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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第六十普請 俺がいなくても

十二年前、泥だらけになって白瀬の後を追いかけていた子どもたち。

今では、それぞれが自分の道を歩き始めています。

そんな彼らを前に、白瀬は嬉しくも少し寂しい気持ちに。

一方、長崎から懐かしい歌姫が再訪!

田も造り、人も育てた白瀬ですが……どうやら恋の方は、まだまだ未熟なようです(笑)。

第七章、いよいよ最終話です!

寛永十年(一六三三年)、秋。


諫早の田は、今年も黄金色に染まっていた。


十二年前、白瀬湊一がこの地へやって来た頃には、海と泥と貧しい田が広がるばかりだった。


それが今では、幾筋もの水路が田を潤し、荷を積んだ舟が川を行き交い、村のあちこちから子どもたちの声が聞こえる。


白瀬は三十九歳になっていた。


二十七歳でこの時代へ放り込まれてから、十二年。


長いようで、あっという間だった。


そして、この秋。


白瀬は、自分がこれまでで一番難しい仕事に直面していた。


「……どう説明したもんかな」


水学所の一室。


机の上には、佐賀本藩から届けられた一通の書状があった。


新田の広さ。


米の収穫量。


水路と水門の管理方法。


さらに、普請に使われた銭や人足についても、詳しく確かめたいという。


要するに、諫早が何をやっているのか、本藩が本格的に調べに来るのである。


「いや、まあ、いつかは来ると思ってたけどさ……」


白瀬は頭をかいた。


十二年前、一万石余りとされた諫早の地。


しかし、田を増やし、収穫を改善し、海や川からも恵みを得られるようになった今では、暮らしの豊かさは当時とは比較にならない。


年間の米の実収も、五万石に達するほどになっていた。


もちろん、これは領地として公に認められた石高とは別の数字である。


田の実りが増えたからといって、そのまま領地の格が上がるわけではない。


だが、本藩が関心を抱くのは当然だった。


「田の面積と収穫の記録を整理して、それから水門の……」


白瀬が紙を広げた、そのとき。


ひょい。


目の前から書状が消えた。


「……ん?」


顔を上げると、おたえが立っていた。


その後ろには長吉、健太、源太、小春。


かつて水学所で読み書きを習っていた五人である。


「先生、何しよっと?」


「見れば分かるだろ。本藩への説明を考えてるんだよ」


「そがんとは分かっとる」


おたえは書状を開いた。


「ばってん、先生が一人で考える必要はなかろ?」


「いや、でもな。今度の相手は本藩の役人だぞ」


「知っとるばい」


「帳面の数字だって、間違えたら大変なことに――」


「先生」


おたえが腰に手を当てた。


「うちらを、何歳と思っとると?」


「……え?」


長吉が笑う。


「おいら、もう子どもじゃなかとですよ」


健太も胸を張った。


「水門の仕組みなら、先生より詳しかこともあるばい!」


「おいおい」


源太が続ける。


「川と海のことなら、おいに任せんね」


小春はにっこり笑った。


「役人様の相手は、うちがしますけん」


五人が顔を見合わせる。


そして、おたえが代表して言った。


「先生。今度は、うちらに任せてくれんね」


白瀬は、しばらく言葉が出なかった。


その様子を、部屋の隅で見ていた澪が楽しそうに眺めている。


「白瀬。どうしたのじゃ?」


「いや……」


「そなた、いつまであの者たちを子ども扱いするつもりじゃ?」


「……してるつもりはないんだけどな」


「ならば、任せてみればよかろう」


その隣では、ガタ吉が団子をかじっていた。


「先生は、今日は団子でも食って見とけ!」


「お前まで言うか!」


水学所に笑い声が広がった。


こうして、白瀬が知らないところで。


五人による、五人のための大仕事が始まった。


     ◇


「まず、何ば見せる?」


その日の夕方。


五人は水学所に集まっていた。


机の上には帳面、木札、絵図、それに健太が作った小さな水門の模型まで並んでいる。


「田の広さだけじゃ足りんばい」


長吉が言った。


「どがんして田ば育てとるか、そこまで見てもらわんと」


「そうたい。魚が増えたことも忘れんでくれ」


源太が言い添える。


「水路は田んぼのためだけじゃなか。舟も通るし、魚も通るとぞ」


「そいば全部、数字にせんといかんね」


おたえが帳面をめくる。


「作った田の広さ、毎年の収穫、修繕に使った銭……」


健太は模型を持ち上げた。


「数字だけじゃ、仕組みは分からんやろ? 実際に動かして見せた方が早か」


「それなら、役人様が何ば知りたかか、先に聞いてみたらどうやろ?」


小春の言葉に、四人が顔を上げた。


「相手が知りたかことと、うちらが話したかことは、同じとは限らんけん」


おたえが、ぽんと手を打つ。


「それたい!」


「……何が?」


健太が尋ねる。


「小春の言うとおりばい。うちらが自慢話ばするだけじゃ、検分にならん」


「誰が自慢話ばすると言うた!」


「健太」


「……何ね」


「さっきから模型ば三回も動かしとる」


「こいは説明の練習たい!」


笑いが起きた。


その笑い声を、廊下の向こうで白瀬が聞いていた。


声をかけようとして、足を止める。


机を囲む五人。


意見をぶつけ合い、ときには言い争い、それでも一つの答えを探している。


