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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第六十六普請 知っている節

長崎の宴席で、高尾と音羽が歌った不思議な節。

その調べに、白瀬は遠い故郷の記憶を呼び覚まされます。

四百年の時を越えて、歌は人の心に何を残すのでしょうか。

今回は、少し懐かしく、少し切ないお話です。

寛永十一年(一六三四年)、長崎。


「俺は、この調子を知ってる……!」


白瀬湊一の声が、宴席に響いた。


それまで続いていた手拍子が止まる。


燭台の炎が揺れ、酒を注ごうとしていた男の手まで宙で止まった。


「……白瀬さん?」


明美が目を丸くする。


「どうなさったの?」


「あ、いや……」


白瀬は慌てて口を閉じた。


目の前には、二人の女がいる。


太夫町の遊女、高尾と音羽。


つい先ほどまで、二人は手拍子に合わせて古い節を歌っていた。


伴奏らしい伴奏はない。


膝を打つ音と、掌を合わせる音。


それだけで、不思議なほど心に残る歌だった。


そして白瀬は、その節回しに聞き覚えがあった。


四百年近く先の世界で。


自分が、まだ十六か十七だった頃に。


「知っている、とは?」


先に口を開いたのは音羽だった。


二十三歳。


高尾より三つ年上の彼女は、少しばかり挑むような目で白瀬を見る。


「この節、どこかでお聴きになったとですか?」


「……たぶん」


「たぶん?」


「似た歌を、昔、聴いた気がするんです」


音羽は首を傾げた。


「おかしかですね。うちらも、どこで覚えたか、はっきりせん節ですけん」


「そうなのか?」


「古くから歌われとるものを、あれこれ変えて歌うとです。人によって、言葉も調子も違います」


その隣で、高尾が小さく頷く。


「うちも音羽姉さんから習うたけど、姉さんの歌と、うちの歌は少し違うとです」


「高尾は勝手に変えるけんね」


「姉さんも変えとるでしょう?」


「うちは上手に変えとると」


「それ、自分で言う?」


二人のやり取りに、宴席がどっと沸いた。


白瀬もつられて笑った。


けれど、胸の奥のざわめきだけは消えなかった。


(間違いない……いや、本当にそうなのか?)


似ている。


だが、同じではない。


聞き覚えのある音の並び。


少しずつずれている言葉。


そして、最後のところで、すっと抜け落ちるような間。


その間を埋めるように、白瀬の頭の中では別の歌が鳴っていた。


もう二度と聴くことはないと思っていた、少女の声で。


* * *


「ねえ、もう一度歌ってみてくれない?」


明美が身を乗り出した。


「今の節、すごく面白いわ。二人で歌っているのに、途中から一つの声みたいになるのね」


「明美さんも、そう思いましたか」


小春が嬉しそうに頷いた。


「うちも不思議やったとです。音羽さんが歌いよる途中で、高尾さんが入ってくると、歌が別のもんになったみたいで」


「そうなの。そこがいいのよ」


明美は指先で膝を二度、軽く打った。


とん、とん。


「二人とも、さっきと同じようにお願いできる?」


音羽は高尾と顔を見合わせた。


「よかよ、高尾」


「はい、姉さん」


音羽が先に歌い始めた。


出ようか、出まいか。


出たいと思うて、出られぬ夜は――。


低く、柔らかい声。


高尾がその後を追う。


出ようか、出まいか。


出るに出られぬ、そんな夜は――。


同じようでいて、違う言葉。


二人の声が重なる。


そして、ふっと途切れる。


とん、とん。


最後に掌を二度打って、歌は終わった。


「……ああ」


白瀬は思わず息を漏らした。


(やっぱり、似ている)


現代の長崎で知られる、あのわらべ歌。


『でんでらりゅうば』。


その歌そのものではない。


歌詞も節回しも違っている。


だが、出ようとしても出られないという言葉遊びと、耳に残る独特の調子。


どこかでつながっているように思えてならなかった。


(まさか……この時代に、もう?)


