第六十二普請 海の底を測る
歴史の教科書で見た、あの扇形の島――出島。
その築造に自分たちが携わるとあって、白瀬の土木魂は朝から大爆発!
けれど、海の底には未知の難題が待ち受けていました。
一方、長吉も長崎の町で思いがけない「宝物」を発見します。
土木も農業も商いも、知らないことだらけだから面白い!
歴史が生まれる現場へ、いざ!
寛永十一年(一六三四年)、春。
長崎の朝は、騒がしい。
荷を担いで走る人足。
港に響く船頭の掛け声。
遠くから聞こえる、聞き慣れない異国の言葉。
そして、潮の匂い。
白瀬湊一は、そのすべてを忘れるほど、目の前の海に見入っていた。
「……出島」
ぽつりと呟く。
「出島……!」
もう一度。
今度は、少し大きな声で。
「……ああ、くそっ。すげえな!」
「白瀬」
隣に立っていた澪が、呆れたように声をかけた。
「朝から何度目じゃ、その独り言は」
「だって澪! あそこだぞ!」
白瀬は、まだ潮の残る浅瀬を指差した。
「あそこに、出島を造るんだぞ!」
「それは昨日も聞いた」
「日本史の教科書に載ってる、あの出島だ!」
「……それも聞いた」
「扇形の人工島! 江戸時代の長崎! 日本と世界をつなぐ、歴史に残る場所!」
「白瀬」
「しかも、まだ何にもないんだぞ! そこから造れるんだ!」
澪は、しばらく白瀬を眺めた。
それから、深々とため息をつく。
「……そなた、四十にもなって」
「四十だから何だ!」
「童のようにはしゃぎおって」
「そりゃ、はしゃぐだろ!」
白瀬は笑った。
自分でも分かっている。
昨夜から、胸が高鳴って仕方がない。
十三年前。
現代の諫早から、この時代へやって来た。
川を治めた。
堤を築いた。
海から土地を借り、田んぼを造った。
水学所を建て、人を育て、仲間たちと暮らしを豊かにしてきた。
そのどれもが、白瀬にとって誇りだった。
けれど。
――出島。
小学生の頃、社会科の教科書で見た、あの扇形の島。
江戸時代の日本と世界をつないだ場所。
その出島が、まだ存在していない。
そして今。
自分は、その築造に関わろうとしている。
(……信じられねえ)
(教科書で見た歴史を、今から自分たちの手で造るんだぞ!)
考えただけで、鳥肌が立つ。
「……ふふ」
澪が、小さく笑った。
「何だよ?」
「いや。十三年も経つというに、そなたは変わらぬと思うてな」
「そうか?」
「ああ」
澪は白瀬の横顔を見つめた。
少し増えた皺。
日に焼けた頬。
水害のたびに眠れぬ夜を過ごし、人の命を背負ってきた男の顔。
けれど、新しい普請の前に立つときだけは、昔のままだった。
「……まったく。困った男じゃ」
「何が?」
「何でもない」
澪は、そっと微笑んだ。
「そなたがそのように笑うなら、わたしも楽しみじゃ」
白瀬は目を丸くした。
そして、嬉しそうに笑った。
「よし! 最高の普請にしようぜ!」
そのとき。
ばしゃん!
「白瀬ーっ!」
海面から、緑色の頭が飛び出した。
ガタ吉だった。
「朝っぱらから騒がしかぞ! 魚まで逃げてしもうたばい!」
「ガタ吉! 聞いてくれ!」
「なんね?」
「俺たち、歴史に残る島を造るんだ!」
ガタ吉は、首を傾げた。
「……おいらたち、今までも歴史に残る仕事ばしよったろうもん?」
白瀬が固まった。
「…………」
そして。
「はははっ! そうだった!」
腹を抱えて笑った。
諫早の堤も、水門も、田んぼも。
教科書には載らないかもしれない。
けれど、あの土地に暮らす人々にとっては、間違いなく歴史だった。
「よし!」
白瀬は袖をまくった。
「今日も歴史を造るぞ!」
「おう!」
ガタ吉が拳を突き上げる。
澪は、二人を見比べて笑った。
「……本当に、変わらぬ三人じゃな」
◇ ◇ ◇
「これが、築島の絵図じゃ」
長崎奉行所から遣わされた役人が、一枚の絵図を広げた。
白瀬たちのほか、地元の石工や船頭たちも集まっている。
描かれていたのは、陸から海へ張り出す、不思議な形。
「……扇じゃ!」
健太が身を乗り出す。
「白瀬先生! 本当に扇の形ばしとる!」
白瀬の目も輝いた。
「おお……!」
役人が、少し得意げに説明する。
「この形には、江戸から伝わった話がある」
一同が耳を傾けた。
「島の形をいかがすべきかと伺った折、三代将軍家光公が扇を広げ、これにならえと仰せになったそうじゃ」
「……家光公が!?」
白瀬の声が裏返った。
「そう伝わっておる。もっとも、わし自身が御前で見たわけではないがの」
白瀬は絵図を見つめた。
(徳川家光……!)
(あの出島の扇形って、本当に将軍の扇から来たのか!?)
