第六十四普請 十三年目の仲間
あれから十三年。
かつて泥だらけで白瀬の後を追いかけていた五人も、今では立派な大人になりました。
家庭を持つ者、新しい夢を追う者、そして密かな恋心を抱く者。
一方、四十歳になった白瀬には、ちょっぴり羨ましいこともあるようで……。
今回は、十三年間で育まれた仲間たちの絆と、それぞれの成長をお届けします。
寛永十一年(一六三四年)。
長崎の海が、まだ夜の色を残していた。
東の空が少しずつ白み、波の上に朝日が細い道を描き始める。
港では、いつもより早く人々が動き出していた。
「来たぞーっ!」
見張りの声に、白瀬湊一は顔を上げた。
沖合に、三つの舟影が見える。
諫早から石を積んでやって来た舟だ。
出島の築造に使う石材を運んできたのである。
「おお、本当に三艘そろってる!」
白瀬は思わず笑顔になった。
前日の夕方、急に知らされた石舟の到着。
石の荷揚げには人手も道具も必要だ。
しかも、長崎の港は諫早の干潟とは勝手が違う。
心配していた白瀬だったが、仲間たちはすでに受け入れの準備を整えていた。
「さて、まずは舟の着け方を――」
「先生、ちょっと待ってくれんね!」
白瀬の言葉を遮ったのは源太だった。
すっかり日に焼けた顔。
逞しくなった肩。
腰には、長年使い込んだ縄を巻いている。
「今は潮が横から当たりよる。先に一艘だけ入れるけん、先生はそっちで待っとって!」
「え? あ、ああ」
源太はもう白瀬を見ていなかった。
「おーい! 二番舟は沖で待っとけ! 一番舟から入れるぞ!」
その声に、船頭たちが一斉に動く。
櫓の音。
水を切る舳先。
岸から投げられる縄。
それぞれの動きが、無駄なくつながっていく。
白瀬は感心しながら眺めていた。
「……うまくなったなあ」
「今さら何ば言いよっとですか」
振り向くと、健太が大きな木箱を担いでいた。
中には、滑車、木の楔、縄、鉄の金具。
石を運ぶための道具が、きちんと収められている。
「おいが昨日のうちに調べとったけん、大丈夫です」
「滑車の軸は?」
「油ば差し直したです」
「縄は?」
「一本ずつ傷ば見たとよ。擦れとった分は替えたけん」
「荷を載せる台は?」
「そいも試したとです!」
白瀬は口を閉じた。
健太が、にやりと笑う。
「先生。おいも、もう子どもじゃなかとですよ」
「……そうだったな」
その横を、今度は長吉が通り過ぎた。
両手に大きな桶を提げている。
「人足衆! 朝飯ば食うてから仕事にかかるばい!」
湯気の立つ汁。
握り飯。
塩を利かせた漬物。
長吉は港に集まった人々へ、手際よく食事を配り始めた。
「腹の減ったまま重か石ば担いだら、怪我するけんね!」
「長吉、気が利くなあ!」
白瀬が声をかける。
すると長吉は、当然のように答えた。
「田んぼでも同じたい。人も土も、養わんば働けんとよ」
「……なるほど」
さらに、その向こうでは。
「そこの荷は、こっちに置いてくれんね!」
小春が長崎の人足たちに声をかけていた。
「昨日話しとった人は、どこにおらすと?」
「ああ、うちが呼んできますけん!」
初めて会ったはずの人とも、まるで昔からの知り合いのように話している。
笑顔。
身振り。
相手の肩をぽんと叩く気さくさ。
それでいて、困っている人を見つける目は誰よりも早い。
そして最後に――。
「先生!」
白瀬を呼び止めたのは、おたえだった。
片手には帳面。
もう片方には算盤。
「石の数と舟賃、人足の手間賃、全部こちらに書いとるけん。勝手に荷ば動かしたら困るとよ!」
「いや、俺はまだ何も……」
「先生ならやりかねん!」
「信用ないなあ!」
「仕事の話たい!」
きっぱりと言い切られた。
白瀬は肩を落とす。
それを見ていたガタ吉が、腹を抱えて笑い始めた。
「がははは! 白瀬、とうとう仕事ば取られたのう!」
「取られてない!」
「ほんなら何ばすると?」
「……それを今、考えてるんだよ!」
「がははは!」
隣で澪まで口元を緩めている。
「白瀬。皆を見ておれ」
「澪まで……」
「よい顔をしておるではないか」
白瀬は、もう一度港を見渡した。
確かに、そうだった。
誰も彼も忙しそうだ。
けれど、その顔には迷いがない。
かつて白瀬の後ろを、泥だらけになって追いかけていた子どもたち。
その姿が、今はどこにもなかった。
(……十三年か)
元和七年。
二十七歳で、この時代に放り出されたあの日。
白瀬自身、何も分からなかった。
そして出会った、五人の子どもたち。
あれから十三年。
長吉とおたえは二十五歳。
健太と源太は二十四歳。
一番幼かった小春でさえ、二十三歳になった。
(みんな、大人になったんだなあ……)
白瀬は、なんだか胸がいっぱいになった。
そのときだった。
「危なかぞーっ!」
怒鳴り声が、港に響いた。
