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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第六十五普請 太夫町の歌

寛永十一年(一六三四年)、長崎。


出島の普請に汗を流す白瀬たちは、商人たちの宴席へ招かれます。


そこで出会うのは、太夫町の二人の女性、高尾と音羽。


海を埋めて土地を造る者たちと、歌と舞で人の心を動かす者たち。


今夜、長崎の歴史につながる小さな縁が生まれます。

寛永十一年(一六三四年)。


長崎の港には、今日も槌の音が響いていた。


潮が引けば、海の底から泥の浅瀬が姿を現す。


そこへ石を運び、杭を打ち、土を盛る。


やがて出島と呼ばれることになる、新しい島の普請である。


「……よし。今日のところは、ここまでだな」


白瀬湊一が腰を伸ばすと、背骨がぽきりと鳴った。


「痛たた……」


「白瀬。年寄りのような声を出すでない」


隣で澪が呆れたように笑う。


「年寄りなんだよ。こっちは四十だぞ」


「四十など、まだ若い」


「そりゃ、十三年経っても見た目が変わらない水守には分からんだろうなあ」


「ふふ。そなたは中身も随分と年を取ったようじゃ」


「どういう意味だよ」


「昔は、あの程度の石を運んだだけで腰を押さえたりせなんだ」


「……反論できないのが悔しい」


二人のやり取りを聞いていた健太が、思わず吹き出した。


「先生、無理せんでよかですよ。重かもんは、おいたちに任せてくんしゃい」


「そう言ってくれるのは嬉しいけどな。俺だって、まだ現役だ」


「分かっとります。ばってん、先生が腰ば痛めたら、澪先生が大変ですけん」


「なぜ、わたしが大変なのじゃ?」


澪が首を傾げる。


健太は口元を緩めた。


「そりゃあ、毎日のお世話が増えますけん」


「おい、健太!」


「ははは!」


十三年前。


泥だらけになって白瀬の後ろを追いかけていた少年は、今や一人前の職人になっていた。


源太は舟を預かり、長吉は土と作物を見極め、おたえは大商人と対等に帳面を開く。


そして小春は、長崎の商人や職人たちの間を、まるで昔からの知り合いのように歩き回っている。


白瀬がいなくても、仕事が進む。


そのことが、少し寂しくて。


それ以上に、たまらなく嬉しかった。


そんな夕暮れのことだった。


「白瀬先生ーっ!」


港の道を、小春が駆けてきた。


「なんだ、また何かあったのか?」


「違うとです! 今夜、宴席に招かれたとですよ!」


「宴席?」


「二十五人の町人衆のうちのお一人から、ぜひ皆さんで来てくれって!」


小春の後ろから、おたえが顔を出した。


目が輝いている。


「先生! 長崎の商人衆と酒席ば囲める機会なんて、めったになかとですよ!」


「お前、酒が飲みたいわけじゃないだろ」


「当たり前たい! 商いの話ば聞くとです!」


「宴会でも仕事か……」


「商人に休みはなかとです!」


白瀬は苦笑した。


(本当に、誰に似たんだか)