白瀬は、そっと廊下を引き返した。


「……俺の出番、なさそうだな」


すると背後から声がした。


「寂しいのか?」


澪だった。


「いや、別に」


「顔に書いてあるぞ」


「……ちょっとだけな」


澪は小さく笑う。


「よいことではないか」


「ああ」


白瀬も笑った。


「本当に、いいことだよ」


     ◇


それから数日後。


水学所兼白瀬屋敷に、思いがけない客が訪れた。


「白瀬さん!」


聞き覚えのある、明るい声。


振り向いた白瀬の前に立っていたのは、長崎の歌姫、鈴明美だった。


艶やかな赤い衣に、髪を飾る花。


懐かしい笑顔で、こちらに手を振っている。


「明美さん!?」


「ふふっ。驚いた?」


「驚きましたよ! また諫早まで?」


「ええ。おたえが面白い本を作ったって聞いたもの」


「ああ、『諫早手習い帳』ですね」


「それに……」


明美は、ほんの少し声を落とした。


「白瀬さんにも、会いたかったから」


「え?」


「……何でもない!」


明美は笑ってごまかした。


白瀬は首をかしげる。


そこへ、澪がやってきた。


「白瀬。客人をいつまで門口に立たせておる」


「あ、そうだった」


「まったく。気の利かぬ男じゃな」


明美が、くすくす笑った。


「澪、相変わらずね」


「何がじゃ?」


「白瀬さんのこと、よく見ているなって」


「放っておけば、何も気づかぬからのう」


「……本当に、何も気づかないのね」


二人は顔を見合わせた。


そして、なぜか同時にため息をついた。


白瀬だけが不思議そうな顔をしている。


「……何の話です?」


「「別に」」


また声が重なった。


「仲いいですね、二人とも」


今度は、二人から同時にじろりと見られた。


「……え? 俺、何か言いました?」


返事はなかった。


     ◇


明美の再訪を、誰よりも喜んだのはおたえだった。


「お師匠様ーっ!」


水学所から飛び出してきたおたえが、勢いよく明美に駆け寄る。


「聞いたばい! 本ば作ったとね!」


「はい! うちら、みんなで作ったとです!」


「見せてくれる?」


「もちろん!」


机の上に広げられたのは、湯江で試作を重ねた手漉き紙に、木版で刷った『諫早手習い帳』。


読み書きの手本だけではない。


田の面積の測り方。


水門の開け閉め。


舟荷の数え方。


魚の保存方法。


商いの勘定。


そして、水害から命を守るための心得。


村の暮らしに必要な知恵が、分かりやすい絵と文字でまとめられていた。


明美は一枚ずつ、丁寧に読み進めた。


「……すごい」


おたえが、少し照れくさそうに笑う。


「お師匠様に商いば教えてもろうたけんです」


「わたしは、こんな本の作り方なんて教えてないわよ」


「ばってん、お師匠様は言うたでしょう?」


おたえは胸を張った。


「商いは、相手が何ば欲しかか考えることから始まるって」


明美は目を丸くした。


そして、嬉しそうに笑った。


「……ちゃんと覚えていたのね」


「もちろんです!」


「だったら、今度はわたしが、おたえに教えてもらわなくちゃ」


「ええっ!?」


その様子を見ていた白瀬が、思わず笑った。


「先生を越える生徒って、どこにでもいるんですね」


明美は白瀬を見た。


「白瀬さんも、そう思う?」


「ええ。最近、毎日思い知らされてますよ」


「ふふっ。ちょっと寂しい?」


「……少しだけ」


明美の目が優しく細められた。


「でも、それって素敵なことね」


「ああ。本当に」


二人が笑い合う。


少し離れた場所で、澪がその様子を見ていた。


別に、何ということもない会話。


それなのに、胸の奥がほんの少し落ち着かない。


「……まったく」


「澪?」


「何でもない」


澪は顔をそむけた。


明美だけが、その横顔を見て小さく微笑んだ。


     ◇


検分の日がやってきた。


佐賀本藩から訪れた役人は、三人。


先頭に立つ年配の検分役は、いかにも厳しそうな顔をしていた。


「白瀬湊一殿でござるな」


「はい」


「このたびは、新田と水路の様子を詳しく改めたい」


「承知しております」


役人は周囲を見渡した。


「それで、案内はどなたが?」


白瀬が口を開こうとした、そのとき。


「うちらが、ご案内します!」


おたえが前へ出た。


その後ろに、四人が並ぶ。


役人の眉が上がった。


「……そなたらが?」


「はい!」


「白瀬殿は?」


「おりますが、今日の説明はこの者たちに任せております」


白瀬が答えた。


役人は、明らかに意外そうな顔をした。


「……よかろう」


そうして始まった検分。


最初に案内したのは、長吉だった。


「こちらが、最初に手を入れた田です」


「ほう……」


長吉は畦を歩きながら、土の状態や水の流れを説明していく。


「同じだけ苗ば植えても、土が痩せとったら米は増えんとです」


「ふむ」


「じゃけん、刈り取った後も土ば休ませて、草肥や堆肥ば入れます」


役人の一人が尋ねた。


「毎年、同じように取れるのか?」


「いいえ」


長吉は即答した。


「雨の少なか年もあれば、潮の悪か年もあります」


「では、収穫は定まらぬではないか」


「そうです」


長吉はまっすぐに役人を見た。


「じゃけん、一年の出来だけ見ても、本当の田の力は分からんとです」


役人が黙った。


白瀬は、少し離れたところで思わず口元を緩めた。


(……長吉。いい答えだ)


