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『海から百万石 ~江戸時代に転移した国交省の土木職員、水守と河童と有明海の大干拓に挑む~』  作者: 天手古まい


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第五十六普請 水守の授業

水学所、今度の先生は澪とガタ吉!?


水守が聞く水の声と、河童が知る泥の秘密。


笑いあり、発見ありの野外授業が、思いがけない大騒動に!


教わる側だった若者たちも、少しずつ頼もしくなってきました。


第五十六普請「水守の授業」、どうぞお楽しみください!

 寛永六年(一六二九年)、春。


 諫早の田には若い緑が広がり、川には山からの雪解け水ならぬ、春雨を集めた清らかな流れが戻っていた。


 海から造り出した土地には家が建ち、道が延び、畑では人々が働いている。


 かつては潮が満ちれば海に沈んでいた場所だ。


 その土地で、今年も人々の暮らしが始まろうとしていた。


 そして、もう一つ。


 諫早には、以前とは大きく違うものが生まれていた。


 水学所である。


     ◇


「白瀬! また増えとるぞ!」


 朝からガタ吉が騒いでいた。


「何が?」


「人たい! 人!」


 水学所の門前には、子どもだけでなく、鍬を担いだ農夫や、仕事着のままやって来た漁師まで集まっていた。


 読み書きを習いに来た者。


 算術を覚えたい者。


 水路の造り方を知りたい者。


 中には、ただ面白そうだからと顔を出した者までいる。


「先生! 今日は何ば教えてくれるとですか!」


「この前の勘定、まだ分からんとです!」


「おいは舟のことば聞きたか!」


 四方八方から声が飛んでくる。


「お、おいおい! 一度に話すな!」


 白瀬湊一は両手を上げた。


 諫早へ来て、およそ八年。


 最初は田を造るために始めたことだった。


 それがいつしか、水路を造り、作物を育て、魚を運び、商いを始めるようになった。


 そして今度は、人を育てている。


 伊木力で出会った千々石清左衛門の言葉が、ふと頭をよぎった。


『豊かさを生み出す知恵と、豊かさを守る知恵は、必ずしも同じではない』


 米の収穫は、昨秋には年間五万石に届いた。


 だが、豊かになった土地を、この先も守り続けられるのか。


 その答えは、まだ出ていない。


「白瀬」


 背後から声がした。


 振り返ると、澪が立っていた。


「朝から騒々しいのう」


「人気の学び舎ってことだよ」


「人気があるのはよいが、教える者が足りぬのではないか?」


「そうなんだよなあ……」


 白瀬は腕を組んだ。


 読み書きや算術なら、家老や勘定方の助けも借りられる。


 農業なら長吉。


 道具作りなら健太。


 舟や漁なら源太。


 商いならおたえ。


 人との付き合い方なら、小春。


 皆、すでに自分の得意分野を年下の子どもたちへ教え始めていた。


 だが、一つ、大切なものが抜けていた。


「……そうだ」


 白瀬がぽんと手を打った。


「今日は外へ出よう!」


「外?」


「うん。水の授業だ」


 すると澪が首を傾げた。


「水の授業なら、白瀬が教えればよかろう」


「いや。今日の先生は俺じゃない」


「では、誰じゃ?」


 白瀬はにっこり笑った。


「澪とガタ吉だ!」


「…………は?」


「おおっ!」


 澪とガタ吉の反応は、見事なほど正反対だった。


「ちょ、ちょっと待て、白瀬!」


「おいが先生! 先生たい!」


 ガタ吉は両手を振り上げた。


「聞いたか、皆の衆! 今日からおいは、ガタ吉先生ばい!」


「ガタ吉先生!」


「河童先生!」


「団子先生!」


「最後のは何ね!」


 どっと笑いが起きる。


 一方の澪は、白瀬の袖を引っ張っていた。


「白瀬。妾は、そのような約束をした覚えはないぞ」


「でも澪、水のことなら俺よりずっと詳しいだろ?」


「それはそうじゃが……」


「皆にも教えてやってほしいんだ」


 澪は困ったように視線を落とした。


 そのとき、一人の幼い少女が駆け寄ってきた。


「澪先生!」


「……なんじゃ?」


「うち、水のこと知りたか!」


 少女は目を輝かせていた。


「大雨のとき、川が怖かと。どこに近づいたらいかんのか、知りたか!」


 澪の表情が変わった。


 しばらく少女を見つめてから、静かに頷く。


「……そうか」


 そして、白瀬を振り返った。


「よかろう。妾が教えよう」


「本当か!」


「ただし、白瀬」


「ん?」


「おぬしも手伝え。妾は人に教えることには慣れておらぬ」