もっとも、本人に言わせれば、白瀬の教えを忠実に守っているだけらしい。


「それで、誰が招かれてるんだ?」


「先生と澪様、それからうちと小春。お師匠様も来られるそうです!」


「明美さんも?」


「はい!」


長崎の歌姫、鈴明美。


明謝楼の娘であり、おたえの商いの師匠でもある。


そして最近は、澪と白瀬にとって、少々落ち着かない存在でもあった。


「……白瀬」


澪が横から覗き込む。


「なんだ?」


「今、顔が緩んだぞ」


「緩んでない」


「そうかのう」


「そうだよ」


小春とおたえが顔を見合わせる。


二人とも、何も言わない。


ただ、にやにやしている。


「……お前らまで何だよ」


長崎の夕日は、そんな一行を赤く染めていた。


     ◇


宴席は、港を見下ろす商家の広い座敷で開かれた。


磨き上げられた廊下。


庭には小さな池があり、灯明の光が水面に揺れている。


座敷には、焼いた魚や煮物、季節の野菜が並んでいた。


唐物の皿に盛られた料理もある。


「ほお……」


白瀬が感心していると、隣から小さな声がした。


「先生、あのお皿、高かとですよ」


おたえである。


「……料理を見ろ、料理を」


「料理も見とります。ばってん、器も商いのうちですけん」


「そこまで見るか」


「見るとです!」


まったく頼もしい。


宴の主催者は、出島築造に銭を出している町人の一人だった。


諫早からの石や舟の手配にも関わり、長崎と諫早を結ぶ商いに力を入れているという。


「いやあ、白瀬殿。このたびは誠にありがとうございました」


「いえ。こちらこそ、地元の職人さんたちに助けられてばかりです」


「何をおっしゃる。諫早の若い衆の働きぶりには、皆が驚いておりますぞ」


「それなら、褒める相手は俺じゃありませんね」


白瀬は笑って答えた。


「本人たちを褒めてやってください」


「ははは! なるほど、なるほど!」


商人は愉快そうに膝を叩いた。


「では今度、職人衆も招かねばなりませんな!」


「それがいいですね」


「もちろん、今宵も存分にお楽しみくだされ!」


そこへ、聞き覚えのある声がした。


「あら。皆さん、お揃いなのね」


振り返ると、明美が立っていた。


落ち着いた赤の衣。


髪には小さな花飾り。


長崎で初めて出会った頃と変わらぬ華やかさを持ちながら、その眼差しには、年を重ねた女性の穏やかさが宿っている。


「明美さん」


白瀬が立ち上がる。


「今夜はお店、大丈夫なんですか?」


「父と母に任せてきました。お店は私がいなくても回りますから」


「うちも早う、そがんなりたか!」


おたえが拳を握る。


明美はくすりと笑った。


「おたえさんなら、もう随分と近づいているでしょう?」


「まだまだです! お師匠様には敵いません!」


「では、今夜もしっかりお勉強ね」


「はいっ!」


白瀬は思わず笑った。


明美の前では、おたえは今でも弟子の顔になる。


「明美」


澪が声を掛けた。


「今宵は、そなたも歌うのか?」


「いいえ。今日は聴く側ですよ」


「ほう」


「ぜひ聴いてみたい方たちがいるの」


明美は座敷の奥へ目を向けた。


「太夫町から、二人の芸達者がいらっしゃるそうです」


「太夫町?」


白瀬が聞き返す。


「ええ。長崎で評判の歌い手と舞い手。高尾さんと音羽さんという方たちです」


明美の声が、少し弾んだ。


「私も楽しみにしていたんです」


やがて座敷の奥から、小さな拍子の音が聞こえてきた。


商人たちの話し声が、少しずつ静まっていく。


そして。


二人の女性が、姿を現した。


     ◇


最初に目を引いたのは、音羽だった。


明るい色の小袖。


きりりと結い上げた髪。


座敷へ進み出ると、客たちへ笑みを向けた。


「皆様、今宵はようこそお招きくださいました」


よく通る声だった。


それだけで座敷の空気が明るくなる。


その少し後ろに、もう一人の女性がいた。


高尾。


音羽とは対照的に、落ち着いた色の衣をまとっている。


決して派手ではない。


だが、一歩進むだけで、不思議と目を引く。


深く頭を下げる所作にも、無駄がなかった。


「今宵は、ささやかながら歌と舞をお目にかけます」


そう言って顔を上げたときだった。


白瀬の胸が、小さく跳ねた。


(……え?)


高尾が笑った。


ほんの少しだけ、首を傾げて。


(……美宇?)


