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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第五十八普請 水害帳を読む

九年前の失敗と、忘れてはならない二人の名前。


古い水害帳を開いた白瀬たちは、過去の記録が未来の命を守ることに気づきます。


そして始まる、諫早での紙づくり。


ところが、失敗作の山から思いもよらぬ発明と商売が生まれて……?


笑って、失敗して、時には涙して。


水学所の子らが、また一歩成長します。

 寛永七年(一六三〇年)、秋。


 白瀬湊一、三十六歳。


 諫早の田んぼは、黄金色に染まり始めていた。


 九年前、泥と潮に覆われていた土地に、今では稲穂が波を打っている。


 川には魚が戻り、舟が行き交い、村には子どもたちの笑い声が響く。


 そして水学所では、今日も朝から大騒ぎだった。


「先生! 昨日ん話、忘れとらんでしょうね!」


 健太が、勢いよく戸を開けた。


 白瀬は朝餉を終え、古い帳面を広げているところだった。


「おはよう、健太。何の話だ?」


「紙たい! 紙ば作るって言うたでしょうが!」


「ああ、そうだった」


「そうだった、じゃなかです!」


 健太は両手を机についた。


「昨日から、どうやって作るか考えよったとです! 竹ん枠ば作って、水に繊維ば浮かべて……」


「待て待て。まだ材料も職人も揃ってないぞ」


「なら、今から揃えればよか!」


 その後ろから、おたえが顔を出した。


「健太。朝から騒がしか。紙ば作る前に、先生の帳面ば破いたらどうするとね」


「破いとらん!」


「今にも破きそうな勢いやったばい」


 小春まで入ってきた。


「うちは紙ができたら、字の練習に使いたか。昨日のおすえちゃん、まだ自分の名前ば何回も書きたがっとったけん」


 昨日、初めて自分の名を書いた少女。


 その嬉しそうな顔を思い出し、白瀬は笑った。


「そうだな。誰もが好きなだけ字を練習できるようになればいい」


「それだけじゃなかよ、先生」


 おたえは商売人の顔になった。


「帳面も要る。荷札も要る。長崎に送る品物の控えも要る。紙が安う作れるなら、商売も変わるばい」


「お前は本当に、何でも商売に結びつけるな」


「当たり前たい。銭がなければ、次の紙も作れんとやけん!」


 もっともな話だった。


 そこへ、長吉と源太もやってきた。


 長吉の手には、水路を描いた板がある。


「先生。ちょっと見てほしかことのあるとです」


「どうした?」


「ここん古か水路たい。もう水もあんまり流れとらんけん、埋めて田にできんかと思うて」


 白瀬は板を覗き込んだ。


 大川から枝分かれする、古い水の通り道。


 確かに、今ではほとんど使われていないように見える。


「どれくらい増やせそうだ?」


「小さか田が二枚はできるばい」


「二枚か。悪くないな」


 白瀬は頷きかけた。


 しかし、図に記された水路の位置を見て、手を止めた。


「……ここか」


「何かおかしかですか?」


「いや。昔、ここを調べた気がする」


 白瀬は机の脇に積まれた古い帳面に目を向けた。


 表紙は擦り切れ、角が丸くなっている。


 九年前から書き続けてきた、諫早の水と土の記録。


 雨の日。


 川が増水した日。


 潮が高くなった日。


 堤が傷んだ場所。


 そして――。


「長吉。少し待ってくれ」


 白瀬は、古い帳面を一冊取り出した。


     ◇


「水害帳、ですか?」


 おたえが表紙の文字を読んだ。


「ああ。洪水や事故が起きたとき、何があったかを書き残した帳面だ」


「そがん昔からつけよったとね」


「最初は、俺が忘れないためだった」


 白瀬は苦笑した。


「雨が何日続いたか。潮がどこまで上がったか。誰がどこで作業していたか。覚えているつもりでも、人の記憶は曖昧になるからな」


 頁をめくる。


 九年前の記録。


 ところどころ、文字が滲んでいる。


 紙の端は虫に食われ、薄くなっていた。


「こい、読めんところのあるばい」


 小春が眉をひそめた。


「湿気で傷んだんだろうな」


 白瀬が頁をめくろうとすると、端がぱりりと裂けた。


「あっ!」


 健太が声を上げる。


 白瀬の指が止まった。


 ほんの小さな裂け目だった。


 けれど、その裂け目の向こうには、もう二度と書き直せない記録があった。


「……これは、まずいな」


 白瀬は帳面をそっと置いた。


「先生?」


「このままだと、いつか全部読めなくなる」


 皆が顔を見合わせた。


 長吉は、もう一度水路の図を広げた。


「先生。おいの水路んことは?」


「ああ。それも確かめよう」


 白瀬は古い頁をたどった。


 川の水位。


 満潮の時刻。


 雨の降り方。


 水が溢れた場所。


 やがて、一つの記録に指が止まった。


「……あった」


 長吉が身を乗り出す。


「何て書いてあります?」


「大雨のあと、潮が高くて川の水が海へ抜けず、この古い水路へ流れ込んだ、とある」


「えっ?」