現代で習った歴史の一場面。
その誕生の瞬間に、自分がいる。
胸の奥で、何かが弾けた。
「……面白い」
ぽつり。
「面白いぞ、これ……!」
健太が振り向く。
「先生?」
白瀬は絵図を指差した。
「健太! 見ろ、この形!」
「はい!」
「扇の外側は弧を描いてる! だけど、こっちの陸側は違う! つまり、単純な丸い島じゃない!」
「はい!」
「まず基準になる場所を決めて、どこまで石垣を延ばすか測る! しかも海の上だ! 地面に線を引くようにはいかない!」
「……面白かですね!」
「だろう!」
「先生! 岸に杭ば打って、縄ば張ったらよかとじゃなかですか!」
「おお! いいぞ健太! でも海中じゃ縄が流される! 岸の目印から舟の位置を確かめる工夫も必要だ!」
「そしたら、こっちにも目印ば……!」
「そうそう!」
二人は、すっかり夢中になっていた。
「……始まったのう」
澪が呟く。
ガタ吉が、呆れたように首を振った。
「白瀬は土と石と水の話ば始めたら、飯も忘れるけんね」
「知っておる」
「止めんでよかと?」
「……止めても無駄じゃ」
そのときだった。
「ちょっと待った!」
年配の石工が、ずいと前に出た。
日に焼けた顔。
傷だらけの太い腕。
長年、石を相手に生きてきた職人の目だった。
「諫早の先生よ」
「はい!」
「そんなに面白かなら、ひとつ聞いてよかか?」
「もちろん!」
石工は、絵図の海側を指で叩いた。
「将軍様の扇は紙じゃ。じゃが、こっちは石と土で造らにゃならん」
「ええ!」
「しかも、海の底は平らじゃなか。柔らかか泥もあれば、潮の速か場所もある」
「そうですね!」
「……分かっとるなら聞くが」
石工は白瀬を睨んだ。
「その石垣、どがんして海の底に据えるつもりじゃ?」
一瞬、静まり返った。
だが、白瀬は。
にやり。
笑った。
「……そこです!」
「は?」
「そこが、一番面白いところなんです!」
石工が目を丸くした。
「石を積む前に、その下がどうなっているか調べる! 泥か、砂か、岩か! 石の重みに耐えられるか! 潮で足元を削られないか!」
白瀬の声が、ますます大きくなる。
「見えないんですよ! 海の底は! だからこそ調べるんです!」
「……お、おう」
「親方! 今日はまず、海の底を測りましょう!」
石工は、しばらく白瀬を見つめた。
やがて、ぽつりと呟く。
「……あんた、ほんに変わった男じゃのう」
澪が、静かにうなずいた。
「それについては、わたしも同意じゃ」
◇ ◇ ◇
「白瀬先生」
測量の準備を始めたところで、長吉が声をかけてきた。
「ん? どうした?」
長吉は、少し申し訳なさそうに頭をかいた。
「おい、今日は別のところば見てきてよかですか?」
「別のところ?」
「……畑です」
白瀬は目を瞬いた。
「畑?」
「はい!」
長吉は真剣だった。
「長崎には、海の向こうから珍しか作物が入ってくるって聞いたとです」
「……ほう?」
「先生たちは海から島ば造るでしょう?」
「ああ」
「そしたら、おいは、その土地で何ば育てられるか、考えたかです」
白瀬は、思わず笑った。
「……いいじゃないか!」
「本当ですか!」
「ああ。長吉らしいよ!」
長吉の顔が輝いた。
そこへ。
「だったら、いい人を紹介しましょうか?」
明るい声がした。
振り向くと、明美が立っていた。
鮮やかな赤を基調とした衣装。
髪には、小さな花飾り。
その隣には、小春もいる。
「明美!」
白瀬が手を上げる。
「朝からどうしたんだ?」
「父さんに頼まれて、様子を見に来たの。皆さん、もう仕事を始めているでしょう?」
明美は笑った。
そして長吉を見る。
「長吉くん。作物を探しているのね?」
「はい!」
「それなら、父さんの知り合いに、海の向こうから来た珍しい品を扱う商人がいるわ」
「……本当ですか!」
「ええ。種や苗のことは、そこで聞いてみたら?」
長吉は、ぱっと顔を輝かせた。
「ぜひ、お願いします!」
明美は小春に向き直った。
「小春ちゃん。一緒に行ってくれる?」
「もちろん!」
小春は元気よく答えた。
「言葉の通じん人がおっても、うちが何とかするけん!」
明美が笑う。
「頼もしいわね。でも、小春ちゃんにはもう一つお願いがあるの」
「何ですか?」
「この港の船頭さんたちにも、白瀬さんを紹介してあげて。長崎の海のことは、あの人たちが一番よく知っているもの」
「分かりました!」
小春は、にっこり笑った。
「先生! うち、今日は忙しかばい!」
「ははっ! 頼むぞ!」
長吉は明美から紹介状を受け取ると、頭を下げた。
「行ってきます!」
「おう! 面白いものを見つけてこい!」
白瀬は、その背中を見送った。
かつて、田んぼの作り方を教わっていた少年。
今では、自分の足で新しい農業を探しに行く。
(……大きくなったな、長吉)
胸が、少し熱くなった。
そのとき。
「……白瀬」
澪が袖を引いた。
「ん?」
「長吉の成長を喜ぶのはよいが」
澪は、潮の高さを示す杭を指差した。
「そなたの仕事は、まだ始まっておらぬぞ」
「……あ」
白瀬が固まる。
明美が、くすりと笑った。
「あら。白瀬さんは、澪ちゃんがいないと仕事が始まらないのね」
「……!」
澪の頬が、ほんのり赤くなる。
「そ、そんなことはない!」
「そうかしら?」
明美は微笑む。
「十三年も一緒なら、何でも分かるんでしょう?」
澪は、少しだけ胸を張った。
「……少なくとも、この男が飯を忘れる頃合いは分かる」
「あら。それは私も覚えておかなくちゃ」
「……明美」
「何?」
「そなた、何を企んでおる?」
「ふふっ。内緒」
白瀬は、首を傾げた。
「……何の話だ?」
二人のため息が、見事に重なった。
◇ ◇ ◇
「さて、始めるか!」
白瀬は、健太が用意した竹竿を受け取った。
節の間には、一定の間隔で印が刻まれている。
その隣には、石の重りを結びつけた縄。
源太は小舟を用意し、地元の船頭たちと潮の具合を確かめていた。
「先生、こっちの竹は浅かところ用です。深かところは縄で測ります!」
「いいぞ、健太!」
白瀬は満面の笑みを浮かべた。
「しかし、ここで問題だ!」
「……問題?」
「海の深さは、どうやって測る?」
健太が首を傾げる。
「竹ば入れて、底までの深さば測るとでしょう?」
「そうだ。じゃあ、今測った場所を、昼過ぎにもう一度測ったら?」
「……同じ深さでしょう?」
「本当に?」
健太は考え込んだ。
やがて。
「あっ!」
手を打った。
「潮が満ちたら、深うなります!」
「正解!」
白瀬は嬉しそうに笑った。
「そう! 海面は動く! だから、今の海面から測った深さだけじゃ、海底の高さを比べられないんだ!」
「……なるほど!」
「そこで!」
白瀬は浜辺の杭を指差した。
「潮の高さも、時刻と一緒に記録する。同じ基準に直してから比べれば、海の底の形が分かる!」
健太の目が輝いた。
「……海の底の地図ば作るとですね!」
「そういうこと!」
白瀬は拳を握った。
「目に見えない海の底を、一枚の絵図にするんだ!」
「面白かですねえ!」
「だろう!」
二人は顔を見合わせて笑った。
石工の親方が、呆れたように呟く。
「……深さば測るだけで、ようそがん喜べるもんじゃ」
白瀬が振り向いた。
「親方!」
