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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第六十一普請 出島への呼び声

第八章「出島と、町を出る歌」開幕です!

諫早の海に挑み、田を造り、人を育ててきた白瀬たち。

今度の舞台は、異国の船が行き交う長崎。

新たな普請と、懐かしい人々との再会が待っています。

小さな島から始まる、大きな夢。

どうぞお楽しみください!

寛永十一年(一六三四年)、春。


諫早の田には若い緑が戻り、大川の水面には柔らかな日差しが揺れていた。


水学所の庭では、子どもたちが竹の棒を使って土地の広さを測っている。


「三間と二尺!」


「違うばい! そこ、もう一回測らんね!」


そんな賑やかな声が、朝から聞こえていた。


白瀬湊一は、縁側に腰を下ろし、一通の書状を見つめていた。


長崎の明謝楼から届いたものだ。


差出人は、唐商人の鈴建華。


そして、書状の末尾には、見覚えのある女性の筆跡が添えられている。


『白瀬さん。今度は長崎の海が、あなたを待っています。明美』


「……長崎の海、か」


白瀬は小さく呟いた。


十三年前。


この時代へ放り出された自分が、最初に見た有明海は、どこまでも遠く、恐ろしかった。


干潟に足を取られ、潮に追われ、何度も命を落としかけた。


弥助と岩蔵を失った。


それでも、仲間とともに堤を築き、田を造り、水路を掘った。


いまでは米が実り、魚が戻り、子どもたちが学び、長崎へ商いに出る。


そして今度は――。


「海の中に、島を造るのか」


白瀬の口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。


「……面白そうじゃないか」


「何が面白いのじゃ?」


背後から声がした。


振り向けば、澪が立っていた。


水守の少女だった頃と変わらぬ澄んだ眼差し。


けれど、十三年という歳月は、二人の間に言葉では説明できないものを積み重ねていた。


「長崎からの話だよ」


白瀬が書状を差し出す。


澪は受け取ると、ゆっくり目を通した。


「海の中に……島を?」


「ああ」


「おぬし、また海に喧嘩を売るつもりか」


「違う違う。今度は海と相談するんだ」


「それは、いつものことであろう」


澪は呆れたように言いながら、書状を返した。


そのとき。


「白瀬ーっ!」


庭の向こうから、濡れた足音が近づいてきた。


ガタ吉である。


両手に団子を握りしめ、口の周りにはきな粉がついていた。


「聞いたばい! 長崎に島ば造るとやろ!」


「お前、どこで聞いた?」


「おたえが言いよった!」


「情報が早いな……」


「島ば造るなら、おいも行くばい!」


「もちろんだ。水の中のことは、お前たちの力が必要だからな」


ガタ吉は満足そうに頷いた。


そして、ふと真顔になる。


「白瀬」


「なんだ?」


「今度は、誰も死なんごとせんばいかんぞ」


白瀬の笑みが止まった。


澪も静かにガタ吉を見る。


かつて、ガタ吉の父と兄も、水の事故で命を落としていた。


水を知り、水と生きる者だからこそ、その怖さを忘れない。


「ああ」


白瀬は頷いた。


「そのためにも、ちゃんと調べて、考えて、皆で造るんだ」


ガタ吉はにかっと笑った。


「なら、任せとけ!」


そして残っていた団子を、一口で頬張った。


「……ところで、それ何本目だ?」


「七本!」


「朝飯は?」


「食うた!」


「……元気だな、お前」


澪が吹き出した。


春の朝。


白瀬屋敷に、いつもの笑い声が響いた。


     ◇ ◇ ◇


「先生! おいも行くばい!」


水学所に五人を集めると、真っ先に声を上げたのは健太だった。


「海の中に島ば造るとやろ? どがんして石ば積むと? 波で流れんと?」


まだ詳しい話もしていないのに、目が輝いている。


白瀬は笑った。


「それを調べに行くんだよ」


「なら、測る道具も持っていかんば!」


健太はすでに頭の中で何かを組み立て始めていた。


その隣で、源太が腕を組む。


「先生。長崎の海は、有明とは違うばい」


「そうだな」


