第五十九普請 先生を越えろ
紙ができた。文字も書けるようになった。
ならば次は――知恵を未来へ残そう!
白瀬が自信満々で作った教科書。ところが、教え子たちの反応は散々で……?
長吉、健太、おたえ、源太、小春。
かつての子どもたちが、今度は先生に挑みます!
寛永八年(一六三一年)、春。
諫早の空に、一枚の凧が舞っていた。
「上がったばーい!」
「もっと糸ば出せ!」
「待て待て! そっちは松の木があるぞ!」
水学所の庭から、子どもたちの歓声が響く。
凧は春風を受け、青空を悠々と泳いでいた。
使われているのは、湯江で漉いた紙だ。
まだ厚さも色も揃わない。ところどころ継ぎはぎだらけ。
それでも、少し前までは作れるかどうかさえ分からなかった紙が、今では空を飛んでいる。
「……大したもんだな」
縁側から空を見上げて、白瀬湊一は呟いた。
元和七年の夏にこの時代へ迷い込んでから、もう十年近くになる。
何もなかった泥の干潟には田が広がり、川には水門ができ、村には学ぶ場所が生まれた。
そして今、子どもたちが自分たちで作った紙を空に揚げている。
「白瀬」
背後から声がした。
振り返ると、澪が湯呑みを持って立っていた。
「また何か企んでおるな?」
「おっ、よく分かったな」
「ふん。おぬしがその顔をするときは、大抵ろくでもないことを思いついておる」
「ひどいな! 俺がいつ、ろくでもないことをした?」
「数え上げれば日が暮れるぞ」
「……そんなに?」
「まだ足りぬくらいじゃ」
澪は澄ました顔で湯呑みを差し出した。
「それで、今度は何を始めるつもりじゃ?」
白瀬は湯を一口飲むと、にやりと笑った。
「紙ができた」
「うむ」
「水害の記録も残せた」
「そうじゃな」
「だったら、次は――」
白瀬は庭の向こうにある学舎へ目を向けた。
「知恵そのものを、残したい」
澪が小さく首を傾げる。
「知恵、とな?」
「ああ。俺たちが覚えたことを、次の誰かに渡せるようにするんだ」
白瀬は懐から、一束の紙を取り出した。
「そこで、これだ!」
澪が表紙を覗き込む。
そこには大きな文字で、こう書かれていた。
『諫早手習い帳』
「……手習い帳か?」
「そう! 俺たちの教科書だ!」
白瀬の目が輝いた。
澪はしばらく表紙を眺めていたが、やがて口元を緩めた。
「ほう。ようやくおぬしも、人に見せられる字が書けるようになったか」
「そこからかよ!」
「最初の頃は、まことに見事な蚯蚓の這った跡じゃったからのう」
「……十年前の話を持ち出すな!」
「ふふ。忘れてはおらぬぞ」
白瀬は苦笑いした。
だが、このときの彼はまだ知らなかった。
その自信作が、間もなく教え子たちによって、木っ端微塵にされることを。
◇ ◇ ◇
「というわけで、完成だ!」
水学所。
白瀬は五人の前に、分厚い紙束を置いた。
長吉、健太、おたえ、源太、小春。
かつて読み書きさえおぼつかなかった子どもたちは、今やそれぞれの持ち場を持つ若者へと成長している。
「おおっ!」
真っ先に身を乗り出したのは健太だった。
「先生! なんば書いとるとですか!」
「水路の作り方、堤の守り方、田の育て方、潮の読み方。それに算術だな!」
「そがんいっぱい!」
「これ一冊あれば、誰でも基本を学べるぞ!」
白瀬は得意満面だった。
何しろ、苦労したのである。
この時代へ来た当初は、崩した文字などほとんど読めなかった。
家老に頭を下げ、勘定方に教えを乞い、何年もかけてようやく帳面を書けるようになった。
その努力の結晶である。
「さあ、読んでみてくれ!」
五人が顔を寄せた。
まず、おたえが最初の頁を開く。
「えーっと……水路の……勾配……?」
「そうだ。水を流すには高さの差がいるだろう?」
「ふむふむ……」
次の行へ目を移す。
「流れの……勢いと……水路の……断面……?」
「うんうん」
「先生」
「何だ?」
「これ、どがん意味ですか?」
「だから、水路の幅と深さで水の流れ方が変わるってことだ」
「……それを、そう書けばよかとじゃなかですか?」
「えっ」
長吉も首を傾げる。
「先生、田の水のことも書いてありますばってん……」
「おう!」
「水が多すぎたとき、どこば見ればよかか書いとらんです」
「いや、だから水位の変化を見てだな――」
「水位って、田んぼの水の深さのこつですか?」
「……そうです」
源太は絵をじっと眺めていた。
「先生」
「今度は何だ?」
「この舟、どっちに進みよるとですか?」
「そりゃ、川下へ……」
「ばってん、櫓の向きが逆ばい」
「えっ!」
健太が勢いよく立ち上がった。
「先生!」
「ま、まだあるのか!」
「水門の絵、肝心の仕掛けが見えとらんです!」