あり得ない。


そんなはずがない。


分かっている。


それでも白瀬は、一瞬だけ息をするのを忘れた。


現代。


長崎の高校に通っていた頃。


矢上神社の近くに住んでいた少女がいた。


美宇。


特別な約束を交わしたわけでもない。


恋人だったわけでもない。


一緒に帰った道。


祭りの話をした夕暮れ。


笑うと、少しだけ細くなる目。


ただ、それだけの記憶だった。


けれど、四十になった今でも、胸のどこかに残っている。


高尾は、美宇と同じ顔ではなかった。


髪も、衣も、声も違う。


ただ、笑ったときの目元が。


少しだけ首を傾ける仕草が。


あの頃の美宇を思わせた。


「……白瀬?」


澪の声がした。


「ん?」


「どうした。随分と遠いところを見ておったぞ」


「……いや」


白瀬は小さく笑った。


「昔、似た人がいたんだ」


「昔?」


「ああ。ずっと昔の話だよ」


澪は高尾へ目を向けた。


そして、白瀬を見た。


「そうか」


それだけだった。


追及もしない。


からかいもしない。


ただ、何かを胸に留めたように、静かに座り直した。


その横顔を見て、白瀬は少しだけ申し訳なくなった。


(……何を考えてるんだ、俺は)


高尾は美宇ではない。


ここは、四百年も昔の長崎なのだから。


     ◇


三味線の音が響いた。


高尾が一歩、前へ出る。


音羽が少し離れて向かい合う。


そして、舞が始まった。


ゆっくりと腕を上げる。


袖が、灯明の光を受けて揺れた。


足を運ぶ。


静かに止まる。


再び、動く。


ただそれだけのことなのに。


座敷中の視線が、二人に集まっていた。


「……すごい」


明美が、思わず呟く。


高尾の動きには、張り詰めた静けさがあった。


音羽の舞には、人を引き込む明るさがあった。


二人が交わると、まるで一つの物語が生まれる。


寄せては返す波のように。


離れては、また近づく。


やがて音羽が歌い始めた。


高尾が、その後を受ける。


どちらか一人が目立つのではない。


二人の声が重なったとき、初めて一つの歌になる。


白瀬は、ふと隣を見た。


明美が、じっと二人を見つめている。


指先が、膝の上で小さく動いていた。


節を追っているのだ。


歌う人間の目だった。


(……明美さんでも、こんな顔をするんだな)