◇ ◇ ◇
最初の石舟から、石材の荷揚げが始まっていた。
長崎の石工たちが、縄と滑車を使って大きな石を引き上げる。
石は一つひとつ形が異なる。
丸みを帯びたもの。
平たいもの。
角張ったもの。
護岸に使う石は、ただ重ければよいわけではない。
互いに噛み合い、潮や波の力を受けても崩れにくい組み方が必要になる。
白瀬も石工の棟梁と相談しながら、届いた石の状態を確かめていた。
「こいつは大きいな」
「ええ。下のほうに据えるには、よか石です」
「ただ、重い。運ぶときは気をつけないと」
「承知しとります」
そのすぐ向こう。
舟と岸をつなぐ仮の荷揚げ場では、次の石を運ぼうとしていた。
太い横木。
敷き並べた板。
その上を、小さな木のそりに載せた石が、ゆっくりと進んでいく。
「せーの!」
「よいしょ!」
人足たちが縄を引く。
ぎしり。
板が軋んだ。
その音に、長吉が顔を上げた。
「……ん?」
足元に目を落とす。
荷揚げ場の脇。
乾いて見えた土の表面に、細いひびが入っていた。
長吉はしゃがみ込み、指で土を押した。
ずぶり。
指先が、思いのほか深く沈んだ。
「いかん!」
長吉が立ち上がる。
「止めんね! そこの石ば動かすな!」
しかし、一瞬遅かった。
ずるっ。
石の重みを受けた敷き板の片側が、泥へ沈み込んだ。
「うわっ!」
縄を引いていた男が、足を取られる。
木のそりが傾き、載せていた大石が横へずれた。
「逃げろ!」
白瀬が叫ぶ。
重い石が、傾いたそりの縁へ滑っていく。
その先には、転んだ人足がいた。
「源太!」
健太の声が飛ぶ。
「分かっとる!」
源太は船頭たちに怒鳴った。
「引くな! 縄ば緩めて、そっちの者を退かせんね!」
石を無理に引き戻せば、そりごと崩れる。
かといって縄を放せば、石が滑り落ちる。
危うい均衡だった。
白瀬が駆け出す。
「全員、石から離れろ! そっちには入るな!」
健太が横から転んだ男の腕をつかんだ。
もう一人の石工が肩を支える。
二人が男を引きずるように、安全な場所へ退かせた。
直後。
どすん!
石がそりから落ちた。
泥が跳ね上がる。
板が一本、跳ねるように持ち上がった。
誰も声を出さなかった。
落ちた石は、人足がいた場所からわずかに離れたところで止まっている。
白瀬は男に駆け寄った。
「大丈夫か!」
「へ、へい……足ば取られただけで……」
男は顔を青くしていた。
足首を動かし、ゆっくり立ち上がる。
幸い、大きな怪我はなさそうだった。
白瀬は安堵の息を吐いた。
だが、まだ終わっていない。
「先生!」
長吉が叫ぶ。
「ここの土、下まで緩んどる!」
健太も膝をついて横木を調べていた。
「支えが片側に寄っとる! こいじゃ、また沈む!」
沖では、次の舟が順番を待っている。
潮は、少しずつ引き始めていた。
石工の棟梁が、苦い顔をする。
「このままでは、今日の荷は揚げられんぞ……」
白瀬は、足元の泥を見た。
十三年前。
諫早の干潟で、幾度となく苦しめられた軟らかな泥。
人を支えるように見えて、重みが集まれば容赦なく沈む。
そして今。
白瀬より先に、その危険に気づいた者たちがいる。
長吉。
健太。
源太。
三人はすでに、互いの顔を見合わせていた。
「先生」
健太が言った。
「少し、任せてくれんね」
白瀬は、その顔を見た。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……分かった。やってみろ。ただし、絶対に人を危険な場所へ入れるな」
「分かっとる!」
三人が動き出した。
十三年前には、考えられなかった光景だった。
◇ ◇ ◇
「まず、どこまで土が緩んどるか調べるばい」
長吉は竹の棒を持ち出した。
沈んだ場所から少し離れ、地面に突き立てていく。
ぐっ。
ずぶっ。
場所によって、沈み方が違う。
「こっちは浅か。ばってん、こっちは下まで柔らかか」
長吉は何か所も確かめ、健太を呼んだ。
「こっち側に重みばかけたら、また沈むぞ」
「なら、支えをもっと陸側まで伸ばすしかなかね」
健太は地面にしゃがみ、木切れで簡単な図を描いた。
「石ば運ぶ台の下に横木ば増やす。重みが一か所に集まらんようにするったい」
「そいなら、こっちに柴束ば敷こう」
「よかね。ばってん、柴束だけじゃ石の重みに負ける」
「板と組み合わせたらどうね?」
二人が話し合う。
白瀬は横から聞いていた。
かつて自分が教えた、重みを分けるという考え方。
それを今、二人は別々の経験から組み立て直している。
長吉は土を知っている。
健太は道具を知っている。
白瀬は思わず口を挟みたくなった。
(そこは、もう少し長い横木を使ったほうが……)
だが、健太が先に言った。
「長吉、横木の長さが足りん。もう一本つなぐより、長かもんば持ってこんね」