「仕組みは説明文に――」
「文字だけじゃ、どの木ば動かせばよかか分からん!」
最後に小春が、にこにこと口を開いた。
「先生」
「……何だ、小春」
「これ、先生しか読めん教科書じゃなかですか?」
しん、と静まり返った。
白瀬はゆっくりと五人を見回した。
「……そんなに駄目か?」
おたえが申し訳なさそうに答える。
「字は立派です。内容も立派です。ばってん……」
「ばってん?」
「読んで役に立つまでが、長すぎるとです」
そのときだった。
「がははははは!」
窓の外から大笑いが響いた。
ガタ吉である。
「白瀬! お前、先生のくせに生徒に叱られよるばい!」
「ガタ吉! お前いつから聞いてた!」
「最初からたい!」
「仕事しろ!」
「今は休み時間ばい!」
「お前に休み時間なんかあるのか!」
学舎が笑いに包まれた。
その隣で、澪がそっと手習い帳を開く。
しばらく眺め、静かに閉じた。
「白瀬」
「……お前まで?」
「ふむ。よく書けてはおる」
「おお!」
「じゃが、これはおぬしが知っておることを並べただけではないか?」
「……はい」
「教わる者が何を知りたいか。何に困っておるか。そこが抜けておるぞ」
「……おっしゃるとおりです」
「ふふん。水守を甘く見るでない」
澪は少し得意げに胸を張った。
白瀬は天井を仰いだ。
「……参りました」
確かに、そのとおりだった。
自分は知っている。
だから、知っていることを順番に書けば伝わると思っていた。
だが、読む人間は違う。
田で働く者。
舟を操る者。
商いをする者。
まだ文字を覚えたばかりの子ども。
それぞれ知りたいことも、分からないことも違う。
白瀬はしばらく考え込んだ。
そして、突然笑った。
「よし!」
五人が顔を上げる。
「だったら、お前たちで作れ!」
「……へ?」
「教科書だよ。俺じゃなく、お前たちが作るんだ」
「う、うちらが!?」
おたえが目を丸くする。
「ああ。俺は聞かれたことには答える。必要な道具も用意する。だが、何を書くか、どう伝えるかは、お前たちで決めろ!」
長吉が不安そうに尋ねた。
「先生、そがん大事なもん、任せてよかとですか?」
「大事だから任せるんだよ」
白瀬は笑った。
「俺より、この土地を知っているお前たちにな」
その言葉に、五人は顔を見合わせた。
澪は少し離れたところで、満足そうに頷いている。
「ようやく分かったようじゃな、白瀬」
「……何が?」
「人を育てるとは、いつまでも手を引いて歩かせることではない、ということじゃ」
白瀬は澪を見た。
澪は、いたずらっぽく笑っていた。
「さあ、白瀬先生。今度はおぬしが、あの子らに教わる番じゃな」
「……何か楽しそうだな、お前」
「無論じゃ!」
その笑顔は、実に楽しそうだった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
水学所の一室は、早くも大騒ぎになっていた。
「まずは田のことば書くべきばい!」
長吉が主張する。
「田を育てるには水と土と草ば知らんばいかん。苗の様子も絵にしたか!」
「待て待て! 道具の使い方が先じゃ!」
健太が割って入る。
「水門が壊れたら、田も畑も困るじゃろ!」
「そがんこと言うたら、舟のことも必要たい!」
源太が身を乗り出す。
「潮の満ち引きば知らんで舟ば出したら、命に関わるばい!」
「はいはいはい!」
おたえが両手を叩いた。
「みんな大事かことは分かった! ばってん、その紙と墨は誰が用意するとね!」
三人が黙る。
「紙を百枚作るにも手間がかかるとよ! 何でもかんでも書きよったら、銭がいくらあっても足らんばい!」
「じゃあ、どうすると?」
「必要なことば選ぶ!」
小春が手を挙げた。
「うちは、まず村の人に聞いて回りたか!」
「何ば?」
「何が知りたかか、たい!」
五人は顔を見合わせた。
「畑仕事の人は畑のこと。漁師さんは海のこと。子どもは文字のこと。お年寄りは……」
「何じゃ?」
「お年寄りにも聞かんば分からん!」
小春が笑う。
「先生が作ったとき、うちらに聞かんかったけん、難しか帳面になったとじゃろ?」
おたえが膝を打った。
「そいじゃ! まず聞いて回ろう!」
こうして、五人による大調査が始まった。
◇ ◇ ◇
「田のことを知りたか?」
長吉が尋ねると、年配の農夫は鼻を鳴らした。
「そんなもん、お前に教わらんでも知っとるわい」
「じゃあ、去年、稲の葉が黄色うなったとき、何ばしたとですか?」
「……肥やしば足した」
「そいで?」
「余計に弱った」
「そうでしょう。葉が黄色うなる理由は、肥やしが足らんときだけじゃなかとです。水の具合でも変わるけん」
