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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第五十七普請 女も学ぶ

「女が学んで、何になる?」

そんな言葉に、おたえが黙っているはずもなく……。

今回は、おたえと小春、そして千代が大活躍!

商いも、言葉も、読み書きも。学ぶことで広がっていく未来を描きます。

水学所に、またひとつ新しい風が吹き始めます。

 寛永六年(一六二九年)、春。


 諫早の水学所に、ひとつの騒ぎが持ち上がっていた。


「ほんなら、うちが教えちゃるけん!」


 おたえが、胸を張って言い放った。


 その目の前には、腕組みをした年配の村人がいる。


「ほう。何ば教えてくれるとね?」


「女が学んだら、何の役に立つかです!」


 おたえは、にっこり笑った。


 ただし、その笑顔を見た小春は、嫌な予感がした。


(ああ……おたえ、また何か始める気や)


 小春は、そっと一歩下がった。


 水学所の庭には、午前の授業を終えた子どもたちや、見物に来ていた村人が集まっている。


 つい先ほどまで、澪とガタ吉が水の流れを教えていた場所である。


「おじさん」


「なんね?」


「おじさんの家で、米があと何日もつか知っとるとは誰ですか?」


「そら、うちの女房たい」


「じゃあ、畑に出とる間、魚ば売りに行くとは?」


「それも女房じゃな」


「銭の残りば数えよるとは?」


「……女房じゃ」


 おたえは、ぱん、と手を打った。


「ほら!」


「な、何が、ほら、じゃ!」


「そがん大事な仕事ばしよる人が、字も算術も覚えたら、もっと暮らしがよくなると思わんですか!」


 周囲から、くすくすと笑いが漏れる。


 年配の男は、むっとした。


「そら、覚えた方がよかこともあるじゃろう。ばってん、娘らが学びに来たら、家の仕事は誰がするとね!」


「それは……」


 おたえの口が止まった。


「うちはな、女が学ぶとが悪かとは言うとらん。学問もよかろう。ばってん、腹は学問じゃ膨れんとぞ」


 男は、そこで声を少し落とした。


「明日の米ば心配せんでよか家ばかりじゃなか」


 今度は、誰も笑わなかった。


 おたえは唇を噛んだ。


 間違っているとは思わない。


 けれど、相手の言うことも分かる。


 それが、たまらなく悔しかった。


「……はがいか」


 小さく漏れた言葉を、小春は聞き逃さなかった。


「おたえ」


「分かっとる! 分かっとるばってん!」


 おたえは地面を踏み鳴らした。


「うち、絶対に諦めんけん!」


 その様子を少し離れたところから眺めていた白瀬湊一は、思わず苦笑した。


「……あいつ、昔の俺に似てきたな」


 隣の澪が、静かにうなずく。


「似ておるな。己の考えが正しいと思えば、すぐ前へ出るところが」


「そこまで似てるか?」


「よく似ておる」


 さらに足元から声が上がった。


「先生より口が達者ばい!」


「ガタ吉、お前は黙ってろ」


「なんでね!」


 庭先に笑いが戻った。


 だが、おたえの胸に残った悔しさは、まだ消えていなかった。


     ◇


「はがいかーっ!」


 その日の昼。


 水学所の一室に、おたえの声が響き渡った。


 長机の上には、木札と帳面が並んでいる。


 小春は頬杖をつきながら、友人を眺めていた。


「おたえ。そがん怒っても、何も変わらんよ」


「分かっとると!」


「分かっとらん顔しとる」


「小春!」


「はいはい」


 小春は、けらけら笑った。


 その向かい側で、千代が二人の様子を興味深そうに見つめている。


 諫早直孝の娘。


 若殿・茂敬の妹である。


 最初は、領主の娘と村の少女という身分の違いもあって、おたえは随分と遠慮していた。


 しかし、今では違う。


 水学所に来れば、三人は同じ机に向かう仲間だった。


「おたえ」


「はい、千代様」


「わたくしにも、その悔しさは少し分かります」