そう考えて、白瀬はすぐに思い直した。


歌というものは、誰か一人が作ったままの姿で残るとは限らない。


土地を渡り、人から人へ伝わるうちに、言葉も節も変わっていく。


同じような歌が、別々の場所で生まれることだってあるだろう。


この二人の歌が、未来のあの歌につながるかどうかなど、わかるはずがない。


ただ一つ。


確かなことがあった。


(この歌を聴いて、俺は……)


忘れていたはずの記憶が、胸の奥から浮かび上がってきた。


* * *


高校時代。


長崎の矢上神社へ続く、少しばかり坂になった道。


雨上がりの夕方だった。


湿った石段。


電線に止まる雀。


遠くを走る車の音。


白瀬は、制服姿の少女と並んで歩いていた。


美宇。


同じ高校に通っていた、白瀬の淡い初恋の相手だ。


長い髪を後ろで結び、笑うと目尻が少し下がる。


学校帰りにたまたま道が一緒になるだけで、その日は朝から落ち着かなかった。


『でんでらりゅうば、でてくるばってん……』


美宇が突然、歌い出した。


『なんだよ、急に』


『え? 知らんと?』


『知ってるけどさ』


『じゃあ、一緒に歌ってみて』


『嫌だよ。恥ずかしい』


『えー、つまらんねえ』


美宇は笑いながら、もう一度歌った。


その声が、妙に耳に残った。


『これ、面白い歌だよね』


『どこが?』


『だって、出ようって言ってるのに、結局出てこんとよ』


『確かに』


『ねえ、湊一くん』


『ん?』


『出たいのに出られないのと、出られるのに出ないのって、どっちが寂しいと思う?』


突然の問いだった。


白瀬は少し考えた。


『……出たいのに出られない方かな』


『そっか』


『美宇は?』


『うーん』


彼女は立ち止まり、神社の方を振り返った。


『私は、どっちも寂しいと思う』


『なんで?』


『だってさ、どっちも本当は、どこかに行きたいんでしょう?』


夕日に照らされた横顔を、白瀬は今でも覚えている。


『じゃあ、湊一くんは?』


『俺?』


『行きたいところ、ある?』


『……あるよ』


『どこ?』


『まだ決めてない』


『なんそれ!』


美宇が笑った。


つられて、白瀬も笑った。


あの頃は、明日も、明後日も、何年も先も。


自分の前には、当たり前のように道が続いていると思っていた。


そして、美宇とも。


またどこかで会えるのだと。


――それから十数年。


白瀬は四百年前の長崎にいた。


もう一度会いたいと思っても、会うことのできない少女がいる。


その少女によく似た顔をした女が、今、目の前で歌っている。


(……美宇)