農夫は黙り込んだ。
「……そいも書いてくれるとか?」
「もちろんです!」
長吉は嬉しそうに筆を走らせた。
一方、健太は水門の前で大工たちに囲まれていた。
「この留め木、外す順番ば間違えたら危なかとよ」
「そいなら、ここに印ば付ければよか!」
「いや、印だけじゃ分からん者もおる」
「だったら絵にする!」
健太は木切れを拾い、その場で仕組みを描き始めた。
源太は船着場で漁師たちと話していた。
「この風が吹いたら、無理して舟ば出したらいかん」
「潮が引くときは、浅かところも変わるけんね」
「おう。そいも書こう」
おたえは市で商人たちから話を聞き、小春は子どもや老人の話を一つずつ拾っていった。
数日後。
五人の前には、膨大な紙片が積み上がっていた。
「……多すぎるばい」
おたえが頭を抱えた。
「全部書いたら、先生の帳面より分厚くなるとよ!」
「じゃあ、減らすしかなか」
「何ば減らすと?」
「そいが分からん!」
また議論が始まった。
白瀬は廊下からその様子を眺めていた。
「……いい顔してるな」
隣に立った澪が、白瀬の横顔を覗き込む。
「何をにやにやしておる?」
「いや、楽しそうだなと思ってさ」
「ふむ。それはよいが……おぬし、口を出したくて仕方がないのであろう?」
「……ばれたか」
「顔に書いてあるぞ」
「俺なら、まず基本の一冊を作って、詳しいことは別に――」
白瀬が言い終わるより早く、澪がその袖を引いた。
「白瀬。手を出すでない」
「いや、でもな……」
「あの子らは、もう自分で考えられる。おぬしの役目は、答えを教えることだけではあるまい?」
「……そうだな」
「ふふ。ようやく分かったか」
澪は白瀬の袖を離した。
そのとき、室内で小春が何かを閃いたらしい。
「ねえ!」
四人が振り向く。
「みんなが使うことを一冊にして、詳しかことは別の紙にしたらどうね?」
「……あっ!」
長吉が声を上げた。
「そいなら田のことは田の紙に!」
「舟のことは舟の紙にできるばい!」
「水門の仕掛けも大きく描ける!」
おたえが算盤を弾く。
「最初の一冊が薄うなれば、紙も節約できる!」
五人は一斉に笑った。
廊下では、白瀬が小さく拳を握っていた。
「……やったな」
「ほれ、見よ」
澪が得意げに笑う。
「おぬしが口を出さずとも、答えは見つかったではないか」
「ああ」
「じゃが、何故おぬしがそれほど嬉しそうなのじゃ?」
「そりゃ嬉しいだろ。俺が教えたことより、いい方法を考えたんだからな!」
澪はその横顔を見つめた。
「……おぬしは、不思議な男じゃな」
「何が?」
「教え子に追い越されて、これほど喜ぶ先生も珍しかろう」
「そうか?」
「そうじゃ」
澪は少しだけ声を柔らかくした。
「……じゃが、わしは、そういうおぬしが嫌いではないぞ」
「ん?」
「な、何でもない!」
澪はぷいと顔を背けた。
「ほれ! あの子らが呼んでおるぞ!」
白瀬が室内に目を向けると、健太がこちらへ手を振っていた。
「先生! ちょっと来てください!」
「おう!」
白瀬は立ち上がった。
その背中を見送りながら、澪は小さく息を吐いた。
「……まったく」
口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
問題は、ここからだった。
紙ができた。
文章も絵も決まった。
だが、それを何冊も作るには、同じ文字を何度も書き写さなければならない。
「一冊書くのに、何日かかるとね!」
おたえが悲鳴を上げた。
健太は黙って木片を眺めていた。
「……なあ」
「何ね?」
「同じ文字ば何度も書くとが面倒なら、木に彫って写せばよかとじゃなか?」
白瀬が顔を上げた。
「おっ!」
健太は続ける。
「木に墨ば付けて紙に押せば、同じ文字が何度でも出るじゃろ?」
「できるぞ」
「本当ですか!」
「ああ。版木っていうやり方だ。昔から使われてる」
「そいなら、やってみたか!」
白瀬は笑った。
「いいぞ。だが、文字をそのまま彫っても駄目だからな」
「何でですか?」
「刷るときに裏返るからだよ」
「裏返る……?」
健太はしばらく考えた。
「……なるほど!」
翌日。
健太は自信満々で、最初の版木を持ってきた。
「できたばい!」
皆が集まる。
墨を付ける。
紙をそっと置く。
上から丁寧に擦る。
「よし、剥がすぞ!」
ぺらり。
全員が覗き込んだ。
「……」
「……」
「……健太?」
おたえが静かに尋ねた。
「これ、何て読むと?」
紙には、左右がひっくり返った文字が並んでいた。
「……あれ?」
健太は首を傾げた。
「先生、裏返るって言うたじゃなかね!」
「言うたばい!」
おたえが叫んだ。