「もちろん!」


 白瀬は大きく頷いた。


 こうして、水学所初の野外授業が始まった。


     ◇


「では、皆の者。水の声を聞いてみよ」


 澪は河口近くの岸辺に立ち、そう告げた。


 春の日差しが水面を照らしている。


 遠くには有明の海。


 目の前には、ゆっくりと流れる川。


 今日の観察場所は、以前から漁師たちが使っている足場のよい岸だった。


 白瀬はあらかじめ、危険な泥の場所へ近づかないよう、竹杭と縄で境を作っている。


 何しろ、相手は好奇心旺盛な子どもたちだ。


 授業で怪我をさせては本末転倒である。


「水の声……?」


 子どもたちは顔を見合わせた。


「ほれ。目を閉じてみよ」


 澪に言われ、皆が一斉に目を閉じる。


 さらさら。


 ちゃぷ、ちゃぷ。


 風が葦を揺らす。


 遠くで鳥が鳴いた。


「…………」


「…………」


 しばらくして、一人の少年が手を上げた。


「先生!」


「なんじゃ?」


「水が何もしゃべらんばい!」


 ぶっ、と健太が吹き出した。


「当たり前たい! 水がしゃべったら怖かろうもん!」


「でも先生が聞けって!」


「おいも何も聞こえん!」


「うちも!」


 澪の眉がぴくりと動く。


「……白瀬」


「ん?」


「これでは授業にならぬぞ」


「ははは。まあ、そうなるよな」


「笑い事ではない!」


 白瀬はしゃがみ込み、子どもたちと目の高さを合わせた。


「じゃあ、みんな。今度は目を開けて、水を見てみよう」


「見る?」


「そう。あそこに浮いている葉っぱ、どっちへ流れている?」


「海の方!」


「じゃあ、こっちの岸の近くは?」


「……あれ?」


 一人が首を傾げた。


「こっちは、あんまり動いとらん」


「そのとおり」


 白瀬は頷いた。


「同じ川でも、場所によって流れの速さが違うんだ」


 すると澪が、ゆっくり口を開いた。


「水は、どこも同じように動いておるわけではない」


 澪は少し上流を指差した。


「あそこを見よ。水面に細かな筋が見えるであろう」


「あっ、本当たい!」


「あの辺りは流れが速い。されど、その横では、水がゆるやかに巡っておる」


 源太が腕を組んだ。


「……なるほど。舟ば出すとき、漁師もあれを見るばい」


「そうなのか?」


 白瀬が尋ねると、源太は頷いた。


「魚の寄るところも違うし、舟が流されるところも違う。海でも川でも、同じ水には見えても中身が違うとよ」


「いいことを言うな、源太!」


「おいも、ずっと見てきたけん」


 少し照れくさそうに笑う。


 澪は満足げに頷いた。


「そうじゃ。水は言葉だけで語るものではない。流れ、音、色、冷たさ。それらすべてが水の知らせじゃ」


「じゃあ、澪先生には何が聞こえると?」


 幼い少女が尋ねた。


 澪は目を細めた。


「……山から下りてきた水の気配。潮が押し返そうとしておる気配。それから、この川がどこへ行きたがっておるか、じゃな」


「すごかあ!」


「でも、おいにはそこまでは分からん……」


 少年が肩を落とす。


 澪はその前へしゃがんだ。


「分からずともよい」


「え?」


「妾と同じように聞こえずとも、水をよく見れば、分かることは増える」


 そう言って、水面へ視線を戻した。


「ほれ。さっきの葉を、もう一度見てみよ」


「あっ!」


 少年が声を上げる。


「さっきより、海の方へ流れるのが遅か!」


「そうじゃ」


「なんで?」


「さて、なぜであろう?」


 澪はすぐには答えなかった。


 子どもたちは顔を寄せ合う。


 小春が楽しそうに笑っている。


「先生、なかなか意地悪かねえ!」


「教わるばかりでは、覚えぬであろう?」


 澪が少し得意げに答えた。


 やがて源太が口を開いた。


「潮が満ち始めとるけんたい。海からの水が、川の流れを押し返し始めたとよ」


「正解!」


 白瀬が手を叩いた。


 澪も微笑んだ。


「うむ。水は、いつも同じ姿ではない。今、穏やかに見える場所も、時が変われば危うくなる」


 少女が、水面をじっと見つめる。


「……水って、忙しかねえ」


 今度は澪まで吹き出した。


「ふふっ。まったくじゃ」


 白瀬はその横顔を見ながら思った。


 水守にしか分からないものがある。


 しかし、そのすべてを神通力に頼らなければならないわけではない。


 見て、比べて、考える。


 そうやって人が水を知ることもできるのだ。


 そして何より。


 いつもは白瀬に意地を張る澪が、子どもたちには実に丁寧に教えている。


(……案外、先生に向いているんじゃないか?)