胸が、きゅっと締めつけられた。


* * *


「白瀬」


小さな声がした。


顔を上げると、澪が隣にいた。


いつものように凛とした顔。


けれど、その瞳は白瀬をまっすぐ見つめている。


「ずいぶん遠くを見ておったな」


「……そんな顔をしてたか?」


「しておった」


澪は静かに頷いた。


「ここにおるのに、どこか別の場所へ行ってしまったような顔じゃ」


「参ったな。澪には隠せないか」


「十三年も一緒におれば、わかる」


さらりと言われて、白瀬は苦笑した。


十三年。


二十七歳だった白瀬は、もう四十になった。


けれど、澪の姿は、出会った頃とほとんど変わっていない。


それでも、澪の表情を読むのが、以前よりずっと難しくなった気がする。


「……あとで話すよ」


「うむ」


澪はそれ以上、問い詰めなかった。


ただ、ほんの少しだけ白瀬との距離を詰めた。


肩が触れそうで、触れない。


その距離が、今はありがたかった。


* * *


「ねえ、高尾さん」


明美が膝を進めた。


「さっき、二度目に歌ったとき、最初と少し間を変えたでしょう?」


高尾が驚いた顔をする。


「……わかったとですか?」


「もちろん。私も歌うもの」


明美はにっこり笑った。


「最初は音羽さんの声を追いかけていたのに、二度目は高尾さんが先に進んだ。そうでしょう?」


「はい……」


「どうして?」


高尾は少し恥ずかしそうに俯いた。


「……なんとなく、です」


「なんとなく?」


「姉さんの後ばかり追いかけよったら、いつまでも姉さんの歌のままやけん」


音羽が目を細めた。


「言うようになったねえ」


「だって、姉さん。うちにも、うちの歌があるとです」


その言葉に、明美の表情が変わった。


歌い手の顔になった。


「……いいわね」


ぽつりと呟く。


「すごく、いい」


「え?」


「誰かに教わった歌でも、歌う人が違えば別の歌になる。そこに、その人の生きてきたものが入るのよ」


明美は、自分の胸元に手を当てた。


「私もね、長崎の歌を、もっとたくさんの人に聴いてもらいたいの」


「明美さんの歌は、もう有名でしょう?」


音羽が言う。


「明謝楼の歌姫といえば、町でも知らん者は少なかよ」


「まだまだよ」


明美は首を振った。


「長崎だけじゃない。諫早にも、平戸にも、もっと遠くにも。海を渡って、知らない国の人にも聴いてもらいたい」


「異国にまで?」


「ええ!」


明美は大きく頷いた。


「言葉が通じなくても、歌なら何か伝わるかもしれないでしょう?」


小春が、ぱっと顔を輝かせた。


「それ、うちも思うとです!」


「小春さん?」


「言葉の通じん人と話すとは、難しかです。けど、笑うた顔とか、嬉しか顔とかは、見たらわかるけん」


小春は高尾と音羽を見た。


「さっきの歌も、言葉を全部知らん人が聴いたって、きっと何か伝わると思うとです」


「ふふ。小春さんは、いつでも人と仲良くなりたいのね」


「はい!」


迷いのない返事だった。


その横で、おたえが腕を組んだ。


「歌を売る商いも、面白かかもしれんですねえ」


「おたえ、また商売?」


明美が笑う。


「お師匠様。よか歌には人が集まるでしょう? 人が集まれば、食べ物も売れる。宿にも客が入る。そしたら、町ん皆が潤うとです」


「まあ。私の弟子は、歌を聴いていても銭勘定なのね」


「そりゃそうですたい!」


おたえは得意げに胸を張った。


「銭は人を喜ばせるために使うもんですけん!」


その言葉に、白瀬は思わず笑った。


かつて、初めての商いに失敗して、悔し涙を浮かべていた少女。


いつの間にか、自分の言葉で商いを語るようになっていた。


十三年という歳月は、確かに人を育てる。


「……でも」


明美が、ふと声を落とした。


