第六十三普請 二十五人の財布
出島を造るには、石も、人手も、そして銭も必要です。
けれど、大きな普請は造って終わりではありません。
今回の主役は、おたえ。
長崎の大商人たちを相手に、諫早で学んできた商いの知恵を試します。
果たして、二十五人の財布を動かすことはできるのでしょうか。
寛永十一年(一六三四年)。
長崎の朝は、銭の音で始まる。
港では、荷を担ぐ男たちが威勢のよい声を張り上げていた。
唐船から降ろされる荷箱。
魚を詰めた籠。
木材を積んだ荷車。
そして、石を満載して、ゆっくりと岸へ近づく舟。
昨日、白瀬たちが海底を調べた出島の予定地でも、築造に向けた準備が始まっていた。
「……よし!」
おたえは、両頬をぱんと叩いた。
「今日こそ、うちの出番ばい!」
昨日の帰り際、勢いよく宣言したのだ。
『二十五人の財布は、うちが見せてもらいますけん!』
あれほど威勢よく言った手前、逃げるわけにはいかない。
その隣で、白瀬湊一が笑っていた。
「頼もしいな、おたえ」
「先生、今日は口出しせんでくださいね!」
「えっ」
「うちが商人として話す日ですけん!」
「……はい」
ガタ吉が腹を抱えて笑った。
「がはは! 先生、とうとう弟子に追い出されたばい!」
「追い出されてない!」
「似たようなもんじゃ」
澪まで涼しい顔で頷いた。
「白瀬。今日はおたえに任せてみよ。そなたは少し、口を慎むがよい」
「澪まで……」
「案ずるな。余計なことを申そうとしたら、わたしが止めてやる」
「それ、全然安心できないんだけど」
「ふふ。では、黙っておることじゃな」
そんな二人を見て、明美が楽しそうに笑った。
「白瀬さん、今日は見守るのもお仕事ですよ」
「明美さんまで……」
おたえは胸を張った。
「大丈夫たい! うちに任せとかんね!」
その威勢だけなら、長崎一の大商人にも負けていなかった。
もっとも。
その自信が、わずか半刻後に粉々になることを、おたえはまだ知らない。
* * *
通されたのは、港を見下ろす大きな商家だった。
広い座敷には帳面が山のように積まれ、算盤を弾く音が絶えない。
壁際には、二十五枚の木札。
それぞれに、出島築造へ銭を出す町人たちの名が記されていた。
「……二十五人」
おたえが呟く。
「そうたい」
応じたのは、白髪交じりの商人だった。
「この島は、お上の命で造る。じゃが、築島や建物に掛かる銭は、わしら長崎の町人二十五人が出し合うことになっとる」
「二十五人で、大きな商いばするとですね!」
「まあ、そういうことじゃな」
「そりゃ面白か!」
「……面白か?」
老人の顔が引きつった。
「お嬢さん。まず、この帳面ば見てみんね」
差し出された帳面を開いた瞬間。
おたえの笑顔が消えた。
「……なんね、これ」
石材。
木材。
舟賃。
人足の手間賃。
道具。
食糧。
それぞれに、支払いの予定が細かく記されている。
ところが、あちこちに朱書きが加えられていた。
石の追加。
舟の増便。
納め日の変更。
そして、まだ決まっていない金額。
「昨日の海底調べで、石が余計に要ることが分かったろう?」
「はい」
「そりゃよか。崩れる島ば造っても仕方なか。じゃが、石を増やせば銭も増える」
別の商人が口を開いた。
「石を運ぶ舟も増やさにゃならん!」
「舟ば増やせば、今度は港が混み合うぞ!」
「石工は手間賃の取り決めが先じゃと言うとる!」
「そもそも、誰がその銭ば出すとや!」
たちまち座敷が騒がしくなる。
おたえは目を丸くした。
「……ちょっと待ってください」
誰も止まらない。
