木曜二時
冷蔵庫の扉に、小さな白いカードが貼ってあった。
木 14:00〜16:00 吉岡
榊冬一が視線を止めると、宮本達也が言った。
「それ、訪問介護の予定です。母の」
カードの上には事業所名が印刷されている。裏は細い磁石だった。
「こちらは残しますか」
「たぶん事業所の物です。今日、吉岡さんが来るので聞いてみます」
八十二歳で亡くなった宮本静江は、この部屋で一人で暮らしていた。
息子の達也は別の市に住んでいる。週末には顔を出していたが、平日の生活を全部知っていたわけではない。
冬一はカードへ触れず、冷蔵庫の中を確認した。
調味料。
開封済みの牛乳。
小さな容器に入った漬物。
使いかけの味噌。
食品は達也の確認を受けながら処分していく。
呼び鈴が鳴った。
「たぶん吉岡さんです」
達也が玄関へ向かう。
入ってきたのは、四十代くらいの女性だった。
「吉岡理沙です。今日は事業所の物だけ回収に」
「榊です」
軽く挨拶をする。
理沙は四年間、毎週木曜日の午後二時から四時まで静江の家を訪れていた。
掃除。
洗濯。
買い物。
その日に必要な生活の手伝い。
「冷蔵庫に予定のカードがありました」
冬一が言う。
理沙が見る。
「あ、それもこちらのです」
「では外しておきますか」
理沙は少し考え、
「帰る時に私がやります」
と答えた。
冬一は頷き、作業へ戻った。
理沙は居間の棚から青いファイルを取り出した。
表紙に事業所名がある。
「これもですね」
達也が言う。
「はい。連絡用のファイルです」
棚の脇には小さな鍵保管ケースもある。事業所が設置していた物らしく、それも回収する。
理沙は持参した袋へ入れた。
「四年も来てもらってたんですよね」
達也が言う。
「そうですね」
「ずっと木曜?」
「ほとんど木曜です。時間もずっと二時から」
「母、曜日だけは妙に覚えてたんですよ。俺が土曜に行くと『今日は吉岡さん来ない日』って」
理沙が笑った。
「私もよく言われました。別の日に振り替えになると」
静江は予定が変わるのをあまり好まなかった。
祝日や事業所の都合で金曜へずれると、玄関を開けた瞬間から言う。
『今日、金曜よ』
『知ってます』
『いつも木曜』
『今週だけです』
『木曜の方がいい』
『私も木曜の方が慣れてます』
『じゃあ木曜に来ればよかったのに』
『来られなかったから金曜なんです』
『そう』
納得したように見える。
十分後。
『今日、金曜よね』
『はい』
『変な感じ』
『私もです』
「何回言っても気になるんですよ」
理沙が言う。
達也が笑った。
「そういう人でした」
冬一と佐伯は寝室の収納を確認する。
理沙は事業所の物を探す以外、遺品へ手を出さなかった。
ただ、部屋のどこに何があるかはよく知っていた。
佐伯が洗面所から戻ってくる。
「未開封の洗剤、こっちで大丈夫ですか」
達也が迷う。
理沙が口を挟むことはない。
「処分でお願いします」
達也が決める。
押し入れからタオルが何枚も出た。
達也が一枚持ち上げる。
「これ、母こんなに持ってたんだ」
理沙が見て笑う。
「タオルはうるさかったです」
「何がです?」
「畳み方」
静江は、自分で洗濯物を畳める日もあった。
それでも理沙が来る日は、洗った物が残してあることが多い。
理沙がタオルを畳む。
静江が見る。
『角ずれてる』
『使えますよ』
『使えるけどずれてる』
『じゃあ直します』
理沙が揃える。
次の一枚。
また少しずれる。
『そこ』
『見てたんですか』
『見えるもの』
『テレビ見てください』
『見ながら見てる』
『器用ですね』
理沙が全部畳み終える。
静江は一枚取る。
自分で畳み直す。
『同じじゃないですか』