「だから、彫るときに逆にせんばいかんとたい!」
「そいは分かっとった!」
「分かっとらんけん、こうなっとるとじゃろ!」
「やかましか!」
「なんね!」
「なんじゃ!」
二人が睨み合う。
「まあまあ!」
源太が慌てて間に入った。
「最初は失敗するもんたい!」
そのときだった。
「おおっ!」
窓の下からガタ吉の声。
「これ、面白かばい!」
見ると、ガタ吉が墨の付いた手を紙に押し付けていた。
べたり。
五本の指と水かきの跡が、くっきり残る。
「どうじゃ! 河童の手形たい!」
「ガタ吉ぃぃぃ!」
健太が絶叫した。
「そいは試し刷りに使う大事な紙ばい!」
「よかじゃなかか! 立派な印たい!」
「立派かどうかじゃなか!」
今度はおたえまで怒鳴る。
「紙一枚作るのに、どれだけ手間がかかっとると思うとね!」
ガタ吉は首をすくめた。
「……そんなに怒らんでもよかろうもん」
しかし、その手形は妙に愛嬌があった。
小春が吹き出す。
「ふふっ。これ、残しとこうよ」
「何でじゃ!」
「いつか見たら、今日のことば思い出すけん!」
健太は唸った。
「……一枚だけぞ」
こうして、世界で一枚しかない河童の手形入りの刷り損じが、水学所に残されることになった。
もっとも、健太の苦労はそれだけでは終わらなかった。
版木の文字を裏返しに彫る。
ようやく正しく刷れたと思えば、今度は紙が墨を吸いすぎて滲む。
力を入れて擦れば紙が傷み、弱ければ文字がかすれる。
湯江の紙漉き職人たちと相談して、紙の厚みや表面の仕上げを変えてみた。
墨の濃さも工夫した。
さらに健太は、文字を一つずつ彫った小さな木片まで作り始めた。
「これなら、文字ば組み替えられるばい!」
「ほう。木活字か」
白瀬が感心する。
だが、小さな木片の高さを揃えるのは難しかった。
一文字だけ濃くなり、隣の文字はかすれる。
組み間違えれば文章が変わる。
健太は頭を抱えた。
「文字が一つ違うだけで、全部やり直しになるとです……」
おたえが腕を組む。
「じゃあ、何度も刷るところは一枚の板に彫ればよかとじゃ?」
「ばってん、間違えたら彫り直しぞ」
「そいなら、何度も使うところと、書き直すところば分ければよか!」
健太が顔を上げた。
「……ああ!」
使い方の絵や基本の文章は、一枚の版木にまとめる。
その都度変わる数字や短い文字は、木活字や手書きで補う。
「おたえ!」
「何ね!」
「お前、たまにはよかこと言うな!」
「たまには、は余計たい!」
また喧嘩が始まった。
白瀬は腹を抱えて笑った。
「はははっ! お前たち、ほんとに飽きないな!」
「白瀬」
澪が傍らから声をかける。
「ん?」
「おぬしも、昔はあのような顔をしておったぞ」
「えっ?」
「水門を造ると言うては失敗し、泥に嵌まってはガタ吉に助けられ……」
「……昔の話だろ?」
「ふふ。わしは忘れておらぬ」
「お前、ほんとによく覚えてるな」
「当然じゃ。おぬしが失敗するたび、わしも付き合わされたのじゃからな」
澪は少しだけ得意そうに笑った。
白瀬も苦笑する。
「……でも、お前がいたから、ここまで来られたんだよな」
「……なっ」
澪の笑みが止まった。
「い、今さら何を申す!」
「本当のことだろ?」
「ふん! おぬしはまだまだ手のかかる男じゃ!」
そう言って顔を背ける。
だが、頬が少し赤い。
白瀬は気づいたような、気づかなかったような顔で、再び五人へ目を向けた。
澪はその横顔をそっと盗み見た。
そして、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「……まったく、ずるい男じゃ」
◇ ◇ ◇
初めての試し刷りが完成したのは、それから幾日も経った頃だった。
「できたぁぁぁ!」
健太の叫び声が、水学所に響き渡った。
紙の上には、大きな文字と絵が並んでいる。
水路。
田。
舟。
銭。
そして、災いから身を守るための心得。
白瀬は一枚を手に取った。
「……すごいじゃないか」
「じゃろ!」
健太は得意げに胸を張る。
「これなら何枚でも刷れるばい!」
「何枚でもは無理たい!」
すかさずおたえが突っ込む。
「紙も墨も人の手間も要るとよ!」
「分かっとる!」
「本当に分かっとるとね!」
笑いが起きた。
だが、小春だけは紙を眺めながら考え込んでいた。
「……ねえ」
「何ね?」
「本当に、これで伝わるとかな?」
おたえが首を傾げる。
「読んだら分かるように書いたじゃなかね」
「うん。ばってん、うちらは中身を知っとるけん」
小春は顔を上げた。
「知らん人に読んでもらわん?」
五人は顔を見合わせた。
そして、その試験が始まった。
◇ ◇ ◇
