第五十六普請 水守の授業
水学所、今度の先生は澪とガタ吉!?
水守が聞く水の声と、河童が知る泥の秘密。
笑いあり、発見ありの野外授業が、思いがけない大騒動に!
教わる側だった若者たちも、少しずつ頼もしくなってきました。
第五十六普請「水守の授業」、どうぞお楽しみください!
寛永六年(一六二九年)、春。
諫早の田には若い緑が広がり、川には山からの雪解け水ならぬ、春雨を集めた清らかな流れが戻っていた。
海から造り出した土地には家が建ち、道が延び、畑では人々が働いている。
かつては潮が満ちれば海に沈んでいた場所だ。
その土地で、今年も人々の暮らしが始まろうとしていた。
そして、もう一つ。
諫早には、以前とは大きく違うものが生まれていた。
水学所である。
◇
「白瀬! また増えとるぞ!」
朝からガタ吉が騒いでいた。
「何が?」
「人たい! 人!」
水学所の門前には、子どもだけでなく、鍬を担いだ農夫や、仕事着のままやって来た漁師まで集まっていた。
読み書きを習いに来た者。
算術を覚えたい者。
水路の造り方を知りたい者。
中には、ただ面白そうだからと顔を出した者までいる。
「先生! 今日は何ば教えてくれるとですか!」
「この前の勘定、まだ分からんとです!」
「おいは舟のことば聞きたか!」
四方八方から声が飛んでくる。
「お、おいおい! 一度に話すな!」
白瀬湊一は両手を上げた。
諫早へ来て、およそ八年。
最初は田を造るために始めたことだった。
それがいつしか、水路を造り、作物を育て、魚を運び、商いを始めるようになった。
そして今度は、人を育てている。
伊木力で出会った千々石清左衛門の言葉が、ふと頭をよぎった。
『豊かさを生み出す知恵と、豊かさを守る知恵は、必ずしも同じではない』
米の収穫は、昨秋には年間五万石に届いた。
だが、豊かになった土地を、この先も守り続けられるのか。
その答えは、まだ出ていない。
「白瀬」
背後から声がした。
振り返ると、澪が立っていた。
「朝から騒々しいのう」
「人気の学び舎ってことだよ」
「人気があるのはよいが、教える者が足りぬのではないか?」
「そうなんだよなあ……」
白瀬は腕を組んだ。
読み書きや算術なら、家老や勘定方の助けも借りられる。
農業なら長吉。
道具作りなら健太。
舟や漁なら源太。
商いならおたえ。
人との付き合い方なら、小春。
皆、すでに自分の得意分野を年下の子どもたちへ教え始めていた。
だが、一つ、大切なものが抜けていた。
「……そうだ」
白瀬がぽんと手を打った。
「今日は外へ出よう!」
「外?」
「うん。水の授業だ」
すると澪が首を傾げた。
「水の授業なら、白瀬が教えればよかろう」
「いや。今日の先生は俺じゃない」
「では、誰じゃ?」
白瀬はにっこり笑った。
「澪とガタ吉だ!」
「…………は?」
「おおっ!」
澪とガタ吉の反応は、見事なほど正反対だった。
「ちょ、ちょっと待て、白瀬!」
「おいが先生! 先生たい!」
ガタ吉は両手を振り上げた。
「聞いたか、皆の衆! 今日からおいは、ガタ吉先生ばい!」
「ガタ吉先生!」
「河童先生!」
「団子先生!」
「最後のは何ね!」
どっと笑いが起きる。
一方の澪は、白瀬の袖を引っ張っていた。
「白瀬。妾は、そのような約束をした覚えはないぞ」
「でも澪、水のことなら俺よりずっと詳しいだろ?」
「それはそうじゃが……」
「皆にも教えてやってほしいんだ」
澪は困ったように視線を落とした。
そのとき、一人の幼い少女が駆け寄ってきた。
「澪先生!」
「……なんじゃ?」
「うち、水のこと知りたか!」
少女は目を輝かせていた。
「大雨のとき、川が怖かと。どこに近づいたらいかんのか、知りたか!」
澪の表情が変わった。
しばらく少女を見つめてから、静かに頷く。
「……そうか」
そして、白瀬を振り返った。
「よかろう。妾が教えよう」
「本当か!」
「ただし、白瀬」
「ん?」
「おぬしも手伝え。妾は人に教えることには慣れておらぬ」
「もちろん!」
白瀬は大きく頷いた。
こうして、水学所初の野外授業が始まった。
◇
「では、皆の者。水の声を聞いてみよ」