「つまり、普段は使われなくても、増水したときには水の逃げ道になるかもしれない」


 源太が腕を組んだ。


「なるほど。海ん潮が上がっとるときは、川ん水も行き場ば失うけんな」


「そういうことだ」


 白瀬は長吉を見た。


「埋めるのは、もう少し調べてからにしよう」


「……はい」


 長吉は残念そうだった。


 だが、すぐに顔を上げた。


「先生。だったら、おいが調べるばい」


「長吉?」


「いつ水が流れるとやろ。どこまで溜まるとやろ。全部確かめてから田んことば考える」


 白瀬は微笑んだ。


「よし。頼んだ」


 九年前なら、白瀬が調べ、白瀬が答えを出していただろう。


 今は違う。


 教え子が、自分で調べようとしている。


 それが、何より嬉しかった。


     ◇


 ところが。


 さらに帳面を読み進めたところで、水学所の空気が変わった。


「……先生」


 長吉の声が、小さくなった。


「ここに書いてある名前……」


 白瀬は、その頁を見た。


 そこには二つの名前があった。


 弥助。


 岩蔵。


 九年前。


 海に挑んだ最初の大きな普請で、命を落とした仲間たちだった。


 白瀬は、しばらく言葉を発しなかった。


 あの日の潮の匂い。


 崩れた土。


 走り回る人々。


 必死に手を伸ばした自分。


 そして、届かなかった命。


「……弥助さんと、岩蔵さんだ」


 健太がそっと呟いた。


「覚えとるばい」


 長吉も頷いた。


「おいも。忘れたことはなか」


 源太は拳を握りしめていた。


 そのとき、後ろで授業を聞いていた小さな男の子が、不思議そうに尋ねた。


「先生。その二人は、何ばした人ね?」


 皆が振り返った。


 まだ幼い少年だった。


 九年前の普請など、知るはずもない。


「昔ん人ね?」


 少年は続けた。


「お侍さん?」


 白瀬は首を振った。


「違うよ」


「なら、偉か人?」


「……ああ」


 白瀬はゆっくり頷いた。


「とても偉い人たちだった」


 少年は目を丸くした。


「お城ん人より?」


「偉さの種類が違うんだ」


 白瀬は、窓の外を指差した。


「見えるか。あの田んぼ」


「うん!」


「あそこは昔、海だった」


「知っとる! 先生たちが田んぼにしたとやろ!」


「そうだ。だけど、俺だけじゃない。村のみんなが力を合わせたんだ」


 白瀬は帳面に目を落とした。


「弥助さんも、岩蔵さんも、その一人だった」


「今はどこにおると?」


 白瀬は静かに答えた。


「……もう、いないんだ」


 少年は黙り込んだ。


「二人は、みんなが安心して暮らせる土地を作ろうとしていた。俺たちは、その二人を守れなかった」


 小春が唇を噛んだ。


 おたえは目を伏せた。


 水学所の外から、稲穂の擦れ合う音が聞こえてくる。


「だから、忘れちゃいけないんだ」


 白瀬は帳面を閉じなかった。


「何が起きたのか。何を間違えたのか。どうすれば、次は守れるのか」


 長吉が、ぽつりと言った。


「……先生。おいたちが今、米ば作れとるとも、あの二人のおかげたい」


「ああ」


「だったら、おいが作る田にも、二人の思いが残っとるとね」


 白瀬は顔を上げた。


 長吉の目は、真っ直ぐだった。


「そうだな」


 そのとき、入口から声がした。


「……よいことを申すようになったのう」


 澪だった。


 その隣には、ガタ吉もいる。


「何じゃ、皆して暗い顔をして」


 ガタ吉はいつものように笑おうとした。


 けれど、机の上の帳面を見て、その笑みが消えた。


「……弥助と岩蔵か」


 誰も答えなかった。


 ガタ吉は帳面に近づいた。


「おいの父ちゃんも、兄ちゃんも、水で死んだばい」


 その声は、普段よりずっと低かった。


「昔んことやけん、顔も少しずつ思い出せんようになる。ばってん……忘れたくはなか」


 澪が、静かにガタ吉の背へ手を添えた。


「そうじゃな」


 白瀬は、二人を見た。


 水守。


 河童。


 そして、人間。


 三人は、この土地で同じように命の重さを知ってきた。


「この帳面を、残そう」


 白瀬が言った。


「俺たちだけのものにするんじゃない。百年後も、二百年後も、誰かが読めるように」


 健太が顔を上げた。


「……先生」


「ああ」


 白瀬は、昨日の約束を思い出した。


「紙を作ろう。今度は、俺たちの手で」


     ◇


 それから数日。


 長吉たちは古い水路を調べ続けた。


 澪が水の流れを読み、ガタ吉が泥の底を確かめ、健太は水路の模型を作った。


 源太は満潮時の水位を記録し、おたえは古い帳面と新しい記録を並べて照らし合わせた。


 小春は年寄りたちから、昔の大雨の話を聞いて回った。


 そして、雨の強い日。


 古い水路に、ゆっくりと水が流れ込んだ。


「……流れた!」


 長吉が叫んだ。


 幸い、田を傷めるほどの増水ではない。


 だが、古い水路が水を受け止めていることは、確かだった。


「埋めとったら、ここん水が行き場ば失うところやった」


