊です」


軽く挨拶をする。


理沙は四年間、毎週木曜日の午後二時から四時まで静江の家を訪れていた。


掃除。

洗濯。

買い物。

その日に必要な生活の手伝い。


「冷蔵庫に予定のカードがありました」


冬一が言う。


理沙が見る。


「あ、それもこちらのです」


「では外しておきますか」


理沙は少し考え、


「帰る時に私がやります」


と答えた。


冬一は頷き、作業へ戻った。


理沙は居間の棚から青いファイルを取り出した。


表紙に事業所名がある。


「これもですね」


達也が言う。


「はい。連絡用のファイルです」


棚の脇には小さな鍵保管ケースもある。事業所が設置していた物らしく、それも回収する。


理沙は持参した袋へ入れた。


「四年も来てもらってたんですよね」


達也が言う。


「そうですね」


「ずっと木曜?」


「ほとんど木曜です。時間もずっと二時から」


「母、曜日だけは妙に覚えてたんですよ。俺が土曜に行くと『今日は吉岡さん来ない日』って」


理沙が笑った。


「私もよく言われました。別の日に振り替えになると」


静江は予定が変わるのをあまり好まなかった。


祝日や事業所の都合で金曜へずれると、玄関を開けた瞬間から言う。


『今日、金曜よ』


『知ってます』


『いつも木曜』


『今週だけです』


『木曜の方がいい』


『私も木曜の方が慣れてます』


『じゃあ木曜に来ればよかったのに』


『来られなかったから金曜なんです』


『そう』


納得したように見える。


十分後。


『今日、金曜よね』


『はい』


『変な感じ』


『私もです』


「何回言っても気になるんですよ」


理沙が言う。


達也が笑った。


「そういう人でした」


冬一と佐伯は寝室の収納を確認する。


理沙は事業所の物を探す以外、遺品へ手を出さなかった。


ただ、部屋のどこに何があるかはよく知っていた。


佐伯が洗面所から戻ってくる。


「未開封の洗剤、こっちで大丈夫ですか」


達也が迷う。


理沙が口を挟むことはない。


「処分でお願いします」


達也が決める。


押し入れからタオルが何枚も出た。


達也が一枚持ち上げる。


「これ、母こんなに持ってたんだ」


理沙が見て笑う。


「タオルはうるさかったです」


「何がです?」


「畳み方」


静江は、自分で洗濯物を畳める日もあった。


それでも理沙が来る日は、洗った物が残してあることが多い。


理沙がタオルを畳む。


静江が見る。


『角ずれてる』


『使えますよ』


『使えるけどずれてる』


『じゃあ直します』


理沙が揃える。


次の一枚。


また少しずれる。


『そこ』


『見てたんですか』


『見えるもの』


『テレビ見てください』


『見ながら見てる』


『器用ですね』


理沙が全部畳み終える。


静江は一枚取る。


自分で畳み直す。


『同じじゃないですか』


『こっちの方がいい』


『どこが』


『角』


「最後まで違い分からなかったです」


理沙が言った。


「母、家でもそうでしたよ。俺が洗濯物畳むとやり直してました」


「じゃあ私だけじゃなかったんですね」


「たぶん誰でも」


二人で笑った。


タオルは達也が必要な分だけ残し、残りは処分になった。


理沙は一枚も欲しがらない。


午前の作業が進む。


食器棚から湯呑み。


小皿。


保存容器。


冬一が順に確認する。


理沙は壁の時計を見た。


十一時前。


「この時間に来るの、変な感じですね」


「いつも二時ですもんね」


達也が言う。


「二時ちょうど?」


「だいたい少し前です」


静江は早く来ても言う。


『二分早い』


『早い分にはいいでしょう』


『二時からでしょ』


『じゃあ玄関で二分待ちます?』


『それは変』


『私もそう思います』


遅れることはほとんどなかったが、道路が混んで三分遅れた日がある。


玄関を開けるなり、


『三分遅い』


と言われた。


『すみません』


『何かあった?』


『道が混んでました』


『事故?』


『たぶん工事です』


『じゃあしょうがない』


怒っていたのか心配していたのか、理沙には最後までよく分からなかった。


「母、時間には細かかったですか」


達也が聞く。


「私には」


「俺との待ち合わせは平気で遅れましたけどね」


理沙が笑った。


「相手で違うんですね」


「吉岡さんは仕事だからじゃないですか」


「かもしれません」


それ以上は決めなかった。


昼近く、台所の戸棚から買い物用のメモ帳が出た。


何枚か書きかけが残っている。


牛乳。

卵。

食パン。

バナナ。


達也が見る。


「これも母の字だ」


理沙も横から見た。


「買い物の時、これ渡されてました」


「自分で書いてたんですね」


「はい。でも一回で完成したことはあんまりないです」


木曜。


理沙が来る。


静江は買い物リストを渡す。


『今日はこれ』


『牛乳、卵、豆腐、食パン。分かりました』


理沙が財布と袋を確認する。


玄関へ向かう。


『あ、バナナ』


『書きます』


追加する。


靴を履く。


『あと海苔』


『今ですか』


『今思い出した』


追加する。


ドアを開ける。


『吉岡さん』


『まだあります?』


『ヨーグルト』


理沙は振り返る。


『紙、返してください』


『何で』


『もう玄関で書きます』


静江は買い物リストを渡す。


『最初に思い出せばいいんだけどね』


『毎週そう言ってますよ』