次は健太だった。


水門の前に集まった役人たちに、小さな木の模型を見せる。


「こいが、水門の仕組みです」


模型の板を持ち上げると、用意した桶の水が流れ落ちた。


「ほう。よくできておる」


「ばってん、大事なのは、ここからです」


健太は模型の一部を取り外した。


「木は腐るし、割れることもあります。じゃけん、傷んだところだけ取り替えられるようにしとるとです」


「丸ごと造り直さずに済むと?」


「はい!」


健太が得意そうに笑う。


「壊れん道具ば作れたら一番よか。ばってん、そんな道具はなかなか作れんですけん!」


後ろでガタ吉がうんうんとうなずく。


「そがんそがん。水ん中で壊れたら、直すとも大仕事じゃけんな!」


「お前が一番苦労してるもんな」


白瀬が言うと、ガタ吉は胸を張った。


「そいを分かっとるなら、団子ば増やせ!」


「結局それか!」


役人の一人が、思わず吹き出した。


続いて、源太が舟へ案内する。


「この水路は、田んぼの水ば運ぶだけじゃなかとです」


舟を棹で押しながら、岸を指さした。


「魚も通ります。人も荷も運びます。雨がひどかときには、逃げ道にもなります」


「田を増やせばよいというものではない、と?」


「そうです」


源太の声は力強かった。


「海ばなくしてしもうたら、おいら漁師は生きていけん」


役人は静かにうなずいた。


その後、おたえが帳面を広げた。


田の収穫。


魚の売上。


舟賃。


木材の購入。


水門の修繕。


さらに四面蔵に蓄えた米や銭の出入りまで、細かく記されている。


「……これを、そなたが?」


「はい」


「驚いたな」


役人が帳面をめくる。


「これほど細かく残しておるとは」


おたえは、少し得意そうに笑った。


「銭は、数えんと逃げていきますけん」


「ほう」


「ばってん、数えるだけでも駄目たい」


「なぜじゃ?」


「蔵に銭がぎょうさんあっても、水門が壊れたままなら、次の米は取れんでしょう?」


役人が黙った。


おたえは続ける。


「そいに、米ば売りすぎて村の人が腹ばすかせとったら、何のための商いか分からんですけん」


白瀬は思わず目を細めた。


(……おたえ、お前は本当に立派な商人になったな)