 そう思った瞬間。


「白瀬」


「は、はい」


「余計なことを考えておるであろう」


「なんで分かるんだよ!」


 水の声どころか、人の考えまで読まれていた。


     ◇


「さあっ! 次はおいの出番たい!」


 ガタ吉が、待ちきれない様子で飛び出してきた。


 手には長い竹の棒。


 頭には、どこから持ってきたのか、編み笠がちょこんと載っている。


「ガタ吉先生!」


「河童先生!」


「団子先生!」


「団子はもうよか!」


 子どもたちが笑う。


 ガタ吉は竹の棒を地面へ突き立てた。


「よかか! 海の泥には、硬かところと、柔らかかところがある!」


「知っとる!」


「ほんなら、見ただけで分かるか!」


「……分からん!」


「そうたい! 分からんけん危なかと!」


 ガタ吉は縄で区切った観察場所の外へ出ると、竹の棒を干潟へ突き立てた。


 ずぶり。


 棒が深く沈む。


「ここは危なか!」


 少し横へ移動し、もう一度突く。


 こん。


 今度は、ほとんど沈まない。


「こっちは硬か!」


「おおーっ!」


 子どもたちから歓声が上がる。


 健太が身を乗り出した。


「ガタ吉、その棒、ちょっと貸して!」


「なんね?」


「印ばつけたらよか!」


「印?」


「どこまで沈んだか、後から比べられるやろ!」


 健太は小刀を取り出し、白瀬の許しを得て竹に細かな刻みを入れ始めた。


「ほら、これで同じ場所ば調べれば、昨日と今日で違いが分かるばい!」


「おお!」


 白瀬は思わず声を上げた。


「いいぞ、健太!」


「水が増えたり、泥が動いたりすれば、変わるかもしれんけんね!」


「だったら、測る場所も決めとかんば」


 おたえが口を挟んだ。


「毎日違うところば測ったら、比べられんやろ?」


「確かに!」


「それに、何日にどこば測ったか、書き残さんば!」


 おたえは持ってきた木札を取り出した。


「こっちは一尺、あっちは二尺……いや、棒がどこまで沈んだかを先に書いた方がよかね」


 ぶつぶつ言いながら、炭で印を書きつけていく。


「ちょっと待て!」


 ガタ吉が叫んだ。


「なんね?」


「おいの授業たい! なんで健太とおたえが先生になっとっと!」


 白瀬は笑いをこらえながら答えた。


「ガタ吉が上手に教えたから、二人がもっと考えたんだろ」


「……そうか?」


「そうだよ」


「ほんなら、よか!」


 ガタ吉は胸を張った。


「さすがおいの弟子たい!」


「いつ弟子になったと!」


 健太の突っ込みで、また笑いが起きた。


 だが、その直後。


「……ひとつだけ、覚えとけ」


 ガタ吉の声が変わった。


 いつもの陽気な調子が消えていた。


「こうやって棒で調べるのはよか。ばってん、調べもせずに泥ん中へ足ば入れたらいかん」


 ガタ吉は、深く沈んだ竹の棒を指差した。


「見た目じゃ分からん。足ば取られたら、引き抜けんこともある。そこへ潮が来たら……」


 言葉が途切れた。


 源太が、静かに尋ねた。


「ガタ吉……」


「おいの父ちゃんと兄ちゃんも、水に帰ってこんやった」


 子どもたちが黙り込む。


 ガタ吉は、少しだけ遠い目をした。


「海は恵みばくれる。魚も、貝も、泥ん中の命も。ばってん、怒ったら人も河童も区別せん」


 手にした竹の棒を、強く握る。


「だけん、覚えとけ。知らんところへ無理に入るな。危なかと思ったら、戻れ。それと……」


 ガタ吉は子どもたちを見回した。


「困っとる仲間ば見つけたら、一人で助けに行くな。必ず誰かば呼べ」


 白瀬は黙って頷いた。


 澪も何も言わなかった。


 河童水工衆が積み重ねてきた知恵は、単なる技ではない。


 水の中で生き、時には大切な者を失いながら、受け継いできたものなのだ。


「……先生!」


 一人の少年が、ぴんと手を上げた。


「なんね?」


「ガタ吉先生は、泥に沈まんと?」


「おいは河童たい!」


「ずるか!」


「何がずるかと!」


 また笑い声が広がった。


 ガタ吉も笑った。


 けれど白瀬には、その笑顔がいつもより少しだけ大人びて見えた。


     ◇


 そのときだった。


「おーい! 誰か! 手ぇ貸してくれ!」


 川下から、切羽詰まった声が響いた。


 全員が振り返る。


 少し離れた河口の浅瀬。


 そこに、一艘の小舟が斜めに止まっていた。


 舟には薪の束が積まれている。


 船頭らしい男が竹竿を突き立て、必死に舟を動かそうとしていた。


 もう一人、若い男が船縁につかまっている。


「どがんしたと!」


 源太が真っ先に叫んだ。


「舟が泥に乗り上げた! 動かんとじゃ!」