水学所の庭に、村人たちが集まった。
老人、農夫、漁師、商人。
文字を覚えたばかりの子どもたちもいる。
「今日は皆さんに、これを読んでもらいたかとです!」
小春が手習い帳を掲げた。
「分からんところがあったら、遠慮せず言うてください!」
最初は順調だった。
おたえの銭勘定の頁では、商人が頷いた。
「ほう。これなら子どもにも教えやすか」
長吉の田の絵を見た農夫も笑った。
「おお、よか絵たい。これなら草の違いも分かる」
源太の舟の絵には、子どもたちが集まった。
「船頭さん、ここに乗るとね!」
「そうたい!」
健太の水門の図も評判がよかった。
ところが――。
一人の老人が、水害について書かれた頁を指差した。
「小春」
「はい!」
「ここに、水が増えたら高かところへ逃げろ、と書いてあるな」
「はい!」
「そいなら、大川の堤の上に登ればよかとね?」
「……えっ?」
小春の笑顔が止まった。
長吉も顔色を変える。
「い、いや、それは……」
「堤は高かじゃろ? 家よりずっと高か」
老人は悪気なく尋ねている。
しかし、五人は背筋が冷たくなった。
大雨で川が増水しているとき、堤へ近づくのは危険だ。
堤が崩れるかもしれない。
水が溢れるかもしれない。
逃げる道そのものが使えなくなることもある。
なのに、自分たちはただ『高いところへ逃げる』としか書いていなかった。
「……」
小春は紙を見つめた。
白瀬が一歩前へ出かける。
だが、その袖を澪がそっと掴んだ。
「白瀬」
「……ああ」
「今は、あの子らを信じよ」
澪の声は静かだった。
「間違いに気づいたのなら、きっと自分らで正せる」
白瀬は頷き、足を止めた。
小春が顔を上げる。
「おじいちゃん」
「何じゃ?」
「そいは、うちらの書き方が悪かったとです」
「……ほう?」
「堤に登ったら危なかとです。川から離れて、安全な道ば通らんばいかんとです」
「じゃあ、どの道ば通ればよかとね?」
小春は答えられなかった。
村によって、道も高台も違う。
早めに逃げられる場所も違う。
ただ一つの文章で、全部を説明しようとしたことが間違いだったのだ。
小春は振り返った。
「みんな!」
四人が頷いた。
「書き直そう!」
「おう!」
その日から、五人は再び村を歩き始めた。
今度は机の上ではない。
実際に道を歩いた。
雨が降れば水の溜まる場所。
増水すれば渡れなくなる小橋。
暗くなったときの目印。
老人や小さな子どもが、無理なく通れる道。
長吉が土地の起伏を確かめる。
源太が川と潮の変化を調べる。
健太は目印の位置を測る。
おたえは村ごとの情報を帳面に整理した。
小春は住民たちの話を聞き、誰にでも伝わる言葉を探した。
澪とガタ吉も、水の通る場所や危険な場所を確かめるために加わった。
「小春、ここを見るがよい」
澪が川沿いの道を指差す。
「普段は静かな流れじゃが、大雨の折には水が集まる。ここを逃げ道にしてはならぬ」
「はい!」
「水は、人の思うとおりには流れぬ。地の形をよく見るのじゃ」
「分かりました!」
ガタ吉も泥の具合を確かめた。
「こっちは潮が高かとき、水が引きにくかばい」
「そいなら、こっちの道がよかとね?」
「おう! ばってん、大雨のときは先に確かめんばいかんぞ」
五人は何度も図を描き直した。
そして、ようやく新しい頁ができあがった。
そこには短い言葉で、こう記されていた。
『水が増える前に、早めに逃げる』
『川や堤には近づかない』
『村で決めた安全な道を通る』
さらに、それぞれの村で確かめた避難先と道筋を、別の紙に描いた。
完成した図を持って、五人は再び村人たちを集めた。
「おじいちゃん」
小春が、先日の老人に声をかけた。
「今度は、どこへ逃げたらよかか分かる?」
老人はしばらく紙を眺めた。
そして、ゆっくり指を動かした。
「ここを通って……こっちの坂へ上がるとじゃな」
「そう!」
「ばってん、この橋は雨がひどかとき、渡ったらいかん」
「そうたい!」
「……なるほどなぁ」
老人は感心したように頷いた。
「これなら、孫にも教えられるばい」
小春の顔がぱっと明るくなった。
その横で、おたえが小さく息を吐く。
「……よかった」
長吉も笑った。
「これで、役に立つ帳面になったばい」
白瀬は少し離れたところから見ていた。
胸の奥が熱くなった。
自分が最初に書いた帳面には、ここまでのことは書かれていなかった。
彼らは知識を並べただけではない。
読む人が間違えないか。
実際に使えるか。
命を守れるか。
そこまで考えたのだ。
「……負けたな」
白瀬が小さく呟く。
澪が隣で微笑んだ。
「何に負けたのじゃ?」
「俺の教え子たちに」