(……おっと)
白瀬は苦笑した。
すでに気づいている。
「おい、源太!」
健太が港に向かって叫ぶ。
「そっちの舟、まだ動かさんでくれんね!」
「分かっとる! 今の潮で無理に寄せたら、舟底ば傷めるけん!」
源太は船頭たちと一緒に、舟の位置を確認していた。
潮が引けば、水深は浅くなる。
石を満載した舟が底を突けば、積み荷の重みが偏るおそれがある。
「今日は、全部揚げるとは無理かもしれん!」
源太が叫んだ。
「無理なら、次の潮ば待つ! 舟ば壊してまで急ぐ必要はなか!」
「しかし、明日には次の石が……」
石工の一人が言いかける。
「壊れた舟じゃ、次の石も運べんばい!」
その言葉に、船頭たちがうなずいた。
白瀬は源太を見つめた。
あの源太が。
初めて舟の上に乗ったとき、海の広さに目を輝かせていた少年が。
今では、海の怖さを誰よりもよく知っている。
「先生!」
源太が白瀬を呼んだ。
「こっちはおいが見るけん! 陸のほうば頼む!」
「ああ、任せろ!」
白瀬はようやく、自分の仕事を見つけた。
危険な場所へ人が近づかないよう、縄で作業範囲を区切る。
長崎の石工たちと、どこまでが安全な地面かを確認する。
さらに、地元の棟梁へ頭を下げた。
「こちらの若い連中に、少し試させてもらえませんか」
棟梁は、長吉と健太を交互に見た。
「……あんたら、諫早で干拓をやっとる者じゃな?」
「ええ」
「なら、泥の怖さは知っとろう」
「嫌というほど」
棟梁が笑った。
「よか。わしらも手ば貸そう。ただし、石は一つずつじゃ。危なかと思うたら、すぐ止めるぞ」
「もちろんです」
白瀬は深く頭を下げた。
自分の知識だけでは、仕事は進まない。
諫早で学んだこと。
長崎の職人が知っていること。
それらを合わせて、初めて一つの普請になる。
十三年前から、何度も繰り返してきたことだった。
◇ ◇ ◇
「……困りましたね」
その頃。
港の別の一角では、おたえが厳しい顔をしていた。
相手は、石材の受け取りを管理する長崎の商人だった。
「作業が遅れれば、その分の手間賃が増えます。舟も待たせねばなりません」
商人は帳面を指で叩いた。
「出資した二十五人の町人衆にも、それぞれ都合がある。好きなだけ銭を使えるわけではないんですよ」
「分かっとります」
おたえは答えた。
「ばってん、危なか場所で仕事ば続けさせるわけにはいかんとです」
「それは分かりますが……」
「なら、まず数ば見ましょう」
おたえは帳面を開いた。
石舟三艘。
積み荷の数量。
予定していた荷揚げの手間賃。
追加で必要になる木材と柴束。
潮待ちする舟への支払い。
それらを一つずつ書き出していく。
「明日まで全部待たせたら、確かに銭がかかるとです」
「そうでしょう」
「ばってん、今すぐ揚げられる荷もある。今日は安全に揚げられる分だけにして、残りは潮と足場の具合ば見て決める」
商人が顔を上げた。
「つまり?」
「無理して一度に全部揚げるより、仕事ば分けるとです」
おたえは算盤を弾いた。
ぱちん。
ぱちぱち。
「舟待ちの手間賃は必要です。ばってん、壊れた舟の修繕代まで払うより、ずっと安か」
「……なるほど」
「それに、怪我人ば出したら、銭だけの話じゃ済まんとよ」
おたえの声が、少し強くなった。
「諫早じゃ、普請で人ば亡くしとります」
白瀬の耳にも、その言葉が届いた。
弥助。
岩蔵。
二人の名が、胸の奥をよぎる。
おたえは静かに続けた。
「うちは、もう二度と、銭のために人の命ば安う扱いたくなか」
商人はしばらく黙っていた。
やがて、小さくうなずく。
「……分かりました。ただ、出資者の方々へは、きちんと説明していただかねば」
「もちろんたい!」
おたえは、ぱっと笑顔になった。
「うちの帳面ば見せますけん!」
そこへ、小春が駆け込んできた。
「おたえ! さっきの船頭さんたち、話ば聞いてくれるって!」
「ほんとね!」
「うん! ただ、明日の仕事にも差し支えるけん、待つ分の銭は払ってほしかって」
「そいは当然たい」
小春は、少し困った顔をした。
「石工さんたちも、昼からほかの仕事がある人がおるとよ。そっちも相談せんば」
「分かった。ほんなら一緒に行こう!」
「うん!」
二人は並んで走り出した。
小春は人の話を聞く。
おたえは、その話を銭と約束に変える。
役割は違う。
けれど、二人が一緒になれば、仕事は驚くほど早く進む。
白瀬は、遠ざかる背中を見送った。
(……おたえも、すっかり一人前だな)
初めて商売を始めた日のことを思い出す。
大きな夢ばかり語って、思うように品が売れず、悔しがっていた少女。
長崎で明美に厳しく教えられ、何度も頭を下げ、少しずつ商いを覚えていった。
今では、自分の言葉で長崎の商人と渡り合っている。