澪は河口近くの岸辺に立ち、そう告げた。
春の日差しが水面を照らしている。
遠くには有明の海。
目の前には、ゆっくりと流れる川。
今日の観察場所は、以前から漁師たちが使っている足場のよい岸だった。
白瀬はあらかじめ、危険な泥の場所へ近づかないよう、竹杭と縄で境を作っている。
何しろ、相手は好奇心旺盛な子どもたちだ。
授業で怪我をさせては本末転倒である。
「水の声……?」
子どもたちは顔を見合わせた。
「ほれ。目を閉じてみよ」
澪に言われ、皆が一斉に目を閉じる。
さらさら。
ちゃぷ、ちゃぷ。
風が葦を揺らす。
遠くで鳥が鳴いた。
「…………」
「…………」
しばらくして、一人の少年が手を上げた。
「先生!」
「なんじゃ?」
「水が何もしゃべらんばい!」
ぶっ、と健太が吹き出した。
「当たり前たい! 水がしゃべったら怖かろうもん!」
「でも先生が聞けって!」
「おいも何も聞こえん!」
「うちも!」
澪の眉がぴくりと動く。
「……白瀬」
「ん?」
「これでは授業にならぬぞ」
「ははは。まあ、そうなるよな」
「笑い事ではない!」
白瀬はしゃがみ込み、子どもたちと目の高さを合わせた。
「じゃあ、みんな。今度は目を開けて、水を見てみよう」
「見る?」
「そう。あそこに浮いている葉っぱ、どっちへ流れている?」
「海の方!」
「じゃあ、こっちの岸の近くは?」
「……あれ?」
一人が首を傾げた。
「こっちは、あんまり動いとらん」
「そのとおり」
白瀬は頷いた。
「同じ川でも、場所によって流れの速さが違うんだ」
すると澪が、ゆっくり口を開いた。
「水は、どこも同じように動いておるわけではない」
澪は少し上流を指差した。
「あそこを見よ。水面に細かな筋が見えるであろう」
「あっ、本当たい!」
「あの辺りは流れが速い。されど、その横では、水がゆるやかに巡っておる」
源太が腕を組んだ。
「……なるほど。舟ば出すとき、漁師もあれを見るばい」
「そうなのか?」
白瀬が尋ねると、源太は頷いた。
「魚の寄るところも違うし、舟が流されるところも違う。海でも川でも、同じ水には見えても中身が違うとよ」
「いいことを言うな、源太!」
「おいも、ずっと見てきたけん」
少し照れくさそうに笑う。
澪は満足げに頷いた。
「そうじゃ。水は言葉だけで語るものではない。流れ、音、色、冷たさ。それらすべてが水の知らせじゃ」
「じゃあ、澪先生には何が聞こえると?」
幼い少女が尋ねた。
澪は目を細めた。
「……山から下りてきた水の気配。潮が押し返そうとしておる気配。それから、この川がどこへ行きたがっておるか、じゃな」
「すごかあ!」
「でも、おいにはそこまでは分からん……」
少年が肩を落とす。
澪はその前へしゃがんだ。
「分からずともよい」
「え?」
「妾と同じように聞こえずとも、水をよく見れば、分かることは増える」
そう言って、水面へ視線を戻した。
「ほれ。さっきの葉を、もう一度見てみよ」
「あっ!」
少年が声を上げる。
「さっきより、海の方へ流れるのが遅か!」
「そうじゃ」
「なんで?」
「さて、なぜであろう?」
澪はすぐには答えなかった。
子どもたちは顔を寄せ合う。
小春が楽しそうに笑っている。
「先生、なかなか意地悪かねえ!」
「教わるばかりでは、覚えぬであろう?」
澪が少し得意げに答えた。
やがて源太が口を開いた。
「潮が満ち始めとるけんたい。海からの水が、川の流れを押し返し始めたとよ」
「正解!」
白瀬が手を叩いた。
澪も微笑んだ。
「うむ。水は、いつも同じ姿ではない。今、穏やかに見える場所も、時が変われば危うくなる」
少女が、水面をじっと見つめる。
「……水って、忙しかねえ」
今度は澪まで吹き出した。
「ふふっ。まったくじゃ」
白瀬はその横顔を見ながら思った。
水守にしか分からないものがある。
しかし、そのすべてを神通力に頼らなければならないわけではない。
見て、比べて、考える。
そうやって人が水を知ることもできるのだ。
そして何より。
いつもは白瀬に意地を張る澪が、子どもたちには実に丁寧に教えている。
(……案外、先生に向いているんじゃないか?)