「潮の満ち引きも、舟の通り道も違う。石ば運ぶなら舟が要る。おいも行かんば」


「頼りにしてるよ」


すると、小春が勢いよく手を上げた。


「うちも!」


「小春は何をする?」


「長崎の人たちと話す!」


即答だった。


「唐の人もおるし、南蛮の人もおる。うち、もっと話せるごとなりたか!」


かつて言葉が通じず、身振り手振りで必死に気持ちを伝えていた少女。


明美や建華、そして千々石ミゲルから学んだことは、今では小春自身の力になっている。


「今度は、先生が知らんことも、うちが聞いてくるけん!」


白瀬は目を細めた。


「頼もしいな」


「当たり前たい!」


そこへ、おたえが帳面を抱えて割り込んできた。


「先生。島ば造るには、銭が要るとやろ?」


「そりゃあ、もちろん」


「石ば運ぶ舟賃、人足の日当、道具代。誰が払うと?」


「……おたえ」


「そこば決めんと、仕事は始められんばい」


白瀬は思わず苦笑した。


かつて、売れ残った干魚を前に『はがいかー!』と地団駄を踏んでいた少女が、今では立派に商人の顔をしている。


「詳しくは長崎で聞いてみよう。二十五人ほどの有力な町人たちが、銭を出し合う話らしい」


「二十五人!」


おたえの目が輝いた。


「そがん大勢で銭ば出すなら、揉めるに決まっとる!」


「……嬉しそうだな」


「嬉しかわけなか! 商いの勉強たい!」


どう見ても嬉しそうだった。


そして最後に、長吉が口を開いた。


「先生」


「ん?」


「おいは、まず田のことば考えたか」


白瀬は頷いた。


長吉は今や、諫早の農を支える一人である。


土づくりも、苗の育て方も、用水の管理も、若い農民たちに教える立場になっていた。


「長崎に行くなら、皆の食いもんばどうするか、考えとかんば」


「そうだな。人足が増えれば、飯も必要になる」


「それだけじゃなか」


長吉は胸を張った。


「おいが何日かおらんでも、田ば守れるように、もう皆に教えとる。帰ってきたら、長崎に米や野菜ば送る段取りも考えたか」


白瀬は、しばらく言葉を失った。


十三年前。


泥まみれになって走り回っていた子どもたち。


その五人が、今では自分の役目を知り、自分の頭で考えている。


「……お前ら」


「先生?」


「もう、俺があれこれ言う必要もないな」


健太が不思議そうな顔をした。


「何言いよっと、先生」


そして笑う。


「先生が教えてくれたとやろ。分からんことは、自分で考えて、皆で知恵ば出せって」


白瀬は笑った。


「ああ。そうだったな」


澪が、隣で静かに頷いていた。


「白瀬。よい子らに育ったの」


「俺だけの手柄じゃないよ」


「当然じゃ。わたしも、ガタ吉も、皆で育てたのじゃからな」


「そうだな」


白瀬は庭へ目を向けた。


水学所の向こうには、春の田が広がっている。


そこを造ったのは、自分一人ではない。


そして、これから先も。


もう、自分一人で造る必要はないのだ。


     ◇ ◇ ◇


諫早の城。


領主・諫早直孝は、白瀬たちの話を最後まで黙って聞いていた。


窓の外では、春の風が庭木を揺らしている。


「長崎の海に、島を築く……か」


直孝は、鈴建華の書状を机に置いた。


「まことに、大きな話になったものよ」


「はい」


「だが、湊一。ひとつ聞こう」


直孝の眼差しが鋭くなった。


「それは、諫早の仕事か?」


白瀬は一瞬、言葉に詰まった。


「……いいえ」


「ならば、なぜ我らが力を貸す?」


部屋に静けさが落ちた。


白瀬は、直孝の目を真っ直ぐに見た。


「長崎は、諫早の外にある町です。でも、海も川も、道も、商いも、つながっています」


直孝は黙っている。


「長崎で仕事が増えれば、舟が要ります。食糧も、材木も、道具も、人の手も要るでしょう」


「うむ」


「それを諫早から届けられる。逆に、長崎の人たちから、俺たちが知らない技や考え方を学ぶこともできます」


白瀬は少し笑った。


「何より……俺たちの知恵が、誰かの役に立つなら、試してみたいんです」


直孝はしばらく白瀬を見つめていた。


やがて、小さく笑う。


「変わらぬな、お主は」


「そうですか?」


「初めて会うた頃から、田を造ると言い、川を直すと言い、海に堤を築くと言い……」


直孝は指を折って数えた。


「今度は長崎に島か」