白瀬は少し驚いた。


明美は、長崎で評判の歌い手だ。


商いにも長け、客あしらいも上手い。


おたえが心から憧れる女性である。


その明美が、今は初めて芸を学ぶ少女のような眼差しで、二人の舞を追っていた。


やがて、最後の音が消える。


しん、と座敷が静まった。


ほんのひと呼吸。


そして。


「見事じゃ!」


「いや、素晴らしい!」


拍手が湧き起こった。


音羽が満面の笑みを浮かべる。


高尾も深々と頭を下げた。


明美は、誰よりも長く手を叩いていた。


「いやあ、よかった! 今宵はよいものを見せてもろうた!」


宴の主催者が、上機嫌で杯を掲げた。


周りの商人たちも、口々に二人を褒める。


「もう一つ、頼めぬか!」


「次はもっと賑やかなものを!」


音羽がにっこり笑った。


「まあ、皆様。そんなにお急ぎにならずとも、夜はまだ長うございますよ」


どっと笑いが起こる。


高尾も静かに微笑んだ。


その笑みは見事だった。


相手が欲しがるところへ、欲しがる分だけ差し出す。


おたえが普段、商いで心掛けていることにも似ている。


けれど。


明美だけは、別のものを見ていた。


高尾が座り直したとき、袖の中でそっと指を揉んだのである。


あれほど美しい舞を見せながら、その指先は、ひどく疲れているように見えた。


「……」


明美は何も言わなかった。


ただ、膝の上で自分の手を重ねた。


宴は続いた。


今度は音羽が客を笑わせ、高尾が三味線の調べに合わせて歌う。


ところが、曲の途中だった。


ぴんっ。


乾いた音がした。


三味線の糸が切れたのである。


「あっ」


音羽の声が止まる。


弾き手が慌てて楽器を押さえた。


座敷に、気まずい沈黙が落ちる。


「おやおや、どうした!」


先ほどから酒の進んでいた商人が、声を上げた。


「せっかくよいところじゃったのに!」


別の客が笑う。


「糸が切れたなら、替えればよかろう!」


弾き手は青くなっている。


予備の糸はある。


だが、張り替えれば、その間は芸を止めねばならない。


高尾が小さく頭を下げた。


「申し訳ございません」


白瀬が思わず腰を浮かせた。


しかし、それより早く。


ぱん。


音羽が、手を打った。


ぱん、ぱん。


二つ、三つ。


座敷中の視線が集まる。


音羽は笑っていた。


「皆様。三味線が休みたいと申しております」


また、笑いが起きた。


「それなら、今宵は少しだけ、手拍子にお付き合いくださいませ」


ぱん、ぱん。


音羽が拍子を取る。


高尾が顔を上げた。


ほんの一瞬、二人の目が合った。


言葉はなかった。


それなのに、高尾は立ち上がった。


音羽の拍子に合わせて、静かに足を運ぶ。


そして歌い始めた。


楽器はない。


あるのは、二人の声と手拍子だけ。


ところが、それがよかった。


音羽の明るい声が、座敷の隅々まで響く。


高尾の声が、やわらかく重なる。


客たちも、少しずつ手を叩き始めた。


最初はばらばらだった拍子が、やがて一つになる。


ぱん、ぱん。


ぱん、ぱん。


音羽が笑う。


高尾が舞う。


誰かが調子を外せば、音羽がわざと大きく手を叩いて合わせ直す。


気づけば、座敷中が笑顔になっていた。


明美も手を叩いていた。


おたえも、小春も。


白瀬も。


そして澪までもが、楽しそうに手を合わせている。


やがて歌が終わると、先ほど以上の拍手が湧いた。


「見事!」


「これは愉快じゃ!」


「三味線がなくとも、これほどの芸ができるとは!」


音羽は得意そうに胸を張った。


「三味線には、あとでよく言い聞かせておきます!」


また、どっと笑いが起きる。


高尾は音羽を見て、小さく笑った。


それは、客に向けた笑顔ではなかった。


長年、共に芸を磨いてきた相手へ向ける、心からの笑みだった。


白瀬は思った。


(……強いな、この二人)


突然の失敗。


客の不満。


誰かが助けてくれるのを待つこともできたはずだ。


けれど二人は、自分たちの力で座敷の空気を変えてしまった。


十三年前。


諫早の泥の中で、何もかもを白瀬に尋ねていた子どもたち。


今では、あいつらも同じことをしている。


自分で考え、自分で動き、仲間と力を合わせる。


(……どこにだっているんだな)