そう思った瞬間。
「白瀬」
「は、はい」
「余計なことを考えておるであろう」
「なんで分かるんだよ!」
水の声どころか、人の考えまで読まれていた。
◇
「さあっ! 次はおいの出番たい!」
ガタ吉が、待ちきれない様子で飛び出してきた。
手には長い竹の棒。
頭には、どこから持ってきたのか、編み笠がちょこんと載っている。
「ガタ吉先生!」
「河童先生!」
「団子先生!」
「団子はもうよか!」
子どもたちが笑う。
ガタ吉は竹の棒を地面へ突き立てた。
「よかか! 海の泥には、硬かところと、柔らかかところがある!」
「知っとる!」
「ほんなら、見ただけで分かるか!」
「……分からん!」
「そうたい! 分からんけん危なかと!」
ガタ吉は縄で区切った観察場所の外へ出ると、竹の棒を干潟へ突き立てた。
ずぶり。
棒が深く沈む。
「ここは危なか!」
少し横へ移動し、もう一度突く。
こん。
今度は、ほとんど沈まない。
「こっちは硬か!」
「おおーっ!」
子どもたちから歓声が上がる。
健太が身を乗り出した。
「ガタ吉、その棒、ちょっと貸して!」
「なんね?」
「印ばつけたらよか!」
「印?」
「どこまで沈んだか、後から比べられるやろ!」
健太は小刀を取り出し、白瀬の許しを得て竹に細かな刻みを入れ始めた。
「ほら、これで同じ場所ば調べれば、昨日と今日で違いが分かるばい!」
「おお!」
白瀬は思わず声を上げた。
「いいぞ、健太!」
「水が増えたり、泥が動いたりすれば、変わるかもしれんけんね!」
「だったら、測る場所も決めとかんば」
おたえが口を挟んだ。
「毎日違うところば測ったら、比べられんやろ?」
「確かに!」
「それに、何日にどこば測ったか、書き残さんば!」
おたえは持ってきた木札を取り出した。
「こっちは一尺、あっちは二尺……いや、棒がどこまで沈んだかを先に書いた方がよかね」
ぶつぶつ言いながら、炭で印を書きつけていく。
「ちょっと待て!」
ガタ吉が叫んだ。
「なんね?」
「おいの授業たい! なんで健太とおたえが先生になっとっと!」
白瀬は笑いをこらえながら答えた。
「ガタ吉が上手に教えたから、二人がもっと考えたんだろ」
「……そうか?」
「そうだよ」
「ほんなら、よか!」
ガタ吉は胸を張った。
「さすがおいの弟子たい!」
「いつ弟子になったと!」
健太の突っ込みで、また笑いが起きた。
だが、その直後。
「……ひとつだけ、覚えとけ」
ガタ吉の声が変わった。
いつもの陽気な調子が消えていた。
「こうやって棒で調べるのはよか。ばってん、調べもせずに泥ん中へ足ば入れたらいかん」
ガタ吉は、深く沈んだ竹の棒を指差した。
「見た目じゃ分からん。足ば取られたら、引き抜けんこともある。そこへ潮が来たら……」
言葉が途切れた。
源太が、静かに尋ねた。
「ガタ吉……」
「おいの父ちゃんと兄ちゃんも、水に帰ってこんやった」
子どもたちが黙り込む。
ガタ吉は、少しだけ遠い目をした。
「海は恵みばくれる。魚も、貝も、泥ん中の命も。ばってん、怒ったら人も河童も区別せん」
手にした竹の棒を、強く握る。
「だけん、覚えとけ。知らんところへ無理に入るな。危なかと思ったら、戻れ。それと……」
ガタ吉は子どもたちを見回した。
「困っとる仲間ば見つけたら、一人で助けに行くな。必ず誰かば呼べ」
白瀬は黙って頷いた。
澪も何も言わなかった。
河童水工衆が積み重ねてきた知恵は、単なる技ではない。
水の中で生き、時には大切な者を失いながら、受け継いできたものなのだ。
「……先生!」
一人の少年が、ぴんと手を上げた。
「なんね?」
「ガタ吉先生は、泥に沈まんと?」
「おいは河童たい!」
「ずるか!」
「何がずるかと!」
また笑い声が広がった。
ガタ吉も笑った。
けれど白瀬には、その笑顔がいつもより少しだけ大人びて見えた。
◇
そのときだった。
「おーい! 誰か! 手ぇ貸してくれ!」
川下から、切羽詰まった声が響いた。
全員が振り返る。
少し離れた河口の浅瀬。
そこに、一艘の小舟が斜めに止まっていた。
舟には薪の束が積まれている。
船頭らしい男が竹竿を突き立て、必死に舟を動かそうとしていた。
もう一人、若い男が船縁につかまっている。
「どがんしたと!」
源太が真っ先に叫んだ。
「舟が泥に乗り上げた! 動かんとじゃ!」
白瀬は目を細めた。
舟の片側が浅瀬に乗り上げ、もう片側は水に浮いている。
満ち潮になれば、いずれ浮くだろう。
そう思った。
しかし。
「……いかん」
澪が低く呟いた。
「白瀬。あの舟、危ういぞ」
「え?」
「潮が変わる」
白瀬は水面を見た。
さっきまで海へ向かっていた小さな浮き草が、ほとんど動かなくなっている。
さらに、舟の向こう側。
細い水筋に、海からの水が入り始めていた。