「え?」


 千代は、手元の筆を見つめた。


「わたくしは、幼い頃から文字を習ってまいりました。手紙も書けますし、書物を読むこともできます」


「そら、すごかことです」


「ですが……」


 千代は顔を上げた。


「おたえのように、帳面ひとつで多くの人の暮らしを支えることは、まだできません」


 おたえは目を丸くした。


「うちが、ですか?」


「ええ。小春も同じです」


「うち?」


「小春は、知らない人ともすぐに仲良くなってしまうでしょう。それに、長崎の言葉まで学んでいる」


 小春は照れくさそうに頭をかいた。


「まだまだたい。千々石様に教わっとることも、半分くらいしか分からんとよ」


 千々石ミゲル。


 小春が長崎で出会った、海の向こうの世界を知る老人。


 今も小春は、機会を見つけて手紙を交わし、言葉や人との向き合い方を学んでいる。


「でもね、千代様」


 小春は笑った。


「知らんことがあるけん、学ぶとは楽しかとよ」


 千代の表情が明るくなった。


「……そうですね」


 そして、少しだけ背筋を伸ばした。


「わたくしも、お二人のようになりたいのです」


「千代様?」


「兄上は、いずれこの諫早をお守りになるお方。ですが、わたくしにも、わたくしにできることがあるはずです」


 おたえは、しばらく千代を見つめていた。


 そして、突然笑った。


「なら、千代様!」


「はい?」


「うちの帳面、一緒につけてみますか!」


「よろしいのですか?」


「もちろん!」


 小春が手を上げた。


「うちも教える!」


「小春は、まず自分の字ばきれいに書けるようにならんね!」


「なんね、おたえ! うちの字は読めるやろ!」


「読めるばってん、踊りよる!」


 三人の笑い声が、水学所に広がった。


 そのときだった。


「おたえ! おたえはおるか!」


 戸口から、源太が飛び込んできた。


 額には汗。


 息が荒い。


「どがんしたと!」


「舟着き場で揉めよる! 長崎へ送る干魚が、十束足らんて!」


 おたえの笑顔が消えた。


「……十束?」


「ああ! 商人がえらい剣幕たい!」


 おたえは帳面を掴んだ。


「小春、行くよ!」


「うん!」


「わたくしも参ります!」


 三人は一斉に立ち上がった。


     ◇


 春の日差しを受けた大川の舟着き場は、朝から賑わっていた。


 米俵。


 干魚。


 塩。


 竹籠に詰められた農作物。


 諫早で作られた品々が、ここから長崎へ運ばれていく。


 かつては水害に苦しみ、米を作るだけで精いっぱいだった村。


 今では、こうして外の土地へ品を送り出すようになった。


 その舟着き場に、怒鳴り声が響いていた。


「三十束の約束じゃったろう!」


「じゃけん、昨日の舟にも積んだと言うとる!」


「なら、なしてここには二十束しかなかとね!」


 商人と舟方が、顔を真っ赤にして言い争っている。


 おたえは、その間へ割って入った。


「ちょっと待ってください!」


「なんじゃ、娘!」


「この荷を預かっとる、おたえです!」


 商人が眉をひそめた。


「おなごが帳面ばつけとるとは聞いとったが……」


「はい。うちです」


 おたえは、ためらわず帳面を開いた。


「注文は三十束。昨日の先便で十束、今日の舟で二十束。間違いなかです」


「なら、昨日の十束はどこにある!」


「それを確かめます」


 おたえは舟方を振り返った。


「昨日の荷札は?」


「確かに付けた!」


「受け取りの印は?」


「そら……」


 舟方の声が小さくなった。


「まだ戻っとらん」


 おたえの眉が動いた。


 品を渡した。


 しかし、相手が受け取った証は、まだない。


 長崎の明謝楼で、明美から何度も教わった商いの基本が脳裏をよぎる。


 商いは、品物と銭を交換すれば終わりではない。


 約束を守り、信用を積み重ねること。


「……これは、うちの落ち度でもあります」


 おたえは頭を下げた。


 商人は意外そうな顔をした。