 白瀬は目を細めた。


 舟の片側が浅瀬に乗り上げ、もう片側は水に浮いている。


 満ち潮になれば、いずれ浮くだろう。


 そう思った。


 しかし。


「……いかん」


 澪が低く呟いた。


「白瀬。あの舟、危ういぞ」


「え?」


「潮が変わる」


 白瀬は水面を見た。


 さっきまで海へ向かっていた小さな浮き草が、ほとんど動かなくなっている。


 さらに、舟の向こう側。


 細い水筋に、海からの水が入り始めていた。


「……まずいな」


 舟の底は泥に乗り上げている。


 そこへ横から水が押し寄せたら、浮き上がるより先に舟が大きく傾くかもしれない。


 しかも、船頭は動かそうとして竹竿を使っている。


 その度に、舟がぐらりと揺れていた。


「竿を突くな!」


 白瀬が叫ぶ。


「無理に動かすな! そのまま待て!」


 だが、距離がある。


 船頭には声が届いていないようだった。


 そのとき。


「白瀬!」


 源太が駆け寄ってきた。


「おい、あの舟の近くば通ったことがある!」


「本当か?」


「うん! 向こう側に、まだ深か水筋が残っとる。そこからなら舟で近づける!」


 白瀬は頷いた。


「よし。まず皆を岸の高いところへ下がらせよう。助けに行く人間まで危険にさらすわけにはいかない」


「分かった!」


 源太が走り出す。


 見物に集まり始めた村人たちへ、大きな声で指示を出した。


「皆、下がってくれ! 子どもらは縄より先に出たらいかん!」


 すると、ガタ吉が水辺へ進み出た。


「おいが見てくる!」


「ガタ吉、待て」


 白瀬はその肩をつかんだ。


「流れが速くなってる。無理はするな」


「分かっとる」


 ガタ吉は振り返った。


「おいは、水の怖さば知っとるけん」


 そう言って、にっと笑った。


「助けるために、無茶してどうするとね!」


 白瀬も笑った。


「そうだな」


 ガタ吉は近くにいた河童水工衆の仲間と声を掛け合い、腰に命綱を結んだ。


 縄の端を岸の仲間へ預けると、深い水筋を選んで川へ入っていく。


 水面が小さく揺れた。


 次の瞬間、ガタ吉の姿は水の中へ消えていた。


     ◇


「先生! うちにも何かさせて!」


 小春が叫んだ。


「おいも!」


「うちも!」


 健太、おたえ、長吉。


 皆が次々に白瀬のもとへ集まる。


「よし。さっきの授業を思い出せ!」


 白瀬は全員を見回した。


「まず、何が危険だ?」


「潮が満ちてきよる!」


 源太が答えた。


「そうだ。それから?」


「舟が片方だけ泥に乗っとる!」


 健太が続く。


「無理に引っ張れば、ひっくり返るかもしれん!」


「そのとおり!」


 白瀬が頷く。


「じゃあ、どうする?」


 ほんの少し、沈黙が流れた。


 皆が考えていた。


 かつてなら、ここで白瀬の答えを待っていただろう。


 けれど今は違う。


「……まず、縄たい」


 源太が口を開いた。


「舟ば引っ張るための縄が要る。それから、舟が浮くまで無理に動かしたらいかん」


「縄ならある!」


 健太が走り出した。


「水門の修繕用に置いとる太か縄ば持ってくる!」


「おいは岸ば調べる!」


 長吉も動いた。


「こっちの岸は、この前の雨で緩んどる。縄ば結ぶなら、もっと上の硬かところがよか!」


 おたえは、そんな二人を見て声を張り上げた。


「待って! 何人で引くと! 縄はどこまで届くと!」


「おたえ?」


「ただ縄ば持ってきても、長さが足りんかったら意味なかろうもん!」


 おたえは岸から舟までの距離を目で測り、源太に尋ねた。


「舟ば出すところまで縄ば運ぶなら、どんくらい要る?」


「……そうたいな。真っすぐやったら届いても、舟ば回す分が要る」


「ほんなら、短か縄ば何本もつなぐより、長か縄を先に探さんば!」


 おたえは集まってきた村人へ声をかけ始めた。


「太か縄ば持っとる人はおらんですか! 引っ張る人も要るけん、手ば貸してくれんですか!」


 すると小春が、舟へ向かって大きく息を吸った。


「おじさーん!」


 通る声が川面に響いた。


「今、助けに行くけん! 舟ば無理に動かさんで!」


 船頭が、ようやくこちらを見た。


「何ねーっ!」


「そのまま待っとって! 竿ば突いたらいかん!」


 小春は両手を口元に当て、何度も繰り返した。


 やがて船頭が竿を止めた。


「分かったーっ!」


 その返事に、白瀬は胸を撫で下ろした。


 小春の声は、実によく届く。


 相手がどうすれば安心できるのか。


 何を伝えればよいのか。


 それを自然に考えられる娘だった。


 伊木力で清左衛門が小春に伝えた言葉を、白瀬は思い出した。