最後に、小春が役人たちへ尋ねた。


「ところで、皆様は何ば一番お知りになりたかとでしょうか?」


年配の検分役が答えた。


「……そうじゃな。これほど田が増え、米が取れるようになった理由を知りたい」


「それだけで、よかとですか?」


「何?」


「増えた田が、これから先も守れるかどうかは、気になりませんか?」


役人は、しばらく小春を見つめた。


「……なるほど」


小春はにっこり笑った。


「だったら、水門の管理帳も見ていただきたかです」


それは、かつて千々石清左衛門――ミゲルから学んだことだった。


相手の言葉を聞く。


その奥にある、本当に知りたいことを考える。


小春は、もうただ人懐こいだけの娘ではなかった。


     ◇


検分は順調に進んでいた。


少なくとも、昼過ぎまでは。


「……ん?」


最初に異変に気づいたのは源太だった。


河口へ近い水路。


水面に浮かぶ草の流れが、いつもより遅い。


「健太」


「何ね?」


「水、動いとらんぞ」


健太が水門を見た。


「……おかしかな」


ちょうどその頃、上流では雨が強まっていた。


空は暗く、水路には少しずつ濁った水が増えている。


そこへ村人が駆け込んできた。


「大変ばい! 下の水路で水が詰まっとる!」


「何!?」


長吉が駆け出す。


検分役の顔が険しくなった。


「白瀬殿。これはどうしたことじゃ?」


白瀬は水路を見つめた。


雨による流入。


河口からの満ち潮。


水門の前には、上流から流れてきた葦や枝がたまり始めている。


排水が滞れば、水位はさらに上がる。


だが、満ち潮の最中に河口側の水門を開けば、逆流の危険がある。


「まずは水位を確認して――」


白瀬が口を開いた、そのとき。


「先生!」


健太が叫んだ。


「ちょっと待ってくれんね!」


「え?」


「おいらで考えたか!」


白瀬は、思わず口を閉じた。


健太は源太を見た。


「潮は?」


「まだ上がりよる! 今は開けられん!」


「長吉!」


「田の上の溜め水路なら、まだ余裕があるばい!」


「おたえ!」


「人足と道具なら手配できる! ばってん、無茶はせんで!」


「小春!」


「うちが農家の人たちに話してくる!」


五人が、次々に動き始めた。


「おい、ガタ吉!」


健太が声を上げる。


「水門の下、見てくれんね!」


「任せんしゃい!」


ガタ吉は水面を見た。


「ばってん、潜るなら綱ばつけるぞ。水ん流れが見た目より速か」


「分かっとる!」


河童水工衆が綱を準備し、岸では村人たちが交代で支える。


ガタ吉は水に潜り、ほどなく顔を出した。


「葦と枝が絡んどる! 下から泥もたまっとるばい!」


「取れそうか?」


「一度にゃ無理たい。水位が落ち着いてからじゃ!」


健太がうなずく。


「なら、今は無理に開けん!」


一方、長吉は村人たちを集めていた。


「余水路の板ば上げるぞ! 上の遊水田に、いったん水ば受けてもらう!」


「田が水に浸かるぞ!」


「分かっとる!」


長吉は声を張った。


「ばってん、今は刈り取りも済んどる! 下の家まで水が行くより、ずっとよか!」


村人たちは顔を見合わせた。


それから、一人がうなずいた。


「よか! お前の言うとおりにしゅう!」


余水路の板が持ち上げられる。


濁った水が、あらかじめ水を受けられるよう整えていた低い田へと流れ始めた。


一方で、おたえは人足を手配する。


「水門の修繕用の木材は蔵にある! 縄も鍬も持ってきて!」


「銭はどうするとか!?」


「必要な分は四面蔵から出す!」


おたえは即答した。


「人ん命がかかっとるときに、銭勘定ば先にしよる場合じゃなか!」


そして、一呼吸置く。


「ばってん、後でちゃんと帳面には書くけんね!」


「おたえらしか!」


村人が笑った。


小春は、田を守ろうとする農民と、舟路を気にする漁師の間を走っていた。


「今は舟ば通さんでください!」


「何ば言うと! 荷が遅れるばい!」


「分かっとります!」


小春は相手の目を見た。


「じゃけん、荷は上の船着き場で受けてもらいます! 道の人足は、うちが頼んできます!」


「……本当にできるとか?」


「できます!」


小春は笑った。


「困ったときは、お互い様でしょう?」


漁師は苦笑した。


「……お前には敵わんな」


その間も、白瀬は動かなかった。


いや。


動かなかったのではない。


動く必要がなかった。


五人が情報を集め、互いに確かめ、手順を決めている。


澪が、そっと白瀬の隣へ立った。


「白瀬」


「……ああ」


「そなたの出番は、なさそうじゃな」


白瀬は水路を見つめた。


「……そうだな」


澪は水面に手をかざす。


水の流れ。


潮の気配。


そこに潜む危険。


「まだ、外の水が強い。今は開けぬ方がよい」


健太がその声を聞き、うなずいた。


「澪先生、分かった!」


水門の脇に設けられた水位の印。


源太が何度も確かめる。


やがて、河口側の水位が下がり始めた。


「……来たぞ!」


源太が叫ぶ。


「潮が引き始めた!」


健太は長吉と顔を見合わせた。


「上の水は?」


「まだ余裕がある!」


「よし。なら、急がんでよか!」


水門はすぐには開けなかった。


外の水位が十分に下がるまで待ち、ガタ吉たちが安全を確かめながら、絡まった葦と枝を少しずつ取り除く。


それから、健太が声を張った。


「板ば、ゆっくり上げるぞ!」


「おう!」


木の板が持ち上がる。


ごぼっ。


水門の向こうへ、濁った水が流れ始めた。


最初は細く。


やがて、勢いを増して。


「流れた!」


誰かが叫ぶ。


「水が流れたぞーっ!」


歓声が上がった。


ただし、健太はまだ笑わなかった。


「急に全部開けるな! 板が持っていかれる!」


源太が水位を確かめる。


長吉が余水路の様子を見る。


ガタ吉は水中の残りの詰まりを確認する。