「……まずいな」
舟の底は泥に乗り上げている。
そこへ横から水が押し寄せたら、浮き上がるより先に舟が大きく傾くかもしれない。
しかも、船頭は動かそうとして竹竿を使っている。
その度に、舟がぐらりと揺れていた。
「竿を突くな!」
白瀬が叫ぶ。
「無理に動かすな! そのまま待て!」
だが、距離がある。
船頭には声が届いていないようだった。
そのとき。
「白瀬!」
源太が駆け寄ってきた。
「おい、あの舟の近くば通ったことがある!」
「本当か?」
「うん! 向こう側に、まだ深か水筋が残っとる。そこからなら舟で近づける!」
白瀬は頷いた。
「よし。まず皆を岸の高いところへ下がらせよう。助けに行く人間まで危険にさらすわけにはいかない」
「分かった!」
源太が走り出す。
見物に集まり始めた村人たちへ、大きな声で指示を出した。
「皆、下がってくれ! 子どもらは縄より先に出たらいかん!」
すると、ガタ吉が水辺へ進み出た。
「おいが見てくる!」
「ガタ吉、待て」
白瀬はその肩をつかんだ。
「流れが速くなってる。無理はするな」
「分かっとる」
ガタ吉は振り返った。
「おいは、水の怖さば知っとるけん」
そう言って、にっと笑った。
「助けるために、無茶してどうするとね!」
白瀬も笑った。
「そうだな」
ガタ吉は近くにいた河童水工衆の仲間と声を掛け合い、腰に命綱を結んだ。
縄の端を岸の仲間へ預けると、深い水筋を選んで川へ入っていく。
水面が小さく揺れた。
次の瞬間、ガタ吉の姿は水の中へ消えていた。
◇
「先生! うちにも何かさせて!」
小春が叫んだ。
「おいも!」
「うちも!」
健太、おたえ、長吉。
皆が次々に白瀬のもとへ集まる。
「よし。さっきの授業を思い出せ!」
白瀬は全員を見回した。
「まず、何が危険だ?」
「潮が満ちてきよる!」
源太が答えた。
「そうだ。それから?」
「舟が片方だけ泥に乗っとる!」
健太が続く。
「無理に引っ張れば、ひっくり返るかもしれん!」
「そのとおり!」
白瀬が頷く。
「じゃあ、どうする?」
ほんの少し、沈黙が流れた。
皆が考えていた。
かつてなら、ここで白瀬の答えを待っていただろう。
けれど今は違う。
「……まず、縄たい」
源太が口を開いた。
「舟ば引っ張るための縄が要る。それから、舟が浮くまで無理に動かしたらいかん」
「縄ならある!」
健太が走り出した。
「水門の修繕用に置いとる太か縄ば持ってくる!」
「おいは岸ば調べる!」
長吉も動いた。
「こっちの岸は、この前の雨で緩んどる。縄ば結ぶなら、もっと上の硬かところがよか!」
おたえは、そんな二人を見て声を張り上げた。
「待って! 何人で引くと! 縄はどこまで届くと!」
「おたえ?」
「ただ縄ば持ってきても、長さが足りんかったら意味なかろうもん!」
おたえは岸から舟までの距離を目で測り、源太に尋ねた。
「舟ば出すところまで縄ば運ぶなら、どんくらい要る?」
「……そうたいな。真っすぐやったら届いても、舟ば回す分が要る」
「ほんなら、短か縄ば何本もつなぐより、長か縄を先に探さんば!」
おたえは集まってきた村人へ声をかけ始めた。
「太か縄ば持っとる人はおらんですか! 引っ張る人も要るけん、手ば貸してくれんですか!」
すると小春が、舟へ向かって大きく息を吸った。
「おじさーん!」
通る声が川面に響いた。
「今、助けに行くけん! 舟ば無理に動かさんで!」
船頭が、ようやくこちらを見た。
「何ねーっ!」
「そのまま待っとって! 竿ば突いたらいかん!」
小春は両手を口元に当て、何度も繰り返した。
やがて船頭が竿を止めた。
「分かったーっ!」
その返事に、白瀬は胸を撫で下ろした。
小春の声は、実によく届く。
相手がどうすれば安心できるのか。
何を伝えればよいのか。
それを自然に考えられる娘だった。
伊木力で清左衛門が小春に伝えた言葉を、白瀬は思い出した。
『人を知ることじゃ』
なるほど。
確かに、それも人を救う力になる。
◇
「白瀬!」
水面から、ガタ吉が顔を出した。
「舟の底は大丈夫ばい! ばってん、左の方に泥がたまっとる!」
「抜けそうか!」
「潮が上がれば浮く! でも、今の向きじゃ危なか!」
白瀬は澪を見た。
「澪、どう思う?」
澪はじっと水面を見つめていた。
やがて目を閉じる。
風が、長い髪を揺らした。
「……今はまだ、待てる」
「どのくらい?」
「長くはない。潮が回り込む前に、舟を支える綱をかけよ」
澪が指差した。
「あの深い水筋へ、船首を向けるのじゃ。底が浮き始めたときに、無理なく導けるようにな」
「分かった!」
白瀬は頷いた。
源太が近くの漁師たちと小舟を出す。
積んでいた荷を降ろし、縄を載せた。
安全な深い水筋を選びながら、慎重に動かしていく。
「源太! 気をつけろよ!」