『こっちの方がいい』
『どこが』
『角』
「最後まで違い分からなかったです」
理沙が言った。
「母、家でもそうでしたよ。俺が洗濯物畳むとやり直してました」
「じゃあ私だけじゃなかったんですね」
「たぶん誰でも」
二人で笑った。
タオルは達也が必要な分だけ残し、残りは処分になった。
理沙は一枚も欲しがらない。
午前の作業が進む。
食器棚から湯呑み。
小皿。
保存容器。
冬一が順に確認する。
理沙は壁の時計を見た。
十一時前。
「この時間に来るの、変な感じですね」
「いつも二時ですもんね」
達也が言う。
「二時ちょうど?」
「だいたい少し前です」
静江は早く来ても言う。
『二分早い』
『早い分にはいいでしょう』
『二時からでしょ』
『じゃあ玄関で二分待ちます?』
『それは変』
『私もそう思います』
遅れることはほとんどなかったが、道路が混んで三分遅れた日がある。
玄関を開けるなり、
『三分遅い』
と言われた。
『すみません』
『何かあった?』
『道が混んでました』
『事故?』
『たぶん工事です』
『じゃあしょうがない』
怒っていたのか心配していたのか、理沙には最後までよく分からなかった。
「母、時間には細かかったですか」
達也が聞く。
「私には」
「俺との待ち合わせは平気で遅れましたけどね」
理沙が笑った。
「相手で違うんですね」
「吉岡さんは仕事だからじゃないですか」
「かもしれません」
それ以上は決めなかった。
昼近く、台所の戸棚から買い物用のメモ帳が出た。
何枚か書きかけが残っている。
牛乳。
卵。
食パン。
バナナ。
達也が見る。
「これも母の字だ」
理沙も横から見た。
「買い物の時、これ渡されてました」
「自分で書いてたんですね」
「はい。でも一回で完成したことはあんまりないです」
木曜。
理沙が来る。
静江は買い物リストを渡す。
『今日はこれ』
『牛乳、卵、豆腐、食パン。分かりました』
理沙が財布と袋を確認する。
玄関へ向かう。
『あ、バナナ』
『書きます』
追加する。
靴を履く。
『あと海苔』
『今ですか』
『今思い出した』
追加する。
ドアを開ける。
『吉岡さん』
『まだあります?』
『ヨーグルト』
理沙は振り返る。
『紙、返してください』
『何で』
『もう玄関で書きます』
静江は買い物リストを渡す。
『最初に思い出せばいいんだけどね』
『毎週そう言ってますよ』
『来週は大丈夫』
次の週も同じだった。
「買い物だけで時間かかりません?」
佐伯が笑う。
「店に行くまでが長いんです」
「母らしいな」
達也が言った。
「でも買い忘れると怒るんでしょう?」
「怒りはしないです」
理沙は少し考える。
「次の木曜まで言われます」
達也が吹き出した。
メモ帳は処分になった。
昼休憩の前、テレビ台の下から番組表が出た。
紙の端に丸がいくつか付いている。
達也が拾う。
「ドラマかな」
理沙が見る。
「木曜はクイズです」
「母、クイズ見てたんですか」
「毎週三時くらいから」
「知らなかった」
理沙は仕事の手を止めず、静江もテレビだけに集中するわけではなかった。
掃除機をかけている横で番組が始まる。
司会者が問題を読む。
静江が先に答える。
『京都』
テレビの回答者が、
「大阪」
と答える。
正解音。
理沙が言う。
『大阪ですって』
『今言おうと思った』
『先に京都って言いましたよ』
『大阪と京都、近いでしょ』
『近ければ正解なんですか』
次の問題。
静江。
『夏目漱石』
不正解。
『森鴎外です』
『分かってた』
『今、夏目漱石って』
『似てるのよ』
『どこがですか』
『作家』
『広すぎます』
時々、理沙の方が間違える。
静江はその時だけ得意そうだった。