「何?」


「荷を出した記録はあります。ばってん、届いたことの確認ができとらん。そこんところを確かめんまま、今日の荷ば運ぼうとしたとは、うちが悪かです」


「おたえ!」


 舟方が声を上げた。


「お前のせいじゃなか!」


「誰のせいかは、あとでよかとです!」


 おたえは顔を上げた。


「まず、十束がどこにあるか調べます!」


 その勢いに、周囲が静まり返った。


 だが、商人は首を振った。


「今日の舟まで遅れたら、長崎で待っとる客に顔向けできん」


 そこで、小春が一歩前へ出た。


「おじさん」


「なんじゃ?」


「十束が足らんことも困るばってん……一番困っとるとは、約束を破ったと思われることじゃなかですか?」


 商人が口を閉じた。


 小春は続けた。


「長崎のお客さんは、おじさんば信用して注文しとるとでしょう?」


「……そうたい」


「なら、うちらも、その信用ば守りたかとです」


 商人の肩から、少しだけ力が抜けた。


「……分かった。ばってん、日が傾くまでには答えを出してもらわんと困るぞ」


「はい!」


 小春は深く頭を下げた。


 その横で、おたえが素早く帳面をめくる。


「源太! 昨日の舟は、誰が動かしたと!」


「与平さんたい。潮が変わる前に、先の船溜まりへ向かったはずじゃ」


「なら、そこを確かめて!」


「分かった!」


 源太が駆け出しかけたときだった。


「あ、あの……」


 細い声がした。


 誰も気づかなかった。


「あの!」


 今度は少し大きな声。


 振り返ると、魚籠を抱えた少女が立っていた。


 年の頃は十二ほど。


 日に焼けた頬。


 結び直したばかりの髪。


 漁師の娘、おすえだった。


「おすえ?」


 源太が首を傾げた。


「どがんしたと?」


「昨日の舟……うち、見たと」


 おたえが近づく。


「本当ね?」


「うん」


「何束積んどったか、覚えとる?」


 おすえは、小さくうなずいた。


「十束」


「なんで分かると?」


 少女は腰に結んだ縄を取り出した。


 ところどころに、小さな結び目がある。


「うち、数ば忘れんごと、こうやって結ぶと」


 ひとつ。


 ふたつ。


 みっつ。


 少女の指が、縄の結び目をたどっていく。


「五束積んだときに、五つ結んだ。あと五束積んだとき、また五つ」


「……十束」


「うん。与平のおじちゃんが、向こうの船溜まりで一度下ろすって言いよった」


 おたえが源太を見た。


「源太!」


「任せろ!」


 源太は小舟へ飛び乗った。


 水面を蹴るように舟が走り出す。


 おたえは、おすえの縄を見つめていた。


「……すごかね」


「え?」


「これ、うちの帳面と同じたい」


「帳面?」


「そう。忘れんために残す記録たい」


 おすえは、驚いたように縄を見下ろした。


「うち、字は書けんとよ」


「ばってん、数は覚えとる」


 おたえはにっこり笑った。


「立派な帳面たい!」


 少女の頬が、ぱっと赤くなった。


     ◇


 源太が戻ったのは、昼を過ぎた頃だった。


「おたえーっ!」


 舟の上から大声が飛ぶ。


「十束、ちゃんとあったばい!」


 舟着き場に歓声が上がった。


 昨日の先便は、予定どおり途中の船溜まりへ荷を運んでいた。


 だが、荷の受け渡しを記した木札を届ける者が、別の用事で足止めされていたのだ。


 源太は向こうの荷受け人に確かめ、印のついた控えの木札を持ち帰ってきた。


 おたえは、それを自分の帳面と突き合わせた。


「十束、確かに受け取り済み。残り二十束も揃っとります」


 商人は何度も木札を見直した。


 そして、ふう、と息を吐いた。


「……疑って悪かったな」


 舟方も頭をかいた。


「おいも、ちゃんと確かめとけばよかった」


 おたえは首を振った。


「これからは、荷を渡す側と受け取る側、両方で記録ば残しましょう」


「両方で?」


「はい。荷を出したことと、届いたことは、別々に確かめんといかんけん」