「ふふ。それはめでたいことではないか」
「ああ」
白瀬は笑った。
「最高に嬉しい負けだよ」
澪は五人へ目を向けた。
「……あの子らも、大きくなったのう」
「そうだな」
「昔は泥だらけになって、おぬしの後ろを追いかけておった」
「……懐かしいな」
「今は、自分らの足で歩いておる」
澪の声が少し柔らかくなった。
「白瀬」
「ん?」
「おぬしのしてきたことは、無駄ではなかったのじゃな」
白瀬は澪を見た。
その目は穏やかだった。
「ああ。……お前も一緒にやってきたことだろ?」
「……ふん」
澪は少しだけ顔を背けた。
「わしは、ただ水の行く末を見守っておっただけじゃ」
「そうか?」
「そうじゃ」
だが、その口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
初夏。
湯江の紙漉き場から、水学所へ新しい紙が届いた。
以前より少し薄く、手触りも滑らかになっている。
健太たちは版木を並べた。
墨を付ける。
紙を置く。
丁寧に擦る。
一枚。
二枚。
三枚。
何度も失敗した。
文字が滲んだ。
絵がかすれた。
紙が破れた。
おたえはそのたびに眉を吊り上げた。
「また紙ば無駄にした!」
「失敗せんば上手にならんとたい!」
「そいは分かっとる! ばってん、もうちょっと大事に使わんね!」
源太が笑い、小春が破れなかった部分を切り取って練習用に残す。
長吉は刷り終えた紙を一枚ずつ確かめ、乾かす場所へ運んだ。
千代も手伝いにやって来た。
「おたえ、こちらの字は、もう少し大きい方がよくありませんか?」
「そうね。千代ちゃん、よかところに気づいた!」
「ふふ。おたえに褒められると嬉しいです」
二人は顔を見合わせて笑った。
千代は表紙の題字にも筆を入れた。
まだ若い娘の筆跡には、丁寧さと伸びやかさがあった。
こうして、何日もかけて刷り上げた紙が、ようやく綴じられていく。
最初にできたのは、わずか八冊。
けれども、誰も少ないとは思わなかった。
紙を漉いた者。
木を彫った者。
墨を練った者。
文字を書いた者。
図を考えた者。
村で話を聞いた者。
それぞれの手が、一冊の中に重なっていたからだ。
「……できた」
健太が、綴じ終えた一冊を持ち上げる。
表紙には、千代の文字があった。
『諫早手習い帳』
その下には、小さく記されている。
『水学所 編』
白瀬は受け取って、ゆっくり頁をめくった。
田の絵。
水門の図。
舟の進め方。
銭勘定。
災いへの備え。
どれも、かつて自分が教えたことから始まっている。
けれども、もう自分の教科書ではなかった。
そこには、五人がこの土地で働き、失敗し、笑い、考えてきた年月が詰まっていた。
「……すごいな」
白瀬は顔を上げた。
「お前たち、本当に作っちまったな」
おたえが胸を張る。
「先生。うちらを誰やと思っとるとですか!」
「そうだなぁ」
白瀬はわざと考え込んだ。
「昔は文字もろくに書けなかった、いたずら好きの子どもたち?」
「昔の話ばせんでください!」
五人が一斉に抗議した。
水学所に笑い声が響いた。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
白瀬は、完成した手習い帳を前に五人を座らせた。
「みんなに話がある」
いつになく真面目な声だった。
五人も自然と背筋を伸ばす。
「俺はな、この時代に来たとき、何もかも一人でやろうとしていた」
白瀬は静かに語り始めた。
「水門を作るにも、堤を直すにも、田を造るにも。俺が知っていることを教えれば、うまくいくと思っていた」
窓の向こうでは、夕日が田を赤く染めていた。
「でも、違ったんだ」
白瀬は一人ずつ顔を見た。
「長吉」
「はい」
「お前は、もう俺より田を知ってる。土を触っただけで、俺には分からないことまで気づく」
長吉が照れくさそうに頭を掻く。
「そがんこと……」
「健太」
「はい!」
「お前は、俺が考えた道具を何度も改良した。俺が使いにくいと思っていたものを、いつの間にか使いやすくしてしまう」
健太が笑った。
「先生の考えたもん、まだ直したかところがいっぱいあるけん!」
「ほどほどに頼むぞ」
皆が笑う。
「源太」
「はい」
「海のことは、お前の方がずっと詳しい。潮も風も、魚の動きも。俺には教えられないことを、お前は知ってる」
源太は照れ笑いを浮かべた。
「おいも、まだまだ知らんことばっかりです」
「おたえ」
「はい!」
「商いじゃ、もうとっくに俺を追い越したな」
「そいは当然たい!」
「少しは遠慮しろ!」
また笑い声が上がる。
「小春」
「……はい」
白瀬は少しだけ声を和らげた。