「な、なんじゃ?」
「測量って、最高なんですよ!」
「……はあ?」
「何にも見えなかった場所が、数字と線で見えてくる! ここに石を積めるか、どこに水が流れるか、どうすれば崩れないか! 全部の始まりが測量なんです!」
白瀬は海を指差した。
「そして、その数字が間違っていたら、どんな立派な石工の腕も生かせない!」
親方の表情が変わった。
「……ほう」
「だから、親方の仕事を無駄にしないためにも、しっかり測りたいんです!」
しばらくの沈黙。
やがて、親方はにやりと笑った。
「……言うじゃなかか」
「え?」
「よか。なら、わしらも本気で付き合おう」
白瀬は、嬉しそうに頭を下げた。
「お願いします!」
◇ ◇ ◇
測量が始まった。
竹竿を下ろす。
縄を垂らす。
重りが海底に触れたら、深さを読む。
場所を変えて、また測る。
一見すれば、地味な作業だった。
だが、白瀬にとっては宝探しも同然だった。
「おおっ!」
また声が上がる。
「ここ、さっきよりずっと浅い!」
「本当ですね!」
「しかも底が硬い!」
竹竿を押し込んでも、ほとんど沈まない。
「いいぞ! こういう場所を探してたんだ!」
ところが。
少し離れた場所では。
ずぶり。
「……ん?」
竹竿が沈んだ。
さらに押すと、また沈む。
ずぶ、ずぶ、ずぶ。
「……おお?」
白瀬の目が、ますます輝いた。
「健太! これを見てくれ!」
「先生?」
「泥が柔らかい!」
「……はい?」
「ほら! こんなに沈む!」
白瀬は嬉しそうに竹竿を抜き差しした。
「すごいな! ほんの少し場所が違うだけで、こんなに変わるのか!」
健太が苦笑する。
「先生……喜んでよかことですか?」
「よくない!」
即答だった。
「石を積んだら沈むかもしれない! 大問題だ!」
「ですよね!」
「でも、だから面白い!」
健太は頭を抱えた。
「先生は、本当に土木の話になるとおかしか人ですね……」
すると。
「待たんね!」
石工の親方が声を上げた。
「その泥、底まで全部柔らかかとは限らんぞ」
「……え?」
「上に泥が溜まっとるだけかもしれん。下が固かこともある。逆もある」
白瀬は目を見開いた。
「……なるほど!」
「竿一本の手応えだけで決めたら、痛か目に遭うぞ」
「おっしゃる通りです!」
白瀬は勢いよく頭を下げた。
親方が面食らう。
「……なんじゃ?」
「勉強になります!」
「……」
「親方! ぜひ、今までの石積みの話も聞かせてください!」
「……あんた、諫早では先生なんじゃろ?」
「ええ!」
「じゃあ、なんでそんなに喜んで人に教わる?」
白瀬は、きょとんとした。
そして笑った。
「だって、知らないことを知るのは面白いでしょう?」
親方は、しばらく白瀬を見つめていた。
やがて。
「……はっはっは!」
大きな笑い声を上げた。
「気に入った! よか、教えてやろう!」
白瀬も笑った。
土木の世界に、偉いも偉くないもない。
経験のある者は、経験を語る。
知らない者は、素直に学ぶ。
そして、互いの知恵を合わせる。
それだけだ。
良いものを造りたい。
その思いがあれば、初めて会った職人とも話が弾む。
「親方! 次はあそこの底を調べましょう!」
「おう! じゃが先生、潮ば見とけよ!」
「もちろん!」
白瀬は満面の笑みだった。
◇ ◇ ◇
その頃。
長崎の町を歩いていた長吉は、一軒の商家の前で足を止めていた。
「……ここか」
明美に紹介された、珍しい品を扱う商人の店。
表には見慣れた米俵や乾物が積まれていたが、奥には見知らぬ木箱が並んでいる。
「ごめんくださーい!」
長吉が声をかける。
店の奥から、年配の商人が姿を現した。
「はいよ。何か用かね?」
「鈴建華さんの紹介で来ました! 珍しか作物ば見せてもらいたかとです!」
商人は、長吉をじろりと見た。
「……作物?」
「はい!」
「お前さん、百姓か?」
「はい! 諫早で田んぼと畑ば作っとります!」
長吉は胸を張った。
商人は、少し驚いた顔をした。
そして、ふっと笑う。
「……なるほど。鈴殿が寄越すだけのことはある」
商人は奥へ引っ込み、やがて小さな籠を持って戻ってきた。
「なら、これを見てみるか」
籠の中には、土のついた小さな塊がいくつか入っていた。
丸く、でこぼこしている。
ところどころに、小さな芽のようなものが見えた。
「……何ね、これ?」
長吉が首を傾げる。
「芋じゃ」
「……芋?」
「ジャガタラから伝わった芋と聞いとる。珍しか品じゃぞ」
「ジャガタラ……?」
長吉は、そっと一つを手に取った。
見た目は、里芋とも山芋とも違う。
だが、芋だというなら。
「……これ、植えたら増えるとですか?」
商人が笑った。
「そりゃ、うまく育てば増えるじゃろうな」
「……!」
長吉の目が輝いた。
「どがん土がよかとですか?」
「さあのう」
「水はどのくらい要るとですか?」
「そこまでは……」
「いつ植えて、いつ掘るとですか?」
「……お、おい」
「肥やしは? 日当たりは?」
商人は、とうとう吹き出した。
「はっはっは! お前さん、芋一つでようそがん聞けるのう!」
長吉は、真剣だった。
「だって、知らん作物でしょう?」
「……ああ」
「知らん作物は、育て方ば調べんといかんです!」
長吉は、小さな芋を見つめた。
諫早の田んぼは豊かになった。
米だけでなく、野菜も育つようになった。
だが、まだまだ足りない。
もっと多くの作物を育てたい。
どんな土地でも、どんな季節でも、何かしら食べ物が採れるようにしたい。
それが、長吉の夢だった。
「……これ、少し分けてもらえんですか?」
商人は腕を組んだ。
「安うはなかぞ」
「……分かっとります」
長吉は懐から銭を取り出した。
「おいが、試してみたかとです」
商人は、長吉の顔を見つめた。
やがて、小さくうなずく。
「……よか。芽の出とるものを少し分けてやろう」
「本当ですか!」
「ああ。ただし、うまく育つとは限らんぞ」
「分かっとります!」
長吉は、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます!」
そして、芋を大切そうに布で包んだ。
そのとき。
「そういや……」
商人が、ふと思い出したように呟いた。
「平戸には、昔、琉球から持ち込まれた甘か芋を植えた異国人がおったそうじゃ」
「……甘か芋?」
長吉が顔を上げる。
「唐芋とも、琉球芋とも聞くのう」
「……甘かとですか?」
「そうらしい」
「……!」
長吉は、身を乗り出した。
「そいは、どこに行けば手に入るとですか!?」
商人が、また笑った。
「お前さん、欲張りじゃのう!」
「欲張りでよかです!」
長吉は、真剣な顔で言った。
「諫早のみんなに、もっといろんなもんば食べさせたかとです!」
商人は、その言葉に目を細めた。
「……そうか」
しばらく考えてから、ゆっくり口を開く。
「平戸の古い商い仲間に、聞いてみよう」
「……!」
「手に入るかは分からん。昔の話じゃけんな」
「それでもよかです!」
長吉は、何度も頭を下げた。
店を出たとき。
懐には、小さな芋があった。
そして胸の中には、それよりずっと大きな夢があった。
(……諫早に帰ったら、試してみよう)
(もっと、もっと、いろんな作物ば育ててみせる!)