 おたえは木札を二枚並べた。


「同じ印をつけた控えば作って、受け取った人にも残してもらうとです」


 商人が感心したようにうなずく。


「なるほどな……」


 そして、おたえを見た。


「お前さん、まだ若かろうに、大した商人たい」


「へへっ!」


 おたえの顔が、見る見るうちに緩んだ。


 小春が横から肘でつつく。


「おたえ、顔!」


「よかと!」


 笑いが起きた。


 その中で、おたえは、ふとおすえを振り返った。


「おすえ」


「はい」


「今日のこと、助かったよ」


「うち、何もしとらん」


「したよ。ちゃんと数えて、覚えとってくれた」


 そして、少し身を屈めた。


「ねえ、おすえ。字ば覚えたか?」


 少女は目を見開いた。


「……うちが?」


「うん」


「覚えて、よかと?」


「もちろんたい!」


 おすえは、ぎゅっと縄を握った。


「……覚えたか」


 その声は、とても小さかった。


 だが、おたえには、はっきり聞こえた。


     ◇


「駄目じゃ」


 夕方。


 おすえの家を訪ねたおたえたちは、思いがけない言葉を浴びせられていた。


 少女の父親は、漁師だった。


 日に焼けた太い腕。


 潮風に刻まれた深い皺。


 網を繕う手を止めず、男は首を振る。


「うちには、そがん暇はなか」


「ばってん、おじさん!」


「おすえが学びに行ったら、誰が魚ば仕分ける。誰が婆さんの世話ばするとね」


「それは……」


「字ば覚えても、網は直らん。米も増えん」


 おたえは言い返そうとした。


 だが、隣の小春が、そっと袖を引いた。


「おたえ」


「……何ね」


「うちに任せて」


 小春は、男の前に腰を下ろした。


「おじさん。おすえが一日おらんかったら、どれくらい困るとですか?」


「何?」


「教えてください」


 男は怪訝そうな顔をした。


 しかし、小春が真剣な目を向けているのを見ると、ぽつぽつと話し始めた。


 朝は漁の支度。


 舟から戻れば魚の仕分け。


 売りに行くのは、妻とおすえ。


 祖母の具合が悪い日は、さらに仕事が増える。


「おすえがおらんかったら、家が回らんとたい」


「そうやったとですね」


 小春は、うなずいた。


「なら、おすえが手伝わんでよか日や時間は、少しもなかですか?」


「……少しなら、ある」


「網ば干しよる間とか?」


「そら、天気次第じゃな」


「なら、そのときだけ学びに来たらよかとです」


「……何?」


 小春は、にっこり笑った。


「毎日、朝から晩まで学ばんでもよかでしょう?」


 その言葉に、男が顔を上げた。


 おたえも、はっとした。


「そうたい!」


 おたえが手を打つ。


「仕事の終わった人から来ればよか! 習ったことば家で教えてもよか! 木札なら持って帰れるけん!」


「ばってん、それでは学ぶのが遅くなるじゃろう」


「遅くても、学ばんよりよかです!」


 今度は、千代が口を開いた。


「わたくしにも、できることがございます」


 男が慌てて頭を下げようとした。


「ち、千代様!」


「どうか、そのままで」


 千代は柔らかく微笑んだ。


「字を覚えたい方が増えれば、わたくしも手本を書くお手伝いをいたします。おたえも、小春も、普段の仕事がございますから」


 おすえの父親は、しばらく黙っていた。


 そして、娘を見た。


「……おすえ」


「はい」


「そがん、字ば覚えたかとか?」


 少女は、父親の顔をまっすぐ見た。


「うん」


「なんですぐ言わんかった」


「父ちゃん、忙しかけん」


 男の手が止まった。


「……そうか」


 網を繕っていた指が、ゆっくりと動き出す。


 しばらくして、男は小さく息を吐いた。


「家の仕事ば、ちゃんとするなら……行ってよか」


 おすえの目が大きくなった。


「ほんとね!」


「ああ。ばってん、仕事ばほったらかしたら承知せんぞ」


「うん!」


 おすえは、父親に飛びついた。


 小春が笑う。