「歌う本人が、歌いたくなければ駄目よね」


音羽の表情が、わずかに動いた。


「……そうですね」


そこへ、宴席の奥から声が飛んだ。


「いやいや、歌は客を喜ばせてこそじゃろう!」


酒の回った町人の一人だった。


「高尾も音羽も、せっかくの器量よしじゃ。そんな難しい歌より、もっと賑やかなものを頼むぞ!」


周囲から笑いが起きた。


悪気のない、宴席では珍しくもない言葉だったのだろう。


音羽は慣れた様子で微笑んだ。


「はいはい。承知いたしました」


だが、白瀬には見えた。


その笑顔が、一瞬だけ固くなったことを。


高尾が膝の上で、そっと指を握ったことを。


明美も気づいたらしい。


「少し待ってくださいな」


柔らかな声だった。


けれど、不思議とよく通った。


「今の歌、私はまだ聴き足りません」


「おお、明謝楼の歌姫がそう言うなら、何かあるのか?」


「ありますとも」


明美は高尾と音羽へ向き直った。


「ねえ。今度は、お二人が歌いたいように歌ってみてくださらない?」


宴席が静かになった。


音羽が目を見開く。


「……うちらが、歌いたいように?」


「ええ」


「そんなこと、ここでは……」


言いかけて、音羽は口を閉じた。


高尾が、その袖をそっと引いた。


「姉さん」


「……なんね?」


「うち、歌いたか」


小さな声だった。


けれど、確かに聞こえた。


音羽はしばらく高尾を見つめていた。


やがて、ふっと笑う。


「……困った妹分やねえ」


「姉さんも、歌いたかでしょう?」


「……まあね」


そして音羽は、宴席の客たちに深々と頭を下げた。


「それでは、もう一節。少しばかり、勝手な歌をお許しくださいませ」


その声は、先ほどよりもずっと晴れやかだった。


* * *


今度は、音羽がすぐには歌い出さなかった。


膝を二度、打つ。


とん、とん。


高尾も二度。


とん、とん。


互いの目を見る。


音羽が先に声を放った。


出たいと願うて、出られぬ夜は。


高尾が応える。


帰りを待てども、誰も来ぬ夜は。


二人の声が重なりかけて、離れた。


音羽は低く。


高尾は高く。


そして、高尾がふいに歌を止めた。


一拍。


二拍。


音羽も黙る。


宴席の誰もが、その沈黙に耳を澄ませた。


三拍目。


高尾が、もう一度歌い出す。


出られぬ夜にも、声は出る。


音羽が笑った。


そして、声を重ねた。


届かぬ声でも、歌は行く。


とん、とん。


二人の掌が重なった。


歌は終わった。


誰も、すぐには拍手をしなかった。


白瀬には、その理由がわかった気がした。


上手いとか、下手だとか。


楽しいとか、悲しいとか。


そんな言葉では、片づけられなかったのだ。


「……よか歌やった」


最初に呟いたのは小春だった。


続いて、明美が静かに手を打った。


ぱち、ぱち。


おたえも手を打つ。


白瀬も。


やがて宴席のあちこちから、拍手が広がった。


高尾は、信じられないものを見るような顔をしていた。


音羽は俯いていた。


その肩が、ほんの少し震えている。


「……姉さん?」


「なんでもなか」


音羽は顔を上げた。


笑っていた。


「ただ、久しぶりに、気持ちよく歌えたと思うただけ」


* * *


宴が少し落ち着いた頃。


白瀬は、縁側に出ていた。


長崎の夜は、諫早とは違う匂いがする。


海の潮。


炊いた魚。


異国から運ばれた香料。


そして、港に集まる大勢の人々の気配。


建設途中の出島がある方角には、まだところどころに灯が見えた。


昼間は、石を運ぶ舟と職人たちの掛け声で賑やかな場所だ。


海の浅瀬に土と石を重ね、人が立てる土地を造っていく。


白瀬たちが諫早で続けてきた普請とは、目的も造り方も違う。