「分かっとる!」
源太は振り返りもしなかった。
目は川面に向けられている。
波の形。
流れの向き。
舟底に伝わる水の動き。
幼い頃から海で育った男の顔だった。
「そこじゃなか! もう少し右たい!」
ガタ吉の声が飛ぶ。
「分かっとる! こっちやろ!」
「そうたい!」
河童と漁師。
いつしか、二人の息も合うようになっていた。
ガタ吉は水中から舟底を確かめながら、浅瀬に乗り上げた舟へ近づく。
源太たちは、安全な場所から縄を渡した。
船頭が受け取り、船首の丈夫なところへ結びつける。
「結べたぞーっ!」
声が響く。
「よし!」
白瀬は岸を振り返った。
長吉が、少し離れた高い岸で手を振っている。
「白瀬先生! こっちなら地面が硬か! 大きか木もあるけん、縄ば取れる!」
村人たちが太い木の根元を確かめ、引く力を受けられる場所を整えていた。
健太も走って戻ってきた。
「縄、持ってきたばい!」
肩には、ずっしりとした太縄。
息を切らしている。
「よくやった!」
「それと、こっち!」
健太は短い丸太を転がしてきた。
「縄ば木に直接こすりつけたら、傷むやろ? ここで向きば変えれば引きやすか!」
村の男たちが丸太を固定し、縄の通り道を整える。
複雑な仕掛けではない。
しかし、引く方向を変えるだけでも、大勢で力を合わせやすくなる。
「よし、皆! 縄を握ってくれ!」
白瀬が呼びかけた。
農夫たちが集まる。
漁師たちも加わる。
いつしか、見物していた大人たちが救出に参加していた。
「一度に引っ張ったらいかん!」
おたえが大きな声を上げた。
「合図に合わせんば! ばらばらに引いたら縄が緩む!」
「おたえの言うとおりだ!」
白瀬は頷いた。
「まずは縄を張るだけだ! まだ強く引くな!」
舟が浮く前に無理に引けば、泥に食い込んだ底を傷めるかもしれない。
先に傾きを抑え、潮が舟を浮かせるのを待つ。
舟を助けるのは、人の力だけではない。
水の力を利用するのだ。
「……白瀬」
澪が呟いた。
「来るぞ」
その声とほぼ同時だった。
ざあっ。
川面の音が変わった。
細い水筋に、海からの水が勢いを増して流れ込んでくる。
浅瀬の輪郭が、ゆっくりと水に隠れ始めた。
「潮が上がってきた!」
源太が叫ぶ。
舟が、ぐらりと揺れた。
「うわあっ!」
舟の若い手伝いが悲鳴を上げた。
とっさに船縁へしがみつく。
その重みで、舟がさらに傾いた。
「動くなーっ!」
小春が叫ぶ。
「そこにおって! 皆で助けるけん!」
若い男は、泣きそうな顔で頷いた。
岸ではおたえが声を張り上げていた。
「まだ引かんで! 白瀬先生の合図ば待って!」
縄を握る男たちの腕に力が入る。
水は増えていく。
舟がまた揺れた。
そのとき。
「白瀬!」
ガタ吉が水面を叩いた。
「底が浮き始めたばい!」
「澪!」
「……よい。今じゃ!」
白瀬が腕を振り下ろした。
「ゆっくり引け! せーのっ!」
「「「おおおっ!」」」
男たちが綱を引く。
ぎしっ。
縄が張り詰める。
舟の船首が、ほんの少し動いた。
「もう一度!」
「「「おおおっ!」」」
舟が揺れる。
だが、まだ泥が離れない。
船頭が必死に竿で支えている。
「ガタ吉!」
「分かっとる!」
ガタ吉が舟底へ潜った。
泥に押さえられている場所を確かめ、舟が浮く動きを妨げないよう、船頭に身ぶりで知らせる。
源太は救助用の小舟から、張られた縄の向きを見ていた。
「白瀬先生! もう少し右へ向けた方がよか!」
「分かった! 皆、引く力を緩めるな! 船首をゆっくり右へ!」
男たちが縄の角度を変える。
舟の下へ、潮が入る。
ごとり。
何かが外れるような音がした。
「……浮いた!」
源太が叫んだ。
「浮いたばい!」
次の瞬間。
舟が、すうっと動いた。
男たちが縄を慎重に繰り出し、源太たちの小舟が深い水筋へ導いていく。
船頭は竿を使って向きを保った。
浅瀬から離れたところで、ガタ吉が水面へ顔を出す。
「抜けたぞーっ!」
「やったああああ!」
岸から大歓声が上がった。
若い手伝いは、その場にへたり込んだ。
船頭も何度も頭を下げている。
源太は救助用の小舟から、ほっと息を吐いた。
長吉は泥で汚れた手を見つめ。
健太は縄を握ったまま笑い。
おたえは、ようやく肩の力を抜いた。
小春は両手を振っていた。
「よかったあ! 本当によかったあ!」
そして白瀬は。
「……はあああ」
その場にしゃがみ込んだ。
心臓が、まだどきどきしている。
「白瀬」
隣に澪が立った。
「無事であったな」
「ああ……」
白瀬は川面を見た。
つい先ほどまで浅瀬だった場所を、潮が満たしていく。
「水って、やっぱり怖いな」
「そうじゃ」
澪は静かに答えた。
「じゃが、知ることで避けられる危うさもある」
白瀬は、ゆっくり頷いた。