 千代も笑う。


 おたえは、思わず拳を握りしめた。


「……やった!」


 帰り道。


 おたえは小春に尋ねた。


「小春。なんで、あがん話し方ができると?」


「何が?」


「うちは、間違っとらんことば言うとったつもりやった。でも、おじさんは納得せんかった」


 小春は、少し考えた。


「うちも、前は分からんかったとよ」


「前?」


「千々石様が教えてくださったと」


 小春は夕焼けを見上げた。


「人には、それぞれ事情があるって。自分の言いたかことば言う前に、相手が何を心配しとるか聞いてみなさいって」


 おたえは黙って聞いていた。


「おじさんは、おすえが学ぶとが嫌やったんじゃなか」


「……家の仕事ができんごとなるのが、怖かったとね」


「そうたい!」


 小春が笑った。


 おたえは、大きく息を吐いた。


「……はあ。うち、まだまだたい」


「おたえにも、できんことがあるとね!」


「小春!」


 二人は顔を見合わせ、笑い出した。


 少し後ろを歩いていた千代は、その姿を見て思った。


 学ぶということは、字を覚えることだけではない。


 人の気持ちを知ることも、学びなのだ。


     ◇


 数日後。


 水学所に、思いがけない客が現れた。


「奥方様!」


 白瀬が驚いて立ち上がる。


 諫早直孝の奥方である。


 傍らには千代。


 そして、数人の侍女が木札や古い紙を抱えていた。


「千代から聞きました。女たちも学び始めたそうですね」


「はい。ただ、まだ手探りで……」


「それは結構なこと」


 奥方は微笑んだ。


「初めから何もかも上手にできる者など、おりませぬ」


 おたえが慌てて頭を下げた。


「奥方様! うちら、勝手に話を進めてしもうて……」


「なぜ謝るのです?」


「え?」


「人が学ぶために、知恵を絞ったのでしょう?」


 奥方は、侍女たちが運んできたものを示した。


「屋敷で使わなくなった紙と木札です。まだ使えるものを選ばせました」


「こ、こんなに!」


 おたえの目が輝く。


「ありがとうございます!」


 奥方は、教室を見渡した。


「家を預かる者は、米の残りも、銭の出入りも知らねばなりませぬ。字を覚えることが暮らしの助けになるなら、身につけて損はありますまい」


 千代が一歩前へ出た。


「母上。わたくしも、お手伝いを続けとうございます」


「ええ。ですが、千代」


「はい」


「教えるばかりでは、いけませんよ」


「……はい?」


「あなたも、おたえから学ぶのでしょう?」


 千代は、ぱっと笑顔になった。


「はい!」


 おたえは頬を赤くした。


「千代様、うちでよければ何でも聞いてください!」


 奥方は、その光景を満足そうに眺めていた。


 そして、ふと白瀬と澪に目を向けた。


「ところで白瀬殿」


「はい?」


「澪殿とは、同じ屋敷で暮らしておいでとか」


「え、ええ。水学所の管理もありますから」


「それは結構」


 奥方が扇で口元を隠した。


「では、家の銭の出入りも、お二人で管理なさっているのかしら?」


「……へ?」


 白瀬が間の抜けた声を出した。


 澪の眉がぴくりと動く。


「奥方様。何をおっしゃるのじゃ」


「あら。家を共にするなら、暮らしのことも二人で考えるのがよろしいかと」


「わたしと白瀬は、そういう仲では……!」


「そういう仲?」


「……!」


 澪の言葉が止まった。


 奥方は、楽しそうに笑う。


 そこへ、床下からガタ吉が顔を出した。


「先生!」


「なんだよ!」


「団子代の帳面も、澪に任せた方がよかばい!」


「なんでだよ!」


「先生は、おいに団子ば買うてくれんけん!」


「それ、帳面と関係ないだろ!」


 教室中に笑い声が響いた。


 澪は真っ赤な顔でガタ吉を睨んだ。


「ガタ吉!」


「ひゃっ!」


 河童が慌てて床下へ潜る。


 奥方は、扇の陰で笑いをこらえていた。


 白瀬は天井を仰いだ。


(……この人、絶対に楽しんでるだろ)