「……我ながら、少し働きすぎですかね」


「少し、ではないわ」


二人は声を上げて笑った。


だが、直孝はすぐに表情を引き締めた。


「ただし、忘れてはならぬことがある」


「はい」


「此度の普請は、幕府と長崎奉行の差配によるもの。諫早が勝手に取り仕切ってよい仕事ではない」


白瀬は頷いた。


「承知しています」


「本藩からも、新田の実りや水路について、なお問い合わせが続いておる」


第六十普請で、五人が帳面と実際の働きによって応えた検分。


それですべてが終わったわけではなかった。


諫早の公に定められた石高と、田から実際に収穫される米の量。


その違いを、どう説明し、どう領地経営に生かすのか。


これからも向き合わなければならない問題である。


「長崎への協力も、費用、役目、責任の所在を明らかにせねばならぬ」


直孝は続けた。


「そのうえで、御奉行所の差配に従うならば、わしは止めぬ」


「殿……!」


「行ってこい、湊一」


直孝は穏やかに笑った。


「諫早で得たものを、外の世界へ届けてこい」


白瀬は深々と頭を下げた。


「ありがとうございます」


「ただし!」


直孝が声を張り上げる。


「怪我などして戻るでないぞ。お主がおらねば、寂しがる者もおるでな」


その視線が、白瀬の隣に座る澪へ向いた。


「……殿?」


澪が眉をひそめた。


そこへ、奥方が待っていたように口を挟んだ。


「あら、本当にそうですこと」


「奥方様……?」


「長崎には美しい娘も多いと聞きます。白瀬殿、また縁談を持ち帰ってきたりなさらぬように」


「い、いや、そういう仕事じゃありませんから!」


「まあ。わたくしは、別に構いませんのよ?」


奥方は扇で口元を隠した。


「ただ、澪がどう思うかは、存じませんけれど」


「奥方様!」


澪の頬が赤くなる。


直孝は腹を抱えて笑い、白瀬は天井を仰いだ。


ガタ吉だけが、不思議そうに首を傾げていた。


「……なんで皆、笑いよっと?」


その場にいた誰も、すぐには答えられなかった。


     ◇ ◇ ◇


長崎への出立を翌日に控えた夜。


白瀬は自室で荷物をまとめていた。


測量の道具。


水路を書き留めた帳面。


健太たちと作った、普請の記録。


そして、湯江の紙に刷った『諫早手習い帳』。


「……こんなに持っていく必要、あるかな」


「必要なものは、必要であろう」


いつの間にか、澪が部屋の入口に立っていた。


手には、白瀬の羽織。


「ほれ」


「ん?」


「紐が緩んでおった。直しておいたぞ」


「ああ、ありがとう」


白瀬が受け取ろうとすると、澪はそのまま近づき、羽織を肩に掛けた。


そして、胸元の紐を結び直す。


白瀬は、少し戸惑った。


近い。


長く一緒に暮らしているというのに、こういうときだけ、妙に意識してしまう。


「……澪?」


「動くでない」


「あ、はい」


澪は真剣な顔で紐を整えた。


しばらくして、小さく口を開く。


「明美も、長崎で頑張っておるのであろうな」


「ああ。建華さんの店を手伝いながら、歌も続けているらしい」


「そうか」


「千代様も、また明美さんに歌を教わりたいって言ってたしな」


「うむ。あの二人も、よい師弟になったものじゃ」


澪の手が止まった。


「……白瀬」


「ん?」


「おぬしは、明美の歌が好きか?」


白瀬は少し考えた。


「ああ、好きだよ」


澪は黙った。


「明美さんの歌を聴くと、長崎の町が見えてくるような気がするんだ。人が笑って、働いて、いろんな国の人が行き交って……」


「……そうか」


「澪も好きだろ?」


「……嫌いではない」


また、沈黙。


白瀬は首を傾げた。


「どうした?」


「何でもない」


澪は紐を結び終えると、一歩下がった。


「おぬしは昔から、そういう男じゃ」


「どういう男?」


「知らぬ!」


「ええっ?」


澪は顔を背けた。


けれど、その頬は、ほんのり赤かった。


白瀬は困ったように笑う。


「……澪」


「なんじゃ」


「明美さんの歌も好きだけどさ」


澪の肩が、わずかに動いた。


「俺は、やっぱりお前が隣にいてくれると安心するよ」


「…………」


「長崎でも、頼りにしてる」


澪は、しばらく何も言わなかった。