 長吉は、水面を見つめた。


 白瀬は頷いた。


「そうだな。水路を残した昔の人にも、理由があったんだろう」


「おい、田ば二枚増やすことしか考えとらんかった」


「田を増やそうと考えるのは悪くないさ」


 白瀬は長吉の肩を叩いた。


「ただ、土地には今の姿だけじゃわからない役目がある。昔の記録は、それを教えてくれるんだ」


 長吉は大きく頷いた。


「先生。ここん水路は残そう」


「いいのか?」


「はい。その代わり、ほかに田ば増やせる場所ば探す!」


 白瀬は笑った。


「頼もしいな」


 すると、横からおたえが口を挟んだ。


「長吉。水路ば埋めんで済んだ分、工事ん銭も浮いたとよ」


「おたえ。何が言いたか?」


「その銭、全部じゃなかばってん……紙作りに回せんね?」


「お前、そこまで考えとったとか!」


「当たり前たい!」


 皆が笑った。


 ただし、紙を作る仕事は、笑っていられるほど簡単ではなかった。


     ◇


「……先生」


「何だ、健太」


「紙って、本当に木から作れるとですか?」


「作れる」


「木ば削って薄うするとですか?」


「いや、そうじゃない」


「なら、どうやって?」


 白瀬は答えようとして、口を閉じた。


 現代なら、紙の作り方くらい知っている。


 木の繊維をほぐし、水に浮かべて薄く広げ、乾かす。


 言葉にすれば簡単だ。


 だが、実際にやったことはない。


「……専門家を呼ぼう」


「専門家?」


「紙漉きの職人だよ」


 健太は目を丸くした。


「先生でも知らんことのあるとですね!」


「山ほどあるよ!」


 白瀬が即答すると、澪がくすりと笑った。


「ようやく自分で認めたか」


「澪。俺は最初から何でも知っているなんて言ってないぞ」


「そうじゃったかのう」


「何だよ、その顔は!」


 水学所に笑い声が響いた。


 こうして、小春の人脈と城の協力を頼りに、肥前で紙漉きに携わってきた職人を招くことになった。


 職人の名は、伊兵衛。


 日に焼けた顔に深い皺を刻んだ、口数の少ない男だった。


「……紙ば作りたか?」


「はい!」


 健太が元気よく答える。


「何枚ほどじゃ?」


「最初は百枚!」


「……百枚?」


「そのうち千枚!」


 伊兵衛は、しばらく健太を見つめた。


「まずは一枚、まともに漉いてから言わんか」


 白瀬は思わず吹き出した。


     ◇


 紙づくりの場所に選んだのは、湯江だった。


 多良の山々から流れる清らかな水。


 近くには、紙の原料になる楮も育っている。


 水に恵まれ、木もある。


 何より、村には新しい仕事を覚えたい若者たちがいた。


「よか水じゃのう」


 伊兵衛は桶の水を指ですくい、じっと眺めた。


「紙は水で変わる。汚れた水では、よか紙は漉けん」


 ガタ吉が胸を張る。


「水んことなら、おいに任せんね!」


「ほう。なら、この水桶ば洗ってくれ」


「……水桶?」


「まずは道具ばきれいにするところからじゃ」


 ガタ吉は口を尖らせた。


「おいは河童水工衆ばい。水桶洗いのために呼ばれたとじゃなか!」


 澪が涼しい顔で言った。


「では、わらわが洗おうかの」


「そ、それは駄目たい! 水守様にそがんことさせられん!」


 ガタ吉は慌てて桶を抱えた。


「おいが洗う! 誰よりもきれいに洗うばい!」


 澪は満足そうに頷いた。


 白瀬は苦笑する。


「相変わらず、澪には勝てないな」


「当たり前じゃ」


 その横で、伊兵衛が首をひねっていた。


「……水守様に、河童水工衆。ここん紙漉き場は、えらく賑やかじゃのう」


 白瀬は笑った。


「慣れますよ」


     ◇


 紙づくりは、楮の皮を扱うところから始まった。


 枝を蒸し、皮を剥ぐ。


 外側の黒い皮を取り除き、内側の繊維を使う。


 灰を使った液で煮て柔らかくし、汚れを取り除いてから、丁寧に叩きほぐす。


 気の遠くなるような仕事だった。


「……先生」


「何だ?」


「紙一枚作るのに、こがん手間のかかるとですか?」


「ああ。俺も実際に見るのは初めてだ」


「そりゃ紙が高かはずたい……」


 健太は、繊維の束を見つめた。


 叩いても叩いても、なかなか均一にはならない。


 伊兵衛は黙々と手を動かしていた。


「急いだら、よか紙にはならんぞ」


「はい!」


 やがて、水を張った大きな槽に、ほぐした繊維を浮かべる。


 粘りのある植物の汁も加え、繊維が偏らないようにする。


 そして、細い竹を編んだ簀を木枠にはめ、水の中へ入れる。


「よう見とれ」


 伊兵衛が枠を持ち上げる。


 水が流れ落ちる。


 簀の上には、薄い繊維の層が残った。


「おおっ!」


 健太が声を上げた。


「紙んごたる!」


「まだじゃ。ここから水ば切って、乾かさにゃならん」


 しかし、健太はもう待ちきれなかった。


「先生! おいにもやらせてください!」


「よか。やってみい」


 健太は簀を受け取った。


 水の中へ沈める。


 ゆっくり持ち上げる。


「よし……よし……!」


 その瞬間。


 ざばっ!