『人を知ることじゃ』


 なるほど。


 確かに、それも人を救う力になる。


     ◇


「白瀬!」


 水面から、ガタ吉が顔を出した。


「舟の底は大丈夫ばい! ばってん、左の方に泥がたまっとる!」


「抜けそうか!」


「潮が上がれば浮く! でも、今の向きじゃ危なか!」


 白瀬は澪を見た。


「澪、どう思う?」


 澪はじっと水面を見つめていた。


 やがて目を閉じる。


 風が、長い髪を揺らした。


「……今はまだ、待てる」


「どのくらい?」


「長くはない。潮が回り込む前に、舟を支える綱をかけよ」


 澪が指差した。


「あの深い水筋へ、船首を向けるのじゃ。底が浮き始めたときに、無理なく導けるようにな」


「分かった!」


 白瀬は頷いた。


 源太が近くの漁師たちと小舟を出す。


 積んでいた荷を降ろし、縄を載せた。


 安全な深い水筋を選びながら、慎重に動かしていく。


「源太! 気をつけろよ!」


「分かっとる!」


 源太は振り返りもしなかった。


 目は川面に向けられている。


 波の形。


 流れの向き。


 舟底に伝わる水の動き。


 幼い頃から海で育った男の顔だった。


「そこじゃなか! もう少し右たい!」


 ガタ吉の声が飛ぶ。


「分かっとる! こっちやろ!」


「そうたい!」


 河童と漁師。


 いつしか、二人の息も合うようになっていた。


 ガタ吉は水中から舟底を確かめながら、浅瀬に乗り上げた舟へ近づく。


 源太たちは、安全な場所から縄を渡した。


 船頭が受け取り、船首の丈夫なところへ結びつける。


「結べたぞーっ!」


 声が響く。


「よし!」


 白瀬は岸を振り返った。


 長吉が、少し離れた高い岸で手を振っている。


「白瀬先生! こっちなら地面が硬か! 大きか木もあるけん、縄ば取れる!」


 村人たちが太い木の根元を確かめ、引く力を受けられる場所を整えていた。


 健太も走って戻ってきた。


「縄、持ってきたばい!」


 肩には、ずっしりとした太縄。


 息を切らしている。


「よくやった!」


「それと、こっち!」


 健太は短い丸太を転がしてきた。


「縄ば木に直接こすりつけたら、傷むやろ? ここで向きば変えれば引きやすか!」


 村の男たちが丸太を固定し、縄の通り道を整える。


 複雑な仕掛けではない。


 しかし、引く方向を変えるだけでも、大勢で力を合わせやすくなる。


「よし、皆! 縄を握ってくれ!」


 白瀬が呼びかけた。


 農夫たちが集まる。


 漁師たちも加わる。


 いつしか、見物していた大人たちが救出に参加していた。


「一度に引っ張ったらいかん!」


 おたえが大きな声を上げた。


「合図に合わせんば! ばらばらに引いたら縄が緩む!」


「おたえの言うとおりだ!」


 白瀬は頷いた。


「まずは縄を張るだけだ! まだ強く引くな!」


 舟が浮く前に無理に引けば、泥に食い込んだ底を傷めるかもしれない。


 先に傾きを抑え、潮が舟を浮かせるのを待つ。


 舟を助けるのは、人の力だけではない。


 水の力を利用するのだ。


「……白瀬」


 澪が呟いた。


「来るぞ」


 その声とほぼ同時だった。


 ざあっ。


 川面の音が変わった。


 細い水筋に、海からの水が勢いを増して流れ込んでくる。


 浅瀬の輪郭が、ゆっくりと水に隠れ始めた。


「潮が上がってきた!」


 源太が叫ぶ。


 舟が、ぐらりと揺れた。


「うわあっ!」


 舟の若い手伝いが悲鳴を上げた。


 とっさに船縁へしがみつく。


 その重みで、舟がさらに傾いた。


「動くなーっ!」


 小春が叫ぶ。


「そこにおって! 皆で助けるけん!」


 若い男は、泣きそうな顔で頷いた。


 岸ではおたえが声を張り上げていた。


「まだ引かんで! 白瀬先生の合図ば待って!」


 縄を握る男たちの腕に力が入る。


 水は増えていく。


 舟がまた揺れた。


 そのとき。


「白瀬!」


 ガタ吉が水面を叩いた。


「底が浮き始めたばい!」


「澪!」


「……よい。今じゃ!」


 白瀬が腕を振り下ろした。


「ゆっくり引け! せーのっ!」


「「「おおおっ!」」」


 男たちが綱を引く。


 ぎしっ。


 縄が張り詰める。


 舟の船首が、ほんの少し動いた。


「もう一度!」


「「「おおおっ!」」」


 舟が揺れる。


 だが、まだ泥が離れない。


 船頭が必死に竿で支えている。


「ガタ吉!」


「分かっとる!」


 ガタ吉が舟底へ潜った。


 泥に押さえられている場所を確かめ、舟が浮く動きを妨げないよう、船頭に身ぶりで知らせる。