◇
「白瀬先生!」
救出された船頭が、岸へ戻ってくるなり頭を下げた。
「助かった! 本当に助かったばい!」
「いや、俺だけじゃないですよ」
白瀬は、周りを見回した。
「今日の先生は、あの二人です」
指差した先には、澪とガタ吉。
「……妾か?」
「おいか!」
二人が同時に目を丸くした。
「それに、皆だ」
白瀬は続けた。
「源太が水筋を知っていた。健太が道具を用意した。長吉が安全な場所を見つけた。おたえが人をまとめた。小春が船頭さんたちに声を届けた」
五人の顔を、一人ずつ見た。
「誰か一人が欠けていたら、もっと大変だったかもしれない」
おたえが照れくさそうに鼻をこする。
「うちは、別に……皆に声ばかけただけたい」
「それが大事なんだよ」
「……そうやろか」
「そうだよ」
白瀬は笑った。
「人を動かすのは、銭だけじゃないだろ?」
おたえが、はっとした顔になる。
長崎で商いを覚えたとき。
お師匠様の明美から、何度も教えられたことがある。
商いとは、相手の困りごとを知ること。
相手が安心して頼れる人になること。
それは、今日の出来事にも通じていた。
「……そうたいね」
おたえは、にやりと笑った。
「信用がなかったら、皆、うちの言うこと聞かんもんね!」
「おおっ! 商人らしかこと言うばい!」
源太が笑う。
「当たり前たい! うちはお師匠様の弟子やけん!」
皆が笑った。
すると、ガタ吉が割り込んできた。
「ちょっと待たんね!」
「今度は何だ?」
「おいの手柄は!?」
「最初に言っただろ!」
「足りん! もっと褒めてよか!」
ガタ吉は胸を張った。
「おいが泥ん中ば調べたけん、舟ば助けられたとばい!」
「はいはい。立派だったよ、ガタ吉先生」
「先生!」
ガタ吉は嬉しそうに飛び跳ねた。
「そうたい! おいは先生たい!」
すると幼い少女が、ガタ吉の前へやって来た。
「ガタ吉先生」
「なんね?」
「先生の授業、また受けたか!」
「……おお?」
「うち、泥のこと、もっと知りたか!」
ガタ吉は、ぽかんと口を開けた。
そして。
「……そうか」
照れくさそうに頭をかいた。
「ほんなら、また教えちゃる」
その表情を見て、白瀬は少しだけ胸が熱くなった。
かつて、父と兄を水難で失った河童。
あの頃のガタ吉は、人間のすることに腹を立て、海を奪われることを恐れていた。
それが今は、人間の子どもたちに水の知恵を教えている。
自分と同じ悲しみを、誰にも味わわせないために。
そして、受け継いできたものを、次の誰かへ渡すために。
「……いい先生になったな」
白瀬が呟く。
隣の澪が、こくりと頷いた。
「うむ。あやつも、変わったのう」
◇
その日の夕方。
水学所には、まだ五人の若者が残っていた。
「ここたい!」
健太が床に木札を並べる。
「今日、舟が乗り上げた場所!」
「そっちの流れは、もう少し海側やろ」
源太が指差す。
「あ、そうやった!」
健太は木札の位置を直した。
長吉は、朝に測った泥の深さを思い出しながら、竹の目盛りを書き写している。
「こっちの岸は硬かった。ばってん、少し下れば柔らかかった」
「同じ場所でも、雨が降ったら変わるかもしれんね」
小春が言った。
「そうたい。なら、雨の日も調べんば」
おたえは木札を数えながら、眉を寄せた。
「……これ、全部書き残すとしたら、えらい数になるばい」
「木札が足りんか?」
「足りんっちゅうか……毎日増えるやろ?」
「そりゃ増えるたい」
「ほんなら、そのうち学び舎が木札だらけになる!」
健太が笑った。
「おたえの商いの帳面も、山ほどあるやろ!」
「あれは銭に関わるけん、必要たい!」
「水の記録も必要やろ!」
「……そりゃそうばってん!」
言い合いながら、二人とも笑っていた。
やがて小春が、床に並んだ木札を見つめた。
「ねえ。これ、うちらだけが分かっても、意味なかよね」
「ん?」
「今日の船頭さんも、潮のことば知っとったら、あんな怖か思いせんですんだかもしれん」
源太が頷いた。
「そうたいな」
「だったら、ほかの村の人にも教えたか」
「ほかの村?」
「うん。文字ば読めん人にも分かるように。絵ば描いたり、印ばつけたりして」
健太が目を輝かせた。
「それ、面白か!」
「やろ!」
おたえが腕を組む。
「ばってん、何人にも教えるなら、同じものがたくさん要るばい」
「……たくさん?」
「一つ一つ書いとったら、大変やろ?」
健太は、しばらく考え込んだ。
やがて、何かを思いついたように笑う。
「……ほんなら、いっぺんに同じものば作れんやろか」
「どうやって?」
「それは、これから考える!」
「なんね、それ!」
笑い声が響く。
そこへ白瀬が顔を出した。
「おーい。そろそろ帰らないと、暗くなるぞ」
「白瀬先生!」
健太が振り返った。