「待ってくださいって!」
まだ止まらない。
とうとう、おたえが叫んだ。
「いっぺんに喋られたら、帳面に書けんでしょうが!」
ぴたり。
座敷が静まり返った。
白瀬は思わず口元を押さえた。
(……やったな、おたえ)
明美が隣で肩を震わせている。
「うふふ。さすが、おたえちゃん」
「お師匠様! 笑っとらんで助けてください!」
「あら。今日は一人前の商人として話す日じゃなかった?」
「……はがいか!」
おたえは真っ赤になった。
* * *
それでも、おたえには自信があった。
諫早での初めての商い。
干魚を売った日。
値を下げすぎて悔しい思いをした日。
長崎で堺屋重兵衛と競い合った日。
そして、村の皆で考えた四面蔵。
田、川、海、人。
得たものを、次の暮らしへ生かしていく仕組み。
あれから何年も、帳面をつけてきたのだ。
「皆さん、聞いてください!」
おたえは持参した帳面を広げた。
「諫早では、物の値ば決める時、作る手間と運ぶ手間ば分けて考えとります!」
石を切る者。
石を運ぶ者。
石を積み上げる者。
一つずつ、仕事を分けて書き出していく。
「こうすれば、どこに銭が掛かっとるか分かります!」
老人が頷いた。
「なるほど。そりゃ悪うなか」
おたえの顔が明るくなった。
だが。
「では、お嬢さん」
別の商人が静かに尋ねた。
「石を積んだ舟が遅れたら、どうする?」
「……へ?」
「石が届かん。じゃが、石工は集まっとる。その者たちの手間賃は誰が払う?」
「それは……」
「石を積んだところで、潮に崩されたら?」
「……」
「やり直す銭は、誰が出す?」
おたえは口を閉じた。
「お嬢さん。帳面に書くのは簡単じゃ」
商人は続けた。
「じゃが、帳面の向こうには人間がおる」
その言葉が、おたえの胸に刺さった。
「銭が足りんと言うだけなら誰でもできる。わしらが困っとるのは、銭を出しても、思うように仕事が進まんことじゃ」
おたえの手が、帳面の上で止まった。
「……」
「どうじゃ。答えはあるか?」
ない。
今のおたえには、答えられなかった。
* * *
「はがいかぁぁぁ……!」
商家を出たおたえは、港の片隅で頭を抱えた。
「もう! なんであがん難しかことば聞くとね!」
「そりゃ、難しい仕事だからだろ」
白瀬が笑う。
「先生は黙っとって!」
「はい」
「……うぅ」
おたえは石段に腰を下ろした。
以前なら、ここで泣いていたかもしれない。
だが、今は違う。
悔しい。
腹が立つ。
それ以上に。
――どうすれば、うまくいく?
その答えを、自分で見つけたかった。
少し離れた場所では、源太が船頭たちと言い争っていた。
「そがん時刻に舟ば入れたら、ほかの舟が出られんばい!」
「じゃあ、いつ運べと言うとや!」
「潮が変わってからたい!」
「そしたら石工が待つことになる!」
その近くでは、健太が荷運び用の道具を調べている。
「この車輪、まだ使えるばい。軸ば替えればよか」
「新しく作ったほうが早かろう?」
「早かけど、銭が掛かる。直せるもんば捨てる必要はなか」
さらに向こうでは、長吉が人足たちに握り飯を配っていた。
「腹減っとったら、力も出らんけんね!」
「長吉! こっちにも二人おるぞ!」
「今持っていくばい!」
小春は、石工の親方と商家の使いの間に立っていた。
「待って。親方さんが困っとるのは、石の値段じゃなかとよ」
「では、何じゃ?」
「いつ石が届くか分からんことたい。人ば集めても、仕事ができんけん」
おたえは、じっと見つめた。
皆が、それぞれの場所で働いている。
源太は舟を知っている。