一つずつ。


慌てず。


確かめながら。


そして、しばらくして。


水路の水位は、ようやく落ち着きを取り戻した。


「……ふう」


健太が腰を下ろす。


長吉も、その隣に座り込んだ。


「何とかなったな」


「何とかなったばい」


おたえが二人の頭を軽く叩いた。


「二人とも、よく頑張った!」


「痛か!」


「褒めとるとよ!」


源太も小春も笑っていた。


ガタ吉は、ずぶ濡れのまま岸へ上がってきた。


「……団子」


「はいはい、後でな!」


「五本たい!」


「増えとるやないか!」


笑い声が広がる。


その様子を、本藩の役人たちは黙って見つめていた。


やがて、年配の検分役が白瀬へ向き直った。


「白瀬殿」


「はい」


「……そなたは、一度も指図をせなんだな」


「ええ」


「よほど、あの者たちを信じておられるのか」


白瀬は、少し考えた。


そして答えた。


「最初は、俺が全部教えているつもりだったんです」


「ほう」


「でも、違いました」


白瀬は五人を見た。


「田のことは、長吉の方が詳しい」


「……」


「水門の細かい癖は、健太の方が知っています。源太は海を知っているし、おたえは銭と人の暮らしを考えている。小春は、俺が聞き逃すような言葉まで拾ってくれる」


少し笑った。


「俺一人じゃ、あんなふうには動けませんよ」


役人は、しばらく黙っていた。


そして、ゆっくりとうなずいた。


「……なるほど」


目の前には、田が広がっている。


水路が走っている。


そして、それを守る人々がいる。


「諫早には、白瀬殿が何人もおられるのだな」


白瀬は首を横に振った。


「いいえ」


そして、胸を張った。


「あいつらは、俺とは違います。俺より、ずっと頼もしい連中です」


     ◇


夕方。


検分を終えた役人たちは、水学所へ戻ってきた。


そこには、五人が編んだ『諫早手習い帳』が用意されていた。


検分役は、一冊を手に取った。


最初の頁。


田の測り方。


その次に、水害への備え。


さらに頁をめくると、二人の名前があった。


弥助。


岩蔵。


「……この名は?」


役人が尋ねた。


長吉が答えた。


「最初の干拓で、亡くなった人たちです」


「そうか……」


「この二人がおらんやったら、今の田んぼはなかとです」


健太が続けた。


「じゃけん、忘れんように、名前ば残したとです」


役人は、静かに頁を閉じた。


「……立派なことじゃ」


その声には、先ほどまでの厳しさがなかった。


「水門はいずれ朽ちる。田も荒れることがあろう」


五人を見渡す。


「だが、直す術を知る者がおり、その術を次へ伝える者がおれば、何度でも立て直せる」


おたえが笑った。


「じゃけん、本ば作ったとです!」


役人も笑った。


「……なるほど。よい本じゃな」


ただし、検分はこれで全て終わったわけではなかった。


年配の役人は、帳面に目を戻した。


「田の実りが増えたことは分かった。じゃが、領地の石高、年貢の取り決め、新田の扱いとなれば、また別の話じゃ」


おたえの表情が引き締まる。


「はい」


「この帳面は預からせてもらう。写しを取り、さらに詳しく調べることになろう」


「分かりました」


「……本藩も、よくよく考えねばならぬことがあるようじゃ」


役人は、それ以上は語らなかった。


だが、小春はその言葉を聞き逃さなかった。


白瀬も同じだった。


田が増え、暮らしが豊かになれば、それだけで何もかもが解決するわけではない。


国づくりには、まだ先がある。


それでも。


今日という日は、確かに一つの節目だった。


     ◇


その夜。


水学所では、ささやかな宴が開かれていた。


検分を終えた五人をねぎらう席である。


領主・諫早直孝も、若殿の茂敬とともに姿を見せた。


「白瀬」


「殿」


直孝は、五人が楽しそうに食事をしている様子を眺めた。


「十二年前、そなたがこの地に来た頃を覚えておるか」


「忘れられませんよ」


「わしは、田が増えれば国が豊かになると思うておった」


「……はい」


「だが、今は少し違う」


直孝は、静かに続けた。


「田は荒れよう。堤も壊れよう。銭も使えばなくなる」


「……」


「されど、人が育てば、また造れる」


白瀬は顔を上げた。


直孝は微笑んだ。


「そなたがこの国へ残したものは、田だけではなかったのじゃな」


白瀬の胸が、熱くなった。


「……殿」


「まだ礼を言うには早いかのう」


直孝が笑う。


「百万石には、まだまだ遠いぞ」


「ははっ……そうですね」


「これからも頼むぞ、白瀬」


「はい!」


その言葉に、白瀬は深く頭を下げた。


近くでは、茂敬が五人と検分の話をしていた。


「健太。あの水門の工夫は見事だったな」


「若殿、見とったとですか!」


「もちろんじゃ」


「なら、今度はもっとよか模型ば作って見せます!」


「楽しみにしておる」


長吉が笑う。


「健太は、何でもすぐ作りたがるけん」


「何ば言うか! お前も田んぼのことになると止まらんやろ!」


また笑いが起きた。


白瀬は、その光景を眺めながら思った。


あの子どもたちは、もういない。


そこにいるのは、自分たちの未来を、自分たちで造ろうとしている大人たちだった。


     ◇


宴も半ばを過ぎた頃。


明美が立ち上がった。


「皆さん。せっかくですから、一曲歌わせてもらってもいいかしら?」


「おおっ!」


「明美さんの歌たい!」


歓声が上がる。


明美は三味線を手に取り、静かに弦を鳴らした。


ぽろん。


柔らかな音が、夜の水学所に広がる。


長崎で覚えた歌。


海を渡る舟。


帰りを待つ人。


遠い町へ旅立つ者。


どこか懐かしく、どこか切ない節だった。


白瀬は黙って耳を傾けた。


澪も、その隣で聴いていた。


歌が終わると、しばらく誰も声を出さなかった。