「おいら、水のことば、もっと調べたか!」
「いいじゃないか」
「それで、調べたことば、誰でも分かるように残したか!」
白瀬は足を止めた。
「……残す?」
「うん! 今日みたいなことが、またあったらいかんけん!」
小春も頷く。
「知らんかった人が、知っとったら助かるかもしれんやろ?」
白瀬は、しばらく五人を見つめていた。
長吉。
健太。
源太。
おたえ。
小春。
昔は、何かを教える度に目を丸くしていた子どもたちだった。
肥やしの作り方。
魚の運び方。
数の数え方。
商いの仕方。
言葉の大切さ。
それらを一つずつ覚えてきた。
けれど今は。
教わったことを、自分たちの知恵に変えている。
さらに、それを誰かへ渡そうとしている。
「……そうだな」
白瀬は、静かに頷いた。
「残そう。今日のことも、これから起こることも」
ふと、胸の奥に古い記憶がよみがえった。
海へ線を引いた日のこと。
皆が夢を見た日のこと。
そして。
弥助と岩蔵を失った日のこと。
二人がいたから、今の田がある。
二人がいたから、今の暮らしがある。
けれど、あの日何が起きたのかを、いつまでも自分たちだけが覚えているわけにはいかない。
何十年も先。
何百年も先。
そこに生きる人々にも、伝えなければならないのだ。
「……先生?」
小春が不思議そうに尋ねた。
「どうしたと?」
「いや」
白瀬は笑った。
「お前たちに、教えられたなと思って」
「うちらが?」
「ああ」
白瀬は木札を一枚手に取った。
「俺たちがいなくなっても、これが残っていれば、誰かの役に立つかもしれない」
五人は顔を見合わせた。
やがて、おたえがにやりと笑った。
「ほんなら、いい加減なことは書けんね」
「そうだな」
「間違っとったら、百年先の人に笑われるばい!」
「百年先かあ……」
健太が天井を見上げた。
「そんとき、おいの道具はどがんなっとるやろか」
「もっと便利になっとるかもしれんね!」
小春が笑う。
「おいの田も、ずっと米ば作っとるとよか」
長吉が呟く。
「おいの舟も残っとるやろか」
源太が続ける。
「うちの商いの帳面も残しときたかね!」
おたえが胸を張る。
「百年先の商人に見せてやるとたい!」
五人の笑い声が、夕暮れの水学所に響いていた。
白瀬は、その声を聞きながら思った。
(……俺がこの時代に来た意味は、案外、こういうことなのかもしれないな)
何かを造ることだけではない。
造ったものを、次の誰かへ渡すこと。
人を育てるというのは、きっと、そういうことなのだ。
◇
水学所の戸を閉める頃には、空が茜色に染まっていた。
白瀬が庭へ出ると、澪が待っていた。
「……遅かったのう」
「ごめん。皆と話してた」
「知っておる」
「聞こえてた?」
「楽しそうな声が、ずっとしておったからな」
二人は並んで、屋敷への道を歩き始めた。
川の向こうでは、夕日が水面に細い光の道を作っている。
「澪」
「なんじゃ?」
「今日はありがとう」
「……何がじゃ?」
「授業。子どもたち、すごく喜んでた」
「そうか」
澪は少しだけ頬を緩めた。
「最初は、どうなることかと思うたがな」
「ははは。ガタ吉も張り切ってたな」
「あやつは、張り切りすぎじゃ」
「でも、いい先生だった」
「……うむ」
しばらく、二人は黙って歩いた。
川の音が聞こえる。
遠くで、鳥が鳴いている。
ふと、澪が足を止めた。
「……白瀬」
「ん?」
「一つ、聞いてもよいか」
「何だ?」
澪は川を見つめていた。
「もしも、妾がいなくなったら……この土地は、どうなるのであろうな」
白瀬は、思わず振り返った。
「……どうしたんだよ、急に」
「今日、皆が水のことを学んでおったであろう」
「ああ」
「妾は、水守じゃ。水の声を聞き、この土地を見守る。それが務めと思うてきた」
澪は、そっと水面へ視線を落とした。
「されど、人が水を知り、自ら守れるようになれば……水守は、必要なくなるのであろうか」
白瀬は、すぐには答えなかった。
澪には、澪にしか聞こえない水の声がある。
それは間違いない。
今日だって、彼女がいたからこそ気づけた危険があった。
けれど。
その力がなければ、この土地を守れないのだとしたら。
いつか澪がいなくなったとき、誰が人々を守るのだろう。
「……澪」
「なんじゃ」
「俺は、澪がいなくても大丈夫な土地にしたい」
澪の肩が、ほんの少し揺れた。
「……そうか」
「あ、いや、違う!」
白瀬は慌てた。
「いなくなってほしいって意味じゃないぞ!」
「……分かっておる」
「本当か?」
「分かっておると言うておろう」
澪は少しだけ笑った。
白瀬は頭をかいた。
「澪が全部背負わなくてもいい土地にしたいんだ」
「……全部?」
「ああ。雨が降っても、川が増水しても、潮が満ちても、皆が危険を知って、自分たちで考えて動けるようにする」