長吉は、足早に港へ向かった。
◇ ◇ ◇
その頃、出島の築造予定地では、別の問題が起きていた。
「……そりゃ困る!」
船頭の一人が、声を荒らげていた。
「そこに杭ば打たれたら、舟ば寄せられん!」
一方、人足たちにも言い分があった。
「ばってん、ここに目印ば置かんと、石ば据える場所が分からんじゃろう!」
「じゃけん、舟の通り道は空けてくれと言うとる!」
「そがんこと言うても……!」
互いに譲らない。
声が、次第に大きくなっていく。
そこへ。
「ちょっと、ちょっと!」
元気な声が割って入った。
小春だった。
長吉を商家へ案内してから、港へ戻ってきたのだ。
「何ば揉めよっとですか?」
船頭が振り向く。
「……ああ、さっきの娘か」
「はい! 小春です!」
にっこり笑う。
「どがんしたとですか?」
船頭が事情を説明する。
小春は、黙って最後まで聞いた。
それから、人足たちの話も聞いた。
「……なるほど!」
ぱん、と手を打つ。
「つまり、どっちも困っとるとですね!」
「……ん?」
「石ば据えるには目印が要る。ばってん、舟も通らんば困る」
「……そうじゃ」
小春は笑った。
「そしたら、両方できる場所ば探しましょう!」
船頭が首を傾げた。
「そがん簡単に言うばってん……」
「先生ーっ!」
小春は、大きく手を振った。
「ちょっと来てくれんですか!」
白瀬が駆け寄る。
事情を聞いて、すぐにうなずいた。
「なるほど。舟の通り道を塞ぐわけにはいかないな」
「そうでしょう?」
「だったら、岸に置いた目印を使って、舟の位置を見通せるようにしよう。水の中に打つ杭は、必要な場所だけにする」
小春は、にっこり笑った。
「ほら! 先生もこう言いよらす!」
そして、船頭に向き直る。
「親方さん。舟ば通すなら、どこがよかですか?」
「……そりゃ、この筋じゃな」
「じゃあ、そこは空けましょう!」
今度は人足たちへ。
「こっちに目印ば移したら、困ることあります?」
「……いや、それなら何とかなる」
「決まり!」
小春は、満面の笑みを浮かべた。
「ほら! みんなで考えたら、ちゃんとできるでしょう!」
船頭も、人足たちも、思わず笑ってしまった。
「……かなわん娘じゃのう」
「へへっ!」
小春は胸を張った。
白瀬は、その姿を見つめていた。
(……すごいな)
自分は、測量の方法を考えた。
だが、その前に。
争っていた人々の話を聞き、同じ場所に立たせたのは小春だった。
技術だけでは、人は動かない。
人が動かなければ、技術も役に立たない。
(……小春)
(お前、本当にいい仕事をするようになったな)
そんな白瀬の視線に気づき、小春が笑った。
「先生!」
「ん?」
「うち、ちゃんと役に立っとるでしょう?」
白瀬は、満面の笑みで答えた。
「ああ! 最高だ!」
「やったあ!」
小春の笑い声が、長崎の港に響いた。
◇ ◇ ◇
だが。
海は、そう簡単には答えをくれなかった。
「……おかしか」
ガタ吉が、水中から顔を出した。
「白瀬!」
「どうした?」
「こっちの流れ、変じゃ!」
「流れ?」
ガタ吉が水面を叩いた。
「上は静かに見えるばってん、下の方で水が横に引っ張りよる!」
白瀬は、表情を引き締めた。
「……何?」
そのとき。
「白瀬!」
澪の声が響いた。
振り向くと、澪は浜辺に膝をつき、水面をじっと見つめていた。
その表情は、いつもの穏やかなものではない。
「……ここじゃ」
「澪?」
「この辺り、水が急いでおる」
白瀬は駆け寄った。
「……どういうことだ?」
澪は、海を指差した。
「潮が満ちるとき、浅瀬と浅瀬の間を、水が抜けようとしておる」
「……!」
「そこだけ、流れが速い」
白瀬は、はっとした。
海面だけ見ていても分からない。
だが、浅瀬と浅瀬の間を水が通るなら、そこに流れが集中してもおかしくない。
「……なるほど!」
白瀬の目が輝いた。
「澪! そこだ!」
「……?」
「そこに石を積んだら、流れが変わる! 別の場所に水が集中するかもしれない!」
白瀬は、さらに興奮し始めた。
「つまり、島の形だけじゃなくて、島を造った後の潮の通り道まで考えなきゃいけないんだ!」
澪は、静かにうなずいた。
「そうじゃ」
「……すごいぞ、澪!」
「何がじゃ?」
「お前がいてくれて、本当によかった!」
「……っ!」
澪は、一瞬、言葉を失った。
白瀬は、まるで気づいていない。
「健太! あの辺りの流れを記録しよう!」
「はい!」
「源太! 船頭さんに潮が返る時間を聞いてくれ!」
「分かりました!」
「ガタ吉! 無理のない範囲で、水の下の様子を見てくれ!」
「おう!」
皆が動き始める。
だが、澪だけは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
(……まったく)
頬が熱い。
(あの男は、何も分かっておらぬ)
けれど。
(……わたしも、そなたと共におれてよかった)
胸の奥に、小さな温かさが広がっていた。
◇ ◇ ◇
やがて。
「……まずいな」
白瀬が、測量の縄を見つめた。
さっきより、明らかに流され方が強い。
「健太! 縄を上げろ!」
「はい!」
「源太! 舟を岸へ!」
「分かりました!」
源太が、船頭たちに声をかける。
しかし、そのとき。
「うわっ!」
人足の一人が、足を滑らせた。
「危なか!」
ガタ吉が、水中から飛び出す。
だが、その前に。
「動くな!」
石工の親方が叫んだ。
近くの者が縄を差し出し、人足を支える。
源太が舟を寄せた。
人足は、何とか足場を取り戻した。
「……助かった」
安堵の声が広がる。
白瀬は、深く息を吐いた。
そして、はっきりと言った。
「……今日の海上作業は、ここまでにしましょう」