白瀬は、胸が温かくなるのを感じた。


新しい土地を造る者だけが、国を豊かにするわけではない。


歌う者も。


舞う者も。


誰かを笑顔にする者も。


同じように、この町を支えているのだ。


     ◇


宴が一段落した頃。


明美は、廊下に出ていた高尾と音羽を見つけた。


二人は庭先の風に当たりながら、静かに話している。


「あの……少し、よろしいでしょうか」


音羽が振り返った。


「あら。明謝楼の明美さんではありませんか」


「私をご存じなんですか?」


「もちろん。長崎で歌う女の噂くらい、耳に入りますよ」


「まあ……」


明美は少し照れた。


高尾も微笑む。


「私も、お名前は存じておりました」


「嬉しい。私も、今夜のお二人の芸を楽しみにしていたんです」


「それは光栄です」


明美は、少し迷ってから尋ねた。


「先ほど、三味線の糸が切れたでしょう?」


音羽が、あははと笑う。


「ええ。あれには参りました」


「でも、驚きました。あんなに自然に、二人だけで舞を続けられるなんて」


「自然になんか、できていませんよ」


高尾が、静かに答えた。


明美が目を瞬かせる。


「え?」


「あのようなことは、何度もございましたから」


高尾は自分の手を見つめた。


「糸が切れることも、歌の途中で止められることも。お客様の気が変わって、別のものを求められることも」


「……」


「そのたびに、私たちは考えるのです。どうすれば、最後まで楽しんでいただけるかと」


音羽が肩をすくめた。


「そうそう。舞の途中で別の歌に変えろと言われたことだってありますもの」


「まあ……」


「若い頃は、悔しくてねえ。せっかく稽古してきたのに、なんで最後まで見てくれないんだろうって」


音羽は笑った。


けれど、その笑顔の奥には、長い年月があった。


太夫町の女たちは、ただ美しく着飾っているわけではない。


朝から稽古を重ねる。


歌を覚え、舞を磨き、客の顔を覚える。


機嫌を損ねぬよう言葉を選び、疲れていても笑う。


そうして働かなければ、暮らしていけない。


芸がどれほど好きでも、それだけで自由になれるわけではなかった。


「それでも……」


明美が口を開いた。


「お二人は、歌を続けていらっしゃるんですね」


高尾は少し驚いたように明美を見た。


やがて、ゆっくり頷いた。


「好きなのです」


その声は、小さかった。


けれど、はっきりしていた。


「歌うことも、舞うことも。幼い頃から、好きでございました」


音羽も頷く。


「芸が好きでなかったら、とっくに嫌になっておりますよ」


「……そうですよね」


「ただね」


音羽は庭の暗がりを見つめた。


「時々、思うんです」


「何を?」


「私たちの歌って、どこまで届くんだろうって」


明美は黙って耳を傾けた。


「この座敷では、皆様が笑ってくださる。手を叩いてくださる。ありがたいことです」


音羽は、そっと手を広げた。


「でも、夜が明ければ、皆様はそれぞれのお仕事に戻られるでしょう?」


「ええ」


「そうしたら、私たちの歌は、どこへ行くんだろうって」


高尾が続けた。


「歌を覚えてくださる方もおられます。けれど、誰が歌っていたかなど、忘れてしまうものです」


「……」


「それでよいのかもしれません」


高尾は庭の池を見つめた。


「けれど、時々、思うのです。私たちがいなくなっても、歌だけは残るのだろうか、と」


明美は胸の奥が、きゅっと締めつけられるのを感じた。


自分も、ずっと同じことを考えていた。


長崎の歌を、もっと多くの人に聴いてもらいたい。


明謝楼の客だけではない。


港の船乗りにも。


魚を売る女たちにも。


諫早の田で働く人々にも。


海の向こうから来る人々にも。


自分の歌が届いたら、どんなに素敵だろう。


けれど。


その夢を、こんなにも静かに、切実に願っている女性たちがいたとは知らなかった。


「……残りますよ」


明美は言った。


高尾が顔を上げる。


「歌は、きっと残ります」


「なぜ、そう思われるのですか?」


「だって、私が覚えましたもの」


明美は笑った。


「今夜のお二人の歌。まだ全部は覚えられていませんけれど、何度も聴きたくなりました」


音羽が目を丸くする。


「まあ」


「いつか、私にも教えていただけませんか?」


「私たちの歌を?」


「はい」


高尾と音羽は顔を見合わせた。


そして。


二人は、まるで少女のように笑った。


「喜んで」


高尾が答えた。


「その代わり、明美さんの歌も聴かせてくださいませ」


「もちろんです!」


音羽が手を叩いた。


「まあ、楽しみが増えましたねえ!」


三人の笑い声が、庭に響いた。


その様子を、少し離れた廊下から見ている者たちがいた。


白瀬と澪である。


「……よかったな」


白瀬が呟く。


「うむ」


澪が頷く。


「あの三人、きっと仲良くなるぞ」