健太は道具を知っている。
長吉は人の腹具合を知っている。
小春は、人の言葉を聞いている。
そして、澪とガタ吉は――。
「白瀬。あの石積みは薄くしてはならぬ」
港の端で、澪が海を見つめていた。
「潮が満ちれば、あそこへ水が集まる。見た目だけ整えても、いずれ崩れるぞ」
「分かってる。昨日の測量でも、そこが気になってた」
「石を惜しめば、後で人が泣くことになる」
ガタ吉が水面から顔を出す。
「おーい! 底んほう、思うたより泥が柔らかかぞ! 石ば置くなら、下ばしっかりせんといかん!」
白瀬が頷いた。
「ありがとう、ガタ吉!」
おたえは、立ち上がった。
――ああ。
そういうことか。
自分は帳面ばかり見ていた。
銭を出す人。
銭を受け取る人。
その間にある仕事。
本当に見なければならないのは、帳面の数字だけではなかった。
「……先生!」
白瀬が振り向く。
「どうした?」
「うち、ちょっと皆に話ば聞いてくる!」
「おう」
「夕方まで戻らんかもしれんけん!」
「分かった」
おたえは駆け出した。
その背中を、澪が静かに見送る。
「……気づいたようじゃな」
「ああ」
白瀬が嬉しそうに笑った。
「俺たちが教えること、もうあんまり残ってないのかもな」
「ふふ。今頃気づいたか、白瀬」
「……相変わらず厳しいな」
「そなたが甘すぎるだけじゃ」
澪の口元が、ほんの少し緩んだ。
* * *
「親方さん!」
おたえが駆け寄った先では、古い船着場の石垣を直している男たちがいた。
一部の石が緩み、舟を着けるには危うくなっていた。
「そこ、今から新しく造ると?」
「いや、直しよっとたい」
石工の親方は、額の汗を拭った。
「この前も直したばっかりじゃが、潮と波には勝てんけんな」
「……この前も?」
「ああ。石ば積んだら、ずっとそのままっちゅうわけにはいかん」
親方は緩んだ石を指さした。
「潮が満ちれば波が当たる。雨が降れば、石の裏の土も流れる。目に見えんところから、少しずつ傷んでいくとよ」
「……」
「じゃけん、時々調べて、悪かところは早う直さんといかん。放っとけば、小さか傷が大きゅうなる」
親方は、新しい石を据えながら笑った。
「造るより、守るほうが長か仕事たい」
その言葉に。
おたえは、はっと顔を上げた。
「……造るより、守るほうが……」
背後から、ガタ吉がひょいと顔を出す。
「何じゃ、おたえ。難しか顔ばしとるな」
「ガタ吉!」
「おう!」
「石垣って、造った後も傷むと?」
「当たり前たい!」
ガタ吉は目を丸くした。
「水は毎日動きよるとぞ。昨日は何ともなかったところが、今日には傷んどることもある」
「……そっか」
「じゃけん、おいら河童水工衆は、造った後も水ん中ば見回るとたい」
「……!」
そこへ澪がやってきた。
「どうした、おたえ」
「ねえ、出島も造ったあとで直さんばいかんと?」
澪は不思議そうに首を傾げた。
「無論じゃ」
「……やっぱり」
「海を相手にする普請ぞ。潮も風も、年月とともに石を傷める。いつまでも造った時のままであるはずがなかろう」
そして静かに続けた。
「白瀬が常々申しておったであろう。水は、人の造ったものの都合など考えてはくれぬとな」
おたえは立ち尽くした。
出島。
今はまだ、海の上に影もない。
これから石を積み、土を入れ、建物を造る。
完成すれば、そこで人が暮らし、商いが始まる。
けれど。
十年先は?
二十年先は?
石垣が傷んだら?
水を流す溝が詰まったら?
建物の屋根が傷んだら?
商いが栄え、もっと大きな蔵が必要になったら?