健太が振り向く。
「先生、まだ測れてなかところが……」
「明日がある」
白瀬は、静かに答えた。
「無理をして人を失えば、何も残らない」
その言葉に、皆の表情が変わった。
白瀬の脳裏には、古い記憶がよぎっていた。
崩れ落ちた堤。
濁流。
叫び声。
そして。
――弥助と岩蔵。
もう二度と、あの二人には会えない。
「……島は、明日でも造れる」
白瀬は、海を見つめた。
「でも、命は取り戻せない」
誰もが、黙ってうなずいた。
澪が、そっと白瀬の隣に立った。
「……そうじゃな」
白瀬は、小さく笑った。
「……ありがとう、澪」
「礼などいらぬ」
澪は、静かに答えた。
「わたしも、あの二人を忘れてはおらぬ」
ガタ吉も、うなずいた。
「……おいもじゃ」
三人は、しばらく海を見つめていた。
やがて白瀬が、顔を上げた。
「よし! 岸で今日の結果をまとめよう!」
その声には、もう迷いはなかった。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。
浜辺には、測量の結果をまとめた絵図が広げられていた。
白瀬が竹筆で線を引く。
「ここが浅い。こっちは深い。そして、この辺りは泥が柔らかい」
健太が印をつける。
「こっちの方は、石が据わりやすそうですね」
「まだ決めつけるのは早い。でも、調べる順番は見えてきた」
源太が潮の記録を指差した。
「この時間は舟ば入れやすか。ばってん、潮が返ったら危なかです」
「いいぞ!」
白瀬は、うなずいた。
「全部、必要な情報だ」
そこで、石工の親方が言った。
「先生。そもそも、諫早では海ば締め切って田んぼにしたそうじゃな?」
「ええ」
「なら、今回も同じやり方でよかろう?」
白瀬は、首を横に振った。
「いえ。そこが違うんです」
親方が眉を上げる。
白瀬は、絵図を指差した。
「諫早では、海を堤で締め切って、その内側の水を抜き、田んぼにしました」
「ふむ」
「でも、今回造るのは島です。周りは海のままにする。満ちれば波が当たるし、引けば海底が顔を出す」
「……なるほど」
「しかも、舟が通る場所も守らなきゃいけない。島ができたせいで港が使いにくくなったら、本末転倒です」
親方は、腕を組んだ。
白瀬は続けた。
「諫早では、海から土地を借りました」
一呼吸置く。
「今度は、海の中に新しい土地を置かせてもらうんです」
澪が、その言葉に顔を上げた。
十三年前。
まだ何もない干潟を前に、白瀬が語った言葉。
――海と喧嘩するな。
――海に相談しろ。
それが今、長崎の海でも生きている。
「……白瀬」
澪が微笑んだ。
「何だ?」
「そなたは、やはり変わらぬな」
「そうか?」
「ああ」
澪は、海を見つめた。
「じゃが、昔より少しだけ、海の話を聞くのが上手くなった」
白瀬は、照れくさそうに笑った。
「……水守先生のおかげですよ」
「ふふ。ようやく分かったか」
ガタ吉が割って入る。
「おいのおかげも忘れんでほしかばい!」
「もちろん!」
白瀬が笑う。
「ガタ吉先生にも、感謝しております!」
「おう! 分かればよか!」
笑い声が広がった。
◇ ◇ ◇
その頃。
明美もまた、別の仕事を進めていた。
「……なるほどね」
彼女は、港の船頭たちから話を聞いていた。
白瀬たちが測量に夢中になっている間に、人足の休み時間や、舟の手配について尋ねていたのだ。
「この時間になると、皆さん、食事のために仕事場を離れるのね?」
「そりゃ、腹も減るけんのう」
「それに、潮の具合もあるでしょう?」
「そうじゃ。潮がよか時間でも、人足が揃わんことがある」
明美は、少し考えた。
そして、にっこり笑った。
「……だったら、ちょうどいいわ」
「……何がじゃ?」
「お腹が空いた人を、わざわざ町まで歩かせることはないでしょう?」
その日の昼過ぎ。
白瀬たちが一息ついていると、明謝楼の者たちが食事を運んできた。
大きな籠。
湯気の立つ椀。
炊きたての飯。
そして、温かい汁物。
「……おおっ!」
ガタ吉が目を輝かせた。
「飯じゃーっ!」
「ガタ吉! まだだ!」
白瀬が襟首をつかむ。
明美は笑った。
「今日は、みんなで食べましょう」
「……みんな?」
「ええ。諫早の皆さんだけじゃないわ」
明美が指差した先には、地元の石工、船頭、人足たちがいた。
「この島を造る人たち、みんな」
白瀬は、目を丸くした。
「……明美」
「何?」
「……すごいな」
明美は、少し得意げに笑った。
「でしょう?」
「……どうやって?」
「父さんに頼んだの。もちろん、店の仕事を放り出してきたわけじゃないわよ」
明美は、片目をつぶった。
「食事を届けるのだって、商いになるでしょう?」
白瀬は、思わず笑った。
「……なるほど!」
「それにね」
明美は、少し声を落とした。
「一緒にご飯を食べれば、知らない人同士でも話ができるもの」
白瀬は、はっとした。
見れば。
先ほどまで互いに距離を置いていた諫早の者と長崎の者が、同じ場所に座っている。
石工が健太に道具の話をしている。
源太は船頭と潮の話をしている。
小春は、すでに人足たちの輪の真ん中で笑っていた。
白瀬は、思わず明美を見た。
「……これも、考えてたのか?」
明美は微笑んだ。
「白瀬さんが島を造るなら、私は人と人の間に橋を架けたいの」
その言葉に、白瀬は胸を打たれた。
「……ありがとう、明美」
明美の表情が、ふっと柔らかくなる。
「……どういたしまして」
そのときだった。
「……明美」
澪が、いつの間にか隣に立っていた。
「何かしら?」
「……よい仕事じゃ」
明美は、少し驚いた。
「……え?」
「そなたのおかげで、皆が笑っておる」
澪は、静かに微笑んだ。
「白瀬は、ああして人が集まることを何より喜ぶ男じゃ」