それでも、一つだけ同じことがある。


人が何かを願い、その願いのために手を動かしていることだ。


「白瀬」


背後から声がした。


澪だった。


「……話すと言うておったな」


「ああ」


白瀬は縁側に腰を下ろした。


澪も隣に座る。


しばらく、二人は黙って夜の港を眺めていた。


「……昔さ」


白瀬が口を開いた。


「まだ十六、七の頃。故郷に、好きだった人がいたんだ」


澪の横顔が、ほんのわずかに動いた。


「……ほう」


「初恋、ってやつかな」


「初めて心を寄せた相手か」


「ああ」


白瀬は苦笑した。


「何か特別なことをしたわけじゃない。ただ、一緒に道を歩いたり、くだらない話をしたり。それだけで楽しかった」


「……そうか」


「今日の高尾さんが、その人にそっくりだったんだ」


澪は、ゆっくりと白瀬を見た。


「なるほど。あの娘ばかり見ておったのは、そのためか」


「気づいてたのか」


「気づかぬわけがなかろう」


「……だよな」


澪は少し考えてから、尋ねた。


「その者とは、どうなった?」


「どうもならなかった」


白瀬は首を振った。


「好きだって言うこともできなかった。いつか言おうと思っているうちに、別々の道へ進んだんだ」


「……後悔しておるか?」


「昔はね」


白瀬は港の灯を見つめた。


「でも、今は違う気もする」


「なぜじゃ?」


「……あの頃の自分がいたから、今の自分がいるんだと思うからさ」


澪は何も言わなかった。


白瀬は続けた。


「不思議だよな。俺はもう四十なのに、あの頃の歌を聴いたら、一瞬で十六歳に戻った気がした」


「人の心に、歳月の決まりなどなかろう」


澪が言った。


「十三年前のことも、昨日のことのように思い出す時がある」


「……澪にも?」


「ある」


「たとえば?」


澪は白瀬を見た。


「初めて、そなたに会うた時じゃ」


「え?」


「妙なことばかり言う男が来たと思うた」


「……ひどいな」


「妙なことを言うたのは事実じゃろう」


「まあ、否定はしないけど」


澪の口元が、わずかに緩んだ。


「川の流れを調べ、泥を踏み、誰も考えぬようなことを言い出す。危なっかしくて、目を離せぬ男であった」


「それは今も変わってない気がする」


「少しは変わったぞ」


「お、褒めてくれるのか?」


「昔より、人に任せることを覚えた」


白瀬は笑った。


「それ、褒め言葉か?」


「もちろんじゃ」


澪は静かに答えた。


「……そなたは四十になった。皆も大きくなった。わたしの姿だけが変わらぬ」


白瀬は隣を見た。


澪は夜の海を見つめていた。


「じゃが、わたしも変わった」


「……ああ」


「昔は、人が去っていくことばかり恐れておった。川の水も、人の命も、留めてはおけぬと思うていたからの」


十三年。


その間に、幾度も洪水があった。


干拓の堤が崩れた日もあった。


仲間を失った夜もあった。


弥助と岩蔵。


今でも、二人の顔を思い出す。


けれど、新しい命も生まれた。


長吉や源太は父親になった。


子どもたちは大人になり、さらに次の子どもたちを育て始めている。


「今は違うのか?」


白瀬が尋ねた。


澪は頷いた。


「人は去る。時も流れる。それは変えられぬ」


「うん」


「じゃが、残るものもある」


澪は白瀬を見た。


「そなたが教えてくれた」


「俺が?」


「田も、堤も、学舎も。人が造ったものは、人から人へ受け継がれる」


澪は少しだけ声を和らげた。


「……歌も、そうなのであろうな」


白瀬は、はっとした。


歌。


そうだ。


自分が現代で聴いた歌も、誰かが歌い、誰かが覚え、また誰かに伝えたものだ。


それが何百年という時を渡ってきたのだとしたら。


(俺たちの造ったものも……)