(俺が口を挟んだら、怒られそうだ)
いや。
間違いなく怒られるだろう。
白瀬は、一人で笑った。
◇ ◇ ◇
昼を少し過ぎた頃。
ようやく、荷揚げ場の手直しが終わった。
長吉が見つけた固い地盤まで支えを伸ばし、柴束と板で荷重を分けた。
健太が新しく組んだ木の台には、石が不用意に転がらないよう、低い止め木が設けられている。
ただし、これで安全が保証されたわけではない。
最初に運ぶのは、小さな石だった。
「よかか?」
健太が石工たちに尋ねる。
「まずは軽かもんから試すばい」
「よし」
石工の棟梁が答えた。
人足たちが縄を引く。
ぎしり。
木が軋む。
誰もが息を呑んだ。
一尺。
二尺。
石が、ゆっくりと進む。
長吉は地面を見ている。
健太は横木のたわみを見ている。
源太は舟が動いていないかを確かめている。
ガタ吉は、荷揚げ場の水際にいた。
「下の泥は、まだ動いとらんぞ!」
河童水工衆の仲間とともに、水中の杭や支えの状態を見ているのだ。
澪は少し離れた場所で、海面を見つめていた。
潮の向き。
波の重なり。
舟を押す水の力。
「白瀬」
澪が口を開く。
「今はよい。じゃが、潮が変われば舟の動きも変わる」
「あと、どれくらいだ?」
「長くはあるまい。源太にも見立てを聞くがよい」
「分かった」
白瀬は源太を呼んだ。
「潮が変わるまで、どれくらい余裕がある?」
源太は海を見て答えた。
「あと少したい。ばってん、その前に切り上げたほうがよか」
白瀬はうなずいた。
「よし。そのつもりで進めよう」
一つ目の石が、無事に陸へ上がった。
「おおっ!」
人足たちから歓声が上がる。
続いて二つ目。
三つ目。
今度は少し重い石を試す。
支えを確かめ、縄を掛け直し、一つずつ慎重に運ぶ。
急がない。
欲張らない。
少しでも危険があれば止める。
そして――。
「よっしゃあ!」
最後の石が、陸へ上がった。
その日の予定を組み直した分まで、無事に荷揚げを終えたのである。
三艘すべての荷を降ろせたわけではない。
残りは潮と天候を見て、翌日に回すことになった。
だが、怪我人は出なかった。
舟も傷めなかった。
そして何より、長崎の石工たちと諫早の一行が、互いの腕を認め合うことができた。
石工の棟梁が、白瀬の肩を叩いた。
「いやあ、たいしたもんじゃ。諫早の若い衆は!」
「ありがとうございます」
「ところで、あの五人は皆、あんたの弟子か?」
白瀬は少し考えた。
そして、首を横に振った。
「弟子だったこともあります。でも今は……」
港を見る。
長吉が人足たちに水を配っている。
健太は早くも、使った道具を点検している。
源太は翌日の潮を相談している。
おたえは追加の支払いを帳面に書き込み、小春は船頭たちに何度も頭を下げていた。
白瀬は、笑った。
「今は、頼もしい仕事仲間です」
棟梁が大きくうなずいた。
「そりゃ、よか仲間を持ったな!」
「ええ」
白瀬は胸を張った。
「自慢の仲間です」
◇ ◇ ◇
夕暮れ。
仕事を終えた一行は、港の片隅に腰を下ろしていた。
長崎の空は赤く染まり、帰り支度をする舟の影が水面に長く伸びている。
「疲れたあ!」
健太が地面に大の字になった。
「おいもたい」
源太が隣に座る。
「腕が上がらん」
「お前、ほとんど舟の上におったやろ!」
「舟ば動かすとも仕事たい!」
「二人とも、よう頑張ったばい」
長吉が大きな包みを広げた。
中には、握り飯が残っていた。
「おお、まだあったとね!」
ガタ吉が真っ先に飛びつく。
「お前はさっき団子も食ってただろ!」
白瀬が呆れる。
「団子と飯は別じゃ!」
「どんな理屈だよ!」
皆が笑った。
澪も、その輪の中で静かに腰を下ろした。
しばらくは、他愛のない話が続いた。
誰が一番泥だらけになったか。
誰の声が一番大きかったか。
健太の道具は相変わらず大げさだとか。
源太の船頭への怒鳴り声が、まるで昔の浜田新八のようだったとか。
そんな話をしているうちに、ふと長吉が笑った。
「そういや先生。おいの子が、この前、田んぼに入ろうとして大騒ぎしたとよ」
「お前の子が?」
「そがんたい。ちょっと目ば離したら、裸足で泥ん中に入っとって」
「ははは! 誰かに似てるな!」
「そい、皆に言われるとさ!」
源太も笑った。
「おいんところも似たようなもんたい」
「何をしたんだ?」
「舟ば見たら、乗せろ乗せろって騒ぐとよ」
「おいおい、まだ危ないだろ」
「そがんけん、絶対に一人じゃ近づかせん。海の怖さば知らんうちは、乗せられんたい」
源太の声は、真剣だった。
白瀬は思わず、その横顔を見つめた。
長吉は田を守る父親になった。
源太は海を知り、子どもの命を守ろうとする父親になった。
二人とも、もう家庭を持っている。
白瀬の脳裏に、長吉の祝言の日が浮かんだ。