「……あっ!」
おたえは突然、大声を上げた。
「そうたい!」
ガタ吉が飛び上がった。
「うわっ! 何じゃ急に!」
「銭が足りん理由、もう一つあったばい!」
「なんね?」
おたえは、勢いよく帳面を開いた。
「皆、島ば造る銭のことばっかり考えとる!」
「……?」
「でも、造って終わりじゃなか!」
その目が、きらきらと輝いていた。
「造った後にも、銭が要るとたい!」
* * *
それから、おたえは港を走り回った。
まずは源太。
「源太! 石を運ぶ舟は、日に何度も往復できると?」
「潮次第たい。欲張って運べば、座礁する」
「じゃあ、安全に運べる回数ば教えて!」
「よかぞ。ただし、潮が悪か日は無理せん」
次は健太。
「道具ば直すのに、どれくらい掛かる?」
「新しく作るより、だいぶ安う済むばい」
「それ、帳面に書いて!」
「おたえ、また何か企んどるやろ?」
「商売たい!」
健太は笑った。
「なら、任せろ!」
長吉にも尋ねた。
「人足さんたちの飯、いつまで用意できる?」
「米も野菜も、諫早から運べばしばらくは大丈夫たい。ただし、村の分まで持ってきたらいかんばい」
「当たり前たい!」
長吉は頷き、ふと思い出したように言った。
「そういや、唐芋の苗の話も、もう少し聞いてみたかとけど」
「長吉!」
「分かっとる! 仕事が先たい!」
二人は顔を見合わせて笑った。
最後に小春。
「小春。あんたは?」
「商人さんたちの話ば、もう一度聞いてきたと」
「なんて?」
「皆、銭ば出したくなかわけじゃなかとよ」
小春は指を一本立てた。
「何に使われるか分からんけん、怖かと」
「……そうか」
「それと、石工の親方も船頭さんも、ちゃんと働いた分を払ってもらえるか心配しとる」
おたえは目を閉じた。
頭の中で、ばらばらだった話が少しずつつながっていく。
石工。
舟。
人足。
材料。
銭。
全部、つながっている。
「ああ……」
おたえは、ゆっくり笑った。
「なんね。そういうことね」
小春が首を傾げる。
「おたえ?」
「見えん銭が怖かなら、見えるようにすればよか!」
「……へ?」
おたえは小春の両肩を掴んだ。
「今から、もう一回商家へ行ってくる!」
「えっ、今から!?」
「うん!」
そして、勢いよく駆け出した。
小春は呆気に取られて、その背中を見送った。
「……ほんと、おたえは昔から変わらんねぇ」
だが、その顔には笑みが浮かんでいた。
* * *
夕刻。
おたえは、再び商家の座敷に立っていた。
朝と同じ商人たち。
同じ帳面。
同じ銭箱。
しかし、おたえの顔は朝とは違っていた。
「皆さん、もう一度、話ば聞いてください!」
白髪の商人が笑った。
「おお、帳面のお嬢さんか。今度は何じゃ?」
「銭の使い方について、考え直してきました!」
おたえは、湯江で漉いた紙を広げた。
水学所で文字や算術を教えるために作り始めた、諫早の紙。
初めの頃は穴だらけで、字を書くことさえ難しかった。
それが今では、こうして長崎の大商人たちの前に広げられている。
おたえは三つの欄を示した。
「まず、石ば買う銭」
「……ふむ」
「次に、石ば運ぶ銭」
「それから?」
「石ば積む人に払う銭」
商人たちが顔を見合わせる。
「全部まとめて考えるけん、どこに銭が掛かっとるか分からんようになるとです」
おたえは、小さな木札を置いた。
「まず、石ば運ぶ舟が港に着いたら、その石ば確かめる」
次の札。
「石工さんたちが積んだところまで確かめる」
そして三枚目。
「働いた人たちの手間賃は、決めた日を守って払う」
老人が腕を組んだ。
「つまり、仕事の進み具合に合わせて、銭ば渡すと?」
「そうです!」
おたえは勢いよく頷いた。
「もちろん、石ば買うための手付けや、最初に要る銭は別に考えます。何もかも後払いでは、仕事ば始められんですけん」
一人の商人が口を開いた。
「それでも、潮が悪うて石が積めん日もあるぞ」
「はい。源太に聞きました。無理に舟ば出したり、危なか日に石ば積んだりせんよう、初めから余裕ば持たせます」
「それでは、工事が遅れるではないか」
「危なか日に無理して崩れたら、もっと遅れるです!」
おたえは即答した。
今度は別の商人。
「銭ば出すわしらに、いちいち確かめろと言うとか?」