そして。


「……まったく」


小さく息を吐いた。


「そういうことを、何の気なしに言うでない」


「え?」


「何でもないと言うておろう!」


白瀬はますます分からなくなった。


その様子を、廊下の陰から覗いている者がいた。


ガタ吉である。


「……白瀬」


小声で呟く。


「お前、四十になっても、まだ分からんとか……」


隣で聞いていた小春が、そっと頷いた。


「うちも、ちょっと気の毒になってきたばい」


「どっちが?」


「……澪様が」


二人は顔を見合わせ、深々とため息をついた。


     ◇ ◇ ◇


翌朝。


諫早を出立する一行を、村人たちが見送っていた。


「先生! 長崎でも頑張ってこんね!」


「健太! 変なもんば造ってくるなよ!」


「おたえ! 銭ば落とすなよ!」


「小春! 知らん人について行ったらいかんばい!」


「うちは子どもじゃなか!」


笑い声が上がる。


長吉の妻も、源太の妻も、それぞれの夫を見送っていた。


かつての少年たちは、もう家族を持ち、暮らしを守る大人になっている。


それでも、新しい仕事へ向かう顔は、あの頃と少しも変わらなかった。


白瀬は振り返る。


広がる田。


大川の堤。


水学所。


そして、いつもと変わらず手を振る人々。


「……行ってきます」


小さく呟いた。


澪が隣へ並ぶ。


「白瀬。何を見ておる」


「いや……十三年前は、ここに何もなかったなって」


「何もなかったわけではあるまい」


「ああ。そうだった」


白瀬は頷いた。


「海も、川も、村も、人も、最初からあった」


「うむ」


「俺たちは、そこに少し手を貸しただけなんだな」


澪は微笑んだ。


「ようやく分かったか」


「はは。まだ勉強中だよ」


「ならば、これからも学べばよい」


そう言って、澪は歩き出す。


「わたしも一緒に、学んでやる」


白瀬は、その後ろ姿を見つめた。


そして、慌てて追いかけた。


     ◇ ◇ ◇


長崎への道は、春の光に包まれていた。


矢上を過ぎ、日見峠へ向かう。


山道には旅人が行き交い、荷を背負った馬が鈴を鳴らして歩いている。


遠くから聞こえる鳥の声。


道端に咲く小さな花。


風には、かすかに海の匂いが混じっていた。


「先生!」


健太が坂の途中で振り返った。


「長崎に着いたら、まずどこへ行くと?」


「明謝楼だな。建華さんに話を聞かないと」


「そのあと?」


「現場を見たい」


「やっぱり!」


健太は笑った。


「おいも、早う見たか!」


源太も頷く。


「舟の通り道ば、しっかり見とかんば」


おたえは帳面を開いたまま歩いている。


「石をどこから運ぶか、人足は何人いるか……」


「おたえ、前見て歩けよ」


「分かっとる!」


その直後。


「あいたっ!」


小石につまずいた。


「だから言っただろ!」


皆が笑った。


小春は前を歩く旅人に声をかけ、長崎の近頃の様子を聞いている。


長吉は、道沿いの畑を見ながら何やら考え込んでいた。


「ここん土は、諫早とはちょっと違うのう……」


「長吉、仕事は長崎に着いてからにしろよ」


「先生こそ、もう仕事の顔になっとるばい」


白瀬は苦笑した。


言われてみれば、その通りだった。


十三年前。


初めて長崎へ商いに来た頃、皆は不安と期待でいっぱいだった。


今は違う。


それぞれが、自分の得意なことを持っている。


誰かに言われなくても、何をすべきか考えている。


「……本当に、立派になったな」


白瀬が呟くと、澪が隣で笑った。


「今さら何を申す」


「いや、嬉しくてさ」


「ならば、ちゃんと伝えてやればよい」


「そうだな」


「それに……」


澪は少しだけ声を落とした。


「子らばかり見ておらず、たまには隣も見よ」


「え?」


白瀬が振り向く。


澪は、すでに前を向いていた。


春風が、その髪をそっと揺らしていた。


「……何でもない」


白瀬は首を傾げた。


その背後で、ガタ吉が呟く。


「……長崎までに気づくとやろか」


小春が答えた。


「うちは無理やと思う」


「おいも」


二人はまた、深々とため息をついた。


     ◇ ◇ ◇


峠を越えると、長崎の港が見えてきた。