村の皆に冷やかされ、顔を真っ赤にしていた長吉。
あのときは、本人も周囲も笑ってばかりだった。
その長吉が、今では子どもの泥遊びに頭を悩ませている。
源太も同じだ。
かつては自分が海に飛び込みたくて仕方なかった少年が、今では子どもを海から遠ざける。
白瀬は、しみじみと言った。
「……お前たち、本当に父親になったんだなあ」
長吉が笑う。
「先生。何ば今さら言いよっとね!」
「いや、分かってはいたけどさ」
白瀬は二人を見比べた。
「最初に会ったときは、まだ十二歳と十一歳だったんだぞ」
「昔の話たい!」
「そうだなあ……」
白瀬は空を仰いだ。
長吉は二十五。
源太は二十四。
あの頃から十三年。
自分も、それだけ歳を取ったということだ。
「……そりゃ、俺も四十になるわけだ」
「四十!」
ガタ吉が大げさに叫んだ。
「白瀬、もう四十か!」
「そうだよ。悪いか!」
「いやあ、昔はもうちっと若々しかったのう!」
「お前は十三年前から、ちっとも遠慮を覚えないな!」
また、笑い声が上がる。
だが、白瀬は笑いながらも思った。
(俺が教えていたつもりだったけど……)
初めて作った水路。
失敗した堤。
泥に沈んだ杭。
海に引き戻された土地。
弥助と岩蔵を失った、あの日。
白瀬は二人の名を、今も忘れられない。
そして、五人も忘れていない。
だからこそ、今日も誰一人、無理をしなかった。
誰よりも早く危険に気づき、誰よりも先に作業を止めた。
それは白瀬が教えた知識だけではない。
彼ら自身が経験し、痛みを知り、考え抜いて身につけたものだ。
(……すごいな、お前たちは)
白瀬の胸が、じんわりと熱くなった。
◇ ◇ ◇
「先生!」
突然、小春が大きな声を上げた。
「うち、決めた!」
「何を?」
「旅に出たか!」
一瞬、皆が黙った。
「……旅?」
健太が、ゆっくりと顔を上げる。
「うん!」
小春は海を指さした。
「長崎に来てから、ずっと考えよったとよ。唐の人もおる。遠か国から来た人もおる。平戸には阿蘭陀の人たちまでおるっちゃろ?」
「そうだな」
白瀬がうなずく。
「うち、会ってみたか!」
小春の瞳が輝いていた。
「どがん言葉ば話すとか、どがん暮らしばしよるとか、何ば大事にしとらすとか。うち、自分で聞いてみたかと!」
「……平戸まで行くと?」
健太が尋ねる。
「うん!」
「そがん遠くまで?」
「舟で行けるっちゃろ?」
「行けるばってん……」
健太は言葉に詰まった。
平戸。
長崎の北。
外国との商いが盛んな港町。
諫早から見れば、決して気軽に出かけられる場所ではない。
「小春」
白瀬が声をかける。
「旅に出るなら、準備がいるぞ」
「分かっとる!」
「通る土地のことも調べないとな。諫早領の者として、必要な許しも取らないといけない」
「そいも、ちゃんとする!」
「言葉は?」
「もっと勉強する!」
小春は胸を張った。
「唐語も、まだまだ覚えんばいかん。阿蘭陀の言葉は、これからたい!」
「なるほど」
白瀬は笑った。
「じゃあ、まずは平戸のことを調べるところからだな」
「うん!」
「それから、旅先で知り合った人の話を、たくさん聞いてこい」
「任せとって!」
その横で、健太が腕を組んでいた。
何やら難しい顔をしている。
おたえが気づいた。
「……健太?」
「何ね」
「顔の暗かよ」
「暗うなか!」
「小春が旅に出るけん、寂しかとね?」
「な、何ば言いよっと!」
健太の耳が、みるみる赤くなる。
小春だけが、不思議そうに首を傾げた。
「健太も一緒に来る?」
「えっ!」
健太が飛び上がった。
「い、いや、おいは仕事があるけん!」
「そっかあ。残念たい」
「……」
健太は黙り込んだ。
白瀬は思わず顔を背けた。
笑ってはいけない。
ここで笑ってはいけない。
しかし、おたえは容赦しなかった。
「健太は、小春のためなら何でも作るもんねえ」
「そがんことなか!」
「この前も、小春の帳面ば入れる箱、作り直しよったろ?」
「そいは、前のが壊れたけん!」
「小春が頼む前から作りよったたい」
「うるさか!」
「ふふーん」
小春は、ますます不思議そうだった。
「健太、また何か作ってくれると?」
「……」
「健太?」
健太は頭をかいた。
「……旅に持っていける道具ば、作ってやる」
「ほんとね!」
小春の顔が、ぱっと明るくなった。
「うれしか!」
「筆入れと、帳面ば濡らさんための箱と……」
「わあ! 助かる!」
「あと、荷物ば少しでも軽うできるように……」
「健太、大好き!」
ぴたり。
健太の動きが止まった。
源太が、飲んでいた水を吹きそうになる。
長吉は口を押さえた。
おたえは、にやにやしている。
ガタ吉だけが、声を潜めた。
「白瀬……」
「何だよ」
「あれは、もう手遅れじゃのう」
「……何が?」
「恋の病じゃ」