「全部を見に来いとは言いません。石工さんも船頭さんも、納めた物と働いた分を帳面に残します。皆さんは、その写しば見ればよかとです」
「……なるほど」
「その上で、話が違うところがあったら、銭ば出す前に確かめる。勝手に増やさん。勝手に減らさん」
おたえは座敷を見回した。
「銭ば惜しんでよかところは惜しむ。でも、人の命に関わるところは、惜しんだらいかん!」
しん、と静まり返った。
おたえは続けた。
「二十五人で銭ば出すということは、二十五人で心配するとるということでしょう?」
「……」
「なら、二十五人で安心できるようにせんと!」
その言葉に、白髪の商人が目を細めた。
「……面白かことば言う娘じゃな」
おたえは頭を下げた。
「うちは、まだまだ商いの勉強中です。間違うこともあります」
一度、息を吸う。
「ばってん、うちが責任ば持って帳面につけます。誰が何を納めたか、誰にいくら払うたか、隠さんで記します」
「もし、書き間違うたら?」
「確かめて、直します!」
「工事が遅れたら?」
「どうして遅れたか、皆で分かるようにします!」
「損が出たら?」
そこで、おたえは少しだけ言葉を選んだ。
「……損ば全部なくすとは言えません」
正直な答えだった。
「でも、何も分からんまま銭がなくなることは、防げると思います」
老人が、ふっと笑った。
「ははは……!」
やがて、大きな笑い声になった。
「面白か! 実に面白か!」
ほかの商人たちも顔を見合わせる。
「口ばかりの大人より、よっぽど腹が据わっとる」
「まだ娘と思うとったが……」
「いや、帳面の作りは見やすかぞ」
しかし。
おたえは、まだ座らなかった。
「……もう一つ、あります!」
笑い声が止まった。
老人が眉を上げる。
「まだあるとか?」
「はい!」
おたえは、新しい紙を三枚、畳の上に並べた。
一枚目。
『造る銭』
二枚目。
『守る銭』
そして三枚目。
『変える銭』
「……なんじゃ、これは?」
「出島に必要な、三つの銭です!」
おたえは、一枚目を指さした。
「石ば買う銭。舟で運ぶ銭。人足さんに払う銭。今の普請に必要な銭です」
次に、二枚目。
「石垣ば直す銭。水の通り道ば掃除する銭。建物が傷んだ時に直す銭。それに、悪かところがなかか、時々調べるための銭です」
商人たちの顔色が変わった。
そして三枚目。
「島を使い始めてから、もっと使いやすく直したり、蔵ば建て足したり、必要なら建物ば建て替えたりする時の銭です」
一人の商人が眉をひそめた。
「……お嬢さん」
「はい!」
「それでは、銭が余計に掛かるではないか!」
「はい!」
おたえは、あっさり頷いた。
「余計に掛かります!」
「何じゃと!?」
座敷が騒然となった。
白瀬は、思わず吹き出しそうになった。
(おたえ……そこは正直すぎるだろ!)
しかし、おたえは怯まなかった。
「ばってん!」
ぱん、と帳面を叩いた。
「最初に安う造っても、後で壊れて、全部やり直しになったらどうするとですか!」
商人たちが黙る。
「港の石垣ば見てきました。ちゃんと造ったものでも、長い間には傷むそうです」
おたえは続けた。
「小さかうちに直せば、石を少し替えるだけで済むかもしれん。でも、放っとって大きゅう崩れたら、また舟ば呼んで、石工さんば集めて、大きな銭ば払わんといかん!」
老人が腕を組んだ。
「……なるほど」
「じゃけん、造った後にも、時々調べて、悪かところば早う直す。そのための銭を考えとく必要があると思うとです」
別の商人が口を開いた。
「では、その銭は誰が出す?」
おたえは頷いた。
「そこです!」
待っていた質問だった。
「島ができれば、借り賃が入る見込みでしょう?」
「ああ。そのつもりじゃ」
「なら、その銭を全部すぐに分けてしまわんで、修繕のために一部ば残すことはできんですか?」
「……ほう」
「ただし、借り賃が入るまでも、石垣が傷まんとは限りません。最初に必要な銭も、別に考えとかなければいかんです」
白髪の商人の目が鋭くなった。
「……なかなか面白かことを言う」
しかし、すぐに問いを重ねる。
「もし、借り賃が入らんようになったら?」
おたえの顔が引き締まった。
「……その時も、島は残ります」
「そうじゃ」
「じゃけん、入るはずの銭ば全部当てにして使うたら、いかんとです」