やがて、大きな拍手が起こった。


「明美さん、すごか!」


「もう一曲!」


「また歌ってくれんね!」


明美が笑った。


「もちろん!」


そのとき。


一人の少女が、明美の前へ進み出た。


千代だった。


「……明美様」


「はい?」


「お願いがございます」


千代は、小さく息を吸った。


「私にも、歌を教えていただけませんか」


周囲が静かになった。


明美は、驚いたように千代を見た。


「歌が好きなの?」


「はい」


千代はうなずいた。


「大好きです」


その声には、迷いがなかった。


「私も、明美様のように、人の心へ届く歌を歌えるようになりたいのです」


明美は、しばらく千代を見つめた。


そして、優しく笑った。


「だったら、まずは歌ってみましょうか」


「……今、ですか?」


「ええ。上手に歌おうとしなくていいの。あなたの声で」


千代は緊張した面持ちで、そっと息を吸った。


そして、小さな声で歌い始めた。


最初の一声は、少し震えていた。


けれど、明美は最後まで耳を傾けた。


歌い終えた千代は、恥ずかしそうにうつむく。


「……いかがでしょうか」


明美は微笑んだ。


「素敵な声ね」


「本当ですか!」


「ええ。でも、もっとたくさん歌えるようになりましょう」


千代の顔が輝いた。


「では……!」


「わたしでよければ、喜んで」


「ありがとうございます、お師匠様!」


その様子を見ていたおたえが、思わず声を上げた。


「千代様も、お師匠様の弟子になったとね!」


「はい!」


「なら、うちらは姉弟子と妹弟子たい!」


千代は笑った。


「おたえは商いの姉弟子ですね」


「そいなら、歌は千代様が姉弟子になるかもしれん!」


「ふふっ。負けませんよ」


二人が笑い合う。


明美も、嬉しそうに目を細めた。


そこへ奥方がやってきた。


「ほほう。千代まで夢中になるとはのう」


「母上!」


「よいよい。好きなことを学ぶのは、よいことじゃ」


奥方は明美へ目を向けた。


「これからも、娘を頼みますぞ」


「はい。喜んで」


それから、奥方の視線が白瀬へ向いた。


「ところで、白瀬殿」


「はい?」


「そなたの屋敷は、ずいぶん華やかになったのう」


「……え?」


奥方は、白瀬と澪と明美を順番に見た。


「いやいや。まこと、羨ましいことじゃ」


その意味に気づいた澪が、わずかに眉を寄せた。


「奥方様……」


明美は口元を押さえて笑っている。


白瀬だけが、相変わらず首をかしげていた。


「……何がです?」


奥方は深いため息をついた。


「……まだまだじゃのう」


「ええっ!?」


     ◇


宴が終わり、夜も更けた。


澪と明美は、縁側に並んで腰を下ろしていた。


庭には虫の声。


遠くでは、水路を流れる水の音が聞こえる。


「……ねえ、澪」


「何じゃ?」


「毎日、白瀬さんと一緒なの?」


「毎日というわけではない。互いに仕事もあるからのう」


「でも、同じ屋敷に住んでいるんでしょう?」


「部屋は別じゃ」


明美が、くすりと笑った。


「そんなこと、聞いてないわよ」


澪は少しだけ顔を赤くした。


「……何が言いたいのじゃ」


「羨ましいなって」


「……」


「朝になったら会えて、夜になったら帰ってくる」


明美は庭を見つめた。


「わたしは長崎にいるから、会いたくても、すぐには会えないもの」


澪は、しばらく黙っていた。


やがて、小さく言った。


「……そなたは、白瀬のことが好きなのか?」


明美は驚かなかった。


むしろ、少し嬉しそうに笑った。


「うん」


あまりにも素直な返事だった。


澪は、思わず明美を見る。


「……そうか」


「澪は?」


「……わたしは」


言葉が続かない。


明美は、それ以上は尋ねなかった。


代わりに、そっと笑った。


「難しい人よね、白瀬さんって」


「……まったくじゃ」


「仕事のことなら、あんなにいろいろ考えるのに」


「人の心となると、まるで分かっておらぬ」


「そうそう!」


二人は顔を見合わせた。


そして、思わず笑ってしまった。


「ねえ、澪」


「何じゃ?」


「わたしたち、変ね」


「……何がじゃ?」


「同じ人を好きになって、こんなふうに笑ってるんだもの」


澪は答えなかった。


けれど、その横顔は穏やかだった。


明美は続けた。


「わたしね、長崎が好きなの」


「知っておる」


「もっとたくさんの人に歌を聴いてもらいたい。もっといろんな町へ行ってみたい」


「……うむ」


「だから、白瀬さんのためだけに生きることはできないわ」


澪は、静かにうなずいた。


「わたしもじゃ」


「え?」


「わたしには、水守として守るべきものがある」


澪は庭の向こうを見た。


「白瀬がどう思おうと、それだけは変わらぬ」


明美は、しばらく澪を見つめていた。


やがて微笑んだ。


「……やっぱり、澪って素敵ね」


「何を突然」


「白瀬さんが、いつも澪のことを頼りにしている理由が分かる気がする」


澪は何も言わなかった。


ただ、ほんの少しだけ嬉しそうだった。


そのとき。


「おーい、二人とも!」


白瀬が茶を持って現れた。


「まだ起きてたんですね」


明美が笑った。


「白瀬さん。ちょうどあなたの話をしていたの」


「俺の?」


「ええ」


「何か悪口でも?」


澪が即答した。


「悪口ではない。事実を語っておっただけじゃ」


「それ、余計に怖いんだけど」


明美が笑った。


そして、ふと思いついたように尋ねる。


「白瀬さん」


「はい?」


「わたしが、ずっと諫早にいたらどう思う?」


「え?」


「嫌?」


「そんなことないですよ」


白瀬は笑った。


「明美さんがいてくれたら、みんな喜びますよ」


「……みんなは?」


「はい?」


「白瀬さんは?」


「もちろん、俺も嬉しいですよ」