 勢いよく傾けすぎた。


 繊維は一方へ寄り、反対側には大きな穴が空いた。


「……あれ?」


 伊兵衛が一言。


「穴の空いとるぞ」


「見ればわかるばい!」


 健太の叫びに、皆が笑った。


 二枚目。


 厚すぎた。


 三枚目。


 薄すぎた。


 四枚目。


 乾かす途中で破れた。


 五枚目。


 板から剥がそうとして、半分に裂けた。


「うがあああっ!」


 健太が頭を抱える。


「何でうまくいかんとやー!」


 白瀬は、その姿を見ながら昔を思い出した。


 水学所で、健太が初めて模型の水路を作ったとき。


 何度も崩れた。


 何度も直した。


 それでも諦めなかった。


「健太」


「何ですか、先生!」


「失敗した紙、並べてみろ」


「……並べる?」


「ああ。全部だ」


 健太は不思議そうにしながら、破れた紙を広げた。


 白瀬は一枚ずつ指差した。


「これは厚い。こっちは薄い。これは端だけが破れている」


「はい」


「全部、同じ失敗か?」


 健太は黙った。


 しばらくして、顔を上げる。


「……違う」


「そうだな」


「失敗ん理由が違うなら、直すところも違う……!」


 白瀬は頷いた。


「俺たちが水路を造るときと同じだよ」


 健太は、はっとした。


「……先生!」


「ん?」


「簀の編み方ば、ちょっと変えてみたか!」


 健太は道具を抱えて走り出した。


 伊兵衛が呆れたように言う。


「……あん若者は、休むことを知らんのか」


「昔から、ああなんです」


 白瀬は笑った。


「でも、あいつなら、きっと作りますよ」


     ◇


 それからというもの。


 湯江の紙漉き場には、失敗した紙が山のように積まれていった。


 健太は竹の編み方を変え、枠を直し、水の量を調整した。


 伊兵衛から教わった繊維のほぐし方も、何度も繰り返した。


 澪は水の流れを確かめ、ガタ吉は桶や水槽を整える。


 源太は舟で材料を運び、長吉は楮を育てる場所を調べている。


 小春は手伝いの人々を集め、おたえは使った材料と銭を帳面につけていた。


 そして、ある日のこと。


「……ちょっと待って」


 おたえの声が低くなった。


 白瀬が振り返る。


「どうした?」


「先生。こい、どがんするつもりね?」


 おたえの前には、失敗した紙の山。


「……どうするって?」


「捨てるとね?」


「いや、もう一度繊維に戻して漉き直せるものは――」


「それはわかっとる!」


 おたえは腕を組んだ。


「ばってん、全部を漉き直す必要はなかでしょうが!」


 健太が首をかしげる。


「どがん意味ね?」


「こい!」


 おたえは、厚さにむらのある紙を一枚持ち上げた。


「字の練習には使えるたい!」


「あっ!」


「こっちの小さか紙は、荷札に使える!」


「なるほど!」


「こいは薄かけど、破れとらん。障子の小さか破れを繕うのには使えんね?」


 白瀬が頷いた。


「できそうだな。ただ、薄すぎるものはすぐ破れるから、使う場所は選ぼう」


「なら、ちゃんと分ければよか!」


 おたえの目が輝いた。


「売り物になるものと、ならんもの。最初から分けて考えればよかとたい!」


 白瀬は感心した。


 失敗した紙。


 健太には、技術の失敗に見えていた。


 白瀬には、漉き直す材料に見えていた。


 しかし、おたえには。


 まだ使い道の決まっていない商品に見えていたのだ。


「……おたえ。すごいな」


「何ね、先生。急に」


「俺には思いつかなかったよ」


 おたえは、少しだけ照れた。


 だが、すぐに胸を張る。


「うちは商人たい!」


 そのときだった。


「先生ーっ!」


 外から子どもの声が聞こえた。


「何か飛んどるーっ!」


 白瀬は首をかしげた。


「……飛んでる?」


     ◇


 紙漉き場の外。


 秋の青空に、一枚の紙が舞っていた。


 いや。


 正確には、舞い上がろうとしていた。


「うわっ! 落ちた!」


「もっと走らんね!」


「糸ば引っ張りすぎたい!」


 子どもたちが、田んぼの脇を走り回っている。


 先頭にいたのは健太だった。


 いつの間に作ったのか、細い竹の骨組みに、失敗した紙が貼りつけられている。


 そこから一本の糸が伸びていた。


「健太! それ、どうした!」


 白瀬が叫ぶ。


「先生! 前に教えてもろうた、空に揚げる玩具たい!」


「凧か!」


「そう、それ!」


 健太は勢いよく走った。


 紙が風を受ける。


 ふわり。