座敷が静かになった。
おたえは、ゆっくりと言った。
「商いが上手くいかん年もあるかもしれん。思うたより銭が入らん時もあるかもしれん」
そして、三枚の紙に目を落とす。
「でも、島は、そこにある」
その言葉に、白瀬は思わず顔を上げた。
「人が住んどれば、守らんといかん。荷を運ぶなら、船着場も道も要ります」
おたえは、商人たちを見回した。
「銭が入らんから、石垣が崩れても知らん顔、とはいかんでしょう?」
老人は、しばらく黙っていた。
やがて、低く笑った。
「……ははは」
「……?」
「参ったな」
老人は顎を撫でた。
「わしらは、島ば造った後にいくら入ってくるかばかり考えとった」
ほかの商人も、頷き始めた。
「確かに、建物の修繕も必要じゃ」
「舟着き場も傷む」
「蔵を建て足すとなれば、またお上との相談も要るじゃろう」
「何より、その都度誰が銭を出すか、決めておかねば揉めるぞ」
おたえは、大きく頷いた。
「そうです!」
そして、一枚の紙を取り出した。
「うち、これば考えてきました!」
そこには、仕事の種類と、銭を出す者を確認するための欄が作られていた。
門や橋など、お上の差配となる仕事。
町人たちが負担する築島や建物。
そして、完成後の修繕や改修について、これから取り決めねばならないこと。
「誰が直すか。誰が銭ば出すか。誰が確かめるか」
おたえは、一つずつ指を折った。
「初めから全部は決められんかもしれんです。でも、考えとくことはできると思います」
老人は、紙を受け取った。
しばらく、じっと見つめる。
「……お嬢さん」
「はい」
「これは、どこで習うた?」
おたえは、少し考えた。
「……諫早です」
「諫早?」
「田も、川も、堤も、皆で造りました」
おたえの脳裏に、故郷の景色が浮かぶ。
最初に掘った水路。
何度も直した水門。
皆で泥だらけになって積んだ堤。
そして、失敗して崩れた試験干拓。
あの時、命を落とした弥助と岩蔵。
「造ったら終わりと思っとったら、今の諫早はなかったと思います」
声が、少しだけ低くなる。
「何度も直して、何度も考えて、皆で守ってきたとです」
白瀬は、黙って聞いていた。
あの頃、おたえはまだ幼かった。
それでも、ちゃんと見ていたのだ。
自分たちが何をしてきたのか。
何のために、土地を造ってきたのか。
おたえは、顔を上げた。
「出島も同じでしょう?」
「……」
「造ったら終わりじゃなか。これから何十年も、使う島になるとでしょう?」
そして、にっこり笑った。
「だったら、何十年も使えるように、銭のことも考えとかんと!」
長い沈黙が流れた。
やがて、老人が大きく頷いた。
「……よか」
おたえの目が輝く。
「ほんとですか!」
「ただし、話は簡単ではなか。出資者は二十五人おる。奉行所へ確かめることも多か」
「はい!」
「まずは、諫早から運ぶ石の仕事で、お前さんの帳面を試してみよう」
老人は三枚の紙を掲げた。
「それから、この三つの銭の考え方も、皆で相談してみる価値はありそうじゃ」
おたえは、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます!」
その声は、朝よりもずっと力強かった。
* * *
ただし、話はそれで終わらなかった。
「一つ、確かめておかねばならん」
老人が、白瀬へ向き直った。
「諫早から石や木を運ぶというが、諫早領の許しは得ておるのか?」
白瀬は頷いた。
「領主の諫早直孝様には、出島築造への協力についてお許しをいただいています。ただ、追加の資材や人手については、改めて相談が必要です」
「佐賀の本藩との関係もあろう」
「ええ。こちらの商人の方々だけでなく、諫早側の条件もきちんと整えなければなりません」
そこで、おたえが口を開いた。
「それと、もう一つ!」
全員が振り向く。
「諫早の四面蔵の蓄えは、勝手には使えません!」
白瀬が苦笑する。
「……分かってるよ」
「先生、たまに大きなことば思いついたら、勢いで突っ走りますけん!」
「おいおい」
おたえは真剣だった。
「諫早の人たちが、汗水流して貯めたもんです。長崎のためになるからって、勝手に持ってきたらいかんとです」
老人が感心したように頷いた。