『来週は大丈夫』


次の週も同じだった。


「買い物だけで時間かかりません?」


佐伯が笑う。


「店に行くまでが長いんです」


「母らしいな」


達也が言った。


「でも買い忘れると怒るんでしょう?」


「怒りはしないです」


理沙は少し考える。


「次の木曜まで言われます」


達也が吹き出した。


メモ帳は処分になった。


昼休憩の前、テレビ台の下から番組表が出た。


紙の端に丸がいくつか付いている。


達也が拾う。


「ドラマかな」


理沙が見る。


「木曜はクイズです」


「母、クイズ見てたんですか」


「毎週三時くらいから」


「知らなかった」


理沙は仕事の手を止めず、静江もテレビだけに集中するわけではなかった。


掃除機をかけている横で番組が始まる。


司会者が問題を読む。


静江が先に答える。


『京都』


テレビの回答者が、


「大阪」


と答える。


正解音。


理沙が言う。


『大阪ですって』


『今言おうと思った』


『先に京都って言いましたよ』


『大阪と京都、近いでしょ』


『近ければ正解なんですか』


次の問題。


静江。


『夏目漱石』


不正解。


『森鴎外です』


『分かってた』


『今、夏目漱石って』


『似てるのよ』


『どこがですか』


『作家』


『広すぎます』


時々、理沙の方が間違える。


静江はその時だけ得意そうだった。


『ほら』


『一問ですよ』


『一問は一問』


『さっき三問外してます』


『昔のことはいいの』


「勝ち負けあったんですか」


達也が聞く。


「静江さんの中では」


「吉岡さん勝てました?」


「たぶん負け越してます」


「本当に?」


「正解数じゃなくて、本人が勝ったと思った回数で数えるなら」


達也は声を出して笑った。


理沙も笑った。


冬一は番組表を処分用の紙へ重ねた。


午後になる前に、リビングの小さな棚を空にする。


菓子の袋がいくつか出た。


未開封。


個包装のせんべい。


飴。


達也が、


「これ母、よく買ってました」


と言う。


理沙が見て、


「勧められました」


「食べました?」


「一回も」


静江は毎回勧めた。


『これ持って帰って』


『駄目です』


『一個くらい』


『駄目です』


『会社に分からないでしょ』


『そういう問題じゃないです』


『固いねえ』


『仕事なんで』


次の週。


別の菓子。


『これなら?』


『駄目です』


『前と違うよ』


『種類の問題じゃないです』


『おいしいのに』


『静江さんが食べてください』


静江は不満そうに袋を戻す。


三時になるとクイズ番組を見ながら自分で食べる。


『これおいしい』


『よかったですね』


『一個いる?』


『さっき駄目って言いました』


『テレビ見ながらなら仕事じゃないでしょ』


『仕事中です』


『固いねえ』


四年間、そこも変わらなかった。


「ずっと断ってたんですね」


達也が言う。


「決まりなので」


「母、しつこかったでしょう」


「かなり」


「すみません」


「謝らなくていいです。毎回断るところまで同じでしたから」


理沙は笑っていた。


菓子は賞味期限を確認し、達也が持ち帰る物と処分する物へ分けた。


理沙には渡さない。


午後一時を過ぎる頃、事業所の備品はすべて揃った。


青い連絡ファイル。


鍵保管ケース。


緊急連絡先のカード。


理沙は一つずつ確認し、袋へ入れる。


達也が言った。


「吉岡さんが知ってる母って、俺の知らないこと多いですね」


理沙は袋の口を閉じながら、


「木曜の二時から四時だけですけどね」


と答えた。


「でも四年でしょう」


「はい」


「クイズのことも知らなかった」


「私は、静江さんが若い頃どんな仕事してたか知りません」


「洋品店です」


「そうなんですね」


「父とどこで知り合ったかとか」


「それも知りません」


達也は少し笑う。


「逆ですね」


「たぶん」


理沙が言った。


冬一はその会話へ入らず、空になった棚の裏を確認した。


午後一時半。


理沙が帰る準備をする。


「そろそろ戻ります」


達也が玄関まで行きかける。


理沙は途中で止まった。


「カード」


冷蔵庫へ戻る。


白い予定カード。


木 14:00〜16:00 吉岡


端をつまむ。


磁石ごと冷蔵庫から外す。


四年間、同じ場所に貼られていたのか、カードの周囲だけうっすら色が違っている。


理沙はカードから磁石を外した。


磁石は事業所の袋へ。


カードは青い連絡ファイルの表紙を開き、一番上へ挟んだ。


達也が見ていた。


「それも持って帰るんですね」


「事業所の予定カードなので」


「そっか」


理沙はファイルを閉じた。


冷蔵庫には何も貼られていない。


「じゃあ、失礼します」


「長い間ありがとうございました」


達也が頭を下げる。


理沙も頭を下げた。


「お世話になりました」


それ以上は言わなかった。


玄関を出る。


冬一たちは作業へ戻った。


その日の夕方、理沙は事業所へ戻った。


回収した備品を返す。


青いファイルも所定の場所へ置く。


机へ座り、仕事用の手帳を開いた。


来週の木曜日。


十四時から十六時。


宮本


と書いてある。


理沙はペンで一本、線を引いた。


下には何も書かなかった。


手帳を閉じた。

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