「お前は、誰かの話を聞くことができる。俺が気づかないことまで聞いて、相手に伝わる言葉に変えられる」
小春は静かに頷いた。
「……先生のおかげです」
「いや」
白瀬は首を振った。
「お前たちが、自分で覚えたんだ」
五人は黙っていた。
白瀬は完成した手習い帳を持ち上げる。
「俺は、お前たちにいろんなことを教えたつもりだった」
その表紙を、そっと撫でた。
「でも、今日分かった」
白瀬は笑った。
「俺が知らないことを、お前たちはたくさん知っている」
そして、深々と頭を下げた。
「ありがとう」
「せ、先生!?」
五人が慌てる。
「何ばしよっとですか!」
「頭ば上げてください!」
白瀬は顔を上げなかった。
「俺の先生になってくれて、ありがとう」
しん、と静まり返った。
長吉が唇を噛んだ。
健太は照れくさそうに下を向いた。
源太は何度も瞬きをした。
おたえは口を開きかけ、何も言えなかった。
小春は、目尻をそっと拭った。
白瀬は顔を上げた。
「これからは、俺が知らない未来も、お前たちなら造れる」
夕日が差し込む。
その光の中で、五人が顔を上げた。
「先生!」
長吉が力強く言った。
「おい、もっとよか田ば造ります!」
「おいは、もっと便利か道具ば作る!」
健太が拳を握る。
「おいは、川も海も守れる漁師になるばい!」
源太が続いた。
「うちは、諫早の品ばもっと遠くまで売ります!」
おたえの声が弾む。
そして、小春。
「うちは……」
少しだけ考えてから、笑った。
「どこの国の人とも、ちゃんと話せるようになりたかです!」
白瀬は大きく頷いた。
「いいな!」
そのときだった。
「おいも! おいも先生になるばい!」
窓からガタ吉が顔を突っ込んできた。
「河童先生たい!」
「お前はもう教えてるだろ!」
「ならば大先生ばい!」
「勝手に偉くなるな!」
最後まで笑い声は絶えなかった。
澪はその様子を、少し離れたところから見つめていた。
やがて白瀬の隣へ歩み寄る。
「……よかったな、白瀬」
「ああ」
「おぬしが造ってきたものは、田や堤ばかりではなかったのじゃな」
「……そうかもしれないな」
「人の中にも、ちゃんと残っておる」
白瀬は澪を見た。
「お前にも、ずいぶん助けられたよ」
「……なっ」
澪は一瞬、言葉を詰まらせた。
「い、今さら何を申す!」
「本当のことだろ?」
「ふん! おぬしはまだまだ手のかかる男じゃ!」
そう言って顔を背ける澪。
だが、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。
白瀬も笑った。
「……これからも、よろしくな」
澪の肩が、ぴくりと動いた。
ほんの少しの沈黙。
「……仕方あるまい」
澪は小さく答えた。
「おぬし一人では、また何をしでかすか分からぬからのう」
そして、ちらりと白瀬を見上げる。
「……これからも、わしが見ていてやる」
「ああ。頼りにしてる」
「……まったく」
澪は、今度こそ本当に顔を背けた。
その頬が、夕日とは別の色に染まっていたことを、白瀬は知っていただろうか。
◇ ◇ ◇
その夜。
水学所には、一冊だけ、まだ誰にも渡されていない手習い帳が残されていた。
五人が相談して、最初の一冊を記録として残すことにしたのである。
ただし、それは少し変わった帳面だった。
長吉が田の絵の隅に、小さな稲穂を描いた。
健太は刷り損じの紙を一枚挟み、その端にこう書いた。
『次は間違えん』
おたえは、間違えた銭勘定を二重線で消し、その横に正しい数字を書き込んだ。
源太は舟の絵の隅に、小さな魚を描いた。
小春は、難しい言葉の横に、もっと分かりやすい言葉を書き添えた。
千代も、表紙の裏に小さく名前を書いた。
そして――。
「おいの印も忘れんでくれ!」
ガタ吉が、先日の手形入りの失敗紙を持ってきた。
「……まだ持っとったとね」
おたえは呆れた。
「当然たい! これは河童水工衆の印ばい!」
「誰が決めたと!」
「おい!」
「勝手に決めんで!」
結局、その紙も一緒に残されることになった。
白瀬は皆の書き込みを眺めて、笑った。
「何だよ。せっかく綺麗に作ったのに、落書きだらけじゃないか」
小春が答えた。
「よかとです」
「何で?」
「あとで見たとき、誰が作ったか分かるでしょう?」
「……ああ」
白瀬は頷いた。
「そうだな」
その一冊は、水学所の記録を納める箱に、他の大切な帳面とともにしまわれた。
いつか、ここで学ぶ誰かが読むだろう。
自分たちがいなくなったあとも、別の誰かが手に取るかもしれない。
白瀬はそう思っていた。
けれども――。
その一冊が、四百年以上の時を越え、遠い未来の諫早で再び誰かの涙を誘うことになるとは。