明美の頬が、ほんのり赤くなった。


「……そっか」


その隣で、澪は湯飲みに視線を落とした。


すると明美が、もう一つ尋ねた。


「じゃあ、澪がいなくなったら?」


「……え?」


白瀬は、きょとんとした。


「澪が?」


「うん」


「それは……困りますね」


澪が顔を上げた。


「……なぜじゃ?」


白瀬は、少し不思議そうに答えた。


「だって、澪がいない暮らしなんて、もう考えられないから」


沈黙。


庭の虫の声だけが聞こえた。


澪の耳が、みるみる赤くなる。


明美も、一瞬だけ息を止めた。


ところが。


白瀬は、何事もなかったように続けた。


「何しろ、もう十二年も一緒に仕事してますからね。澪がいなかったら、水門の管理だって――」


ことん。


澪が湯飲みを置いた。


「……白瀬」


「ん?」


「そなたは、本当に腹立たしい男じゃな」


「ええっ!?」


明美は、うつむいて肩を震わせていた。


笑っている。


けれど、その笑顔の奥に、ほんの少しだけ寂しさがあった。


「……本当に、仕事ばっかり」


白瀬は、ますます分からなくなった。


     ◇


翌朝。


白瀬は、ガタ吉に相談していた。


「なあ、ガタ吉」


「何じゃ?」


「昨日から、澪の様子がちょっとおかしいんだよ」


ガタ吉は団子をかじったまま、白瀬を見た。


「……先生」


「ん?」


「お前、もう四十になるとやろ?」


「まだ三十九だ!」


「そがん話はしとらん!」


ガタ吉は、深いため息をついた。


「おいは河童ばってん、人間の女心くらい少しは分かるばい」


「……何が言いたいんだ?」


「……もうよか」


ガタ吉は、持っていた団子を一本差し出した。


「食え」


「何で?」


「かわいそうになってきたけん」


「おい!」


そこへ、ちょうど奥方が通りかかった。


「何がかわいそうなのじゃ?」


「奥方様、聞いてくれんね!」


「ガタ吉、余計なことを――!」


事情を聞いた奥方は、白瀬をじっと見つめた。


そして、しみじみと言った。


「白瀬殿」


「……はい」


「田を造り、水門を造り、人を育て……」


「はい」


「これほど立派な仕事をしておきながら……」


奥方は、深いため息をついた。


「己の嫁を見つける才だけは、まことに育たぬものじゃな」


「奥方様まで!?」


ガタ吉が腹を抱えて笑った。


「ぎゃはははは!」


白瀬は、頭を抱えた。


「……何なんだよ、もう!」


少し離れたところでは、澪と明美がその様子を眺めていた。


明美が、そっと笑う。


「……ねえ、澪」


「何じゃ?」


「わたしたち、苦労しそうね」


澪は、深いため息をついた。


「……まったくじゃ」


けれど。


二人とも、どこか楽しそうだった。


     ◇


明美が長崎へ帰る朝。


村の者たちが見送りに集まっていた。


「明美さん、また来てくれんね!」


「もちろん!」


千代も駆け寄る。


「お師匠様、次までに歌を練習しておきます!」


「楽しみにしてるわ」


おたえが胸を張る。


「うちも商いば、もっともっと頑張ります!」


「ふふっ。頼もしいわね」


明美は一人ひとりと別れの言葉を交わした。


そして、最後に白瀬の前へ立った。


「白瀬さん」


「はい」


「今度は、あなたから長崎へ来てね」


「もちろんです!」


明美の顔が明るくなる。


ところが白瀬は、にっこり笑って続けた。


「長崎には、まだまだやりたい仕事がありますから!」


「…………」


明美は、しばらく白瀬を見つめた。


そして、笑った。


「……本当に、仕事ばっかりね」


「え?」


「何でもない!」


明美は、白瀬の胸を軽く指でつついた。


「次に会うときは、少しくらい仕事以外の話もしてね」


「……はい?」


「約束よ!」


そう言って、明美は舟へ乗り込んだ。


澪は、その姿を静かに見送っていた。


舟が岸を離れる。


明美が振り返り、大きく手を振った。


「みんなー! またねー!」


村人たちが手を振り返す。


やがて、舟は川の曲がり角の向こうへと消えていった。


白瀬は、その姿を見送りながらつぶやいた。


「……仕事以外の話、か」


隣で澪が言った。


「白瀬」


「ん?」


「そなた、明美が何を言いたかったか、本当に分からぬのか?」


白瀬は、少しだけ黙った。


そして、遠ざかる舟の方を見た。


「……分からないわけじゃないよ」


澪が、静かに白瀬を見る。


「……そうか」


それ以上、尋ねなかった。


白瀬も、何も言わなかった。


十二年前。


自分は、この時代へ突然やってきた。


ならば、ある日突然、元の時代へ戻ることだってあるのかもしれない。


もし、そのとき。


誰かを残していくことになったら。


そんなことを考える自分が、白瀬は少し嫌だった。


だが、今は答えを出せなかった。


     ◇


その夜。


白瀬は、一人で水学所にいた。


机の上には、『諫早手習い帳』。


五人が作った最初の版。


刷りの薄いところもある。


文字が少し傾いたところもある。


子どもたちが余白に書き込んだ、へたくそな文字まで残っていた。


白瀬は、その一つひとつを指でなぞった。


「……立派になったな、みんな」


気づけば、独り言が漏れていた。


水害の記録。


弥助と岩蔵の名。


田の作り方。


水門の管理。


商いの知恵。


どれも、自分一人では作れなかったものばかりだ。


白瀬は、ふと十二年前を思い出した。


何も分からず、この時代へ放り込まれた自分。


最初に出会った澪。


泥だらけになりながら、共に水と戦ったガタ吉。


鍬を握る村人たち。


泣いて、笑って。


失敗して。


また立ち上がって。


そうして、ここまで来た。


「……俺がいなくても、もう大丈夫なんだな」


その声に、返事があった。


「そうじゃな」


振り向くと、澪が立っていた。