明美は、しばらく澪を見つめていた。
そして。
「……ありがとう、澪ちゃん」
素直に答えた。
だが、次の瞬間。
明美は、にっこり笑った。
「……でも」
「……?」
「澪ちゃん。白瀬さんのこと、そんなによく知っているなら」
明美は、少し顔を近づけた。
「どうして、まだそんなに遠慮しているの?」
「……っ!」
澪の頬が、一気に赤くなる。
「な、何の話じゃ!」
「ふふっ。何の話でしょう?」
「……そなた!」
明美は、楽しそうに笑った。
「私だったら、好きな人には、ちゃんと言うけれど?」
「……!」
澪は、思わず言葉を失った。
だが、次の瞬間。
すっと背筋を伸ばした。
「……明美」
「何?」
「そなたは、白瀬の何を知っておる?」
明美が、目を瞬く。
澪は、静かに続けた。
「そなたが知らぬ白瀬を、わたしは知っておる」
「……」
「笑う顔も、怒る顔も、眠れぬ夜も」
澪は、海へ視線を向けた。
「……誰かを失って、泣くことすら忘れた顔も」
明美は、黙った。
澪の声は穏やかだった。
けれど、その言葉には十三年の重みがあった。
「……そうね」
明美は、静かにうなずいた。
「それは、私にはないものだわ」
澪は、少しだけ目を伏せた。
そのとき。
明美が、ふっと笑った。
「……でも、澪ちゃん」
「……?」
「だからって、私が諦める理由にはならないでしょう?」
澪が、ぱっと顔を上げた。
明美は、にっこり笑っていた。
「十三年分の思い出には勝てなくても、明日からの思い出なら、まだ間に合うもの」
「……っ!」
澪は、思わず明美を睨んだ。
だが、明美は少しもひるまない。
やがて。
「……そなたも、なかなか強情じゃな」
「澪ちゃんほどじゃないわ」
二人は、しばらく見つめ合った。
そして。
ふふっ。
同時に笑った。
少し離れたところで、ガタ吉が飯を頬張りながら呟いた。
「……怖か」
小春が隣で笑う。
「ガタ吉、何が?」
「……あの二人たい」
「仲良かでしょう?」
「……仲良かけん、怖かとばい」
小春は、二人を見比べた。
そして、にやりと笑った。
「……なるほどねえ」
ガタ吉が目を細める。
「……お前まで何ば企みよっとか?」
「さあ?」
小春は、何でもない顔で笑った。
◇ ◇ ◇
午後。
白瀬たちは、岸で今日の測量結果をもとに、小さな試しの石積みについて話し合っていた。
「まずは、この辺りで試してみたいですね」
白瀬が絵図を指差す。
「実際に石を据えて、どれほど沈むか確かめるんです」
石工の親方がうなずく。
「小さか石で様子ば見るか」
「ええ。柴を束ねて下に敷く方法も考えられますが、流れで動かないか確かめたい」
「なら、まずは試しじゃな」
「そうです!」
白瀬の目が輝いた。
「小さく試して、記録して、駄目なら考え直す! それが一番です!」
健太まで前へ出た。
「先生! 石に印ばつけとけば、動いたかどうか分かりますよね!」
「おおっ! いいじゃないか!」
「しかも、石の横に目印ば置いとけば……!」
「健太! お前、天才か!」
「へへっ!」
親方は、二人を見比べた。
「……師弟揃って、妙な連中じゃのう」
だが、その顔は笑っていた。
「よか。わしらも知恵ば貸そう」
白瀬は、頭を下げた。
「お願いします!」
諫早の者と、長崎の者。
陸の仕事を知る者と、海の仕事を知る者。
それぞれの経験が、一枚の絵図の上で重なり始めていた。
白瀬は、ふと顔を上げた。
目の前には、まだ島のない海が広がっている。
(……出島)
(俺が知ってる出島は、もう完成していた)
教科書には、扇形の島が載っていた。
江戸時代の長崎。
海外との交易。
歴史の中の、小さな人工島。
けれど。
そこには書かれていなかった。
誰が最初の石を据えたのか。
誰が泥の深さを測ったのか。
誰が潮に流されそうになりながら舟を操ったのか。
誰が石を担ぎ、縄を引き、汗を流したのか。
そして。
誰が、人と人をつなぎ、仕事を進めたのか。
(……そうか)
白瀬は、ようやく気づいた。
歴史の教科書には、完成したものが載る。
だが。
歴史を造っているのは、完成するまでの一日一日なんだ。
誰かが測った一本の竹竿。
誰かが運んだ一つの石。
誰かが考えた小さな工夫。
そして、誰かがつないだ人と人との縁。
その積み重ねが、やがて大きな島になる。
(俺は、そんな歴史の中にいるんだな)
白瀬は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
十三年前。
諫早の干潟で、最初の一本の杭を打った日。
何もなかった土地に、みんなで夢を描いた。
あの日と、同じだった。
違うのは。
今、自分の隣に、十三年を共に歩んだ仲間たちがいること。
そして、その仲間たちが、自分の知らないことまで教えてくれるようになったことだ。
「……白瀬」
澪が、そっと隣に立った。
「何を考えておる?」
白瀬は笑った。
「四百年後のこと」
「……また、未来の話か」
「ああ」
白瀬は絵図を指差した。
「この島は、俺の時代にも残ってる。もちろん、周りの景色はずいぶん変わってるけどな」
「ほう」
「たぶん、みんなが今日測ったことなんて、教科書には載らない」
澪は、黙って聞いていた。
「でもさ」
白瀬は海を見た。
「俺は、覚えておきたいんだ」
「……何をじゃ?」
「今日、みんなでここに立っていたこと」
白瀬は、ゆっくり笑った。
「教科書には載らない、今日のことを」
澪は、しばらく何も言わなかった。
やがて。
「……ならば、帳面に書き残せばよい」
「え?」
「そなたが、いつも申しておろう。忘れてはならぬことは、書き残せと」
白瀬は目を丸くした。
そして、声を上げて笑った。
「……ははっ! そうだった!」