 一瞬、浮いた。


「おおっ!」


 しかし、次の瞬間。


 くるり。


 地面へ真っ逆さま。


「うわあああっ!」


 健太は頭を抱えた。


「何で落ちるとやー!」


 白瀬は凧を拾い上げた。


 左右の竹の長さが微妙に違う。


 糸の結び目も、中心からずれていた。


「健太。こっちが重いんじゃないか?」


「……あっ」


「それに、風を受ける角度も――」


「先生! ちょっと貸してください!」


 健太は凧を奪うように受け取り、走っていった。


 おたえが呆れた。


「……あいつ、紙漉きはどがんしたとね」


「まあ、あれも紙の使い道だ」


 白瀬は笑った。


 ガタ吉もやってきた。


「何ね、あれ」


「凧だよ」


「タコ?」


「ああ」


「海んタコば空に飛ばすとね!?」


「違う! そのタコじゃない!」


 ガタ吉は真顔になった。


「……タコも大変ばい。海から出されて、空まで飛ばされるとは」


 澪が吹き出した。


「ふふっ……ガタ吉。おぬしは本当に飽きぬのう」


「何がおかしかとね!」


 そのとき。


「あっ!」


 子どもたちが声を上げた。


 健太の凧が、風を受けて持ち上がった。


 今度は落ちない。


 ゆらり。


 ゆらり。


 そして――。


 すうっと、青空へ昇っていった。


「飛んだーっ!」


 子どもたちが一斉に叫んだ。


「健太兄ちゃん! すごかー!」


「おいにも揚げさせて!」


「うちも! うちも!」


 健太は、糸を握ったまま笑った。


「順番たい! 順番!」


 白瀬は空を見上げた。


 青い空。


 白い雲。


 黄金色の田んぼ。


 その上に、不格好な紙の凧が浮かんでいる。


 九年前には、想像もしなかった光景だった。


 ふと、隣で澪が呟いた。


「……人の子は、不思議じゃな」


「何が?」


「失敗したものまで、空へ飛ばしてしまう」


 白瀬は笑った。


「俺も、あいつらには驚かされっぱなしだよ」


 澪は空を見つめたまま言った。


「じゃが、悪くない」


「ああ」


「……よい景色じゃ」


 二人は、しばらく黙って凧を見上げていた。


     ◇


 だが。


 その光景を見ていたおたえは、別のことを考えていた。


「……健太」


「何ね?」


「あれ、一つ作るのに、どれくらい手間のかかると?」


「竹ば削って、紙ば貼って……半日もあれば作れるばい」


「半日……」


 おたえの目が細くなった。


「材料は?」


「竹と紙と糸たい」


「紙は?」


「失敗したやつ」


「……ふふっ」


 嫌な予感がした。


 白瀬は、おたえを見た。


「おたえ?」


「……ふふふっ」


「おーい?」


 おたえが、勢いよく顔を上げた。


「健太! 十個作って!」


「はあ!?」


「十個たい! まず十個!」


「何するとね!」


「売るとたい!」


 健太が口を開けた。


「こいを!?」


「こいを!」


 小春まで乗り出した。


「長崎に持っていったら、子どもたちが喜ぶかもしれんね!」


「そうたい! 諫早でも売れる!」


「おたえ、待て!」


 白瀬が割って入る。


「まだ試作品だろう。売るなら、壊れにくさも確かめないと」


「わかっとります!」


 おたえは即答した。


「だから、まず十個たい! 全部売るとは言うとらんでしょうが!」


 白瀬は黙った。


 ……確かに。


 おたえは、ただ儲けようとしているわけではない。


 作って、使ってもらって、様子を見る。


 商売の基本を、自分で身につけている。


「……参ったな」


 白瀬は笑った。


「何ね、先生」


「いや。もう教えることがなくなりそうだと思ってさ」


 おたえは鼻を鳴らした。


「まだまだ教えてもらうことは山ほどあるばい!」


 そして、にやりと笑った。


「ばってん、商売のことは、うちに任せてもらうけん!」


     ◇


 翌日。


 今度は長吉が、凧を持って田んぼに立っていた。


「……何しよっと?」


 源太が尋ねた。


「ちょっと試したかことのあるとたい」


 長吉の手には、健太が作った凧。


 ただし、昨日のものとは少し違う。


 紙には、大きな鳥の絵が描かれていた。


「鷹ね?」


「そうたい」


「何で鷹?」


 長吉は、稲穂に群がる雀を指差した。


「見とけ」


 長吉が走り出す。


 凧が風を受けた。


 ふわり。


 鷹の絵を描いた紙が、田んぼの上に舞い上がる。


 その影が稲穂の上を横切った瞬間。


 ばさばさばさっ!