 だが、隣でそっぽを向く澪の耳が赤いことには、気づいてしまった。


     ◇


 翌朝。


 水学所の戸口に、小さな影が立っていた。


「……あの」


 白瀬が振り返る。


「おすえ?」


 少女は、両手で木札を抱えていた。


「父ちゃんが、これば持って行けって」


 古びた木札だった。


 片面には、以前使われた印が残っている。


 もう片面は、きれいに削られていた。


「字ば覚えるなら、これに書けって」


 白瀬は、思わず微笑んだ。


「そっか」


 おすえは、少し緊張した顔で尋ねた。


「うちも、ここで学んでよかと?」


「もちろん」


 その声に、おたえが飛んできた。


「おすえ!」


「おたえ姉ちゃん!」


「来たね!」


「うん!」


「なら、今日は何ば覚えたか?」


 おすえは、しばらく考えた。


 そして、小さな声で答えた。


「……うちの名前」


 おたえの顔が、ふわりと緩んだ。


「よかよ!」


 小春が木炭を持ってくる。


 千代は隣に座り、木札へ手本を書いた。


 おすえは、その文字をじっと見つめた。


 そして、ゆっくりと炭を握る。


 ひと文字。


 また、ひと文字。


 線が曲がる。


 字の大きさが揃わない。


 途中で手が止まる。


「……難しか」


「大丈夫たい」


 おたえが笑う。


「うちも最初は、ひどか字やったけん」


「ほんと?」


「ほんとほんと!」


「今もたまにひどかよ」


 小春が横から口を挟む。


「小春!」


 笑いが起きた。


 おすえも笑った。


 そして、もう一度木炭を握った。


 やがて。


「……できた」


 木札の上に、不揃いな三文字が並んだ。


 おすえ。


 少女は、何度も何度も、その文字を見つめた。


「……うちの名前や」


 その声が震えた。


「うちの名前ば……うちが書いたとね」


 おたえが、そっと肩を抱いた。


「そうたい」


 千代が微笑む。


「とても上手ですよ」


 小春も大きくうなずいた。


「これで、次は魚の数も書けるようになるね!」


 おすえは、木札を胸に抱いた。


 宝物を手に入れた子どものように。


 いや。


 少女にとって、それは間違いなく宝物だった。


 その日の夕方。


 父親が迎えに来た。


「おすえ、帰るぞ」


「父ちゃん!」


 おすえは駆け寄る。


 そして、木札を差し出した。


「見て!」


「なんね?」


「うちの名前!」


 父親は、しばらく黙って木札を眺めた。


「……ほう」


 大きな手で受け取る。


 少し曲がった文字。


 不揃いな線。


 けれど、そこには確かに娘の名前があった。


「……よか字たい」


 それだけ言って、木札を娘へ返した。


 おすえは、嬉しそうに笑った。


「明日も来てよか?」


「仕事ば終わらせたらな」


「うん!」


 父親は、少し照れくさそうにおたえを見た。


「……世話になったな」


「いえ!」


「そのうち、魚の売り買いの勘定も、こいつに教えてやってくれんか」


 おたえの顔が輝いた。


「もちろんです!」


 親子は、手をつないで帰っていった。


 夕陽に照らされた小さな背中を、白瀬たちは見送った。


     ◇


「……先生」


 隣から、澪が声をかけた。


 いや、今日は静かに名前を呼ぶ。


「白瀬」


「ん?」


「おぬしの造りたかった土地とは、こういうものか?」


 白瀬は、少し考えた。


 目の前には、水学所。


 その向こうには、黄金色に傾き始めた春の陽。


 遠くには、かつて泥と水に苦しんだ土地が広がっている。


 ここへ来たばかりの頃。


 白瀬は、ただ水を治めようとしていた。


 洪水を防ぎ、田を造る。


 米を増やし、人を飢えさせない。


 それが、自分の役目だと思っていた。


 だが、今は違う。


「……そうだな」


 白瀬は微笑んだ。


「俺たちがいなくなっても、誰かが自分で考えて、自分の人生を選べる。そんな土地にしたい」


 澪は、静かにうなずいた。


「わたしも、そう思う」


 白瀬は澪を見た。


「水守の仕事も?」


「ああ」


 澪は遠くの川へ目を向けた。


「水の声が聞こえぬ者にも、水の危うさを知ることはできる。昨日の授業で、わたしはそれを知った」


 そして、白瀬へ微笑む。


「皆に教えてもらったのじゃ」


「そっか」


 白瀬も笑った。


 そのとき。


「先生ーっ!」


 源太がやってきた。


 後ろには長吉と健太。


「今日は何の騒ぎたい?」


「騒ぎじゃないよ。おすえが初めて名前を書いたんだ」


「おお!」


 源太が顔を輝かせる。


「そら、よかことたい!」


 ガタ吉が、いつの間にか隣に立っていた。


「源太も、もうすぐ祝言じゃろ?」


「ぶっ!」


 源太が盛大にむせた。


「な、なんで今そがん話ばするとね!」


「夫婦になったら、帳面も二人でつけるとよかばい!」


「余計なお世話たい!」


 長吉が笑う。


「源太、顔の真っ赤かぞ!」


「お前も、そのうち同じことになるばい!」


「な、なんでおいに振るとね!」


 健太が肩を震わせる。


 小春とおたえも笑い出した。


 千代まで口元を押さえている。


 白瀬は、そんな若者たちを眺めていた。


 最初に出会った頃は、皆、泥だらけの子どもだった。


 田を造りたい。


 舟を動かしたい。


 道具を作りたい。


 商いをしたい。


 知らない人と話してみたい。


 小さな夢を持って集まった子どもたち。


 それが今では、自分の仕事を持ち、仲間を支え、やがて家族を築こうとしている。


(……大きくなったな)