「ほう。諫早には、そういう決まりがあるとか」
「はい!」
おたえは胸を張った。
「田のため、川のため、海のため、人のため。皆で考えて使うと決めとります」
「……なるほど」
「石も木も、余っとる分は商いにできます。でも、村で要る分まで売ったら、困る人が出るけん」
老人は、しばらくおたえを見つめていた。
そして。
「よか商人になったな、お嬢さん」
その一言に、おたえは目を瞬かせた。
「……え?」
「昔は、自分が儲けることばかり考えとったろう?」
「な、なんで分かるとですか!」
「顔に書いてある」
座敷に笑いが起こる。
明美も、とうとう声を上げて笑った。
「おたえちゃん、すっかり見抜かれちゃったわね!」
「お師匠様!」
「でも、本当に立派になったわ」
その言葉だけは、からかいではなかった。
おたえは少し照れくさそうに笑った。
* * *
商家を出る頃には、長崎の空が茜色に染まっていた。
港では、夕暮れの潮に合わせて舟が動き始めている。
おたえは、帳面を大切そうに抱えていた。
「……はぁ」
長い息が漏れる。
白瀬が隣に並んだ。
「お疲れさん」
「……先生」
「ん?」
「うち、今日、初めて分かったことがあると」
「何だ?」
おたえは、港を見渡した。
「銭ば稼ぐだけなら、商いは簡単かもしれん」
「そうか?」
「もちろん、簡単じゃなかけど……」
少し考えて、続ける。
「でも、銭ば払う人も、受け取る人も、皆が安心して仕事できるようにするほうが、ずっと難しか」
白瀬は黙って聞いていた。
「うち、昔は儲かった銭で、母ちゃんに着物ば買うたり、村に立派な店ば建てたりすることばっかり考えとった」
「覚えてるよ」
「今も、買ってやりたか」
「うん」
「でも……」
おたえは、少しだけ笑った。
「それだけじゃ、足りんとね」
その横顔は、もう初めて魚を売りに出かけた頃の少女ではなかった。
白瀬は、胸が熱くなるのを感じた。
「……すごいな、おたえ」
「え?」
「俺には、あの商人たちをまとめられなかったよ」
すると、おたえはきょとんとした。
そして、ぷっと吹き出した。
「先生、何言うとっと!」
「え?」
「先生が何でもできたら、うちらの仕事がなくなるたい!」
「……あ」
「先生は先生の仕事ばして。うちは、うちの仕事ばするけん!」
白瀬は、一瞬言葉を失った。
それから、大きく笑った。
「……そうだな!」
澪が静かに頷いた。
「ようやく分かったか、白瀬」
「またそれかよ」
「人は皆、己の足で歩くものじゃ。そなたがいつまでも手を引いてやる必要はあるまい」
「……ああ」
澪は、そっと白瀬の横に並ぶ。
「されど、道を共に歩くことはできる」
その言葉に、白瀬は微笑んだ。
「そうだな、澪」
少し離れた場所では、明美がおたえを抱きしめていた。
「本当におめでとう、おたえちゃん!」
「お師匠様、苦しか!」
「だって、嬉しいんだもの!」
「もう、離してって!」
笑い声が港に広がる。
そこへ、聞き覚えのある声が飛んできた。
「おやおや。随分と景気のよか声じゃな」
振り向くと、堺屋重兵衛が立っていた。
かつて長崎の商いで、おたえの前に立ちはだかった男。
その手には、荷の書き付けが握られている。
「重兵衛さん!」
「聞いたぞ。出島の仕事を任されたそうじゃな」
「……はい!」
重兵衛は、にやりと笑った。
「で、今日はどれくらい儲かった?」
おたえは胸を張った。
「まだ、一文も儲かっとらん!」
「ほう?」
「でも、仕事ば任せてもらったと!」
重兵衛の目が細くなる。
「……そうか」
しばらくして、重兵衛は笑った。
「そりゃ、銭より重かもんば手に入れたな」
「え?」
「信用たい」
重兵衛は、おたえの肩を軽く叩いた。
「一度失うたら、銭ば積んでも買い戻せん。大事にせんね」
そう言い残して、港の人混みへ消えていった。
おたえは、しばらくその背中を見つめていた。
「……信用」
そして、帳面をぎゅっと抱きしめた。
* * *
その日の夕暮れ。
白瀬たちが宿へ戻ろうとした時だった。
「白瀬先生!」
港のほうから、若い船方が駆けてきた。
「諫早から知らせです!」
「どうした?」
「石ば積んだ舟が、三艘、明日の朝には着くそうです!」
「三艘?」
白瀬は眉を上げた。
予定より早い。
石を降ろす場所。