「……おお!」


健太が声を上げる。


眼下には、山々に抱かれた港町が広がっていた。


入り江に沿って家々が立ち並び、浜には舟が集まり、沖には大きな帆を掲げた異国の船が浮かんでいる。


白い帆。


赤茶けた屋根。


荷を担いで走る人々。


潮風に乗って、遠くの呼び声が届いてくる。


「長崎じゃ!」


小春が嬉しそうに叫んだ。


以前にも来た町。


けれど、その姿は訪れるたびに違って見えた。


港へ近づくにつれ、唐の商人たちの話し声や、魚を売る女たちの威勢のよい声が聞こえてくる。


「新しか魚ばい! 見ていかんね!」


「荷ばこっちへ運べ!」


「舟が着くぞー!」


香辛料の匂い。


焼いた魚の匂い。


油と木材の匂い。


諫早とは違う、様々な人の暮らしが入り混じった町の匂いだった。


「……やっぱり、すごいな」


白瀬は思わず呟いた。


かつてここで、おたえたちは干魚を売り、健太は道具を売り、小春は言葉を覚えた。


その経験が、諫早を豊かにする大きな力になった。


そして、今。


再び、この町から新しい何かが始まろうとしている。


     ◇ ◇ ◇


「白瀬さーん!」


明謝楼の前で、明るい声が響いた。


振り向くと、赤を基調とした華やかな衣装の女性が、こちらへ駆け寄ってきた。


鈴明美だった。


髪に飾った花が、春の光を受けて揺れている。


かつて初めて出会った頃よりも、さらに落ち着いた美しさがあった。


けれど、その笑顔は少しも変わっていない。


「明美さん!」


「お久しぶりです!」


明美は白瀬の前で足を止めた。


「本当に来てくださったんですね」


「もちろん。建華さんからの話ですし、それに……」


「それに?」


「明美さんの歌も、また聴きたかったから」


明美は目を丸くした。


そして、嬉しそうに笑った。


「まあ! 白瀬さんったら!」


その背後で。


「……ほう」


澪が、小さく呟いた。


明美はすぐに気づいた。


「澪!」


「久しいの、明美」


「来てくれて嬉しい!」


明美は澪の手を取った。


「今度こそ、ゆっくりお話ししましょうね」


「うむ。わたしも、聞きたいことが山ほどある」


「何でも聞いて!」


「では、ひとつ」


澪はにっこり笑った。


「明美は、白瀬のどこがよいと思う?」


「み、澪!?」


白瀬が思わず声を上げた。


明美は一瞬、きょとんとした。


そして。


「ふふっ!」


楽しそうに笑った。


「そうねえ……」


少しだけ考える。


「真面目で、優しくて、皆のことを一生懸命考えているところかしら」


「……なるほど」


「でも」


明美は、白瀬をちらりと見た。


「肝心なことには、ちょっと鈍いところも」


「……まったくじゃ」


二人は顔を見合わせた。


そして、声を揃えて笑った。


「……え?」


白瀬だけが、意味を分かっていなかった。


ガタ吉は横で団子を頬張っている。


「白瀬」


「なんだよ」


「お前、よか女に囲まれとるのに、どうしてそがん間抜けな顔しとっと?」


「余計なお世話だ!」


また、笑い声が上がった。


そこへ、おたえが飛び込んできた。


「お師匠様!」


「まあ、おたえ!」


「お師匠様、うち、また勉強させてもらいに来たばい!」


「ふふ。いいわよ。でも、今度は私のほうが教わることも多そうね」


「そ、そがんことなか!」


おたえは真っ赤になった。


小春も明美の手を握る。


「明美さん! うち、唐の言葉、もっと話せるごとなったばい!」


「まあ、それは楽しみ!」


店の奥から、建華も現れた。


「白瀬殿。よう来てくださった」


「建華さん、ご無沙汰しています」


二人は深々と頭を下げた。


建華は穏やかに笑った。


「皆様、お疲れでしょう。まずは中へ」


「ありがとうございます」


「家内も、皆様のお越しを楽しみにしておりました」


奥では、しげよが温かな茶を用意していた。


久しぶりの再会。


変わらぬ笑顔。


けれど、この日の明謝楼には、いつもとは違う緊張も漂っていた。


それを白瀬が知るのは、少し後のことだった。


     ◇ ◇ ◇


「では……本当に、幕府が島を造れと?」


食事を終えた一行に、建華が頷いた。