「まったく。自分で教えたことも忘れるとは」
「いや、参ったな!」
白瀬は、帳面を開いた。
今日の日付。
潮の高さ。
測った場所。
海底の様子。
そして、今日の調査を手伝ってくれた人々の名。
白瀬は、しばらくその文字を見つめていた。
四百年後。
この帳面が残るかどうかは分からない。
けれど。
今、ここにいる者たちは確かに生きている。
歴史の中で。
同じ海を見つめ、同じ夢を追いかけている。
「……よし」
白瀬は、帳面を閉じた。
「明日も、続きをやろう」
澪が微笑む。
「ああ」
◇ ◇ ◇
夕暮れ。
長崎の港が、茜色に染まり始めた頃。
「白瀬先生ーっ!」
聞き慣れた声が響いた。
振り向くと、長吉が走ってきていた。
「先生! 先生!」
「おお、長吉!」
白瀬が笑う。
「どうだった? 面白いものは見つかったか?」
長吉は、息を切らしながらうなずいた。
「……見つかりました!」
「おお!」
「……宝ば見つけました!」
白瀬は、思わず笑った。
「宝?」
長吉は、懐から小さな布包みを取り出した。
そして、大切そうに開いた。
中に入っていたのは。
土のついた、小さな芋。
「……ん?」
白瀬の笑顔が止まった。
長吉は、得意げに胸を張った。
「ジャガタラから来た芋だそうです!」
「……ジャガタラ?」
「はい! 珍しか芋でしょう?」
白瀬は、そっと手に取った。
でこぼこした形。
小さなくぼみ。
そして、芽。
「……おい」
「はい!」
「これ、どこで見つけた?」
「明美お師匠様の紹介してくれた商人さんから、分けてもろうたとです!」
白瀬は、まじまじと芋を見つめた。
そして。
「……ジャガイモじゃないか!」
長吉が目を丸くした。
「先生、知っとるとですか!?」
「知ってるとも!」
白瀬の目が、再び輝き始めた。
「おいおいおい! こいつがもう長崎に来てたのか!」
「……先生?」
「すごいぞ、長吉!」
白瀬は、長吉の肩をつかんだ。
「これがうまく育てば、諫早の食べ物の種類を、もっと増やせるかもしれない!」
長吉の顔が、ぱっと輝いた。
「本当ですか!」
「ああ! ただし、最初は少しずつだ。土が合うか、病気が出ないか、育て方を確かめないとな!」
「はい!」
「それと、芽や緑になったところは食べちゃ駄目だぞ。毒があるんだ」
「……毒!?」
長吉は、慌てて芋を見つめた。
白瀬が笑う。
「大丈夫だ。育て方と食べ方を覚えれば、役に立つ作物だよ」
長吉は、ほっと息を吐いた。
そして。
「……先生!」
「ん?」
「もう一つ、面白か話ば聞いてきました!」
「……ほう?」
「平戸には、琉球から来た甘か芋ば育てた人がおったそうです!」
白瀬の目が、さらに輝いた。
「……甘い芋?」
「はい! 唐芋って呼ぶそうです!」
「……!」
白瀬は、思わず長吉の肩をつかみ直した。
「長吉!」
「は、はい!」
「そいつも、すげえぞ!」
「……本当ですか!」
「ああ!」
白瀬は、満面の笑みを浮かべた。
「もし種や苗が手に入るなら、ぜひ育ててみたいな!」
長吉は、力強くうなずいた。
「おい、絶対に探してみせます!」
白瀬は笑った。
今朝は、自分が教科書に載る出島に興奮していた。
そして今。
長吉は、たった一個の芋に目を輝かせている。
(……いいなあ)
(こいつも、自分の夢を見つけたんだな)
白瀬は、そっと長吉の肩を叩いた。
「……頼んだぞ、長吉」
「はい!」
その声は、十三年前の少年のものではなかった。
一人の農業家としての、自信に満ちた声だった。
◇ ◇ ◇
日が沈む頃。
白瀬は、もう一度だけ築島の絵図を広げた。
扇の形。
まだ、紙の上にしか存在しない島。
その絵図の横には、今日測った海の底の様子が描かれている。
浅い場所。
深い場所。
柔らかな泥。
締まった砂。
潮の流れ。
石を据えるために、さらに調べなければならない場所。
白瀬は、そっと絵図に手を置いた。
(……出島)
(本当に、俺たちが造るんだな)
そのとき。
「……白瀬さん」
明美が、隣に立った。
「ん?」
「その帳面、いつか誰かが読むかもしれないわね」
白瀬は笑った。
「そうだな」
明美は微笑んだ。
「だったら、今日のこと、ちゃんと書いておいてね」
「……何を?」
「みんなで頑張ったこと」
そして、少しだけ声を落とした。
「……私も、ここにいたこと」
白瀬は、しばらく明美を見つめた。
そして、うなずいた。
「ああ。もちろん」
明美の顔が、ぱっと明るくなる。
その横で。
「……明美」
澪が、静かに口を開いた。
「何かしら?」
「……その帳面なら、わたしも書き加えておる」
「……あら」
明美が目を瞬く。
澪は、少しだけ得意げに微笑んだ。
「白瀬が忘れておることも、わたしは覚えておるゆえな」
「……ふふっ」
明美も笑った。
「さすが、十三年ね」
「……そうじゃ」
「でも」
明美は、にっこり笑った。
「これからは、私のことも書き加えてもらうわ」
澪は、しばらく明美を見つめていた。
やがて。
「……好きにするがよい」
そう答えた。
けれど、その声は、ほんの少しだけ悔しそうだった。
白瀬は、首を傾げた。
「……何の話だ?」
二人のため息が、見事に重なった。
「……白瀬さん」
「……そなたという男は」
ガタ吉が、少し離れたところで腹を抱えて笑っている。
「わはははっ! やっぱり女子の心は測れんとたい!」
「……何だよ、それ!」
また、笑い声が広がった。
◇ ◇ ◇
そのときだった。
「白瀬先生!」
おたえが、勢いよく駆け寄ってきた。
手には、別の帳面。
しかも、何やら難しい顔をしている。
「先生。ちょっと、よかですか」
「どうした?」
「今日の普請、面白かったです」
「おお!」