人足の手配。
潮の具合。
受け入れには、いくつもの準備が必要だった。
「待てよ。三艘まとめて来るなら、港の段取りを――」
「大丈夫たい!」
おたえが、あっさり答えた。
「……え?」
「源太が、潮の時間ば見て舟の順番ば決めとるけん」
「え?」
「健太は石ば運ぶ道具の支度。小春は人足さんたちへの知らせ」
「……おい」
「長吉は朝飯と昼飯の算段。うちは帳面と支払いの準備たい!」
白瀬は口を開けたまま固まった。
「……いつの間に?」
おたえは、にっこり笑った。
「先生が澪と話しとる間に、皆で決めたと!」
「……」
その時、向こうから源太が手を振った。
「先生! 明日の朝は潮が早かけん、遅れんでくださいよ!」
健太も声を上げる。
「石ば降ろす道具は、もう揃うばい!」
小春が笑う。
「商家にも、話は通しとるけん!」
長吉は、握り飯を頬張りながら親指を立てた。
「腹いっぱい食わせてやるばい!」
ガタ吉が、水面から勢いよく飛び出した。
「がはは! おいも明日の潮ば見てきたぞ! 先生、安心して寝とけ!」
白瀬は、ただ呆然としていた。
十三年前。
泥だらけの村で出会った子どもたち。
字も読めず。
算盤も知らず。
自分の夢を口にすることさえ、ためらっていた。
その子らが、今。
長崎の大きな普請を、自分たちの力で動かそうとしている。
「……はは」
白瀬は、小さく笑った。
「……参ったな」
澪が、隣で微笑んだ。
「どうした、白瀬」
「俺の出番が、なくなりそうだ」
「ふふ」
澪は、夕日に染まる港へ目を向けた。
「なくなるものか」
「……え?」
「そなたが始めたことじゃ。されど、いつまでもそなた一人のものではあるまい」
海の向こうで、帆が夕風を受けて膨らんでいた。
「皆で造る国じゃろう?」
白瀬は、ゆっくり頷いた。
「ああ……そうだったな」
そして、笑った。
「よし! じゃあ、明日は俺も働くぞ!」
すると、おたえが振り返る。
「先生!」
「何だ?」
「明日は、うちらの段取りに従ってくださいね!」
「……はい」
「勝手に仕事ば増やしたら、追加の銭は出さんけん!」
「おいおい!」
皆が声を上げて笑った。
その笑い声は、潮風に乗って港いっぱいに広がった。
二十五人の町人が、銭を出して造る島。
そして、その仕事を支える、諫早の仲間たち。
銭だけでは、島はできない。
石だけでも、島はできない。
人が考え、人が動き、人が力を合わせてこそ、初めて形になる。
そして、島ができた後も。
潮は満ち、波は寄せ、風は吹く。
石垣は傷み、建物は古くなり、いつか新しいものが必要になる。
だからこそ。
造る者だけでなく、守る者も必要なのだ。
おたえは、もう一度帳面を開いた。
最初の頁には、三つの言葉。
『造る銭』
『守る銭』
『変える銭』
そして、その下へ小さく書き加える。
『誰が、いつ、何のために』
満足そうに頷く。
「……よし!」
銭を数えるだけが、商人ではない。
銭の向こうにある、人と未来を見る。
それが、今のおたえの仕事だった。
白瀬は、夕暮れの海を見つめた。
明日の朝。
この港で、また新しい普請が始まる。
だが、その段取りを決めたのは、もう自分ではなかった。
十三年の歳月が育てた仲間たちが、今、白瀬の一歩先を歩き始めていた。
そして白瀬は、まだ知らない。
その仲間たちの成長が、出島という小さな島を越え、やがて長崎の町そのものを動かしていくことを。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
かつては儲けた銭で何を買おうかと夢見ていたおたえも、今では立派な商人へと成長しつつあります。
今回、おたえが気づいたのは「造る銭」だけでなく、「守る銭」と「変える銭」の大切さ。
実際の出島も、寛永十一年(一六三四年)に長崎の町人二十五人が出資して築造を始めたと伝わっています。
おたえの商談や三つの帳面は創作ですが、造ったものを次の世代まで守り続けるという考え方は、本作の大切なテーマです。
そして、十三年の歳月を経て、白瀬の教え子たちは自分たちの力で動き始めました。
次回、第六十四普請「十三年目の仲間」。
今度は、成長した五人の本領発揮です!
引き続き、お楽しみいただければ幸いです。