「ええ。長崎奉行の差配により、町の有力者たちが銭を出し合い、築島を進めることになりました」


「築島……」


白瀬は、その言葉を繰り返した。


海を埋め、土地を築く。


現代なら埋立地と呼ぶものだ。


だが、この時代の道具は限られている。


石を積み、土を運び、人の手と舟を使って造り上げなければならない。


「どれほど大きな島に?」


「詳しい形や範囲は、現場の方々からお聞きください。ただ……」


建華は少し声を落とした。


「なかなか難しい場所でしてな」


「難しい?」


「もとより、潮が引けば小さな島のように現れる浅瀬があるのです。そこを利用する考えなのですが……」


「……なるほど」


白瀬の目が輝いた。


「最初から、土台になる場所があるんですね」


「ええ。ただ、潮が満ちれば、その小島も海の下です」


健太が身を乗り出した。


「そいば高うすればよかとやろ?」


「それだけなら、話は簡単なのですがね」


建華は苦笑した。


「舟の通り道もあれば、浜で生計を立てる者たちもおります。島ができれば、今までとは水の流れも変わるやもしれません」


源太が腕を組んだ。


「……なるほど。島ば造るだけじゃ済まんとね」


「その通りです」


建華は頷いた。


「白瀬殿。諫早でのご経験を、ぜひともお貸しいただきたい」


白瀬は、すぐには答えなかった。


代わりに、五人を見た。


健太。


源太。


長吉。


おたえ。


小春。


そして、澪とガタ吉。


「……どう思う?」


最初に口を開いたのは源太だった。


「先生。まず、海ば見に行こう」


健太も頷く。


「底がどがんなっとるか分からんと、何も決められんばい」


おたえは帳面を閉じた。


「誰が何ば造るかも、先に聞かんば」


小春が笑った。


「うちは、困っとる人がおらんか聞いてくる!」


長吉は真剣な顔で言う。


「人が集まるなら、その人たちの飯も考えんばいかん」


白瀬は頷いた。


「……そうだな」


建華は、そのやり取りを驚いたように見ていた。


「白瀬殿」


「はい?」


「以前お会いした頃とは、ずいぶん様子が違いますな」


「そうですか?」


「ええ。昔は、皆様が白瀬殿のお顔を見ておられた」


建華は微笑んだ。


「今は、白瀬殿が皆様のお顔を見ておられる」


白瀬は、一瞬言葉を失った。


そして、小さく笑った。


「……本当に、そうですね」


澪が隣で頷く。


「それでよいのじゃ」


     ◇ ◇ ◇


午後。


一行は、建華の案内で港の一角へ向かった。


石工たちの槌の音。


浜に積まれた材木。


石を運ぶ舟。


荷を担いで行き交う人足たち。


これから始まる大きな普請の気配が、そこかしこにあった。


「……ここか」


白瀬は足を止めた。


そこには、長崎の岬から続く浅い海が広がっていた。


潮は引き始めている。


水面の下から、少しずつ黒っぽい砂地が姿を現していた。


しばらくすると、その一角が周りの水から顔を出す。


小さな島だった。


いや、正確には。


潮が引いたときにだけ姿を現す、浅瀬の高まりである。


「……あれか!」


健太が声を上げた。


「先生! 島のあるばい!」


「そうだな」


白瀬は目を細めた。


何もない海に、いきなり島を造るのではない。


もとからある浅瀬。


潮が引けば現れる小さな土地。


それを土台に、石を積み、土を運び、潮が満ちても沈まない陸地へと広げていく。


「なるほど……」


白瀬はしゃがみ込み、足元の砂を手に取った。


「今度は、海を干し上げて田にするんじゃない」


健太が首を傾げる。


「どう違うと?」


「諫早では、堤で潮を防いで、その内側の水を抜いた。今度は、海の中に陸地を築くんだ」


「……あ!」


健太の顔がぱっと明るくなった。


「なら、先に外側ば石で囲んで、その中に土ば入れるとか!」


「そういう方法も考えられる。でも、簡単じゃないぞ」


「なんで?」


「石が沈むかもしれない。波で崩れるかもしれない。それに、海底がどうなっているか分からない」


健太は足元を見た。


「……そっか」


白瀬は笑った。


「だから、まず調べる」


そのとき。


ガタ吉が、すでに海へ入っていた。


「ちょっと見てくるばい!」


「おい、ガタ吉!」


ざぶん!