 源太は救助用の小舟から、張られた縄の向きを見ていた。


「白瀬先生! もう少し右へ向けた方がよか!」


「分かった! 皆、引く力を緩めるな! 船首をゆっくり右へ!」


 男たちが縄の角度を変える。


 舟の下へ、潮が入る。


 ごとり。


 何かが外れるような音がした。


「……浮いた!」


 源太が叫んだ。


「浮いたばい!」


 次の瞬間。


 舟が、すうっと動いた。


 男たちが縄を慎重に繰り出し、源太たちの小舟が深い水筋へ導いていく。


 船頭は竿を使って向きを保った。


 浅瀬から離れたところで、ガタ吉が水面へ顔を出す。


「抜けたぞーっ!」


「やったああああ!」


 岸から大歓声が上がった。


 若い手伝いは、その場にへたり込んだ。


 船頭も何度も頭を下げている。


 源太は救助用の小舟から、ほっと息を吐いた。


 長吉は泥で汚れた手を見つめ。


 健太は縄を握ったまま笑い。


 おたえは、ようやく肩の力を抜いた。


 小春は両手を振っていた。


「よかったあ! 本当によかったあ!」


 そして白瀬は。


「……はあああ」


 その場にしゃがみ込んだ。


 心臓が、まだどきどきしている。


「白瀬」


 隣に澪が立った。


「無事であったな」


「ああ……」


 白瀬は川面を見た。


 つい先ほどまで浅瀬だった場所を、潮が満たしていく。


「水って、やっぱり怖いな」


「そうじゃ」


 澪は静かに答えた。


「じゃが、知ることで避けられる危うさもある」


 白瀬は、ゆっくり頷いた。


     ◇


「白瀬先生!」


 救出された船頭が、岸へ戻ってくるなり頭を下げた。


「助かった! 本当に助かったばい!」


「いや、俺だけじゃないですよ」


 白瀬は、周りを見回した。


「今日の先生は、あの二人です」


 指差した先には、澪とガタ吉。


「……妾か?」


「おいか!」


 二人が同時に目を丸くした。


「それに、皆だ」


 白瀬は続けた。


「源太が水筋を知っていた。健太が道具を用意した。長吉が安全な場所を見つけた。おたえが人をまとめた。小春が船頭さんたちに声を届けた」


 五人の顔を、一人ずつ見た。


「誰か一人が欠けていたら、もっと大変だったかもしれない」


 おたえが照れくさそうに鼻をこする。


「うちは、別に……皆に声ばかけただけたい」


「それが大事なんだよ」


「……そうやろか」


「そうだよ」


 白瀬は笑った。


「人を動かすのは、銭だけじゃないだろ?」


 おたえが、はっとした顔になる。


 長崎で商いを覚えたとき。


 お師匠様の明美から、何度も教えられたことがある。


 商いとは、相手の困りごとを知ること。


 相手が安心して頼れる人になること。


 それは、今日の出来事にも通じていた。


「……そうたいね」


 おたえは、にやりと笑った。


「信用がなかったら、皆、うちの言うこと聞かんもんね!」


「おおっ! 商人らしかこと言うばい!」


 源太が笑う。


「当たり前たい! うちはお師匠様の弟子やけん!」


 皆が笑った。


 すると、ガタ吉が割り込んできた。


「ちょっと待たんね!」


「今度は何だ?」


「おいの手柄は!?」


「最初に言っただろ!」


「足りん! もっと褒めてよか!」


 ガタ吉は胸を張った。


「おいが泥ん中ば調べたけん、舟ば助けられたとばい!」


「はいはい。立派だったよ、ガタ吉先生」


「先生!」


 ガタ吉は嬉しそうに飛び跳ねた。


「そうたい! おいは先生たい!」


 すると幼い少女が、ガタ吉の前へやって来た。


「ガタ吉先生」


「なんね?」


「先生の授業、また受けたか!」


「……おお?」


「うち、泥のこと、もっと知りたか!」


 ガタ吉は、ぽかんと口を開けた。


 そして。


「……そうか」


 照れくさそうに頭をかいた。


「ほんなら、また教えちゃる」


 その表情を見て、白瀬は少しだけ胸が熱くなった。


 かつて、父と兄を水難で失った河童。


 あの頃のガタ吉は、人間のすることに腹を立て、海を奪われることを恐れていた。


 それが今は、人間の子どもたちに水の知恵を教えている。


 自分と同じ悲しみを、誰にも味わわせないために。


 そして、受け継いできたものを、次の誰かへ渡すために。


「……いい先生になったな」


 白瀬が呟く。


 隣の澪が、こくりと頷いた。


「うむ。あやつも、変わったのう」


     ◇


 その日の夕方。


 水学所には、まだ五人の若者が残っていた。


「ここたい!」


 健太が床に木札を並べる。


「今日、舟が乗り上げた場所!」