『ほら』
『一問ですよ』
『一問は一問』
『さっき三問外してます』
『昔のことはいいの』
「勝ち負けあったんですか」
達也が聞く。
「静江さんの中では」
「吉岡さん勝てました?」
「たぶん負け越してます」
「本当に?」
「正解数じゃなくて、本人が勝ったと思った回数で数えるなら」
達也は声を出して笑った。
理沙も笑った。
冬一は番組表を処分用の紙へ重ねた。
午後になる前に、リビングの小さな棚を空にする。
菓子の袋がいくつか出た。
未開封。
個包装のせんべい。
飴。
達也が、
「これ母、よく買ってました」
と言う。
理沙が見て、
「勧められました」
「食べました?」
「一回も」
静江は毎回勧めた。
『これ持って帰って』
『駄目です』
『一個くらい』
『駄目です』
『会社に分からないでしょ』
『そういう問題じゃないです』
『固いねえ』
『仕事なんで』
次の週。
別の菓子。
『これなら?』
『駄目です』
『前と違うよ』
『種類の問題じゃないです』
『おいしいのに』
『静江さんが食べてください』
静江は不満そうに袋を戻す。
三時になるとクイズ番組を見ながら自分で食べる。
『これおいしい』
『よかったですね』
『一個いる?』
『さっき駄目って言いました』
『テレビ見ながらなら仕事じゃないでしょ』
『仕事中です』
『固いねえ』
四年間、そこも変わらなかった。
「ずっと断ってたんですね」
達也が言う。
「決まりなので」
「母、しつこかったでしょう」
「かなり」
「すみません」
「謝らなくていいです。毎回断るところまで同じでしたから」
理沙は笑っていた。
菓子は賞味期限を確認し、達也が持ち帰る物と処分する物へ分けた。
理沙には渡さない。
午後一時を過ぎる頃、事業所の備品はすべて揃った。
青い連絡ファイル。
鍵保管ケース。
緊急連絡先のカード。
理沙は一つずつ確認し、袋へ入れる。
達也が言った。
「吉岡さんが知ってる母って、俺の知らないこと多いですね」
理沙は袋の口を閉じながら、
「木曜の二時から四時だけですけどね」
と答えた。
「でも四年でしょう」
「はい」
「クイズのことも知らなかった」
「私は、静江さんが若い頃どんな仕事してたか知りません」
「洋品店です」
「そうなんですね」
「父とどこで知り合ったかとか」
「それも知りません」
達也は少し笑う。
「逆ですね」
「たぶん」
理沙が言った。
冬一はその会話へ入らず、空になった棚の裏を確認した。
午後一時半。
理沙が帰る準備をする。
「そろそろ戻ります」
達也が玄関まで行きかける。
理沙は途中で止まった。
「カード」
冷蔵庫へ戻る。
白い予定カード。
木 14:00〜16:00 吉岡
端をつまむ。
磁石ごと冷蔵庫から外す。
四年間、同じ場所に貼られていたのか、カードの周囲だけうっすら色が違っている。
理沙はカードから磁石を外した。
磁石は事業所の袋へ。
カードは青い連絡ファイルの表紙を開き、一番上へ挟んだ。
達也が見ていた。
「それも持って帰るんですね」
「事業所の予定カードなので」
「そっか」
理沙はファイルを閉じた。
冷蔵庫には何も貼られていない。
「じゃあ、失礼します」
「長い間ありがとうございました」
達也が頭を下げる。
理沙も頭を下げた。
「お世話になりました」
それ以上は言わなかった。
玄関を出る。
冬一たちは作業へ戻った。
その日の夕方、理沙は事業所へ戻った。
回収した備品を返す。
青いファイルも所定の場所へ置く。
机へ座り、仕事用の手帳を開いた。
来週の木曜日。
十四時から十六時。
宮本
と書いてある。
理沙はペンで一本、線を引いた。
下には何も書かなかった。
手帳を閉じた。