返事より早く、水しぶきが上がった。


「……相変わらずだな」


白瀬は苦笑した。


だが、その顔には信頼があった。


ガタ吉は、もう何度も危険な水の中へ潜ってきた。


泥の深さ。


石の位置。


潮の流れ。


人間には分からないことを、その身で確かめてきた。


だからこそ、白瀬は任せられる。


ただし、無茶はさせない。


「ガタ吉! 流れが強かったら戻れよ!」


水面から、片手が上がった。


「分かっとる!」


その姿を見て、澪が小さく笑った。


「昔と変わらぬの」


「ああ」


「だが、あやつも立派になった」


白瀬は頷いた。


「そうだな」


澪は、水際へ歩み寄った。


波が、静かに足元へ寄せてくる。


澪は目を閉じた。


風の音。


波の音。


水が石に触れる音。


やがて、小さく呟く。


「……白瀬」


「ん?」


「この海は、有明とは違う」


「そうだな」


「違うのは、潮の満ち引きだけではない」


澪は目を開けた。


「この水は、ここで生きる者たちの道でもある」


白瀬は顔を上げた。


すぐ近くで、小舟がゆっくりと浅瀬を避けて進んでいた。


舟の上では、年老いた漁師が竿を使って水深を確かめている。


その舟を見ながら、源太が呟いた。


「先生。島ば大きゅうしたら、あの舟はどこば通ると?」


「……ああ」


白瀬は、ようやく気づいた。


自分たちがこれから造ろうとしているのは、ただの土地ではない。


誰かにとっては、新しい仕事場になる。


けれど、別の誰かにとっては、今まで使っていた海を失うことになるかもしれない。


諫早で、何度も向き合ってきた問題だった。


「……そうだよな」


白瀬は立ち上がった。


「まず、この海で暮らしている人たちの話を聞かないと」


小春が嬉しそうに頷いた。


「任せて!」


「それから、源太。舟の通り道を調べてくれ」


「分かったばい!」


「健太は測る道具を頼む」


「任せとけ!」


「おたえは、建華さんたちと工事の段取りを聞いてきてくれ」


「はい!」


「長吉は、工事に集まる人たちの食糧と、諫早から届けられる物を考えてくれ」


「おう!」


白瀬は最後に、澪を見た。


「澪」


「なんじゃ」


「水のこと、頼む」


澪は微笑んだ。


「言われずとも」


そして、静かに海を見つめた。


「わたしは、水守じゃからな」


     ◇ ◇ ◇


夕暮れが近づいていた。


潮が満ち始める。


昼間、姿を現していた小さな島が、ゆっくりと海へ隠れていく。


砂地が水に覆われる。


石の頭が沈む。


やがて、そこに島があったことさえ分からなくなった。


「……すごいな」


白瀬は呟いた。


「さっきまで、あそこに立てたのに」


「それが潮というものじゃ」


澪が答える。


「水は、いつも同じところにおるわけではない」


「そうだな」


そのとき、海面が大きく揺れた。


ざばっ!