 雀の群れが飛び立った。


「おおおっ!」


 源太が目を丸くした。


「雀が逃げたばい!」


「やっぱり!」


 長吉は拳を握った。


「こいがあれば、田んぼば守れるとじゃなか!?」


 そこへ、おたえがやってきた。


「……ちょっと、長吉」


「何ね?」


「そい、うちの売り物たい!」


「借りただけたい!」


「勝手に持っていったら、借りたとは言わん!」


「ばってん、役に立ったばい!」


 長吉は胸を張った。


「雀ば追い払えた!」


 おたえは一瞬、言葉を失った。


 そして、ゆっくりと凧を見上げた。


「……田んぼにも使えるとね」


「そうたい!」


 おたえは、しばらく考えていた。


 やがて――。


「……健太!」


 遠くの紙漉き場へ向かって叫んだ。


「今度は鷹ん絵ば描いた凧も作って!」


「またかーっ!」


「田んぼ用たい! 遊び用とは別に売ると!」


 白瀬は、そのやり取りを聞いて笑った。


「ちょっと待て。雀が最初だけ驚いたのかもしれないぞ」


 長吉が振り返る。


「最初だけ?」


「ああ。毎日同じ場所にあったら、慣れてしまうかもしれない。風がなければ揚がらないしな」


「……なるほど」


「まずは試そう。どこに、いつ、どんな風の日に揚げたら役に立つのか。記録をつけて」


 長吉の顔が輝いた。


「先生! おいがやる!」


「頼んだ」


 おたえも頷いた。


「役に立つとわかってから売れば、胸ば張って商いできるけんね!」


 白瀬は空を見上げた。


 失敗した紙。


 そこから生まれた凧。


 子どもの遊び道具が、今度は田んぼを守る道具になろうとしている。


 まったく。


 この連中といると、退屈する暇がない。


     ◇


 秋が深まっていった。


 湯江の紙漉き場では、今日も水音が響いている。


 何度も失敗を繰り返しながら、健太は少しずつ紙を漉く腕を上げていた。


 伊兵衛も、最初の頃ほど口うるさくなくなった。


「……健太」


「はい!」


「そろそろ、自分でやってみい」


 健太は驚いた。


「よかとですか?」


「いつまでも、わしが手を添えとったら覚えんじゃろうが」


 健太は深く頭を下げた。


「ありがとうございます!」


 楮の繊維をほぐす。


 水に浮かべる。


 簀を沈める。


 ゆっくり、均一に。


 持ち上げる。


 水が落ちる。


 薄い繊維の層が、簀の上に残った。


 今度は、穴がない。


 厚さも、これまでで最も揃っている。


 慎重に水を切り、紙を重ねて圧し、乾かす。


 その日は、誰も急かさなかった。


 翌日。


 乾いた紙を、健太がそっと板から剥がした。


 ぱりっ。


 破れない。


 もう一度、端を持ち上げる。


 破れない。


 全部剥がす。


 薄い。


 少し黄色がかっている。


 ところどころ、繊維の筋が残っている。


 けれど。


 確かに、一枚の紙だった。


「……できた」


 健太が呟いた。


「先生……」


 白瀬が近づく。


「できたとです……」


 健太の声が震えていた。


「紙が……できたばい……!」


 白瀬は、その紙を受け取った。


 指先に、かすかなざらつきがある。


 現代の紙とは、まるで違う。


 だが、不思議な温かさがあった。


「……すごいな、健太」


 白瀬は、心からそう言った。


「本当に、すごいよ」


 健太の目から、涙がこぼれた。


「……何回も失敗したとです」


「ああ」


「もう、できんかもしれんって思うたこともあったばい」


「そうか」


「ばってん……諦めんでよかった……!」


 伊兵衛が、ゆっくり頷いた。


「まだまだじゃ。もっと薄うも、もっと強うもできる」


「……はい!」


「じゃが」


 伊兵衛は、少しだけ笑った。


「よう頑張ったのう」


 健太は、深く頭を下げた。


 その姿を見て、白瀬は胸が熱くなった。


 自分が知っていたのは、紙が作れるという事実だけ。


 実際に作ったのは、職人の技と、健太の努力と、仲間たちの手だった。


 知識だけでは、何も生まれない。


 人が動いてこそ、初めて形になる。


 白瀬は、九年前の自分に教えてやりたくなった。


 お前が知らないことを、いつか教え子たちが教えてくれるぞ、と。


     ◇


 最初にまともに漉き上がった一枚の紙。


 それを何に使うかで、また大騒ぎになった。


「水学所の名前を書くとよか!」


「いや、紙の作り方ば書いて残さんね!」


「最初の品として飾ったらどうね?」


「先生の似顔絵は?」


「それはいらないだろ!」


 白瀬が即答すると、皆が笑った。


 だが、長吉だけは黙っていた。


「……長吉?」


 小春が尋ねた。


「どがんしたと?」


 長吉は、机の上の紙を見つめていた。


 やがて、静かに口を開いた。


「……先生」


「何だ?」


「おい、書きたか名前のあるとです」


 白瀬は頷いた。


「誰の名前だ?」


 長吉は、真っ直ぐ白瀬を見た。


「弥助さんと、岩蔵さん」


 水学所が静まり返った。


 白瀬は、言葉を失った。


 長吉は続けた。


「おいたちが今、田んぼば作れるとも、米ば食べられるとも、あの二人がおったけんたい」


 健太が頷いた。


 源太も、静かに頷いた。


「おい、あんときのこと、忘れとうなか」


 長吉の声が震えた。


「ばってん、さっきん小さか子みたいに、知らん子も増えてきた」


「……ああ」


「この先、もっと増えるばい。十年後も、二十年後も」