「そうであろうな」


「何だか、俺まで嬉しくなるよ」


澪は白瀬を見上げた。


「白瀬」


「ん?」


「人は、よいものを見つけると、誰かに分けたくなるものなのじゃな」


「……そうだな」


「水も同じじゃ。ひとところに留めておけば、やがて濁る。流れ、巡り、別の場所へ届いてこそ、命を育む」


白瀬は、静かに笑った。


「歌も、水みたいなもんか」


「ふふ。そうかもしれぬ」


庭の池で、小さな波紋が広がった。


澪はそれを見つめている。


白瀬は思った。


この水守も、十三年前とは随分と変わった。


昔の澪なら、川や海のことを語るときが一番楽しそうだった。


今では、人の歌を聴いて笑う。


誰かの夢を知って、嬉しそうにする。


人と暮らし、人を知り、人を好きになってきた。


外見は変わらなくても、その心は確かに歳月を重ねているのだ。


「……なあ、澪」


「なんじゃ?」


「十三年前、お前と出会えてよかったよ」


澪が目を丸くした。


「……急に何を申す」


「いや。そう思っただけ」


「妙なことを言う男じゃ」


澪はそっぽを向いた。


けれど。


灯明の光の中で、その耳がほんのり赤くなっているように見えた。


白瀬は、気づかないふりをした。


     ◇


「白瀬さん!」


しばらくして、明美が二人のところへやって来た。


「どうでした? 今夜の歌と舞」


「最高でしたよ」


白瀬は素直に答えた。


「俺、歌のことは詳しくないですけど……人を楽しませるって、すごい仕事ですね」


「ふふ。嬉しい」


明美は笑った。


「でも、白瀬さんのお仕事だって同じでしょう?」


「俺の?」


「ええ。田を造って、水路を造って、人が安心して暮らせるようにする」


「……」


「私は歌うことしかできませんけれど、誰かが生きていてよかったと思えるような歌を、歌いたいんです」


白瀬は、思わず明美を見つめた。


生きていてよかった。


その言葉が、胸の奥に響いた。


弥助と岩蔵。


干拓の途中で命を落とした二人。


最初の米を供えた日のことを、今でも忘れていない。


あの二人が生きていたら。


今の諫早を見て、何と言っただろう。


広がった田を見て。


笑う子どもたちを見て。


そして、今日のように歌を楽しむ人々を見て。


きっと、喜んでくれただろう。


白瀬は、ゆっくり頷いた。


「……そうですね」


明美が首を傾げる。


「白瀬さん?」


「俺たちが造ってるのは、土地だけじゃないんですね」


「え?」


「田ができれば、米が取れる。米が取れれば、人が食べていける」


白瀬は庭へ目を向けた。


「でも、それだけじゃ足りない。人は、食べるためだけに生きてるわけじゃないんだ」


明美は黙って聞いていた。


「歌ったり、笑ったり、誰かを好きになったり。そういうことができて、初めて豊かになったって言えるんでしょうね」


明美の目が、やわらかく細くなった。


「……素敵ですね」


「いや、全部、明美さんたちが教えてくれたことですよ」


「ふふ。では、今夜の授業料は高くつきますよ?」


「えっ?」


「おたえさんのお師匠様ですから」


「……参ったな」


三人が笑った。


そこへ。


「お師匠様ーっ!」


おたえが駆けてきた。


「うち、今夜の商人衆との話、しっかり覚えてきました!」


明美が振り返る。


「あら。何かよい話がありましたか?」


「はい! 諫早の干魚と紙の話ばしたら、二軒も興味ば持ってくれたとです!」


「まあ!」


「それから、石の運び賃の話も聞けました! 帳面ば見直すとに役立ちそうです!」


白瀬は呆れ半分、感心半分で笑った。


「本当に、宴会でも商売してたのか」


「当たり前たい!」


おたえは胸を張った。


「遊びに来たつもりじゃなかですけん!」


「いや、少しは遊べよ……」


明美が、くすくす笑う。


「おたえさん。今夜は、もう一つ大事なお勉強があったでしょう?」


「え?」


「歌も舞も、人が長い時間をかけて磨いてきた、大切な仕事だということ」


おたえは少し考えた。


やがて、高尾と音羽の方を見た。


「……そうですね」


そして、何やら帳面を取り出す。


白瀬が眉をひそめた。


「今度は何だ?」


「いや、あんだけの芸ば身につけるまで、どれくらい稽古が要るとか、考えよったとです」


「……それを計算するのか?」


「計算できん部分もあるとでしょうね」


おたえは珍しく真面目な顔になった。


「ばってん、だからこそ、ただでよかとは言えんとです」


明美の表情が変わった。


「……おたえさん」


「うち、商いばしよって思うとです。物にも、人の働きにも、それぞれ値打ちがあるって」


おたえは帳面を閉じた。


「高尾さんたちの芸にも、ちゃんと値打ちがあるとです」


明美は嬉しそうに頷いた。


「ええ。本当に、その通りね」


白瀬も笑った。


(……こいつ、どこまで大きくなるんだろうな)