諫早の田。


水門。


水学所。


仲間たちが印刷した手習い帳。


四百年後にも、何か一つくらい、残っているだろうか。


白瀬は空を見上げた。


「……残したいな」


「何をじゃ?」


「俺たちが、ここに生きた証を」


澪は、ゆっくり頷いた。


「うむ」


そして、白瀬の手元へ視線を落とした。


二人の手は、縁側の板の上で、ほんの少し離れている。


澪は一度、その距離を見つめた。


けれど、何もせずに立ち上がった。


「そろそろ戻るぞ。明美が探しておった」


「ああ」


白瀬も立ち上がる。


そのとき、澪が振り返った。


「白瀬」


「ん?」


「……高尾は、美宇と申したか。その者とは違う」


白瀬は目を見開いた。


「……そうだな」


「今ここにおる高尾には、高尾自身の生がある」


「うん」


「そのことを、忘れるでないぞ」


白瀬は深く頷いた。


「ああ。忘れない」


澪は満足そうに微笑んだ。


「ならば、よい」


その笑顔に、白瀬の胸が少しだけ温かくなった。


* * *


宴席へ戻ると、明美が待ち構えていた。


「あら、白瀬さん。どこへ行っていたの?」


「ちょっと夜風に当たってました」


「そう。澪も一緒だったのね」


「うむ」


「ふうん……」


明美は二人を見比べる。


それから、いたずらっぽく笑った。


「二人で何を話していたの?」


「昔のことを少し」


白瀬が答える。


「へえ、昔のこと」


明美は一瞬だけ黙った。


けれど、すぐにいつもの明るい声に戻る。


「じゃあ、次は私の歌を聴いてもらおうかしら」


「お師匠様! 歌うとですか!」


おたえが真っ先に反応した。


「ええ。高尾さんと音羽さんの歌を聴いていたら、私も歌いたくなっちゃった」


明美は袖を整えた。


「でも、その前に」


高尾と音羽へ向き直る。


「二人にお願いがあるの」


「なんでしょう?」


「さっきの歌、今度また教えてくれない?」


高尾は驚いたように瞬きをした。


「……うちらの歌を?」


「ええ」


「明美さんほどの方が、うちらの歌を習うとですか?」


「歌に、上も下もないでしょう?」


明美は微笑んだ。


「私は、まだ知らない歌を知りたいの」


音羽が、ふっと息を漏らした。


「……変わった人ですねえ」


「よく言われるわ」


「ふふっ」


二人は顔を見合わせた。


やがて高尾が、明美に頭を下げた。


「……うちらでよければ、喜んで」


「ありがとう!」


明美の顔が輝く。


それを見ていた小春が、ぽんと手を打った。


「だったら、うちも覚えたか!」


「小春さんも?」


「はい! 歌を覚えとけば、旅先でも誰かと仲良くなれるかもしれんけん!」


健太が隣から口を挟んだ。


「小春。お前、ほんとにどこまで行くつもりなんだ?」


「どこまでって?」


「いや、その……」


「行けるところまでたい!」


「……そうか」


健太は複雑そうな顔で笑った。


白瀬はそれを見て、少しだけ目を細めた。


(若いなあ……)


もっとも、二人とも、もう立派な大人なのだ。


自分たちの道を選ぶ年齢になっている。


明美が高尾へ尋ねた。


「ねえ、高尾さん」


「はい」


「さっきの歌、最後のところを変えたでしょう?」


「……はい」


「どうして、あの言葉にしたの?」


高尾は少し考えた。


それから、ぽつりと言った。


「……出られん人にも、声はあるけん」


宴席の空気が、静かになった。


「外へ出られん人もおる。出たくても、行くところのなか人もおる。誰かが迎えに来てくれると思うて、ずっと待っとる人もおる」


高尾は膝の上で指を組んだ。


「……うちらも、そうですけん」


音羽が静かに頷いた。


「けどね、高尾」


「はい」


「歌う時くらい、誰の顔色も見とうはなか」


高尾が顔を上げた。


音羽は笑っていた。


「うちらには、うちらの声があるとやけん」


「……姉さん」


「今夜は、それを思い出したと」


白瀬は何も言えなかった。


四百年後のわらべ歌。


その由来を、彼は知らない。


目の前の二人が歌う節が、未来へ伝わるのかどうかもわからない。


だが、今ここで歌う二人の思いだけは、本物だった。


「……いい歌ですね」


ようやく、白瀬はそう言った。


高尾が微笑んだ。


「ありがとうございます」


「また聴かせてください」


「……はい」


その返事には、先ほどまでの遠慮がなかった。


* * *


やがて宴はお開きとなった。


客たちはそれぞれ帰路につき、座敷の灯も一つ、また一つと消されていく。


白瀬たちは明美に案内され、宿へ向かうことになった。


「白瀬さん」


歩き出したところで、明美が呼び止めた。


「はい?」


「さっきの歌、本当に昔聴いたことがあるの?」


「……ええ」


「どこで?」


白瀬は少し迷った。


「……故郷で、です」


「そう」


明美はそれ以上尋ねなかった。


ただ、少し考えるように夜空を見上げた。


「不思議ね」


「何がです?」


「歌って、人より遠くへ行けるのかもしれないわね」


「……そうですね」


「人は一度に一つの場所にしかいられない。でも、歌なら、別の町でも、別の国でも歌ってもらえるでしょう?」


明美は白瀬を見た。


「いつか、私の歌も、そんなふうに残ったら嬉しいな」


その声には、いつもの華やかさとは違う、静かな願いがあった。


白瀬は微笑んだ。


「きっと、できますよ」


「……本当?」


「ええ。明美さんなら」


明美は一瞬、目を丸くした。


それから、ふっと笑った。


「……白瀬さんって、時々ずるいわね」


「え?」


「なんでもない」


明美は先に歩き出した。


「ほら、早く。夜が明けちゃうわ」


白瀬が後を追おうとした、そのとき。


「白瀬」


澪が呼んだ。


「はい?」


「……誰にでも、あのようなことを言うでない」


「え?」


「なんでもない」


澪も歩き出す。


白瀬はその背中を見送り、首を傾げた。


(……俺、また何かやったか?)