白瀬は、とうとう吹き出した。
「ぶはっ!」
「先生まで!」
健太が真っ赤になって抗議する。
その様子を見て、小春は声を上げて笑った。
「健太、何ばそがん照れよっとね!」
「照れとらん!」
「顔の真っ赤かよ!」
「夕日のせいたい!」
「まだ夕日、あっちにあるばい」
「……!」
皆が腹を抱えて笑った。
ただ一人。
健太だけが、ますます赤くなっていた。
◇ ◇ ◇
笑い声が収まったあとも、小春は海を眺めていた。
その横顔を、白瀬は静かに見つめた。
かつて小春は、知らない人を見つければ、誰よりも早く駆け寄る子どもだった。
商人でも、漁師でも、領主の家臣でも。
相手が誰であろうと、まず声をかける。
時には失敗もした。
言葉が通じず、悔しがったこともある。
それでも、諦めなかった。
千々石ミゲルから学んだことも、小春の中に残っている。
相手の言葉を覚えること。
自分の考えを押しつけないこと。
何より、相手が何を願い、何に困っているのかを知ろうとすること。
その学びが今、小春を諫早の外へ向かわせようとしていた。
「小春」
「何ね、先生?」
「旅に出たら、きっと知らないことばかりだぞ」
「うん!」
「怖い思いをすることもあるかもしれない」
「……うん」
「それでも行きたいか?」
小春は少し考えた。
そして、笑った。
「行きたか」
迷いのない声だった。
「だって、知らん人と話したら、その人のことば少し好きになれるっちゃろ?」
白瀬は目を見開いた。
小春は続けた。
「諫早ん人も、長崎ん人も、唐ん人も。皆、違うところがあるばってん、話してみたら、案外同じことで笑うとよ」
「……そうだな」
「うち、もっと知りたか。海の向こうに、どがん人がおるとか」
白瀬は、ゆっくりとうなずいた。
「いい夢だな」
「ほんとね?」
「ああ。小春らしいよ」
その言葉に、小春はうれしそうに笑った。
健太は隣で、黙っていた。
けれど、その手はすでに動いていた。
拾った木切れに、何かを描いている。
小さな箱。
蓋。
紐を通す穴。
旅先でも使える道具。
小春が遠くへ行くのなら。
せめて、自分の作ったものを持っていってほしい。
そう考えていることは、誰の目にも明らかだった。
もちろん、小春を除いて。
(……頑張れよ、健太)
白瀬は心の中で応援した。
ただし、何も言わなかった。
この恋も、健太自身が育てるものだから。
◇ ◇ ◇
やがて、港に夜の帳が下りた。
人々はそれぞれの宿へ戻り、明日に備えて休み始めた。
白瀬は一人、岸辺に残っていた。
昼間の騒ぎが嘘のように、海は静かだった。
「……十三年、か」
口に出してみる。
元和七年。
二十七歳だった自分が、四十歳になった。
あの頃は、現代に帰る方法ばかり探していた。
なぜ、この時代へ来たのか。
何をすれば戻れるのか。
いつまで、ここにいなければならないのか。
そんなことばかり考えていた気がする。
けれど、いつの間にか。
帰る方法を探すより、明日の仕事を考えることのほうが多くなっていた。
田を造り。
水路を掘り。
海と争い、海から学び。
仲間が増えた。
失った命もあった。
生まれた命もあった。
そして、子どもたちは大人になった。
「白瀬」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り向かなくても分かる。
「澪か」
「まだ起きておったのか」
「ああ。ちょっと考え事をな」
澪は何も言わず、隣に並んだ。
月明かりが、二人の足元を照らしている。
白瀬は、ふと澪の顔を見た。
艶のある髪。
澄んだ瞳。
穏やかな横顔。
出会った頃と、何ひとつ変わっていない。
「……ずるいよなあ」
「何がじゃ?」
「澪だよ」
「わたし?」
「ああ」
白瀬は苦笑した。
「俺は二十七から四十になった。長吉たちだって、あんなに大きくなった。それなのに澪だけ、十三年前と全然変わってないんだから」
澪は、きょとんとした顔をした。
「水守ゆえな」
「いや、それが羨ましいんだって!」
「羨ましい?」
「そりゃそうだろ。俺なんて最近、朝起きたときに腰が重いんだぞ」
「ふむ」
澪は、白瀬をじっと見た。
「確かに、そなたは少し老けたのう」
「……そこは否定してくれよ」
「嘘は申せぬ」
「容赦ないな!」
澪の口元に、小さな笑みが浮かんだ。
白瀬も笑った。
しばらく二人は、静かな海を眺めていた。
やがて白瀬が口を開く。
「でもさ、澪」
「何じゃ?」
「少し、不思議なんだよ」
「何が?」
「俺だけ、どんどん歳を取っていくことがさ」
白瀬は自分の手を見つめた。
昔より、少し節くれ立った指。
幾度もの普請でできた傷。
十三年間の仕事が、その手に刻まれている。
「長吉たちは、いつか俺より立派な大人になる。いや、もうなってるか」
「そうじゃな」