 白瀬は胸の奥が温かくなるのを感じた。


 その横で、ガタ吉が言った。


「ところで先生」


「なんだ?」


「おいの祝言は、いつになると?」


 全員が、一斉に河童を見た。


「……お前、相手いるのか?」


「おらん!」


「いないのかよ!」


 水学所に、今日一番の笑い声が響いた。


     ◇


 夕暮れ。


 笑い声が去った水学所で、おたえが帳面を数えていた。


「……先生」


「ん?」


「困ったことがあるとです」


 白瀬が振り返った。


「また商いの話か?」


「違うとです」


 おたえは、机の上に並べた木札を指さした。


「今日だけで、学びたかって言う娘が、三人も増えたとです」


「いいことじゃないか」


「そら、よかです!」


 おたえは、しかし、困った顔をした。


「ばってん、手本が足らんとです」


 白瀬は机を見る。


 木札は何度も削って使える。


 だが、書いたものを残しておくことは難しい。


 紙を使えばよい。


 しかし、この時代の紙は安いものではなかった。


 水学所には、直孝や奥方の援助で集めた紙がある。


 それでも、学ぶ者が増えれば増えるほど足りなくなる。


「……確かにな」


 健太が、使い古した木札を手に取った。


「先生。木なら、おいがいくらでも削ります!」


「助かる」


「ばってん、削ったら、前に書いたことは消えてしまいますね」


 おたえもうなずく。


「うちは、みんなが覚えたことば残したかとです」


 小春が言った。


「長崎で習った言葉も、書き残しとったら、ほかの人にも教えられるとに」


 千代も頷いた。


「皆が同じ手本を使えたなら、もっと多くの者が学べましょう」


 白瀬は、腕を組んだ。


 字を教える。


 記録を残す。


 誰もが、それを読めるようにする。


 考えてみれば、どれも紙がなければ難しい。


 そのときだった。


「白瀬」


 澪が、静かに呼んだ。


「これを見てくれぬか」


 手にしていたのは、一冊の古い帳面だった。


 白瀬は受け取った。


 表紙は擦り切れている。


 ところどころ、水に濡れた跡があった。


「これは?」


「昔の水害を書き留めたものじゃ。城の古い記録の中にあった」


 白瀬は、そっと頁をめくった。


 雨で滲んだ文字。


 虫に食われた紙。


 年月の経過で、読めなくなった箇所。


 そこには、洪水が起きた日や、流された家の数が書かれていた。


 そして。


 失われた命の名も。


「……」


 白瀬の指が止まった。


 脳裏に、二人の顔が浮かんだ。


 弥助。


 岩蔵。


 最初の大きな干拓に挑み、帰らぬ人となった仲間たち。


 彼らのために、最初の米を捧げた日のことを、白瀬は忘れていなかった。


 あの二人がいなければ、今の田はない。


 今の村もない。


 そして、この水学所も。


「白瀬」


 澪が、帳面を見つめながら言った。


「水は、土地の形を変える」


「ああ」


「時には、人の暮らしも奪う」


「……ああ」


「じゃが、時がたてば、人はそれを忘れてしまう」


 澪の指が、読めなくなった文字をなぞった。


「ここに名を残した者も、やがて誰にも知られなくなるのかもしれぬ」


 白瀬は、ゆっくりと帳面を閉じた。


「……それは、嫌だな」


 小さな声だった。


 だが、誰も聞き逃さなかった。


「俺たちは、昔の人たちが何を間違え、何を守ろうとしたのか、知っておく必要がある」


 白瀬は、帳面を机に置いた。


「弥助さんと岩蔵さんのことだって、今の俺たちは覚えてる。でも、百年後は?」


 誰も答えなかった。


「二百年後は?」


 静寂が落ちた。


 四百年後。