少し離れたところで、おたえと小春が顔を見合わせた。


「……小春」


「うん」


「白瀬先生、四十になっても変わらんねえ」


「ほんとたい」


二人は小さく笑った。


* * *


同じ頃。


宴席を後にした高尾と音羽は、太夫町へ続く道を歩いていた。


夜の長崎は静かだった。


遠くで犬が吠え、軒下の灯籠が風に揺れている。


高尾は、何度も自分の掌を見ていた。


「……どうしたと?」


音羽が尋ねる。


「姉さん」


「ん?」


「今日、うちらの歌を、あんなに喜んでもろうたね」


「そうやね」


「明美さんまで、習いたかって」


「……うん」


「うち、嬉しかった」


高尾は笑った。


けれど、その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。


「いつもは、お客さんが喜んでくれたら、それでよかと思うとった」


「……うん」


「でも、今日は違うた」


高尾は胸に手を当てた。


「うちが歌いたか歌を、うちの声で歌うて……それを、皆が聴いてくれた」


音羽は足を止めた。


高尾も立ち止まる。


しばらく、二人は何も言わなかった。


やがて高尾が、ぽつりと呟いた。


「……姉さん」


「なんね?」


「神様にも、歌は届くとやろか」


音羽は目を瞬かせた。


「……神様?」


「うん」


高尾は、夜の向こうを見つめた。


町の奥。


諏訪の社がある方角だった。


「お客さんのためでもなか。誰かに褒めてもらうためでもなか」


高尾は静かに言った。


「ただ、ありがとうって伝えるために、歌うこともできるとやろか」


音羽はすぐには答えなかった。


夜風が二人の袖を揺らす。


そして、音羽も同じ方角を見つめた。


「……どうやろうね」


「姉さん?」


「けど……」


音羽は、小さく笑った。


「もし、そんなことができるなら……」


そこで言葉を切った。


高尾は、じっと続きを待った。


音羽の視線は、暗い夜空の向こうへ向けられていた。


やがて、いつもの勝ち気な顔に戻る。


「……いや。今夜はもう帰ろう。明日も早かけん」


「……はい」


二人は再び歩き出した。


だが、高尾の胸の奥では、一つの願いが芽を出していた。


誰かのために歌うのではない。


誰かに命じられて舞うのでもない。


自分たちの声で。


自分たちの足で。


自分たちの願いを、神様へ届けてみたい。


その願いが、やがて長崎の町を揺り動かすことになるなど――。


この夜の二人は、まだ知らなかった。


そして白瀬もまた、知らなかった。


現代で聴いた懐かしい歌と、今夜出会った二人の願いが、思いもよらぬ形で交わろうとしていることを。


長崎の夜に、最後の灯が揺れた。

お読みいただき、ありがとうございます!

今回登場した『でんでらりゅうば』は、長崎に伝わる有名なわらべ歌です。

その成立や由来には諸説あり、遊女たちの歌を起源とする説もありますが、史実として確定したものではありません。

本作では、その伝承に想像を重ね、高尾と音羽の歌が未来へつながっていく可能性を描いています。

そして、白瀬の初恋の記憶と、十三年を共に歩んできた澪の想い。

時が流れても変わらないものと、少しずつ変わっていくもの。

そんな二つを感じていただけたら嬉しいです。

次回、第六十七普請「舞ってみたい」。

高尾と音羽の胸に芽生えた小さな願いが、長崎の歴史を動かし始めます。

続きもお楽しみに!

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