「そっちの流れは、もう少し海側やろ」


 源太が指差す。


「あ、そうやった!」


 健太は木札の位置を直した。


 長吉は、朝に測った泥の深さを思い出しながら、竹の目盛りを書き写している。


「こっちの岸は硬かった。ばってん、少し下れば柔らかかった」


「同じ場所でも、雨が降ったら変わるかもしれんね」


 小春が言った。


「そうたい。なら、雨の日も調べんば」


 おたえは木札を数えながら、眉を寄せた。


「……これ、全部書き残すとしたら、えらい数になるばい」


「木札が足りんか?」


「足りんっちゅうか……毎日増えるやろ?」


「そりゃ増えるたい」


「ほんなら、そのうち学び舎が木札だらけになる!」


 健太が笑った。


「おたえの商いの帳面も、山ほどあるやろ!」


「あれは銭に関わるけん、必要たい!」


「水の記録も必要やろ!」


「……そりゃそうばってん!」


 言い合いながら、二人とも笑っていた。


 やがて小春が、床に並んだ木札を見つめた。


「ねえ。これ、うちらだけが分かっても、意味なかよね」


「ん?」


「今日の船頭さんも、潮のことば知っとったら、あんな怖か思いせんですんだかもしれん」


 源太が頷いた。


「そうたいな」


「だったら、ほかの村の人にも教えたか」


「ほかの村?」


「うん。文字ば読めん人にも分かるように。絵ば描いたり、印ばつけたりして」


 健太が目を輝かせた。


「それ、面白か!」


「やろ!」


 おたえが腕を組む。


「ばってん、何人にも教えるなら、同じものがたくさん要るばい」


「……たくさん?」


「一つ一つ書いとったら、大変やろ?」


 健太は、しばらく考え込んだ。


 やがて、何かを思いついたように笑う。


「……ほんなら、いっぺんに同じものば作れんやろか」


「どうやって?」


「それは、これから考える!」


「なんね、それ!」


 笑い声が響く。


 そこへ白瀬が顔を出した。


「おーい。そろそろ帰らないと、暗くなるぞ」


「白瀬先生!」


 健太が振り返った。


「おいら、水のことば、もっと調べたか!」


「いいじゃないか」


「それで、調べたことば、誰でも分かるように残したか!」


 白瀬は足を止めた。


「……残す?」


「うん! 今日みたいなことが、またあったらいかんけん!」


 小春も頷く。


「知らんかった人が、知っとったら助かるかもしれんやろ?」


 白瀬は、しばらく五人を見つめていた。


 長吉。


 健太。


 源太。


 おたえ。


 小春。


 昔は、何かを教える度に目を丸くしていた子どもたちだった。


 肥やしの作り方。


 魚の運び方。


 数の数え方。


 商いの仕方。


 言葉の大切さ。


 それらを一つずつ覚えてきた。


 けれど今は。


 教わったことを、自分たちの知恵に変えている。


 さらに、それを誰かへ渡そうとしている。


「……そうだな」


 白瀬は、静かに頷いた。


「残そう。今日のことも、これから起こることも」


 ふと、胸の奥に古い記憶がよみがえった。


 海へ線を引いた日のこと。


 皆が夢を見た日のこと。


 そして。


 弥助と岩蔵を失った日のこと。


 二人がいたから、今の田がある。


 二人がいたから、今の暮らしがある。


 けれど、あの日何が起きたのかを、いつまでも自分たちだけが覚えているわけにはいかない。


 何十年も先。


 何百年も先。


 そこに生きる人々にも、伝えなければならないのだ。


「……先生?」


 小春が不思議そうに尋ねた。


「どうしたと?」


「いや」


 白瀬は笑った。


「お前たちに、教えられたなと思って」


「うちらが?」


「ああ」


 白瀬は木札を一枚手に取った。


「俺たちがいなくなっても、これが残っていれば、誰かの役に立つかもしれない」


 五人は顔を見合わせた。


 やがて、おたえがにやりと笑った。


「ほんなら、いい加減なことは書けんね」


「そうだな」


「間違っとったら、百年先の人に笑われるばい!」


「百年先かあ……」


 健太が天井を見上げた。


「そんとき、おいの道具はどがんなっとるやろか」


「もっと便利になっとるかもしれんね!」


 小春が笑う。


「おいの田も、ずっと米ば作っとるとよか」


 長吉が呟く。


「おいの舟も残っとるやろか」


 源太が続ける。


「うちの商いの帳面も残しときたかね!」


 おたえが胸を張る。


「百年先の商人に見せてやるとたい!」


 五人の笑い声が、夕暮れの水学所に響いていた。


 白瀬は、その声を聞きながら思った。


(……俺がこの時代に来た意味は、案外、こういうことなのかもしれないな)