十三年前。


初めて物を売ることに夢中になっていた少女。


今では、帳面の数字だけでなく、その向こうにいる人間まで見ようとしている。


白瀬は、何も言わず、おたえの頭を軽く叩いた。


「よく学んだな」


「……先生!」


「何だ?」


「子ども扱いせんでくんしゃい! うち、もう二十五ですばい!」


「あ、そうだった」


「まったくもう!」


皆が笑った。


     ◇


宴も終わりに近づいた頃。


主催者の商人が、白瀬へ声を掛けた。


「白瀬殿。そういえば、諫早と長崎を結ぶ街道の話ですが」


「はい」


「矢上の宿場に、懇意にしている旅籠兼茶屋がございましてな」


「……矢上?」


白瀬が聞き返す。


「ええ。往来の商人たちがよく立ち寄る店です。茶を出し、泊まり客を迎え、荷の受け渡しの世話もしております」


商人は楽しそうに話を続けた。


「長崎と諫早の行き来が増えれば、ああした宿場も賑わいましょう」


「そうですね」


「これからは、長崎の町だけが栄えても仕方ありますまい。街道も、港も、村も、皆つながっておるのですから」


白瀬は頷いた。


「ええ。俺も、そう思います」


けれど、胸の奥では別の風景が広がっていた。


矢上。


その名を聞くたび、思い出す。


現代の長崎。


矢上神社へ続く道。


高校時代の美宇。


そして、先ほど見た高尾の横顔。


(……妙な偶然だな)


白瀬は小さく息を吐いた。


四百年も離れた時代に来て。


まさか、こんなところで昔の恋を思い出すとは。


あの頃は、何も言えなかった。


好きだという気持ちも。


一緒にいたいという願いも。


卒業して、それぞれの道へ進んで。


気づけば、ただの思い出になっていた。


「……白瀬」


澪が声を掛けた。


「また遠い目をしておるぞ」


「そうか?」


「うむ」


白瀬は苦笑した。


「ちょっと、故郷を思い出してた」


「……そうか」


澪は、それ以上何も聞かなかった。


ただ、白瀬の隣に立った。


肩が触れそうなほど近く。


それだけで、不思議と胸が落ち着いた。


白瀬は思う。


過ぎ去った時間は戻らない。


けれど、今ここにある時間は、自分たちの手で育てていける。


(……そうだよな)