このときは、まだ誰も知らなかった。
◇ ◇ ◇
数日後。
小春のもとに、一通の文が届いた。
「……先生から?」
差出人は、千々石ミゲル。
小春が言葉を学び始めた、大切な師である。
文には、小春の学びを喜ぶ言葉が綴られていた。
相手の言葉を聞くこと。
知らないことを恥じないこと。
そして、知ったことを、自分だけのものにしないこと。
小春は何度も読み返した。
「……先生」
以前に受け取った文と並べる。
今度の文字は、どこか細く、ところどころ筆の勢いが弱いようにも見えた。
「……お疲れなのかな」
小春は少し心配になった。
けれど、すぐに顔を上げた。
自分たちが作った手習い帳を、先生にも見せたい。
きっと喜んでくれる。
そう思った。
小春は筆を取り、返事を書き始めた。
『先生へ。うちらは、初めて自分たちの手で手習い帳ば作りました――』
一文字ずつ、丁寧に。
このときの小春は、まだ知らない。
人が誰かから学べる時間には、いつか終わりが来ることを。
そして、師から受け継いだ言葉が、やがて自分自身の言葉になる日が来ることを。
◇ ◇ ◇
さらに数日後。
水学所へ、一通の書状が届けられた。
白瀬は差出人を見て、眉を上げた。
「……本藩から?」
書状を開く。
そこには、諫早領で増え続ける新田について、詳しい説明を求める旨が記されていた。
新たに開いた田の場所。
水路の管理。
堤の維持。
修繕に要する人手と費用。
そして、それらを誰が、どのように記録しているのか。
「……なるほど」
白瀬は腕を組んだ。
「こいつは、なかなか骨が折れそうだな」
以前なら、自分で帳面を揃え、領主や家老と相談し、説明の方法まで考えていただろう。
だが――。
「先生」
背後から声がした。
振り返る。
そこには、五人が立っていた。
長吉は田の記録を抱え。
健太は水路の図面を持ち。
源太は川と舟の帳面を携え。
おたえは算盤を握り。
小春は、皆から聞き取った話を書いた紙束を持っていた。
「……お前たち?」
白瀬が目を丸くする。
おたえがにやりと笑った。
「先生」
「何だ?」
「今度は、うちらに任せてみませんか?」
白瀬は五人を見回した。
昔、小さな手で泥を掴み、文字を一つ覚えるたびに大騒ぎしていた子どもたち。
失敗して泣き、悔しがり、それでも何度も立ち上がった仲間たち。
その五人が、今、自分の前に立っている。
白瀬はゆっくり笑った。
「……そうだな」
そして、書状をおたえに手渡した。
「頼んだぞ」
「はい!」
五人の声が重なった。
窓の外では、初夏の風が青々とした田を渡っていた。
白瀬は思う。
人が育つというのは、こういうことなのかもしれない。
いつか自分がここにいなくなっても。
この土地を守る者がいる。
この国を豊かにする者がいる。
そして、自分が知らない未来を造る者たちがいる。
ならば。
自分には、まだ一つだけ、やるべきことがある。
彼らが自分の力で歩き始める、その背中を見守ることだ。
「……さて」
白瀬は笑った。
「今度は俺が、お前たちから学ぶ番だな」
その隣で、澪が腕を組んだ。
「ふふん。ようやく先生らしい顔になったではないか」
「……今まで先生らしくなかったのか?」
「さて、どうじゃろうな?」
「おい!」
澪はくすくすと笑った。
そして、五人の背中を見つめながら、そっと白瀬に寄り添った。
「……よい若者たちに育ったのう」
「ああ」
「おぬしが教えたことを、あの子らは自分のものにした」
「……そうだな」
「ならば、もう恐れることはあるまい」
白瀬は澪を見た。
「何を?」
澪は少しだけ目を細めた。
「いつか、おぬしの手を離れる日のことじゃ」
白瀬は、しばらく黙っていた。
やがて笑う。
「……ああ。そうかもしれないな」
澪も微笑んだ。
五人は、もう振り返らなかった。
新しい仕事へ向かって、歩き始めていた。
――先生を越えた、その先へ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
ついに『諫早手習い帳』が誕生しました!
田を育てる知恵、海を読む技、商いの算術、そして命を守る知識。
白瀬が教えたことは、若者たちの手によって、もっと使いやすいものへと生まれ変わりました。
そして、落書きや刷り損じの残った一冊。
この小さな手習い帳が、いつか大きな意味を持つ日が来るかもしれません。
次回、第六十普請「俺がいなくても」。
今度は五人が、先生の手を借りずに大きな仕事へ挑みます!
面白かった、五人の成長が嬉しかったと思っていただけましたら、評価・ブックマークで応援していただけると励みになります!