 何かを造ることだけではない。


 造ったものを、次の誰かへ渡すこと。


 人を育てるというのは、きっと、そういうことなのだ。


     ◇


 水学所の戸を閉める頃には、空が茜色に染まっていた。


 白瀬が庭へ出ると、澪が待っていた。


「……遅かったのう」


「ごめん。皆と話してた」


「知っておる」


「聞こえてた?」


「楽しそうな声が、ずっとしておったからな」


 二人は並んで、屋敷への道を歩き始めた。


 川の向こうでは、夕日が水面に細い光の道を作っている。


「澪」


「なんじゃ?」


「今日はありがとう」


「……何がじゃ?」


「授業。子どもたち、すごく喜んでた」


「そうか」


 澪は少しだけ頬を緩めた。


「最初は、どうなることかと思うたがな」


「ははは。ガタ吉も張り切ってたな」


「あやつは、張り切りすぎじゃ」


「でも、いい先生だった」


「……うむ」


 しばらく、二人は黙って歩いた。


 川の音が聞こえる。


 遠くで、鳥が鳴いている。


 ふと、澪が足を止めた。


「……白瀬」


「ん?」


「一つ、聞いてもよいか」


「何だ?」


 澪は川を見つめていた。


「もしも、妾がいなくなったら……この土地は、どうなるのであろうな」


 白瀬は、思わず振り返った。


「……どうしたんだよ、急に」


「今日、皆が水のことを学んでおったであろう」


「ああ」


「妾は、水守じゃ。水の声を聞き、この土地を見守る。それが務めと思うてきた」


 澪は、そっと水面へ視線を落とした。


「されど、人が水を知り、自ら守れるようになれば……水守は、必要なくなるのであろうか」


 白瀬は、すぐには答えなかった。


 澪には、澪にしか聞こえない水の声がある。


 それは間違いない。


 今日だって、彼女がいたからこそ気づけた危険があった。


 けれど。


 その力がなければ、この土地を守れないのだとしたら。


 いつか澪がいなくなったとき、誰が人々を守るのだろう。


「……澪」


「なんじゃ」


「俺は、澪がいなくても大丈夫な土地にしたい」


 澪の肩が、ほんの少し揺れた。


「……そうか」


「あ、いや、違う!」


 白瀬は慌てた。


「いなくなってほしいって意味じゃないぞ!」


「……分かっておる」


「本当か?」


「分かっておると言うておろう」


 澪は少しだけ笑った。


 白瀬は頭をかいた。


「澪が全部背負わなくてもいい土地にしたいんだ」


「……全部?」


「ああ。雨が降っても、川が増水しても、潮が満ちても、皆が危険を知って、自分たちで考えて動けるようにする」


 白瀬は、遠くに広がる田を見た。


「そうすれば、澪も少しは楽になるだろ?」


 澪は黙っていた。


「水守だからって、ずっとこの土地に縛られる必要はないんじゃないかな」


「……白瀬」


「行きたい場所へ行ったり、好きなことをしたり。そんな日があってもいいと思うんだ」


 澪は、ゆっくり白瀬を見た。


「……妾の好きなこと、か」


「そう」


「……そうじゃな」


 夕日が、澪の横顔を照らしていた。


 しばらくして。


「ならば、もう少し教えねばならぬのう」


「何を?」


「水のことじゃ」


 澪は微笑んだ。


「妾が見てきたものを、妾だけのものにしておいては、もったいないであろう?」


 白瀬も笑った。


「ああ。そのとおりだ」


 澪は一歩、前へ踏み出した。


 そして、何でもないことのように言った。


「……それに」


「ん?」


「妾が好きなことを見つけるまで、白瀬にも付き合うてもらわねばならぬ」


「え?」


「何じゃ。不服か?」


「いや、不服じゃないけど……」


「ならば、決まりじゃ」


 澪は、いつものように澄ました顔で歩き始めた。


 その耳が少し赤くなっていることに、白瀬は気づかなかった。


     ◇


 翌朝。


 水学所の門前には、昨日以上の人だかりができていた。


「白瀬先生!」


「昨日、舟ば助けたって本当ね!」


「うちの子にも水のことば教えてくれんですか!」


 昨日の救出劇は、あっという間に近隣の村へ広まっていた。


 ガタ吉は、すっかり得意顔である。


「任せとかんね! おいが教えちゃる!」


「河童先生!」


「ガタ吉先生!」


「団子先生!」


「団子はよかっちゅうに!」


 いつもの笑い声。


 だが、その輪の外で、一人の年配の男が難しい顔をしていた。


 近くの村から、学び舎の様子を見に来た男だった。


「……白瀬先生」


「はい?」


「一つ、尋ねてもよろしいか」


「もちろんです」


 男は、水学所の中を覗き込んだ。


 そこには、男の子も女の子もいた。


 長吉が年下の子に田のことを教え。


 健太が竹の目盛りを見せ。


 おたえが木札に数を書き。


 小春が幼い少女の手を取って、文字の書き方を教えている。


 男は眉をひそめた。


「……この学び舎では、女子にも学問を授けるのですかな?」


「ええ、そうですよ」


 白瀬は当たり前のように答えた。


 すると男は、首を傾げた。


「しかし……女が読み書きや算術を覚えて、何になるというのです?」


 その場の空気が、ぴたりと止まった。


 小春が顔を上げる。


 健太が口を開きかける。


 長吉と源太も、思わず顔を見合わせた。


 そして。


 木札を持っていたおたえの眉が、ぴくりと動いた。


「…………」


 白瀬は、何かを言おうとした。


 だが。


「白瀬先生」


 おたえが、すっと立ち上がった。


「……おたえ?」


 おたえは、木札を胸に抱えたまま、年配の男をまっすぐ見つめた。


 その目には、長崎の商いで鍛えられた、負けん気の強い光が宿っている。


「おじさん」


「……何じゃ?」


「ほんなら、うちから一つ、聞いてよかですか?」


 小春が、小さく笑った。


 その顔には、よく知った表情が浮かんでいる。


 ――ああ。


 おたえが、本気になった。


 白瀬も思わず口を閉じた。


 水学所に、短い沈黙が落ちる。


 おたえは、にっこり笑った。


「女が学んだら何になるか……知りたかですか?」


 男が、怪訝そうに頷く。


 おたえの笑みが、さらに深くなった。


「ほんなら、うちが教えちゃるけん!」


 その声が、朝の水学所に高らかに響いた。


 どうやら今日も、面白い授業になりそうだった。


     ◇


 人は、土地を造る。


 土地は、人を育てる。


 そして、育った人が、また次の誰かを育てていく。


 海から始まった小さな国づくりは、今、新しい一歩を踏み出そうとしていた。


 水を知る者。


 土を知る者。


 舟を操る者。


 道具を作る者。


 銭を数える者。


 そして、人の心を知ろうとする者。


 その誰もが、この国の未来を造る仲間なのだ。


 たとえ、男であろうと。


 女であろうと。


 人であろうと、河童であろうと。


 学ぶことに、境などない。


 もっとも――。


 そのことを諫早の人々が本当に理解するまでには、もうひと騒動ありそうだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!


田を造り、水路を造り、商いを育ててきた諫早。


今回描きたかったのは、そこに生きる人々が「自分たちの知恵で未来を守る」という、新しい成長です。


澪の水守としての力、ガタ吉の河童ならではの知恵。そして、それを受け継ぐ若者たち。


白瀬がいなくても続いていく国づくりが、少しずつ形になってきました。


さて、次回はおたえが大暴れ!?


第五十七普請「女も学ぶ」。


どうぞお楽しみに!


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