 長吉は、紙を指差した。


「なら、書いて残そう。おいたちが覚えとるうちに」


 白瀬は、ゆっくりと筆を手に取った。


 そして、それを長吉に渡した。


「……お前が書け」


「先生?」


「お前たちが残すんだ。これからの諫早に」


 長吉は、震える手で筆を受け取った。


 墨をつける。


 紙の上に、ゆっくりと筆を下ろす。


 弥助。


 少し曲がった文字。


 もう一度、墨をつける。


 岩蔵。


 二つの名前が、そこに並んだ。


 上手な字ではなかった。


 墨の濃さも揃っていない。


 けれど。


 誰も、書き直せとは言わなかった。


 ガタ吉が、ぽつりと呟いた。


「……これなら」


 皆が振り返る。


「これなら、忘れんで済むばい」


 澪は、そっと目を閉じた。


「……そうじゃな」


 水守は、長い時の流れを知っている。


 川が形を変えることも。


 海が土地を呑み込むことも。


 人が生まれ、老い、去ってゆくことも。


 けれど。


「水は流れてゆく」


 澪が静かに言った。


「じゃが、人の想いまで、流してしまう必要はない」


 白瀬は、紙を見つめた。


 弥助。


 岩蔵。


 九年前、海で失った二人。


 最初の収穫のとき、二人とその家族に米を捧げた。


 あの日も、忘れないと誓った。


 だが、忘れないと誓った自分たちも、いつかはいなくなる。


 だからこそ。


 残さなければならない。


 名前を。


 失敗を。


 そして、命を守るために学んだことを。


「……ありがとう、長吉」


 白瀬は、静かに言った。


 長吉は首を振った。


「先生。お礼ば言うとは、おいの方たい」


「どうして?」


「先生たちが、おいたちに教えてくれたけん」


 長吉は笑った。


「今度は、おいたちが次ん子らに教える番たい」


 白瀬は、何も言えなかった。


 ただ、頷いた。


     ◇


 夕暮れ。


 水学所の縁側に、白瀬と澪が座っていた。


 庭では、ガタ吉が子どもたちと凧を揚げている。


「もっと糸ば出さんね!」


「ガタ吉! 引っ張りすぎたい!」


「わかっとるばい!」


 ……わかっていないようだった。


 凧がくるりと回り、庭木に引っかかった。


「あああっ!」


 子どもたちの悲鳴。


 ガタ吉の叫び。


 澪が、くすくす笑った。


「まったく。あやつは変わらぬのう」


「そうだな」


 白瀬も笑った。


 だが、その笑顔は、すぐに静かなものになった。


「……澪」


「何じゃ?」


「俺たちがやってきたことって、ちゃんと残るのかな」


 澪は白瀬を見た。


「残すために、皆が動いておるではないか」


「そうだけどさ」


 白瀬は、遠くの田んぼを眺めた。


「堤は壊れるかもしれない。水路も埋まるかもしれない。田んぼだって、いつか海に戻るかもしれない」


「……うむ」


「俺たちがいなくなったら、誰が直すんだろうって、たまに考えるんだ」


 澪は、しばらく黙っていた。


 やがて、そっと答えた。


「白瀬」


「ん?」


「おぬしは、何もかも自分で守ろうとしすぎる」


「……そうかな」


「そうじゃ」


 澪は、庭の向こうを指差した。


 そこには、健太がいた。


 破れた凧を手に、子どもたちへ竹の組み方を教えている。


 少し離れたところでは、長吉が若い農夫と田の話をしていた。


 おたえは紙の使い道を数え、小春は子どもたちと笑い、源太は凧を飛ばす風の向きを教えている。


「見よ」


 澪が言った。


「あの者たちは、もうおぬしの後ろを歩いておるだけではない」


 白瀬は、静かに頷いた。


「……ああ」


「おぬしがいなくとも、考え、迷い、失敗し、また立ち上がるであろう」


 澪は、少しだけ微笑んだ。


「それでよいではないか」


 白瀬は、澪を見た。


 九年前。


 大川のほとりで出会った、不思議な少女。


 水の声を聞き、時に厳しく、時に優しく、自分を支えてくれた相棒。


「……澪も、変わったな」


「何じゃと?」


「昔は、もっと偉そうだった」


「今も偉いぞ、わらわは」


「そうだったな」


 二人は笑った。


 そのとき、澪が小さく呟いた。


「……じゃが、わらわも学んだ」


「何を?」


「人と共に生きることを、じゃ」


 白瀬は、その横顔を見つめた。


 澪は、少しだけ頬を染めた。


「……何を見ておる」


「いや」


「妙な顔をするでない」


「いい顔だな、と思って」


「なっ……!」


 澪が慌てて顔を背けた。


「た、戯れを申すな!」


 白瀬は笑った。


 庭では、ガタ吉がまだ騒いでいる。


 夕暮れの空に、凧がもう一度舞い上がった。


     ◇


 翌朝。


 水学所は、またしても大騒ぎだった。


「先生! 先生!」


 おたえが駆け込んできた。


「今度は何だ?」


「昨日ん紙たい!」


「紙?」


「弥助さんと岩蔵さんの名前ば書いた紙!」


 白瀬は頷いた。


「ああ。大事にしまってあるよ」


「それだけじゃ、いかんたい!」


「……どういうことだ?」


 おたえは、机に一冊の帳面を広げた。


「うち、考えたとです!」


 そこには、水学所で教えていることが書き出されていた。


 文字。


 数え方。


 田んぼの作り方。


 水路の見方。


 雨の日の備え。


 舟の扱い方。


 商いの帳面。


 そして、昔の失敗。


「先生。これば全部、紙に書いて残したらどうね?」


 白瀬は目を丸くした。


「……全部?」


「そうたい!」