「俺だって、いつかは爺さんになる」
「……うむ」
「でも澪は、ずっと今のままなんだろ?」
澪は答えなかった。
波が、岸壁を静かに叩いた。
しばらくして、澪が口を開いた。
「白瀬」
「ん?」
「姿が変わらぬからといって、何も変わらぬわけではないぞ」
白瀬が顔を上げる。
澪は海を見ていた。
「十三年前のわたしは、人の営みを遠くから眺めておるだけでよいと思っていた」
「……そうだったな」
「川が流れ、海へ注ぐ。それを見守ることが、わたしの務めじゃと思っておった」
澪の声は静かだった。
「じゃが、今は違う」
「……」
「皆が笑えば、わたしもうれしい。誰かが傷つけば、胸が痛む。帰りの遅い者がおれば、無事を案じる」
白瀬は、黙って聞いていた。
「長吉の子が生まれたときも、源太の子が初めて水辺へ来たときも……不思議なものじゃと思った」
澪は、そっと自分の胸に手を当てた。
「同じ水が流れておるのに、その流れに新しい命が加わる。それが、こんなにうれしいものとは知らなんだ」
白瀬の胸が、温かくなった。
「……澪も、変わったんだな」
「無論じゃ」
「そっか」
白瀬は笑った。
「俺だけじゃなかったんだ」
澪が、ゆっくりと顔を向ける。
「白瀬」
「何だ?」
「そなたも、変わったぞ」
「……そうかな」
「昔のそなたは、何でも一人で背負おうとしておった」
「耳が痛いなあ」
「今は、皆に任せることを覚えた」
白瀬は昼間の港を思い出した。
危険に気づいた長吉。
道具を組み直した健太。
舟を守った源太。
銭と信用を守ったおたえ。
人々をつないだ小春。
「……あいつら、本当に立派になったよ」
「そうじゃな」
「俺なんか、もう必要ないんじゃないかって思うくらいだ」
澪は首を横に振った。
「それは違う」
「え?」
「そなたがおらずとも、皆は仕事ができる。じゃが、そなたがおらずともよいわけではない」
白瀬は息を呑んだ。
夕暮れの港で、五人が笑っていた姿がよみがえる。
確かに。
彼らは、もう白瀬の指示を必要としていない。
それでも。
一緒に笑い、一緒に悩み、一緒に明日を造ることはできる。
「……そうだな」
白瀬は小さく笑った。
「俺がいなくても仕事は続く。でも、俺も一緒にいたっていいんだよな」
「当たり前じゃ」
澪は、少し呆れたように言った。
「何を今さら申しておる」
「ははは……」
白瀬は頭をかいた。
そのとき。
澪が、ぽつりと言った。
「……それに」
「ん?」
「今のそなたも、悪くない」
白瀬は、思わず澪を見た。
「……え?」
「聞こえなんだか?」
「いや、聞こえたけど」
「ならば、二度は言わぬ」
澪は顔を背けた。
月明かりの下。
その頬が、ほんの少し赤くなっていた。
白瀬はしばらく呆然としていたが、やがて照れくさそうに笑った。
「……ありがとう」
「礼を言うほどのことではない」
「でも、うれしいよ」
「……そうか」
澪は、また海へ目を向けた。
二人の間に、穏やかな沈黙が流れる。
十三年。
人にとっては、決して短くない年月。
水守にとって、その長さがどれほどのものなのか、白瀬には分からない。
けれど。
同じ海を見て。
同じ仲間を見守り。
同じ喜びと悲しみを重ねてきた。
その十三年だけは、確かに二人のものだった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
港では、残っていた石の荷揚げが再開された。
前日の経験を生かし、作業は順調に進んでいる。
白瀬は、もう細かな指示を出していなかった。
長吉が土を見ている。
健太が道具を見ている。
源太が潮を見ている。
おたえが帳面を見ている。
小春が人を見ている。
澪が水の流れを読み、ガタ吉が水中の危険を確かめる。
そして白瀬は、皆を見ていた。
何かあれば、一緒に考える。
分からなければ、尋ねる。
危険なら、止める。
それでよかった。
「先生!」
小春が走ってきた。
「今日の仕事が終わったら、明謝楼に寄らんね!」
「明謝楼?」
「うん! 明美さんから話があるって!」
「何の話だ?」
「それが、うちもまだ聞いとらんとよ!」
そこへ、おたえも駆けてきた。
「お師匠様から、商いの話じゃろうか?」
「さあなあ」
白瀬は首を傾げた。
長崎の商いは、いつも突然動き始める。
それは、この十三年間で十分に学んだことだった。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。
最後の石を無事に降ろした一行は、明謝楼へ向かった。
店に入ると、明美が笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃい! 皆さん、お疲れ様!」
「明美さん、どうしたんですか?」
白瀬が尋ねる。