「海の底ば調べて、石ば据える場所ば考えて。これから立派な島ができるって考えたら、うちもワクワクしてきました」
白瀬は、嬉しくなった。
「そうだろう!」
「ばってん」
おたえは、ぴたりと笑うのをやめた。
「……先生」
「ん?」
「この島、誰の銭で造るとですか?」
「…………」
白瀬の笑顔が止まった。
おたえは、帳面を開く。
「石が要る。土が要る。舟が要る。人足も要る。今日の測量だけでも銭がかかっとるとですよ?」
「……うん」
「しかも、二年がかりの大普請でしょう?」
「……そうだな」
「先生」
おたえは、じっと白瀬を見つめた。
「まさか、面白かけんって、銭のことば忘れとったわけじゃなかでしょうね?」
「…………」
白瀬は、そっと目を逸らした。
「……いや、その」
「先生!」
「はい!」
澪が吹き出した。
明美も、口元を押さえて笑っている。
小春まで、にやにやしていた。
「先生、また怒られよる!」
ガタ吉は、腹を抱えて笑っている。
「わはははっ! 白瀬! 海の底ば測る前に、財布の底ば測らんばいかんやったな!」
「うるさい!」
そこへ、明美の父、鈴建華が姿を現した。
「皆さん。ちょうど、そのお話をしようと思っておりました」
「建華さん?」
建華は、白瀬たちに向かって静かに言った。
「この築島には、長崎の有力な町人たちが銭を出すことになっております」
おたえの目が輝いた。
「……町人が?」
「はい」
「何人ですか?」
「二十五人でございます」
おたえは、ゆっくりと帳面を閉じた。
「……二十五人」
そして。
にやり。
商人の顔になった。
「なるほど……」
白瀬は、その笑顔を見て嫌な予感を覚えた。
「……おたえ?」
「先生」
「……何だ?」
「明日から、うちも本気で働かせてもらいます」
建華が、少し驚いた顔をする。
「ほう?」
おたえは胸を張った。
「海の底は先生たちに任せます!」
そして、大きな声で言った。
「二十五人の財布は、うちが見せてもらいますけん!」
小春が、ぴょんと跳ねた。
「おたえ! うちも行くばい!」
「……小春?」
「二十五人もおるとでしょう? まず、みんなと仲良うならんば!」
おたえは、ぽかんとした。
そして、にやりと笑った。
「……そいは、心強かね!」
明美も笑う。
「だったら、私も手伝うわ。父さんのお知り合いなら、紹介できる人もいるでしょうから」
「お師匠様!」
おたえの顔が輝いた。
「心強かです!」
白瀬は、三人を見比べた。
おたえの商才。
小春の人懐っこさ。
明美の、長崎で培った人脈。
(……ああ、そうか)
白瀬は、思わず笑った。
(俺が海のことに夢中になっている間に、こいつらはもう次のことを考えてるんだな)
そのとき、澪がそっと隣に立った。
「……白瀬」
「ん?」
「明日も、海へ行くのであろう?」
「ああ、もちろん!」
「ならば、今宵は早う休め」
「……え?」
「今日も、ろくに飯を食べておらぬ」
白瀬は、はっとした。
「……そういえば」
澪は、呆れたようにため息をつく。
「まったく。そなたは、土と石のことになると、何もかも忘れおる」
「……面目ない」
澪は、そっと笑った。
「……よい」
そして、静かに言った。
「そなたが夢を追うなら、わたしはその足元を見ておこう」
白瀬は、澪を見つめた。
「……澪」
「……何じゃ?」
「……ありがとう」
澪の頬が、ほんのり赤くなる。
「……礼など、いらぬ」
少し離れたところで、明美がその様子を見つめていた。
やがて、小さく微笑む。
「……やっぱり、手強いわね」
その声に、小春が振り向いた。
「明美お師匠様?」
「何でもないわ」
明美は、にっこり笑った。
「さあ、明日も忙しくなるわよ」
「はい!」
小春が、元気よく答えた。
長崎の夕空に、笑い声が広がる。
その向こうで。
まだ島のない海が、ゆっくりと夜の色に変わっていく。
やがて、この海に扇形の島が生まれる。
それは、何百年も後の教科書に載る島。
けれど、その島を造るのは、決して一人の男ではない。
土を知る者。
石を積む者。
水を読む者。
舟を操る者。
人をつなぐ者。
銭を動かす者。
そして、誰かの夢を、隣で支える者。
そのすべてが揃って初めて、歴史は動き始める。
白瀬は、もう一度だけ海を見た。
(……出島)
(さあ、面白くなってきたぞ)
潮風が、頬を撫でる。
歴史は、まだ完成していない。
だからこそ。
こんなにも、面白い。
※史実考証(公開本文外):出島の築造開始は1634年、完成は1636年。家光が扇を示したという逸話は伝承として作中に採用しています。ジャガイモの長崎伝来は1598年との記録があり、平戸では1615年に甘藷を栽培した記録が伝わります。白瀬たちの測量参加や長吉の商家訪問は創作です。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
今回の舞台は、あの有名な「出島」です。
出島は1634年に築造が始まり、1636年に完成しました。
扇形の由来には諸説ありますが、作中では三代将軍・徳川家光が扇を広げて形を示したという伝承を採用しています。
そして今回は、白瀬の土木オタクぶりを全開にしてみました(笑)。
海の底を測る者、潮を読む者、人をつなぐ者。
さらに長吉は、長崎で新たな農作物との出会いを果たします。
一人では造れないものも、仲間となら造れる。
そんな『海から百万石』らしさを感じていただけたら嬉しいです。
次回、第六十三普請「二十五人の財布」。
歴史に残る大普請も、銭がなければ始まらない!?
今度はおたえの商人魂が燃え上がります!
続きもお楽しみに!
参考:出島公式ホームページ
https://nagasakidejima.jp/