 その言葉を、白瀬は口にしなかった。


 ただ、自分だけが知っている長い年月を思った。


 やがて、おたえが口を開いた。


「先生」


「ん?」


「残しましょう」


 おたえは、古い帳面へ手を伸ばした。


「みんなが、何ばしてきたか。どがん苦労して、どがん工夫してきたか」


 小春がうなずく。


「うちらだけじゃなか。これから生まれてくる子どもたちにも伝えたかね」


 千代も、静かに言った。


「読める形で残せば、まだ見ぬ人々にも届きます」


 白瀬は、三人を見つめた。


 かつて、教わるばかりだった子どもたち。


 今、その子たちが未来へ残すことを考えている。


 その姿が、たまらなく頼もしかった。


「……そうだな」


 白瀬はうなずいた。


「残そう。俺たちの知恵も、失敗も、仲間たちの名前も」


 そのとき。


 健太が、傷んだ帳面の一頁を持ち上げた。


「先生」


「どうした?」


「この紙……何からできとるとですか?」


「紙?」


「はい。木みたいに削らんでも、文字ば書ける。薄かし、重ねてしまえる」


 健太の目が、きらきらと輝き始めていた。


 白瀬は、その目に覚えがあった。


 水門の仕組みを初めて教えたとき。


 便利な道具を作りたいと言い出したとき。


 いつも、健太はこんな目をしていた。


「……まさか」


 白瀬がつぶやく。


 健太は、にやりと笑った。


「先生」


 そして、傷んだ紙を掲げた。


「紙そのものを、おいらの手で作れんとですか?」


 白瀬は目を丸くした。


 おたえが振り返る。


 小春が身を乗り出す。


 千代が息を呑む。


 澪は、静かに微笑んだ。


 ガタ吉だけが首を傾げた。


「……紙って、食えると?」


「食えん!」


 全員の声が重なった。


 水学所に、再び笑い声が響いた。


 しかし、健太の目は、もう笑っていなかった。


 薄く、軽く、文字を残せる不思議なもの。


 それを自分たちの手で作れるのなら。


 学びは、もっと遠くへ届く。


 誰もが文字を覚えられる。


 誰もが知恵を残せる。


 そして、忘れてはならない人々の名も。


 白瀬は、窓の外を見た。


 春の大川が、夕陽を映して流れている。


 八年前。


 この川の水を治めることから、すべてが始まった。


 今、その川のほとりで、子どもたちが新しい未来を造ろうとしている。


「……健太」


「はい!」


「やってみるか」


 健太の顔が、ぱっと輝いた。


「はいっ!」


 こうして、水学所に新しい課題が生まれた。


 水を学び、土地を造り、商いを育てた若者たち。


 その次なる挑戦は――。


 四百年先まで、知恵を残すことだった。


 だが、その小さな挑戦が、やがて諫早の歴史そのものを変えることになるとは。


 このとき、まだ誰も知らなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

田を造り、米を増やし、商いを始めた諫早。

けれど、本当の豊かさは、それだけではないのかもしれません。

自分の名前を初めて書いた少女の喜び。そして、未来へ知恵を残そうとする若者たち。

白瀬が教えていた子どもたちも、いつの間にか自分たちで未来を切り拓くようになりました。

さて、次回は健太の好奇心が大爆発!?

第五十八普請「水害帳を読む」

古い記録に刻まれた人々の想いと、新たなものづくりへの挑戦が始まります。

面白かった、続きが気になると思っていただけましたら、評価・ブックマークで応援していただけると嬉しいです!

明日も20時にお会いしましょう!

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