十三年。


長いようで、あっという間だった。


そして、これからも。


この土地には、まだまだ造りたいものがある。


     ◇


夜も更けてきた。


高尾と音羽が、帰り支度を始めていた。


明美が二人に頭を下げる。


「今日は本当にありがとうございました」


「こちらこそ」


高尾が微笑んだ。


「明美さん。今度は、あなたの歌を聴かせてくださいませ」


「ぜひ!」


音羽が横から笑う。


「それにしても、明美さんは面白い方ですねえ」


「え?」


「私たちの芸を覚えたいなんて。普通は、上手だったと言ってくださるだけですもの」


「だって、本当に素敵だったんです」


「まあ、嬉しい!」


三人が笑い合う。


そのとき。


音羽が、ふと思いついたように言った。


「そうだ。高尾。あれ、覚えてる?」


「あれ?」


「ほら、あの古い節」


高尾は少し考えた。


「ああ……」


「この前、二人で歌っていたでしょう?」


「ええ。覚えておりますよ」


音羽が小さく手を叩いた。


「そうそう。その調子」


高尾が笑った。


「また、ずいぶん懐かしいものを」


「いいじゃない。あたしゃ、あれが好きなんだから」


明美が興味深そうに身を乗り出した。


「どんな歌なんですか?」


「さあ……」


音羽は首を傾げた。


「誰が歌い始めたのかも、よく分からないんです」


「そうなんですか?」


「昔から、あちこちで耳にするような節でね」


高尾が続けた。


「言葉を変えて歌う者もおります。どれが初めなのか、私たちにも分かりません」


「へえ……」


明美の目が輝いた。


「面白いですね」


「では、ほんの少しだけ」


音羽が手を打った。


ぱん、ぱん。


高尾が、それに合わせる。


そして。


二人は、小さな声で歌い始めた。


短い節だった。


どこか素朴で。


どこか懐かしく。


子どもが遊びながら口ずさむような、不思議な調子。


明美は耳を澄ませた。


小春も、いつの間にか近くに来ていた。


「……よか歌ですね」


「ふふ。そうでしょう?」


音羽が笑う。


高尾は、もう一度だけ節を繰り返した。


その声が、夜風に乗って流れていく。


誰かのために披露する芸ではない。


二人が好きだから、歌っている。


ただ、それだけの歌だった。


明美が微笑む。


「……私、この歌も覚えたいです」


「まあ。欲張りな方ねえ」


音羽が笑った。


高尾も静かに笑う。


その様子を、少し離れたところから白瀬が見ていた。


そして。


ふと、足が止まった。


(……ん?)


今の節。


どこかで聞いた。


そんな気がした。


(……いや、待て)


もう一度。


高尾が、短く口ずさむ。


音羽が、それに応える。


(……何だ?)


胸の奥で、何かが動いた。


忘れていた記憶。


遠い昔の音。


子どもの頃だったか。


高校時代だったか。


それとも、もっと別の場所だったか。


思い出せない。


けれど。


間違いなく、聞き覚えがある。


(……この歌)


白瀬は、思わず一歩踏み出した。


「……高尾さん!」


高尾が振り返る。


「はい?」


「あの……」


白瀬は言葉を探した。


何を尋ねればよいのだろう。


誰が作った歌なのか。


いつから歌われているのか。


それとも。


どうして、自分が知っているのか。


高尾は不思議そうに首を傾げた。


その仕草が、また美宇を思わせる。


「何か、お気に召しませんでしたか?」


「いえ、違うんです」


白瀬は慌てて首を振った。


「その歌……もう一度、聴かせてもらえませんか?」


高尾と音羽が顔を見合わせた。


音羽が笑う。


「まあ。今夜は、よほど歌好きの方が集まったようですねえ」


「……すみません」


「いえいえ。喜んで」


高尾が、小さく頷いた。


再び、手拍子が始まる。


ぱん、ぱん。


二人の声が重なる。


白瀬は、息を呑んだ。


(……知ってる)


今度は、はっきりと思った。


(俺は、この調子を知ってる……!)


だが。


どこで聞いたのか。


誰から教わったのか。


肝心なところだけが、どうしても思い出せない。


白瀬は、夜風の中で立ち尽くした。


四百年前の長崎。


まだ名も知らぬ古い節。


それが、どうして。


二十一世紀を生きていた自分の耳に、こんなにも懐かしく響くのだろう。


高尾と音羽の歌声が、静かに夜の町へ溶けていく。


そして白瀬の胸には、一つの疑問だけが残った。


――この歌を、俺はどこで聴いた?


その答えは、まだ霧の向こうにあった。


けれど、この夜に生まれた小さな縁が、やがて長崎の町を揺らす大きな喜びへつながっていくことを。


白瀬も。


明美も。


高尾も、音羽も。


このときは、まだ誰も知らなかった。


海を埋め、土地を造る者たち。


歌を磨き、人の心を動かす者たち。


その二つの道が、今夜、初めて交わった。


長崎の夜空には、静かに星が瞬いていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!


長崎くんちは、寛永十一年(一六三四年)、高尾と音羽という二人の遊女が諏訪神社に小舞を奉納したことに始まると伝えられています。


今回登場した二人の人物像や会話は創作ですが、華やかな芸の裏にある努力や願いも描いてみました。


そして、白瀬が高尾に感じた懐かしさと、夜風に流れた不思議な歌。


果たして、白瀬は何を思い出しかけたのでしょうか。


次回、第六十六普請「知っている節」。


四百年の時を越え、懐かしい歌の記憶が動き始めます。


引き続きお楽しみいただければ嬉しいです!

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