白瀬は、遠くに広がる田を見た。
「そうすれば、澪も少しは楽になるだろ?」
澪は黙っていた。
「水守だからって、ずっとこの土地に縛られる必要はないんじゃないかな」
「……白瀬」
「行きたい場所へ行ったり、好きなことをしたり。そんな日があってもいいと思うんだ」
澪は、ゆっくり白瀬を見た。
「……妾の好きなこと、か」
「そう」
「……そうじゃな」
夕日が、澪の横顔を照らしていた。
しばらくして。
「ならば、もう少し教えねばならぬのう」
「何を?」
「水のことじゃ」
澪は微笑んだ。
「妾が見てきたものを、妾だけのものにしておいては、もったいないであろう?」
白瀬も笑った。
「ああ。そのとおりだ」
澪は一歩、前へ踏み出した。
そして、何でもないことのように言った。
「……それに」
「ん?」
「妾が好きなことを見つけるまで、白瀬にも付き合うてもらわねばならぬ」
「え?」
「何じゃ。不服か?」
「いや、不服じゃないけど……」
「ならば、決まりじゃ」
澪は、いつものように澄ました顔で歩き始めた。
その耳が少し赤くなっていることに、白瀬は気づかなかった。
◇
翌朝。
水学所の門前には、昨日以上の人だかりができていた。
「白瀬先生!」
「昨日、舟ば助けたって本当ね!」
「うちの子にも水のことば教えてくれんですか!」
昨日の救出劇は、あっという間に近隣の村へ広まっていた。
ガタ吉は、すっかり得意顔である。
「任せとかんね! おいが教えちゃる!」
「河童先生!」
「ガタ吉先生!」
「団子先生!」
「団子はよかっちゅうに!」
いつもの笑い声。
だが、その輪の外で、一人の年配の男が難しい顔をしていた。
近くの村から、学び舎の様子を見に来た男だった。
「……白瀬先生」
「はい?」
「一つ、尋ねてもよろしいか」
「もちろんです」
男は、水学所の中を覗き込んだ。
そこには、男の子も女の子もいた。
長吉が年下の子に田のことを教え。
健太が竹の目盛りを見せ。
おたえが木札に数を書き。
小春が幼い少女の手を取って、文字の書き方を教えている。
男は眉をひそめた。
「……この学び舎では、女子にも学問を授けるのですかな?」
「ええ、そうですよ」
白瀬は当たり前のように答えた。
すると男は、首を傾げた。
「しかし……女が読み書きや算術を覚えて、何になるというのです?」
その場の空気が、ぴたりと止まった。
小春が顔を上げる。
健太が口を開きかける。
長吉と源太も、思わず顔を見合わせた。
そして。
木札を持っていたおたえの眉が、ぴくりと動いた。
「…………」
白瀬は、何かを言おうとした。
だが。
「白瀬先生」
おたえが、すっと立ち上がった。
「……おたえ?」
おたえは、木札を胸に抱えたまま、年配の男をまっすぐ見つめた。
その目には、長崎の商いで鍛えられた、負けん気の強い光が宿っている。
「おじさん」
「……何じゃ?」
「ほんなら、うちから一つ、聞いてよかですか?」
小春が、小さく笑った。
その顔には、よく知った表情が浮かんでいる。
――ああ。
おたえが、本気になった。
白瀬も思わず口を閉じた。
水学所に、短い沈黙が落ちる。
おたえは、にっこり笑った。
「女が学んだら何になるか……知りたかですか?」
男が、怪訝そうに頷く。
おたえの笑みが、さらに深くなった。
「ほんなら、うちが教えちゃるけん!」
その声が、朝の水学所に高らかに響いた。
どうやら今日も、面白い授業になりそうだった。
◇
人は、土地を造る。
土地は、人を育てる。
そして、育った人が、また次の誰かを育てていく。
海から始まった小さな国づくりは、今、新しい一歩を踏み出そうとしていた。
水を知る者。
土を知る者。
舟を操る者。
道具を作る者。
銭を数える者。
そして、人の心を知ろうとする者。
その誰もが、この国の未来を造る仲間なのだ。
たとえ、男であろうと。
女であろうと。
人であろうと、河童であろうと。
学ぶことに、境などない。
もっとも――。
そのことを諫早の人々が本当に理解するまでには、もうひと騒動ありそうだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
田を造り、水路を造り、商いを育ててきた諫早。
今回描きたかったのは、そこに生きる人々が「自分たちの知恵で未来を守る」という、新しい成長です。
澪の水守としての力、ガタ吉の河童ならではの知恵。そして、それを受け継ぐ若者たち。
白瀬がいなくても続いていく国づくりが、少しずつ形になってきました。
さて、次回はおたえが大暴れ!?
第五十七普請「女も学ぶ」。
どうぞお楽しみに!
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