「……聞いてたのか」


「少しだけのう」


澪は、白瀬の隣へ腰を下ろした。


「寂しいか?」


「……ちょっとな」


白瀬は笑った。


「昔は、何をするにも俺が口を出してた気がするんだ」


「そうじゃな」


「水門も、田んぼも、商売も……」


「そうじゃな」


「最近じゃ、みんな俺より詳しいんだから」


澪が、小さく笑った。


「よいことではないか」


「ああ」


白瀬もうなずいた。


「……本当に、いいことだよ」


澪は机の上の本を見た。


「白瀬」


「ん?」


「そなたが育てたのは、田だけではなかったのじゃな」


白瀬は、少し驚いたように澪を見た。


澪は続けた。


「田は、いつか荒れる。堤も、いつか壊れる」


「……ああ」


「じゃが、知恵を持つ者がおれば、また造れる」


白瀬は、ゆっくりとうなずいた。


「……そうだな」


澪は、少しだけ微笑んだ。


「そなたの始めたことは、もう、そなただけのものではないのじゃ」


その言葉が、白瀬の胸に静かに染み込んだ。


「……ありがとう、澪」


「何を礼など」


「いや……」


白瀬は笑った。


「十二年間、俺の隣にいてくれて、ありがとう」


澪の目が、わずかに見開かれた。


「……白瀬」


「ん?」


「そなたは……」


澪は、何かを言いかけた。


けれど、途中でやめた。


代わりに、小さく笑った。


「……まったく、ずるい男じゃな」


「え?」


「何でもない」


澪は立ち上がった。


「さあ、そろそろ休むぞ。明日も仕事がある」


「……ああ」


白瀬も立ち上がる。


そして、ふと思った。


俺がいなくても、この国は歩いていける。


けれど。


俺はまだ、この国でやりたいことがある。


まだ見たい景色がある。


まだ、一緒に笑っていたい人たちがいる。


白瀬は、澪の背中を見つめた。


「……澪」


「何じゃ?」


「これからも、よろしくな」


澪は振り返った。


少しだけ驚いたような顔。


そして、いつもの笑顔。


「……当たり前じゃ」


その声は、どこか嬉しそうだった。


     ◇


数日後。


諫早の城へ、長崎から一通の書状が届いた。


差出人は、明謝楼の主人、鈴建華。


長崎の商人たちの間で、ある大きな話が持ち上がっているという。


白瀬は、直孝から渡された書状を開いた。


「……何だろう」


そこには、こう記されていた。


『長崎の港に、新たな島を築く話がございます。


岬の先にある浅瀬へ土と石を運び、海の中に島を造るというもの。


いまだ詳しいことは定まっておりませぬが、もし話が進めば、諫早で幾多の普請を成し遂げられた皆様のお知恵を、お借りできぬかと考えております』


白瀬の手が止まった。


「……海に、島を?」


澪が首をかしげる。


「そなたがしてきた干拓とは、違うのか?」


「……違う」


白瀬は、もう一度書状を見た。


「俺たちは、海から田んぼを造ってきた」


「うむ」


「でも、向こうは……海に島を造ろうとしている」


澪は、不思議そうに尋ねた。


「なぜ、そのようなことを?」


白瀬は、すぐには答えられなかった。


脳裏に浮かんだのは、現代の長崎で見た、一つの場所。


港に突き出した、扇のような形の人工島。


そして、そこに刻まれた長い歴史。


「……まさか」


白瀬は、書状を握りしめた。


「……出島?」


その言葉を聞いた澪が、首をかしげる。


「出島? 何じゃ、それは」


白瀬は答えなかった。


いや。


答えられなかった。


あの島が、何のために造られるのか。


そこに、どんな人々が暮らし。


どんな出会いと別れが生まれるのか。


白瀬は、知っていた。


少なくとも、後の世に伝わる歴史を。


だが。


この時代の長崎で、これから何が起こるのかまでは、分からない。


そこへ、ガタ吉が顔を出した。


「先生! 何か面白か話ば来たとか?」


白瀬は、ゆっくりと顔を上げた。


そして、笑った。


「……ああ」


「何じゃ?」


「また、海と大勝負することになるかもしれない」


ガタ吉の目が輝いた。


「おおっ! そいは楽しそうじゃな!」


澪は、静かに微笑んだ。


「また、忙しくなるのう」


白瀬は、二人を見た。


十二年前。


この三人で始めた国づくり。


今では、五人の若者たちが育ち、何百、何千という人々が、その夢を支えている。


白瀬は書状を畳んだ。


「……よし」


そして、いつものように笑った。


「今度は、みんなで長崎へ行こうか!」


窓の外には、秋の風。


遠く、有明海が輝いていた。


海から田を造った男。


その男に、今度は海へ島を造る話が舞い込んできた。


だが、白瀬はまだ知らなかった。


その小さな島が、やがて国と国、人と人をつなぐ、大きな歴史の舞台になることを。


そして。


その長崎で、再び一人の歌姫と出会うことが、三人の心を少しずつ揺らしていくことも――。

第七章「水学所の子ら」、これにて完結です!

土地を造るだけでは、国は豊かにならない。

知恵を受け継ぎ、自分たちで考え、次の世代へつないでいく。

十二年前の子どもたちが、ついに白瀬の手を離れ、自分たちの力で故郷を守れるようになりました。

そして白瀬も、気づけば四十歳目前。

国づくりでは頼もしい先生なのに、恋愛となると……澪と明美、二人の苦労はまだまだ続きそうです(笑)。

さて、次章の舞台は再び長崎へ!

今度の挑戦は、海から田を造るのではなく、海に島を造ること。

そう、あの「出島」へと物語が動き出します。

次章「出島と、町を出る歌」も、どうぞお楽しみに!

ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。

五人の成長や、白瀬・澪・明美の関係を楽しんでいただけましたら、ブックマークや☆☆☆☆☆で応援していただけると嬉しいです!

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