明美は、少し楽しそうに目を細めた。
「実はね。長崎の商人の方から、お誘いがあったの」
「お誘い?」
「ええ。今度の普請で諫早の皆さんに助けてもらったお礼も兼ねて、席を設けたいんですって」
おたえが目を輝かせた。
「商人の方が!?」
「そうよ。矢上宿の旅籠ともお付き合いのある方なの」
「それは、ぜひお会いせんば!」
おたえは早くも帳面を取り出している。
明美が笑った。
「おたえ。今日は商談ばかりじゃないのよ」
「え?」
「長崎の町を、もっと知ってもらいたいんですって」
「町を?」
「ええ。商いだけじゃない。長崎には、いろんな人が暮らしているでしょう?」
明美は窓の外へ目を向けた。
港を行き交う人々。
異国の品を扱う商人。
汗を流す職人。
忙しそうに走る小僧たち。
そして、その賑わいの向こうには、表通りからは見えない暮らしもある。
「白瀬さん」
明美が振り向いた。
「長崎にはね、銭や荷物だけじゃなく、人の心を動かすものもあるの」
「人の心を?」
「そう」
明美は微笑んだ。
「歌よ」
「……歌?」
「ええ。今度のお席では、歌や舞を披露する人たちも呼ばれるそうなの」
小春が身を乗り出した。
「うわあ! うち、見てみたか!」
「でしょう?」
明美は笑った。
しかし、その笑顔には、どこか思うところがあるようだった。
「……明美さん?」
白瀬が尋ねる。
「どうかしました?」
「いいえ」
明美は首を横に振った。
「ただ……」
少しだけ、声を落とす。
「歌うことが好きでも、好きなようには歌えない人もいるのよ」
白瀬は、黙って聞いていた。
「皆さんには、そういう人たちのことも知ってほしいの」
澪が静かにうなずいた。
「人には、それぞれの暮らしがあるからのう」
「ええ」
明美は、澪に微笑み返した。
「だからこそ、歌が必要なのかもしれないわね」
白瀬は窓の向こうの長崎を眺めた。
十三年前。
彼は、土地を造ろうとしていた。
人が暮らせる場所を。
米が育つ田を。
水が流れる道を。
だが、今は少し違う。
土地ができれば、そこに人が集まる。
人が集まれば、商いが生まれる。
学びが生まれる。
家族が生まれる。
そして――。
歌が生まれる。
「……面白そうですね」
白瀬は笑った。
「ぜひ、参加させてください」
「よかった!」
明美が、ぱっと顔を明るくした。
「では、明日の夕刻に迎えの者を寄こしますね」
「ありがとうございます」
小春は、もう待ちきれない様子だった。
「どがん歌が聴けるとやろ!」
おたえは、ちゃっかり商人の名前を尋ねている。
健太は、小春のために作る旅道具のことを考えていた。
長吉と源太は、諫早に待つ家族への土産を相談している。
ガタ吉は、宴席に団子が出るかどうかを真剣に気にしていた。
「……お前、また団子かよ」
白瀬が呆れる。
「宴には菓子がつきものじゃろ!」
「誰が決めたんだ!」
皆が笑った。
その輪の中で、澪が白瀬を見た。
「白瀬」
「ん?」
「また、新しいものに出会えそうじゃな」
「ああ」
白瀬はうなずいた。
「今度は、どんな世界が待ってるんだろうな」
窓の外では、長崎の町が午後の光に包まれていた。
荷を運ぶ声。
商人の呼び声。
人々の笑い声。
その喧騒のずっと向こうから、かすかに三味線の音が聞こえてきた。
白瀬は、ふと耳を澄ませた。
まだ、知らなかった。
これから出会う二人の女性が、長崎の町に新しい歌と舞をもたらすことを。
そして、そのうちの一人が。
四百年後の自分にまでつながる、不思議な縁を持っていることを。
海から始まった普請は、今、新しい場所へ広がろうとしていた。
土地を造るだけでは、国はできない。
人が生き、笑い、泣き、歌う。
そのすべてがあってこそ、国になるのだ。
十三年目の仲間たちは、もう誰一人、白瀬の後ろを歩いてはいなかった。
それぞれが、自分の道を歩き始めている。
白瀬は、その背中を誇らしく見つめた。
そして、笑った。
「……さあ、次は何を造ろうか!」
海から吹く風が、長崎の町を駆け抜けていった。
長吉と源太は、今やお父さん。
おたえは頼もしい商人に、健太は腕利きの技術者に、小春は世界を夢見る女性へと成長しました。
白瀬も二十七歳から四十歳に。
それなのに、澪だけは十三年前と変わらぬ姿。
でも、姿が変わらなくても、心には確かに十三年の月日が刻まれています。
そして、健太の想いは小春に届くのでしょうか?(どうやら周囲にはバレバレのようですが……)
次回からは、長崎のもう一つの顔へ。
海と石の普請から、人々の歌と舞の物語が動き始めます。
次回、第六十五普請「太夫町の歌」
引き続きお楽しみいただければ幸いです。
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