 健太が続けた。


「紙が作れるなら、何枚でも書けるばい!」


 源太が笑う。


「何枚でもって、誰が書くとね?」


「……あっ」


 健太が固まった。


 長吉が腕を組む。


「村のみんなに渡すなら、何十冊も要るばい」


 小春も頷いた。


「ほかの村にも持っていきたか。長崎にも」


 おたえが胸を張った。


「なら、百冊作ろう!」


「百冊!?」


 白瀬が叫んだ。


「それを全部、手で書くのか!?」


 おたえは、にやりと笑った。


「先生。そこを考えるんが、健太の仕事たい」


「お、おい!?」


 健太が飛び上がる。


「また無茶ば言いよる!」


「無茶じゃなか!」


 おたえは、庭に積まれた板切れを指差した。


「先生。木の板に文字ば彫って、墨ばつけて、紙に写したらどうね?」


 白瀬の目が、大きく見開かれた。


「……版木」


「何ね?」


「木版印刷だ!」


 白瀬は思わず立ち上がった。


「そうか! その手があった!」


 健太も、勢いよく立ち上がる。


「先生! そいなら、同じ字ば何回でも写せるとね!?」


「できる!」


「百枚でも!?」


「できる!」


「千枚でも!?」


「版木がもてばな!」


 健太の目が輝いた。


「……面白か!」


 おたえが笑う。


「そうでしょう!」


 小春も笑った。


「そしたら、もっとたくさんの人が学べるね!」


 源太は腕を組み、長吉は大きく頷いた。


 五人が顔を見合わせる。


 そして、おたえが白瀬に向かって言った。


「先生!」


「何だ?」


「その本、うちたちに作らせて!」


 白瀬は、五人を見渡した。


 かつて、読み書きも満足にできなかった子どもたち。


 泥だらけで走り回り、魚を追い、田んぼで転げ、商売に失敗して泣いていた仲間たち。


 その五人が今、自分たちの知恵を本にして残そうとしている。


 白瀬は、ゆっくりと笑った。


「……よし」


 五人が身を乗り出す。


「やってみよう!」


「やったーっ!」


 歓声が水学所に響いた。


 その騒ぎを聞きつけ、澪とガタ吉もやってきた。


「今度は何事じゃ?」


「本ば作るとたい!」


 ガタ吉が首をかしげた。


「本?」


「そうたい!」


 健太が胸を張る。


「諫早のみんなが、いつでも勉強できる本ば作ると!」


 ガタ吉は、しばらく考えた。


 そして、真剣な顔で尋ねた。


「……団子の作り方も載せるとね?」


「載せん!」


「何でねーっ!」


 皆が笑った。


 その笑い声の中で、白瀬は机の上の一枚の紙を見つめた。


 弥助。


 岩蔵。


 二人の名前が記された、不格好な手漉き紙。


 その隣には、健太が失敗したときに使った、繊維のむらが残る紙が置かれていた。


 白瀬は、その紙を一枚手に取った。


「……これも、残しておこうか」


 健太が不思議そうに尋ねた。


「失敗した紙ばですか?」


「ああ」


「何で?」


 白瀬は笑った。


「最初から上手くできたわけじゃないって、わかるだろ?」


 健太は、少し照れくさそうに笑った。


「……そがんですね」


 白瀬は、窓の外を見た。


 秋空に、凧が一つ浮かんでいる。


 あの凧も、失敗した紙から生まれたものだった。


 失敗したから、考えた。


 考えたから、新しいものが生まれた。


 そして、それを次の誰かに伝えていく。


 それこそが、今、自分たちが造ろうとしている国の姿なのかもしれない。


「先生!」


 健太が呼んだ。


「今度は版木たい! おい、絶対に作ってみせるばい!」


「ああ。期待してるよ」


 白瀬は頷いた。


 まだ誰も知らない。


 この小さな水学所で始まった本づくりが、やがて多くの人の命を守る知恵となることを。


 そして――。


 四百年の時を越えて、遠い未来にまで残ることを。


 その第一歩は、失敗だらけの一枚の紙から始まった。


     ◇


 その日。


 水学所の新しい帳面に、おたえは大きく書き記した。


『諫早手習い帳 作り始め』


 その下に、五人の名前を並べる。


 長吉。


 健太。


 源太。


 おたえ。


 小春。


 おたえは、書き終えて満足そうに頷いた。


 ところが。


「……おたえ」


「何ね、健太」


「ここん字、違うばい」


「……は?」


「『習』ん字」


 おたえが帳面を覗き込んだ。


 確かに、一画足りない。


「…………」


 健太が、にやりと笑った。


「先生! まずはおたえから手習いが必要ばい!」


「健太ぁぁぁっ!」


 水学所に、今日一番の笑い声が響いた。


 そして白瀬は思った。


 ――こいつら、本当に俺を越えていくかもしれないな。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!


今回は、弥助と岩蔵の名前を再び登場させました。


土地を造ることは、そこに生きた人々の想いを受け継ぐことでもあります。


そして、健太たちが挑んだ紙づくり。


失敗した紙が凧になり、遊び道具が田んぼを守る道具へ。おたえの商売魂も相変わらず健在です(笑)。


ちなみに、作中の湯江での紙づくりは、史実よりも早く始まった創作上の挑戦です。


さて、次回はいよいよ本づくり!


教え子たちは、本当に先生を越えられるのでしょうか?


次回、第五十九普請「先生を越えろ」。


引き続き応援いただけると嬉しいです!

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