ガタ吉が顔を出した。


「白瀬ーっ!」


「おう! どうだった?」


ガタ吉は浜へ上がると、首を振った。


「こりゃ、思うたより難しかばい」


「何が?」


「底たい」


ガタ吉は、濡れた手で海を指さした。


「同じ浅瀬に見えても、砂のところもあれば、石のあるところもある。足ば取られるところもあった」


白瀬の表情が引き締まった。


「……そうか」


「それにな」


ガタ吉は、少し声を落とした。


「あの小島の外側、潮の流れが変わるところがある」


源太が顔を上げた。


「流れが?」


「うん。水が回り込むように動いとる。おいも、気ぃ抜いたら持っていかれそうやった」


澪も頷いた。


「わたしも感じた。あそこだけ、水の寄せ方が違う」


白瀬は、再び海を見た。


小さな島は、もう見えない。


そこにあるのは、穏やかに波打つ水面だけだった。


だが、その下には。


砂があり。


石があり。


深みがあり。


潮の流れがある。


それを知らずに、ただ石を積んでよいはずがない。


「……なるほどな」


白瀬は、ゆっくり息を吐いた。


「有明海で十三年も普請をしてきたから、少し自信があったんだけどな」


澪が笑った。


「まだまだじゃな」


「ああ。まだまだだ」


「ならば、どうする?」


白瀬は振り返った。


そこには、五人の若者がいた。


ガタ吉がいた。


澪がいた。


そして、長崎で暮らす大勢の人々がいた。


「……決まってるだろ」


白瀬は笑った。


「もう一度、一から学ぶんだ」


「うむ」


「俺たちだけで決めない。長崎の石工にも、舟方にも、漁師にも教わろう」


澪は嬉しそうに頷いた。


白瀬は海を見つめた。


「……まずは、海の底を測ろう」


その言葉に、健太が勢いよく手を上げた。


「先生! おい、道具ば造る!」


「おう、頼む!」


「源太! 舟ば出してくれんね!」


「よかばい!」


「ガタ吉! お前も手伝え!」


「団子ば食うてからな!」


「また団子か!」


笑い声が、夕暮れの港に響いた。


その向こうで、異国の船の帆が、赤い夕日を受けて輝いている。


白瀬は、静かにその景色を見つめた。


――この島は、やがて日本と世界をつなぐ、特別な場所になる。


現代から来た白瀬には、その未来が少しだけ分かっていた。


けれど。


その島が、誰にとっての希望となり、誰にとっての不自由となるのか。


いまの白瀬には、まだ答えられない。


ただひとつ、分かっていることがあった。


海は、誰か一人のものではない。


だからこそ、そこに土地を築くなら。


皆で考え、皆で責任を持たなければならない。


「……よし」


白瀬は、小さく拳を握った。


「新しい普請の始まりだ」


澪が、その隣に並ぶ。


「白瀬」


「ん?」


「今度も、わたしは隣におるぞ」


「ああ。頼りにしてる」


澪は、少しだけ頬を染めた。


「……うむ」


そのとき、遠くから明美の声が響いた。


「白瀬さーん! 皆さーん! お夕飯の用意ができましたよー!」


「おっ!」


ガタ吉が真っ先に飛び上がった。


「飯ばい!」


「お前、さっき団子食っただろ!」


「団子は別腹たい!」


皆が笑った。


明美の声が、もう一度響く。


「白瀬さん! 今夜は一曲、聴いていただきますからねー!」


「はーい!」


白瀬が手を振る。


隣で、澪がふっと笑った。


「……まったく。忙しか男じゃ」


「ん?」


「何でもない」


そう言って、澪は白瀬の袖を軽く引いた。


「ほれ。皆が待っておる」


「ああ」


二人は並んで歩き出した。


夕暮れの長崎。


港には人の声が満ち、異国の船が揺れ、どこからか三味線の音が聞こえてくる。


この町には、まだ白瀬たちの知らない物語が、いくつも眠っている。


海の底に隠れたもの。


異国からやって来るもの。


そして、人々の胸の奥で、まだ歌になっていない願い。


小さな島から始まる大きな普請は、やがて人と人を、国と国を、そして幾つもの想いを結んでゆく。


だが、その第一歩は――。


何も見えない海の底に、一本の測り竿を下ろすことから始まるのだった。


史実考証:出島の築造は1634年に始まり、1636年に完成。長崎の岬の突端にあった、干潮時だけ小さな島となる浅瀬を利用したことは、出島公式サイトの解説に基づいています。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

今回から、いよいよ出島編が始まりました。

実は出島、何もない海に突然造られたわけではありません。もともと干潮時に姿を現す小さな島や浅瀬があり、そこを利用して築かれたと伝えられています。

諫早の干拓とは似ているようで、まったく違う挑戦です。

そして、澪と明美に挟まれた白瀬の鈍感ぶりも相変わらず……。

土木も商いも恋も、まだまだ学ぶことが山積みですね(笑)。

次回、第六十二普請「海の底を測る」。

海の下には、いったい何が待っているのでしょうか?

引き続き応援いただけると嬉しいです!

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